わからないまま あとになって 失う者の手にかけて

の光を背にくるみ                       の歩く かげうつす

                        
      から頭を持ち上げ                      黙って見下ろせ!                       
何ソレ未知か! 

                 直須足下無一糸去(−本の糸ほどの足跡も残してはいけない)              
    素足で歩きたい、        地球の足ウラにまかれた   海浜の砂つぶ 泥水に溶かれた砂模様   
水たまり またいで歩く 


不意に             両 足 膝 が 両手 地面に ぬかづく                              
舌にまかれた蛇がいる              

口をあけ 喉もと奥の 腹の虚室が むせかえり  つばき一滴 透明な糸を垂らす

 断つつもりの酒 が!
俺を ふたたび
おとしめた

予期する
吐かれた汚物を 
頬にこすりつけ

地の鼓動を
その心臓を
耳にあて

予期せぬ瞬間を
地上の肉体が
記憶する

青く透明な色艶
口からこぼれ出る諧謔の無邪気さ


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ある記憶の片鱗にある一語を思い出せずにいる
それは、田舎の両親と登った水晶山の山腹の途中で
樹樹と鳴らす風の音

漢字は連想のからだ
探している一語のその漢字がなんであったか?
風、木 音 そこにそうて
弾力をたもつ小枝
鳴 とナク
鳴条という一語を
謗ることなく聞きにいく
誰にも人に告げられぬこの一語を
どんなに探し求めて
みつからないでいたのだ
幼ごころにおおきな関心事であったのだ
秋の夕暮れどきに
一人森をあるいた記憶
天アマ高く青く抜けた空を見上げる
木木の枝枝が、ぐるぐるぐるぐると回りだし
ゴーゴーと鳴らす風の音に合わせ 
ハベリハベリと精霊たちの聲がよびつけていたのだ
狂おしく 奏でる 
風、木 妖怪 に 囲われ そう

古い時代のとおいとおいところでは
雷を飼いならす雷師がいたというが
いまでも聒聒と打つ 私の耳の奥では
それで今の私の居在る姿
渇ききった声と咽喉が喘いでいる
舌がしびれをきらしている
失語状態におかれている
カラオケとやらがなんとやら
どんな一冊の本にも満たないで
マイク片手に
私は誰とも話が出来ぬままなのだ



    じーっと
黙っている

言葉を
よみがえらす 断言の
 断つつもりの酒 が!
俺を
おとしめた

なみなみと浮かぶ酔っ払いの船


 海兵隊幾数名
 その勇士らの
 ブラス・のホーン
 俺は微かにその海辺で音を聴き、
 船を眺めながら
 ここは岬の突端
 ここは室戸
 いや襟裳
 いや実はここ
 
 京都の
 イデア
 コーヒー店

 京都で一番旨い
 コーヒー店なんだ!

 六曜社より
 断然好きだな (俺は感嘆する!)

 そのサテンの女性オーナ
 足が悪いんだけど
 とびっきり旨いコーヒー出してくれるんだ

 音楽は静かに流れるBOZEのスピーカ
 壁に飾られたモーリス・ユトリロのような・・いやチャウ.
 佐伯祐三か・・いやそのような・・そんな絵画がいくつもかけてあるんだ。



/信ずれば徳となる/風姿花伝
今日も何も返答できず日に記す、
情熱ばかりかそれさへ今あきらめかけてる弱気な心。それを仲間同志が励まし合ってこの地球をひとまわりするんだょ。ー人の歴史が地球の歴史に刻まれる、−人の時空が宇宙の特別であり
かつまた同じものでもある。
私であってもあなたであっても、森羅万象全てに隠れている真実が 
こうしたある種イデア的理想とも呼べる “真実のたね”一粒も一生涯かけて見つけることが出来ないかもしれない。だったとしても・・・ 父が、目の前の画に向かい、自身を切り開いていく作業をやめない姿も知っている。
私の言動がもの思いから、空想か、想象か?はたまた夢遊的妄想か!
エピゴーネン。理想が可能態として現実となりつつある時代(とき)を感じるのは、自然を私を愛する人たちを地球を私自身をデッサンすることであるだろう。
言語ポイエース、写真、音楽にも造形・・的要素があることを・知る。
デッサン=造形構築とは、良く言えば即興、悪くいえば作家の気まぐれなどではなく、自己の心的図像やモード流行に合わせたり、時代、や社会的文化的美的エッセンスなどではなく・・それらでは許されないもっと本質的にものを捉え、乗り超えること。人々の用途、道具(デザイン)でもなく、写生でもない、実在の対象を自力で捉え、乗り越える必要がある/写真についてもそこらへん、かひさんにきいてみよ/




