『父親たちの星条旗』/『硫黄島からの手紙』

Yumat2009-06-08

戦争という出来事を理解するのは難しい。当事者であれば一方的な見方になってしまいがちだし、それを避けようとすればかかわらないほうが無難だということになりやすい。戦争という出来事を、一方的・一面的な見方に陥らず、複眼的・多面的に見ることは、言うまでもなく重要なことだけれども、同時にそれは簡単なことではありません。


クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』は、それを成し遂げた稀有な例です。これらの作品は、硫黄島でのたたかいを、二つの国の人々のそれぞれの視点から描いたものです。しかし、「それぞれの視点」ということの意味は、観る前に予想していたのとは、少し違ったものでした。観る前は、てっきり前者はアメリカの正義の視点から、後者は日本の正義の視点から描くものと思っていました。敵対する双方がそれぞれの正義を語る戦争という出来事を、どちらか一方の正義の視点からではなく、それぞれの正義の視点から描くことにより、戦争における正義の複数性、真実の不可知性をを訴える羅生門的(映画のほうの)アプローチなのだろうと。


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しかし実際には少し違っていました。『父親たちの星条旗』は、たしかにアメリカの正義について描いています。しかしこの場合の正義には、括弧をつけなければなりません。ここに描かれるのは、数人の兵士たちが硫黄島アメリカ国旗を突き刺そうとする瞬間を捉えた一枚の写真がきっかけとなり、写真に映った兵士たちがメディアや政治家たちによって「英雄」に祭り上げられ、戦意発揚および戦費調達の道具として利用され、そして戦争の熱が冷めたあと、冷たく社会から捨て去られる過程であり、大仰に語られる「正義」の裏側にある世界の醜悪さを抉り出しています。これがこの作品で描かれる「正義」に括弧をつける必要がある理由です。


それにたいして『硫黄島からの手紙』には、日本の正義にたいするそのようなアイロニカルな視線はありません。というよりも、そもそもここではあまり戦争の正義(表)と現実(裏)のギャップということは問題にはなっていません。アメリカ人のイーストウッド監督にとって、そして彼の作品が主要な観客として想定していたであろうアメリカ人にとって、日本の正義は最初から信じられていないのだから、それを脱神話化する必要もなかったのでしょう。むしろこの作品で描かれるのは、個々の兵士たちの人間としての姿です。多くのアメリカ兵たちを殺し、負傷させた「敵」である日本兵たちもまた、戦争という巨大なシステムの歯車としてたたかっていたのであり、彼ら自身、自らの役割に苦悩したり疑問を抱いたりしつつ、その役割を最後まで果たそうとしたのだ――日本兵たちに向けられるこのまっすぐな視線は、『父親たちの星条旗』のアイロニカルな視線と対照的です。


だからこの二つの作品は、硫黄島の戦いという一つの出来事を、敵対した二つの集団のそれぞれの視点から捉えた映画なのではなく、一方は巨大な国家システムによって遂行される戦争という一大事業の醜悪な内幕を描いた映画であり、他方は戦争で殺しあった「敵」が、もう一つの巨大システムに逃れがたく拘束された状況で、その役割を全うしようとした人間であったことを示す映画だったのです。


ここに成熟した戦争認識というもののあり方を感じずにはいられません。空虚な批判にも盲目な美化にも陥ることなく、自国の正義の裏にシステムの醜悪さを見、他国の「敵」を人間として見ること。これと同じことが、日本映画によってなされる日は来るでしょうか?