普通の女の子に戻りたい! 「けいおん!!」における『キャラクター性の放棄』その繊細な方法

はじめに

「キャラクターである前に女の子である」
けいおん!!」はそんなことを強く意識されて作られた作品だ。

原作はキャラ立ちが必要とされる四コマ漫画、さらに人気作の続編ということもあって登場する各キャラクターの特徴・役割はかなり凝り固まった状態で広く共有された状況にある。
前作の人気の熱が冷めやらないうちに放送される今作にファンの多くが望んだことは、「1期と同じであること」であっただろう。つまり、ストーリーはもちろんのこと作品の本質においても「何もしないこと」が求められていたのである。
既に作り上げられた土台の上で作品を作ることは一見容易なことのように思われるが、裏を返せばそれは「お約束的展開」が待たれているという窮屈な状態であると言い変えることもできる。
加えて、2期・続編ものに必ずといっていいほど尽きまとう「こんなの○○じゃない!」といった視聴者の意見にお伺いを立てつつ「マンネリ化」といった呪縛からも逃れなくてはならない。
つまり「けいおん!!」は

  • 特徴(キャラクター性の強い作品)
  • 状況(キャラの特徴が共有されている)
  • 期待(何もしない・変わらないこと)
  • 続編(新旧双方の視聴者を満足させる必要性)

と言った、作品の人気になった要因がそのまま制約にも繋がる極めて窮屈な状況下に置かれていたのである。要するに、この堅固な共通認識は人気を支える強みでありながら、自身を制約する諸刃の剣なのである。「変化しないこと」が求められているが、「マンネリ化」を避けなければならず、キャラ立ちしているがそれを強化することで起こり得る「意図しない極端なキャラ化(唯が自由になりすぎる・梓のクールさが冷たく感じられてしまうetc.)」は必要とされていないからだ。
そんな自己の内部に抱えた『二次創作性には富んでいながらも本質は非常に作りづらい』という見えない糸に縛られたような状態を「けいおん!!」では『キャラクター性からの脱却』つまり、作品の根幹をなす要素を捨て去るという大胆かつ好意的な裏切りによって解決を図っている。

現在までに放送された1〜5話を参照にしつつ、その点を深く掘り下げていく。今回はそんなお話。

各話考察

まず、各キャラクターの特徴を確認。

  • 唯:可愛いものと美味しいものが大好き
  • 律:ドラムで部長、元気いっぱい
  • 紬:おっとりぽわぽわ
  • 澪:しっかりしてるけど、恥ずかしがりやで怖がり
  • 梓:ちっちゃくてかわいい 大事な大事な後輩

(「けいおん!!」#1『高3!』Aパート冒頭 唯による軽音楽部のメンバー紹介より抜粋)

作中で語られていることを差し置いても、これに異論を唱えられる人は多くないだろう。つまり、各キャラはその特性(キャラクター性)を上記のように認識され、またそのように振舞うことが期待されている。

#01「高3!」#02「整頓!」

1・2話においては、新入部員が入らない軽音部に主題をおきつつも、『自覚的にキャラクター性を強化する挿話』を挟み込むことによって、その特徴・役割を再確認することが重視されていたという印象だ。







1・2話においてキャラクター性が良く現れていると思われる箇所の抜粋をご覧頂いても分かるように、共有された意識を参照することで挿話の前後関係が分からなくても、キャラが何故こんな表情をしているのかは用意に推測できるだろう。あえてデフォルメされた場面を選んだのは、それがキャラクター認識の前提が最も効果的に発揮されているからだ。紬は、彼女自身の特性よりも、『お嬢様という環境属性』がキャラクター化されたキャラ(後述)であり、元々単独でデフォルメ化されにくい性格を持っているので、それが発揮された場面を選択した。




新入部員の勧誘にしても、唯と律は梓を引き連れて他部への視察、澪と紬はビラ配り。ホームセンターでのそれぞれの振る舞いや、中古ギターの買取金である50万円に驚愕する4人と対照的に躊躇なく受け取ることの出来る紬。また、さわ子への弁明の場面などを見ても、それぞれのキャラクター性があざといまでに強調されているのが見えてくるだろう。
祭り的な騒動(商品の特定や主題歌のオリコン1位2位独占など)や、丁寧な作画がある限り、作品の人気自体は落ちないかもしれないが、このやり方を続けた場合、上記した『特徴・状況・期待・続編』という作品内部に抱える問題によって、作品強度が失われる可能性が残っていたのだ。

