三春街道

 この峠は京都の三和から兵庫の春日を結ぶ三春街道にあります。ツーリングでは三和から春日に走ったのですが、峠には見晴らしの良くない休憩所と記念碑があります。

 読みながらまず苦笑したのが署名されていた知事名です。

    京都府知事 蜷川虎三
    兵庫県知事 金井元彦
 悔しいですがこのお二人が知事をされていた知っているのです。まず京都府の蜷川知事は7期28年に渡り府政を担った当時の有名知事でしたから覚えてる人もおられるかもしれません。

 兵庫県の金井知事は全国的な知名度ではマイナーですが、県民でそれなりの年齢の方は坂井時忠知事の前任者と言えばわかる人もおられるかもしれません。

 文字の方は読みにくいと思いますが、なかなか興味深いもので、冒頭部を紹介すると、本三春峠は春日町(大路地区)と三和町(細見地区)を結ぶ近道で、その改修は住民多年の悲願であったが、

 昭和41年度に改修事業が始まり昭和45年度に完了したと記されています。それぐらいの多年悲願の近道だったはずですが、

 こんな感じのなかなかの県道と言うより険道です。YouTubeの中にも出てきますが、落ち葉が多いだけでなく、日陰部分には苔がビッシリって感じで生えてまして、スリップしないかヒヤヒヤで走りました。

 もちろんそうなるだけの理由もあるわけで、三春峠を含む三春街道を走ってる間に出会ったのはバイクが2台とクルマが1台だけでした。まあ、あんなに細くて急勾配が続く道を走りたい人は日常的に少ないのは走ればわかります。

 走り終わった後に素直に思ったのは、どうしてこんなルートを整備したんだろうです。というか、整備改修するならもうちょっと力を入れても良かったのじゃないかと。

 これは推測に過ぎませんが、時代的背景もあった気はしています。日本のモータリゼーションの到来ですがトヨタ自動車75周史に、

なかでも、乗用車需要は急成長し、1965年の59万台が1970年には237万台と、年平均32%の成長を遂げる。国内の自動車保有台数は、1965年の630万台が1967年には1,000万台を突破し、全国いたるところで自動車が活躍するようになった。

 三春峠の道路改修事業が決定されたのが1966年です。その時には何がこの峠を走るかを考えて計画は決定されたはずです。自動車は普及段階の入り口にあったと後世からは言えますが、当時はそこまでのものになるとは考えなかった可能性です。

 この辺は予算とか地形の問題もあったとは思いますが、実際に走った感想として自動車の交通をそれほど意識したものとは思えませんでした。だったらと何を想定したかですが、人が歩くとか、馬車とか、オート三輪ぐらいかもぐらいです。

 だからどうした程度のお話ですが、立派な記念碑まで立てた住民多年の悲願の道路も、今はこうなってしまったぐらいの感想が頭に浮かびました。おそらくですが、この記念碑の除幕式の時は春日町と三和町のお偉いさんたちが賑々しく立ち並んでいた思うと、時の流れの速さを感じてしまいました。

味園が無くなるのか

 YouTubeから、

 無くなるのかと言うよりまだあったのかが正直な感想です。もっとも行ったことは学生の時に一度だけで、なんかの飲み会だったはずです。味園の存在だけは、私ぐらいの年代ならTV CMで刷り込まれています。

 ですから田舎者には、
    ここが、あの味園か・・・
 そんな事を思ったのを記憶の彼方にボンヤリぐらいは覚えています。なんかあんな座敷で鍋料理だったような気が・・・CMで有名な味園で食べたのだけしか記憶に残っていないのは遺憾とします。


 味園と言うか味園ビルは今で言うなら大人の複合アミューズメント施設みたいなもので良かったはずです。そういう目玉施設にユニバースがあります。キャバレーなんですけどね。これも当時の関西の人間なら誰でも知っているほど有名でした。

 なぜに有名かの理由も単純で、あれだけCMが流されたら子どもまで知っています。これもふと思うとあのCMもあの頃ならではで、業界の盛衰はあるにしろ、あの手の店のCMは最近では見ない気がします。今でもあるのかな?