アトナン・アルトー/ヴァン・ゴッホ    
ヴァンゴッホの評論を読む・社会が自殺させた者・読めばもうほとんど著作家アルトーの精神が画家ゴッホのなかに入り込み・

決して狂人ではなかったあの彼を社会は社会的扱いをして狂人せしめたのだ!。彼に対する嫉妬心や、せまぃせまい田舎根性といった低レベルな人間感情を露骨に彼にむけられてしまう。あわれなヴァン・ゴッホ、そうした疑いようもない精神的亊実が彼自身の心のなかでフツウツと芽生えていったことだろう:精純無クなままに絶対的な孤独にして、しかも人間史上誰もがこれら自然を知っていて見てぃたにもかかわらず!誰もかけないでいたのだから!彼と同時代に接した人たちはみな彼の作品が。"彼の特殊な人格によるもの"
・・・と決めつけ。片づけていった。
無宗教にしてキリスト者でありまた芸術家であった彼を社会評論は天才、狂人というレッテルをはりさらしまつり上げていく。小林秀雄ルノアールヤスパースも・・・である
彼自身の生きたレールの上を滑走する車両に誰も同乗することはできない私たち
画家を志す者の多くや
社会評論者たちは
誰も乗ることのできなぃでいるかの車両を
我々は外の駅のプラットホームでただじっと通りすぎていくのを
ながめることしかできないでいるのだから・・・。
37年とぃう彼の生涯のたった10年の
奇跡の画業、それをなしとげた彼自身の。それは彼だけの道のり
と、精神科医もテオも、私も、そう決めつけ誰もがその列車に乗りたがって悔しがるのだから。
本の著者、詩人アトナン・アルトーもまた、孤独な精神にして、生まれでる文学をつづっている。目を見張るばかりにさそぃ込まれていく刺激的な文章は、、
適格に言を発しているものがある、、その考え方、見方に洗脳されていく。

その数行を抜粋する
・・・
私は思うのだが、ゴーギャンにとって芸術家とは象徴や神話を探究し生の事物を「神話」にまで
拡大しなければならぬと考えていた、−方ヴァン・ゴッホは、生におけるもっとも卑俗な事物から神話を導き出すことができなければならぬ、と考えていたのだ。

・・・・

この一文が彼の絵に描かれた
うすぎたない農民夫たちが、
ありきたりの農場風景が、どぶ川の側溝やつり橋、かざりひとつない生活用具だけの、馬小屋や寝室が・・、
彼の視るものすべてが絵画となった。ことにつきる
我々の捉える自然風景人々のえり好みな美醜を 無分別に等価し、実写された

・・・

もはや我々は、自然のさまざまな姿が、これらのものによって作られていないなどと思うことはできないのだ。





今日、美術研究所で遠藤画師とその使徒らとの談話が少し白熱したことを
記録したい。画塾生が何をすべきか?について議論が及ぶ。
組織で運営する団体というまったく毛嫌いしたくなるような分野に加担しそこでの
執務を行うことが我々画塾生にも望まれるとあっては、芸術とは全く正反対の代物に関わることに正直皆嫌悪しているように思われる。
だが、そうしたことも人生経験として社会勉強として有意義なものであるには違いないのである。少しづつでも具体的作業が求められていくだろうし、それが自然と進むことを願ってやまない。
私が画塾生の立場として、立場という形式を超えてもっと私個人の発言として
ずけずけともの言わせていただけるなら
いかようにまとめてみた。
それは先の一冊の本アトナン・アルトー著、ヴァン・ゴッホ
願ってやまない芸術の在り方とも絡んで