しかし、3話以降「けいおん!!」は思わぬ変化を遂げる。それが、『キャラクター性からの脱却』である。

#3『ドラマー!』

3話はシリーズ構成を務める吉田玲子氏による、部長でドラムを担当する律を主軸において語られるアニメオリジナルのストーリー。ドラムは演奏の際ステージ後方に居て目立たないので嫌だ。という所から話は始まる。
キャラクター性に依存し、この挿話を描く(オチをつける)のならば、律に与えられた「部長」「元気娘」という役割で物語を進めることだろう。「ドラム・部長はどちらも基礎となるポジション。それゆえ責任感や周囲の期待によって、自分の役目を再確認する」といった展開の方が自然に思いつく。
しかし、ここではそれをせずに初心や原点に立ち返るという、律に期待された役割とは別の「センチメンタリズム」で話を展開した。実は彼女のこの性格は、唐突に描かれたものではなく1期の#11『ピンチ!』や番外編『冬の日』(共に脚本は吉田玲子)でも垣間見ることが出来、視聴者は「何か違う」と感じながらも、それを許容する下地は既に用意されていたのである。
つまり、誰もが第一に持つであろう「律への期待」から微妙に意識をずらした上で、エピソードを展開・解決し、『キャラクター性の放棄』を試みているのである。






律のセンチメンタルモード

ちなみに画像を見てもらえば明白だが、律が「元気娘」の役割を放棄し「センチメンタルモード」に入るときは、『自分の部屋で、しかもカチューシャを外しているとき』であることがわかる。つまり、自分に向けられている期待から逃れた時である。カチューシャを外した律を見たら、それはもうみんなが知ってる律ではない「普通の女の子」なんだという心構えをしておく必要がある。
平常心で居られないことは重々承知だが、「可愛い!」とか言ってる場合じゃない緊急事態なのだ(笑)


【結論】3話は、律の本来もつキャラクター性を、その正反対にある「女の子っぽさ」「しおらしさ」によって放棄させる話である。
その表れとして、4話では自分の部屋の外でもカチューシャを外すだけで(風呂という特殊な状況ではあるが)、「髪伸ばそうかな」などという女の子らしい一面を発揮することが出来るようになっている。

#4「修学旅行!」

表題どおり、3年生組が修学旅行に行くエピソード。脚本は村元克彦氏。
この挿話で主軸が置かれたのが澪である。京都に向かう新幹線内や神社仏閣巡り、紬主催の枕投げ、自由行動など、この旅行中澪は常に振り回されっぱなしの状態だ。他エピソードでは、共にツッコミ役(常識人)である梓・和が居るが、彼女たちが大筋に絡んでくることが出来ないこのエピソードにおいてその役割、つまり唯の言う「しっかりもの」という役目を真面目に果たそうとすれば、澪は空気の読めないウザい奴になってしまう危険性をはらんでいた。

Aパートでの澪のセリフ抜粋
「おい、座席の上であぐら掻くなよ。」「唯もお菓子ばっかり食べてないでいい加減に…っておい!まったく…。」「お前ら小学生か!」「生徒の点呼だろ。こういう時ってほら、必ず居なくなる子とかいるし。」「いい加減にしろ」「飽きてきたな」「それじゃ、いつもの放課後変わらないだろ」「却下だな」「全く冷や汗掻いたじゃないか」「このあと食事だぞ。絶対残すなよ。」