 行ったことはありません。ユニバースだけでなくキャバレーなるものに行ったことがありません。神戸にも東門に月世界と言う有名なキャバレーがありましたが、前しか通ったことがありません。

 行かなかったのはおカネが無かった事と、連れて行ってくれるようなリッチな知人がいなかったのはあります。研修医の頃はまだバブルの末期で、今と違って接待も盛んでしたが、なぜか無かったですね。

 この辺はキャバレーは行ったことがないので知りませんが、なんというか女の子が接待に出て来るような店は趣味に合わなかったのはあります。一度だけ高級そうなクラブに接待で連れて行かれましたが、何が面白いのかさっぱりわからず、それっきりです。

 当時はそれでもどう考えてもカネがかかりそうなその手の店に、よくもまあ通えるものだと感心していましたが、当時は社用族なるものが多かったそうで、いわゆる接待費で落とせたとかの話は聞いた事があります。

 なるほどとは思いましたが、ああいう店は自分の懐を心配するような人では遊べないのだろうぐらいに理解しました。そうやって世の中にカネが回るのも社会ですし、それを楽しいと思う人がいるならそれもヨシぐらいです。

 この歳になってああいう店での遊びの楽しみを覚えた方が良かったかどうかですが、幸か不幸か興味が湧かなかったのでこれもヨシとします。人によって人生の楽しみ方は違いますからね。

 それでも一度ぐらいは行けてたら、メシを食いに行った味園みたいに、あそこはあんな店だったと爺の回顧談が書けるぐらいの価値はあったかもしれません。

キダ・タロー氏を悼む

 キダ氏を始めて知ったのはラジオです。もう半世紀近く前のお話ですが、当時使っていた目覚まし時計はラジオと一体型でした。つまり目覚まし代わりにラジオが鳴る仕組みです。どうしてなんて理由は記憶の彼方ですが、目覚まし代わりに選んだのが、

    ♪イチマル、イチマル、朝日放送
 まだ1008Hz移行前なのが愛嬌です。でもって聴いていたのが故中村鋭一氏の番組でした。ちなみにこの番組で六甲おろしをフルコース覚えました。

 ここから先の記憶が怪しいなんてものじゃないのですが、故中村氏の番組の後が、フレッシュ9時半! キダ・タローですになります。二つの番組の引継ぎの時に必ず掛け合いがあったのは覚えています。

 記憶が怪しいとしたのは、キダ氏の番組が9時半から始まっていることです。そこまで聞いていたら遅刻も遅刻、1時限目さえ間に合わなくなります。そうなるとキダ氏と故中村氏の掛け合いを聞いたのは休日か長期休暇の時になるはずです。

 そうやってキダ氏の存在を知ったのですが、肝心の番組はほぼ聞いていません。さすがに9時半ともなれば起きましたからね。

 ですから当時の印象はオモロイ事をしゃべるオッサンぐらいの印象でした。この後は関西人のキダ氏を知る定番で、あれも、これもみたいに聞き慣れたメロディーの数々がキダ氏の作品であるのに驚かされるぐらいでしょうか。

 キダ氏の作曲数も数知れずクラスなのですが、代表曲はwikiediaによれば、

キダ本人によれば代表曲はテレビ番組に提供したものについては、『プロポーズ大作戦』、『ラブアタック!』[11]、『平成古寺巡礼』(本人によればキダらしくない楽曲であるという)など[5]。CMソングについては『プロ論。』によれば、『出前一丁』『かに道楽』[11]、zakzakによれば『兵衛向陽閣』、関東の『小山ゆうえんち』[1]。本人によれば、初期の作品では『エールック』のものが印象に残っているとのことである[1]。その他歌謡曲として『ふるさとのはなしをしよう』を代表曲としている[5]。

 出前一丁は不滅の名曲ですし、かに道楽や兵衛向陽閣は耳タコぐらいにこびりついています。それぐらいCMが流されてましたからね。

 キダ氏評はテンコモリ溢れているでしょうが、個人的には才人であったと思っています。軽妙なしゃべりも出来、笑いのツボも心得、軽々とメロディーを生み出してしまうぐらいでしょうか。キダ氏の評は今日もあれこれ溢れているかと思いますが個人的に好きなのは、