つまり、遠藤絵師の作品群が、どこにもないものである。という批評価値の見方で封じ込めることはならない。
当然のことである!
もしそうであるならば
われわれ後世にとって、師の絵は滅んだも同然である。
師の絵を誰に、誰のためにあるのかを申せば、
財閥の金持ちのぬくぬくと部屋に着飾る、趣味の骨董の名品としての、商品価値としての
目の肥えた年寄りたちよりも
僕は僕は!若い画学生たちである。芸術に苦闘していながら
いきのづまった若者たちであろう、
ほそぼそと絵に精進している職業画家たちであろう、
残念ながらプロの絵かきさんたちが、美術研究所にこないのはなぜなら
アルトーからしてみれば、彼の絵に嫉妬したからかもしれない。)

私は幸運にしてアマチュアにして、素朴に素直に作品とも先生とも接することができるのだ
"私もこのようにやってみたい。師の絵が後世で生きるならば
その胸をかりて自分を開かせることだ
自分にとってできる可能性をそこに見出すことである。
その意味で師の絵が生きるのだから、

師の作品群は芸術家のための芸術であらねばならない。

私は師の作品それ自体を美学評論できるだけの眼力、見方は乏しく
しかしながら、画塾生である者の一人として、先生とともにデッサンをするかたわらで何をかを語らなければならないだろう
私の内から、作品自体を言葉にすることをいずれやらなければならない。
アルトーゴッホを自分自身のように語ったように・・・である。
たった一人の私の芸術を開かせるためにも・・・である。

///ゴッホ
私が思うに、ゴッホの作品自体は今の時代にあっては
もはや死んだと思っている、
絵自体は食い破られたも同然と考える。
社会、文化、市場価値によってである。
ただ生きているのは、彼の生活そのものを誰もが手に取って知ることのできる
告白本であり、彼に関する評論であり、後世に続く若者がその絵を
目の当たりにした感動であるだろ。

少なくとも遠藤画師の作品を同じように殺すことは許されない
生きたままそれを、画に志す者たちと共にこの画をどう思うか?が私にとっての中心的課題であるだろう。

私は非常に天分に恵まれているなぜなら、父は現代美術家でもあるのだから・・・。彼と絵師とが芸術という分野で
相反しないまま私の内に秘めているのだから。。両者は実は私にとって脅威でもなく素直な真の芸術家として
どちらにも追随できずとも私は尊敬できている。その先端部分で私一人の孤独にあって何をかを語り対峙できる
素直な気持ちがあるのだ。





休みの日のむこうには
風をたよりに ゆれてる窓の外  
その目の前を 
土手から  ぎゅんぎゅん伸びてく庭花さえぎる 
斜陽のやわかな小春日 とうめいな空気が


・・2009.10.5

<






























矢野健太郎著、数学物語.
私が未来に期待できる喜び
、大人へと成長した喜びと共に
存在していた。
未来の扉を次々と開けてはその中を硯きこみ、
面白そうなら入ったり出たり
・・・何をー生かけてするつもりか
考えたあげくいつしか老けて死んだ!

多くの事が今知られ、可能な未来は。
今もこれからも多少は存在するだろう。
だがなもはや−人の理想は造り終えたのだ
心残りさへも時は待たずに、思い知らされるのだ
社会的責任やその行いや信頼に足る人となり 
心に据えるものかしこがこの目先に見えるなら
求める時期が移行しつつある年才だ
今の私が未来に期待できる喜び、
それは責任と信頼。自信。なぜだろか?
あのころの自然体が確実に屈いているのか
それに似たものが今の私にどれだけあるだろうか

・・・公園のべンチに腰かけてる目の前で
私と同じくらぃだった子供とその母が
キャッチボールをしている

・・・日の寒暖に背をくるみ
いまだ日記を書いている 

2011 11/23



                                                                                      • -



生きているところに

結実

はない

これまでのすべてが

今日で終わるのだと

そして同時に

今日がすべての始まりである

目的はない

生きているところに

幾重にも

当たり前が積み重なる、

利己的、かつ、短絡的、措置を施し

創造とは呼べない、創造とは結ばれない

これまでみなさんにむかって

無用に押しひろげた外縁 涸渇


これからもそう



寸秒たがわず

願っ
てやることだ



1
年が3千100万秒


10


3億1000万秒


11 日と半日が100万秒

それを寸秒たがわず

願ってやることだ


それが
10
年前の

これから10

先も
同じようにだ