既に本編ご覧になっている方には分かるだろうが、これは意図的にキツイ言葉を選んだものではない。澪の「しっかりもの」という役割を全うしようとすれば、10分そこらのパートですら「しっかりもの」が「堅物で空気の読めない奴」という風にキャラクター性がその表裏一体にある、しかも悪い方へと強化されてしまう。
唯と律が騒いで、澪がそれにツッこみ紬がニコニコ見ている。確かに、これだけでストーリーを展開できるだけの要素は揃っている。が、それは危険だというのは何度も述べてきた。では、どのようにしてこの展開を避けたのか。やはりそれも3話の律がしたのと同様に『キャラクター性の放棄』だったのである。
澪の「しっかりもの」という性質と抗うものとして選択されたのもまた、彼女がキャラクター以前に持っている「女の子らしさ」だった。唯と律、さらには紬までがはしゃぐこの旅中で、愚直なまでに自己の役割である「しっかりもの」として振舞おうとする姿を描いた後に意味もなく思い出し笑いをさせることでその役割を放棄させたのだ。勿論、迷子の最中に登場した自分以上のしっかりものである和という存在による安心、さらにその和でさえも駅への道順がわからない馬鹿ばかしさという画面から得られる印象も効果的に作用し、澪のキャラクター性を意識的にズラすことで挿話にオチをつけ、さらに『作品内部の問題の解決』をも図ったのだ。






修学旅行における澪の表情の変化

【結論】4話は、澪のもつ「しっかりもの」というキャラクター性をあえて強調して描いた後に、その役割を「女の子らしさ」によって放棄させる話である。
その結果、修学旅行で自身のキャラクター性を放棄し帰ってきた澪は以前なら乗ってきそうな梓の「練習しましょう」の言葉を流し、他のメンバー同様ただ紅茶を飲んでやり過ごす。

#5「お留守番!」

こちらも表題通り、修学旅行の留守番をする2年生組みを描く花田十輝氏脚本によるアニメオリジナルストーリー。
5話で主役になるのはもちろん梓である。彼女の持つキャラクター性は唯によれば「大事な後輩」であるが、作中を見る限りでは「唯のお守り役」も担っている。また、これまでのエピソードを見ると、梓のキャラクター描写は「誰と一緒にいるか」によってかなり変化していることが分かる。
上級生のいない今回のエピソードは、挿話全体において「後輩」でありながら上級生よりも「きっちり」していて「クール」という彼女の持つ「キャラクター性を放棄」させる効果が作用している
実は、この「後輩」であるという属性は作中において重きを置いて描かれている要素ではない。1・2話では梓にも後輩を作ってあげたいという上級生からの心遣いも見られたが、それはあくまで一挿話として描かれている過ぎず、作品全体においてはせいぜい敬語が使われている程度でしか彼女が後輩であることは意識されていないだろう。つまりこの「後輩」であるというのは、あくまで比較によって得られるキャラクター性であって、彼女自身に内包されたものではないのだ。
しかし、自身の特徴では無いにせよこの後輩である事実は強力で、梓の行動にはいつも「後輩だから・なのに」というポーズが付きまとうのだ。その上で、彼女が本来の持っていると思われる「きっちり」さ「クール」さというキャラクター性を、奔放な上級生との対比として描くことは「後輩なのに唯よりしっかりしている」という笑いに繋げることも出来るが、ともすれば「後輩のくせに生意気だ」という意見を生み出しかねないという、これまた上記した『作品が内部に抱える問題』に直面するのだ。

梓・憂・純の同級生だけで描かれる5話では、梓に付きまとう「後輩であるという事実」は取り払われている。その上で彼女の「クール」さは残しつつも、「きっちりした性格」は「自分の思ったようにしたい子供っぽさ」という似て非なるものに繊細に置き換えることでその「キャラクター性を放棄」させた。
では、なぜ「クール」な部分は残されたのか。それは憂や、唯や律に似た奔放キャラである純を描き共に行動させることにより、同級生と一緒にいても普段軽音部に居るのと同じような態度で接しているのを見せ、「必ずしも、上級生がだらしないから梓がしっかりしなければいけないと感じている訳ではない。」というキャラに対しての誤解が生まれやすいであろう箇所に保険をかけておくために他ならないだろう。






梓の「いつもとちょっと違う」感じ


【結論】5話は梓に付きまとう「後輩」という属性を取り払った上でストーリーで展開し、同級生とりわけ純との関わり方を描くことで不安定な立場ゆえ誤解を生みかねない梓のキャラクター性を担保する重要なストーリーである。また、彼女の弱みになりうる「しっかりもの」の印象を「子供っぽさ」に微妙にシフトすることで、それを今後のプラス材料に繋げるかなりテクニカルな話である。
上級生に対し、嬉しさを隠すことなく素直に見せた笑顔がその象徴だろう。