もしキダが200年早く産まれていれば、今頃はモーツァルトの方が『ウィーンのキダ・タロー』と呼ばれていただろう

 キダ氏は自らをモーツアルトよりショパンになぞらえていたとの話も残されているそうですが、インパクト的にはモーツアルトの方が私は好きです。

 中村鋭一氏も2017年に一足先に天国に行かれています。あの頃の朝のラジオ番組で生き残っているのは浜村淳氏ぐらいでしょうか。そのラジオでさえ、中波が無くなる時代になっているのが・・・

 享年93。謹んでご冥福をお祈りします。

アレンパの道は厳しい

 阪神は連覇したことが無い球団と言われますが、それは二リーグ分裂後に限っての話です。とにかく職業野球が発足してから続く老舗球団ですから昭和12年から昭和13年に連覇をちゃんと記録しています。ちなみにこれはプロ野球史上初の連覇です。

 といくらイキがってもセ・リーグになってからは無いのは事実です。今年はどうかと見ていましたが、いくらオープン戦とはいえチームの調子があまりにも上がらず、こりゃ、最悪のパターンとして、

  1. 開幕から負けが込む
  2. 関西メディア、阪神ファンがブーイングの嵐
  3. 心労から岡田監督休養

 こんなバッドストーリーが思い浮かんだぐらいでした。蓋を開けてみると、頑張っています。頑張ってると言うより投手陣が踏ん張ってるとして良い気がします。これはずっと続いているのですが、

    打てない
 優勝した去年だって強力打線とは言いにくいものでしいたが、今年はさらに低調です。ただ救いは阪神打線も低調ですが、他の球団も低調な事です。ボールの疑惑もありましたが、とにかく投高打低が今シーズンのここまでの流れに見えます。

 打てないとなるとスモールベースボールでなんとか点を取る野球になりますが、その分野なら少しだけ阪神打線が有利かもぐらいの感じでしょうか。

 今年がそういう流れになるのを、もしかしたら巨人の阿部監督は読んでいたのかもしれません。阿部監督のバント戦術には批判もあるようですが、打てないのならバント重視の戦術もアリだからです。

 とはいえまだ五月です。ペナントレースも序盤が終わり、ここから中盤戦に入ってきます。団子レースになっていますが、優勝するにはここから抜け出す必要があります。いわゆる地力が試されるぐらいです。

 地力と言うより結果論的なものが多いですが、たとえば主力選手が負傷欠場しその穴を埋められずに後退を余儀なくされる、逆にその穴を埋めた選手が大活躍するとかです。暗黒時代の阪神は主力が欠けた穴は空きっぱなしでしたからね。

 はてさて、これからどうなることか。だからこそペナントレースはおもしろい。

ツーリング日和20 あとがき

 ツーリング小説を書いているつもりなのですが、なにぶんシリーズが長くなり過ぎまして、ツーリングはサイドでラブロマンスがメインになってしまっているのは御愛嬌です。もう一回のツーリングで長く行けるところが思いつかないぐらいです。

 それでもツーリング部分は実際にツーリングしたところを中心にしていますので、その分だけリアリティが増してくれてるはず、いやしていて欲しいと思ってます。その代わりみたいなものですが、ご近所ツーリングばっかりになっているのは現実の反映です。

 ラブロマンス部分はヒロイン設定に七転八倒しています。そうそう新味を生み出せなくなってるからです。こういうものは美男美女が魅かれ合う悲恋もあります。ロミオとジュリエット型です。でもあれは合っていないし書きにくい。

 勢い、必ずしも美人じゃない設定をあれこれ捻くり回すのですが、これはこれでそれでも魅力のある設定をしないと行けない訳でして・・・あれぐらいになったぐらいです。ヒロインの友人役ですが、あれはそれこそ苦しい時のユッキー頼みで、もう少し違うキャラにしようと努力はしましたが、自作がモデルですからヨシとしています。