2011-06-16
■[短編]明け方、雨の降る海について
絶対音感の鋭い人は、雨音が不協和音に聴こえて我慢ならなくなることがあるらしい。幸い僕は音感なんてものと縁が無いから、そんなことは体験したことがないわけだけど。何を言いたいのかというと、楽しく生きるためには出来るだけ、鈍感にならなきゃいけないってことだ。ちょっとぐらい傷ついたところで、気付かなければ怪我していないのと同じだ。
つまりはそんな風な内容を一晩かけてカトーは話した。コザクラは一晩かけて黙ってそれを聞いた。そして黒一色の空に青が混じりだす頃、さらりと言った。
「それ、前にも聞いたよ」
色の無い桟橋、彩度の低い明け方の海。海面を叩く雨滴のホワイトノイズを聞きながら、コザクラはため息をつく。
「あなたの話は古典文学じゃないの。二回目は一回目より確実に面白くないし、三回目はもっと詰まらない」
海面の波紋を曖昧に眺めながら、コザクラは明確に切って捨てた。それきり会話は途切れ、雨粒が海を叩く音と、波頭が桟橋を叩く音が場を支配した。ホワイトノイズ、彼方を進む漁船、わずかに揺れるコザクラの濡れた前髪。透明に通り抜けるだけの思考の断片。時間は連続性を持たずに、ただ唐突に現れ、またすぐに消失していった。
「僕たちには情熱が足りないと思うんだよ」
「ほらまたそれっぽい事を言う」
「生きてるフリをしてるだけなんだ、結局」
コザクラはもう何も言わず、また雨音の渦に埋没していった。いつからこんなに噛み合わなくなってしまったのか、カトーは考える。そしてすぐに、最初からそうだったと思い至った。
カトーとコザクラは、共通の友人であったオシノを挟み、金属バットの危険性と観葉植物の卑屈さについて議論を交わしたのだった。しばらく後、オシノは二人が付き合い始めた事を聞かされて、すぐには信じられないくらいだったという。
「あのさー」
雨の音の中から声がする。見るといつの間に飛び込んだのか、コザクラが雨に打たれながら、仰向けに海面をたゆたっている。
「わたし、あなたに生まれなくて本当によかったと思うよ」苦笑するカトー。
「僕もそう思うよ」
「もしわたしがあなただったら、自分が嫌いで嫌いでしょうがなくて、爆発しちゃいそうだもん」
コザクラは楽しそうに、ふよふよと海面を彷徨う。クラゲみたいだ、とカトーは思った。
「わたしはあなたじゃないから、何とかこうして好きでいれるんだから」
「ほら、飛び込んで来なさい」
「いい。ここで見てる」
ケラケラ笑いながらコザクラは水面を叩いた。
「最悪!」
2011-04-01
■[短編]エイプリルのフール。
「それマジ?」
「マジ」
「……へえええ、あの子がそんな趣味をねえ」
「ビックリだよな」
「ビックリだ」
「ウソ? 何が?」
「今の話だよ」
「ウソなの?」
「うん」
「え、なんで?」
「いやだって、ほら」
Aが視線でカレンダーを指す。Bは思わず、そこに書いてある文字を読む。
「エイプリルフール」
「そう。エイプリルフール」
「うん」
ふうんと鼻を鳴らすB。
「え、ごめんちょっと確認したいんだけど」
「なに?」
「今の話、全部ウソなの?」
「うん」
「うん」
「P子の趣味の話も?」
「うん」
「空中マッサージの話も?」
「うん」
「暗躍する地下機関の話も?」
「うん」
「……」
Aはポリポリと頬を掻く。
「トリコロールの意外な由来の話も当然」
「ウソ」
「だよなー!」
「ごめんな。なんか」
「いいよいいよ。お前そういうの乗っちゃうタイプだもんな」
「そうなんだよ。俺ってそういうの乗っちゃうタイプなんだよ」
「……あのさ、今まで秘密にしてたんだけどさ」
「ん?」
「……犬ってさ、実は猫らしいぜ……!」
「ごめんちょっと分からない」
「……いやだから、犬はね、実は猫なんだよ」
「……お前、ウソつくの、とことん下手だよな」
「うん……ごめんな」
「いいよいいよ。ほら、もうすぐ日付変わるし」
壁掛け時計を見るともなしに眺めて、ほんの少し頷く。
「俺さあ、もうすぐ終わるから言うけど、あんまりエイプリルフールって好きじゃないんだよね」
「そりゃそうだ。お前ウソつくの、とことんヘタだもんな」
「そういうことじゃなくてさ、ウソついてOKっていう日につくウソは、それは果たしてウソなのかどうかってことだよ」
首をかしげるA。
「そんなね、半ばバレることを期待して、半笑いでヘラヘラとつくウソを、そんなぷよぷよとした欺瞞をウソと呼んでいいのかってことだよ」
「分からんな」
「分からんか」
「分からん」
「そうか」
それきり二人は言葉を交わさず、日付も変わってしばらくしたころ、Bが用事があると言い出した。ロータリーまで送り出して、そこで別れた。
「犬はね、本当は猫なんだよ。ほんとほんと」