取り上げた三話の脚本が全て違う人物によって行われているのを見ても、「けいおん!!」におけるこの「キャラクター性からの脱却」は、作品内部に抱える問題をかなり意識した上で周到に用意され、意図的に行われていることであると言えるだろう。


唯と紬のもつ役割

前作「けいおん!」は、主人公である唯の成長ストーリーだということも出来るだろうが、本作においては今のところ彼女においては「変わらないこと」が重視され描かれている印象だ。と言うよりも、本作においては彼女にスポットが当てられたエピソードは未だ描かれていない。原作にもあるような作詞など彼女の才能が発揮される場面はまだまだ用意されているので、今後も主人公足り続ける存在であることは間違いない。




いつもの唯

そして、紬だが彼女のキャラクター性は「お嬢様」という環境によるものであり、「おっとり」や「純粋さ」はそれが前提にあって感じられるものだ。この前提を崩すストーリーを描くことは、すなわち反抗を意味するものになってしまい作風からは大きく逸れたものになってしまうので、今後も積極的には描写されないかもしれない(1期ではバイトをするエピソードがあったが、彼女を好意的に描くのにうまく作用していたのかはいささか疑問が残る)。しかし、紬のお嬢様であることを意識させない振舞いや世間知らずな点は、丁寧な描写も手伝い好意的なものとして受け入れられているし、今後もそれは変わることがないだろう。本作が2クールであるなら彼女の作曲風景をしっかり見せるなど時間をかけた描写をし、新たな魅力を付加することでキャラのマンネリ化も防ぐことも可能だろう。
実は、この紬の「お嬢様ゆえの純粋さ」「キャラクター性からの脱却」を図ろうとしている他のキャラクターにとってかなり重要なファクターとしても機能している。3話においては、律の弾くキーボードを「喋っているようだ」とまるで子供のように形容し、4話でも枕投げを仕掛け、猿の餌やりで一喜一憂する姿を見せることで、澪に役目の放棄すなわち無理せず素の自分を表現することを無自覚的を促す。梓に関してもOPで笑顔で紬に寄りかかるなど、自身のもつ「お嬢様」という特異な状況を意識させず個としての魅力を発揮している彼女は、変化を迎えるキャラクターを歓迎できる包容力をもった重要な存在として描写されている。「むぎが言うなら…。」と各キャラが言う姿を想像するのは難しいことではないだろう。






紬の純粋さと包容力が感じられるシーン

つまり、この二人には本質的に「変わらないこと」が求められている。移ろいやすい律・澪・梓を受容し、それを許すことの出来る存在であり、登場人物さらに作品に安心感を与える役目を担っていると言えるのだ。
勿論、唯については主人公である以上成長が必要になるだろうが、あくまで成長であって本質的な変化が求められているわけではないことを付記しておこう。

まとめ

このように、凝り固まった形で共有されたキャラクター性は律・澪・梓の挿話を見ても分かるように、それを強調するのではなくキャラである以前に持ち合わせているが故、意識されにくい部分に意図的に視線をシフトさせる。同時にこの『キャラクター性の放棄』は新たな視点を生み、マンネリ化を防ぐ作用をも持ち合わせている。その一方で、「変わらないこと」の象徴としての役割を唯・紬が担う。こういった恐ろしいほどに手の込んだストーリー作りと京都アニメーションの丁寧な作画もあり、新旧ファンが共に楽しめる作品に仕上げているのである。
こうして、「けいおん!!」は自己の内部に抱える『特徴・状況・期待・続編』という問題と制約を、実に巧みな方法で強みにまで昇華させているのである。
けいおん!!」は、単なる日常アニメ・萌えアニメであるかもしれないが、その裏には計算し尽くされた巧妙なギミックが隠されている。その繊細なさじ加減が、この作品が多くの人に受け入れられている現在の状況を作り上げたひとつの要因なのだろう。今後の視聴においてはその点について注目してみるのも面白いのではないだろうか。


ちなみに、今後何か(漠然としすぎだけど)起こるとしたら、それは紬・梓からになると思うのでこの二人に違和感を感じたら要チェックです(笑)