2011-01-31
■[短編] 真夜中に誰もいない暗い橋を渡ることについて
きっと黄泉の国に通じているのだろう、と思えた。
真夜中。
街灯も無い、暗い橋。
辺りには誰もいない。車すら通らない。
私は一人、歩道をテクテクと歩道を歩いていたのだが、何も行儀良く歩道を歩く必要が無い、ということに思い当たり、静かに伸びる車道の真ん中を歩くことにした。中央線の白い部分を出来るだけ踏み外さないように進む。
歩いて来た方とこれから向かう先、橋のどちらを渡った先にも、灯りは見えているのだが、橋の上は不思議に暗い。足下からは水のゆるゆると流れる音がかすかに届く。おそらくは無意味に膨張した三途の川が、おそらくは怠惰にその境界を決定しているのだろう。
行き先は黄泉の国じゃないよ。
声がした。いや、音はどこからも聞こえては来なかった。ただ、言葉が届いたのだった。
「なんだって?」
今向かっているところは黄泉の国じゃない。黄泉の国ってのは神道の概念なんだよ。
「ふうん」
私は小さく鼻をすする。
三途の川さ。三途の川だし、今向かっているところも君が想像している通りの所だよ。
要領を得ない。私は尋ねる。
「それが黄泉の国じゃないなら、一体なんて呼べばいいんだ」
ただ、彼岸、と。
「単なる名前の問題か」
単なる名前の問題さ。
ともかく話し相手がいるのは嬉しかった。真夜中の暗い橋は、独りで渡るには寂し過ぎた。
少し違うんだな。こんな立派な橋があるとは思わなかったよ。車道まである。まるで国道じゃないか」
今時渡し舟なんて効率が悪いからねえ。誰も乗らない。 皆この橋を高速バスで渡るよ。
でも昔ながらのものもある。ほら、あそこ。
向こう岸を見ると、赤い巨体が鈍く光っていた。
「おお、あれ、もしかして」
うん。
赤鬼は威圧的な音をどこからか立てながら、じっと仁王立ちしている。
「なんだなんだ、いるじゃないか。それっぽいのが」
君が来た方にもいたはずだよ。子供達が石を積んでたはずだ。
「気が付いたらこの橋を渡ってたからなあ」
と、後ろから光が差し、車が一台、私のすぐ横を爆音をあげて通り過ぎて行った。それきり不思議な声は聞こえなくなった。
そのまま歩き続けるとやがて向こう岸に辿り着いたが、そこは何の変哲もない夜の町だった。川は当然のように三途の川などでは無かったし、赤鬼に思われたものはただの駐車場に止まる赤い車であった。
私はただふうん、と息を吐き、歩いて行くばかりだ。
2010-12-08
■[短編]ローファー 踏みつけ 女子高生
遠くから野球部が練習する声が聞こえる。私は今、担任の福永を踏みつけている。誰もいなくなった放課後の教室で、女子高生の私が、四つん這いになった教師の背中を踏みつけている。ローファーも履いたまま。
しばらくグリグリと踏みつけていると、やがて福永は立ち上がり、晴れ晴れとした笑顔を見せた。
「おかげでスッキリしたよ! ありがとう!」
そう言うが早いか、スキップでもしそうな勢いで福永は教室を出て行く。私はそれを見届けると、思わずため息をついて机に腰掛けた。教室には西日が差し込み、かすかに届く吹奏楽部の演奏。
私には、いや、正確に言えば私と私のローファーには特別な力が有る。私がこのローファーで踏みつけたものは全て、因果律を無視して、幸せになってしまうのだ。曰く、好きな人に告白された、テストのヤマが当たった、痔が治った、何故か気分が良くなった……。先ほどの福永も、持病の偏頭痛を治療して欲しいと依頼して来たのだった。つまり、放課後の教室に呼び出し、踏んでくれ、と。まるっきり変態じゃないか。
私はこの力を恨んでいた。何が楽しくて担任や友達や知らないオッサンを踏みつけなければならないのか。自分で自分を踏みつけることは出来ない。これでは私が不幸なままだ。私自身がちっとも幸せになれないではないか。
「終わったー?」
扉が開き、落ち着いた声が教室に響いた。A子だった。
「うん。なんかスッキリしたって」
「それは良かった。良かったねえ」
柔らかい笑顔。育ちの良さが端々に伺える。ほんのり赤い、ウェーブがかったロングヘアーが揺れる。
「もう嫌だよ。人を踏みつけるのなんて好きじゃない」
「でも、それで喜んでくれる人がいるんだから良いんじゃない?」
A子にそう言われると、なんだか許せるような気がしてしまう。
突然、A子が命令する。私はドキドキしながらそれに従う。床に手をつき、四つん這いになる。
私の最大の不幸がここにあった。私は踏みつけられるのが大好きなのだ。その相手が可愛い女の子で、暴力性の欠片もない子であればもう最高だ。そんな女の子に蹂躙されている、という事実が堪らない。
A子がいつもの可愛い笑顔のままで、遠慮無く私を踏みつけてくる。A子の重みを背中に感じる。
私は、幸せになった。