2012/02/08
建築雑誌2012年2月号・特集「津波のサイエンス/エンジニアリング」
建築雑誌2月号が皆さんのお手元に届いている頃かと思います。実際には10日ほど前に刷り上がっているのですが、発送の段取り上この時期になってしまうようです。できるだけ前月末に発送できるよう検討したいと思います。
さて今回の特集は、建築分野が(これまでほとんど手をつけずにきた)津波を急激に相手にせざるをえなくなった状況のなかで、少なくとも津波防災をめぐる土木工学の最前線をおさえつつ、それを建築がどう受け止めるうるのか(あるいは連携しうるのか)を整理しておきたいと考えました。また今号では土木分野のさまざまな最前線に立ってこられた/立っておられる専門家の皆さんに多数登場いただきました。この場を借りてあらためて心より御礼申し上げます。編集担当は、居駒知樹(日本大学)・田村和夫(千葉工業大学)・加藤研一(小堀鐸二研究所)の3方です。
私たちはやはり大地につながって生きていくわけですが、ではどうつながればよいのかという問題は、まず工学的諸条件を踏まえて議論されるべきです。いうまでもなく災害は工学主義にイニシアチブあるいはヘゲモニーをとらせるように働きやすいのですが、地震の場合は最終的には建築物とか道路とか個々の構造物の強度とか制御性能の問題になる。しかし今回の災害では津波工学のはじき出すシミュレーションをにらみながら大地の上に一本の線を引き、エリアをまっ二つに分けるというように、都市・集落のマクロ・レベルに強力な論理として働きます。これは初めての経験でしょう。ただ、津波シミュレーションはプランニングにおける判断材料のひとつであるにもかかわらず、それを最上位に置いてから生業・生活といった諸条件を調整するという前提的ヒエラルキーが批判されにくいという問題(多くの条件をどう統合するのかという問いがあらかじめ落ちてしまう)があります。またシミュレーションそのものはパラメータをいじるたびに変化し、その感度(センシティビティ)は非常に高いそうですが、最終的には一本の線を引くという行為に単純化されざるをえないという、科学と工学のあいだの分断・飛躍という問題もある(そこに建築家はもっと多変数をデザインで解決するような回答をもって関与できないものだろうか)。東北大の越村さんが言われるとおり、社会が大地を占めるための「工学的諸条件」を明らかにしそれをまちづくりのコミュニケーションのなかに組み込んでいくのは当然のパラダイムになるでしょうが、そこに高いレベルのリテラシーを持ち込めるかが重要な気がします。
さて特集の記事は基本的に津波発生・伝達から都市・集落レベル、土木構造物レベル、建築レベル、さらには漂流物といったところまでがカバーされていますが、表紙では太平洋全域スケールで3.11の津波がどのように振る舞っていたのかを図化しています。居駒先生のシミュレーション画像をもとに、デザイナーの中野豪雄氏にグラフィク化していただいたもの(→中野さんのサイト)。1) 地震発生から約7時間後の水面の起伏、2) 高さ10cm以上の波が到達した地理的領域、3) 波の到達時間、の3つが重ねられています。じっくり堪能ください。
それから今号より、特集ページの後に下記の連載記事が掲載されています。「建築の争点」/「ケンチク脳の育て方」/「ケンチク脳の活かし方」/「地域いろいろ・多様な日本」。次号には「なぜ私は建築を選んだか」/「Architect Politician」(これらは両ケンチク脳連載と隔月掲載)が登場。ご期待ください。
2012/02/03
村が消えた
本田靖春著『村が消えた:むつ小川原 農民と国家』(講談社文庫)はすごい本です。満州に動員され、引揚後は六ヶ所。二度の開拓に人生を費やした農民たち。満州よりはるかに厳しい条件での六ヶ所開拓は辛酸を極め、本書の中心的な舞台である下弥栄村(この名前そのものがむろん満州の痕跡)などでは、全国的にはほぼ貧困問題が解消した70年頃にまだ空き缶を茶碗がわりにするような状態だったのだが、あまつさえ(だからこそ)列島改造の波(むつ小川原開発計画)、つまり地上げによって村を根こそぎにされる。ところがその開発すら頓挫し(結局は燃料サイクル施設などの原子力施設が立地する)・・・という、そのすべての顛末を農民側の視点でこれ以上ないほど克明に描いている。東日本大震災も含め、戦後日本を考えるための必読書のひとつです。著者の本田靖春氏は、京城生まれということもあるのだと思いますが、やはり戦後社会を「戦争」に、そして戦争や植民地支配を遂行できてしまう「国家」と「国民」の問題につなぎとめて理解しなければならないという知性が力強い筆致となっている。『私のなかの朝鮮人』とか、『疵』とか、入手して読んでみたい。
ところでNHK朝ドラ「カーネーション」は出色の出来ですね。大好きです。でもやっぱり戦前篇がよかったななどと思う今日このごろ。というのは1950年代に何か変調がある気がするからなんだけど、別に上の話にこじつける気はないがやっぱり戦後的になり、戦前的なものが徐々に退場している。人物の交替もあるが、プロットも変わった感がある(理不尽でもそのようにしか生きられない人たちの騒々しい交錯から、近代的自我とか母子関係をめぐる心理的プロットにいくぶん構造化された気がする)。なんか野暮なこと書いて恥ずかしー。善作の血を受け継ぐ糸子と、体育会系三女に期待。
2012/01/30
卒業論文・卒業設計の一週間終わる。
先週は1月24日(火)に論文・設計の提出受付。25日(水)に各教員による設計の審査、26日(木)に論文の発表会(口頭試問)、27日(金)に設計のポスターセッションと公開講評会ノミネート会議(全43作品から7作品を選考)、28日(土)に卒業判定会議、29日(日)に設計の公開講評会、とまさに卒業論文・卒業設計ウィークでありました。昨日駿河台キャンパスで行われた公開講評会のゲスト・クリティークは團紀彦さんと吉村靖孝さん。的確で学生にも伝わりやすい、有益なコメントをたくさんいただき、他の教員も含めて十分な議論を尽くしたうえで投票→各賞決定という、とてもキレイなかたちで幕が下りた。そして打ち上げ。ゲストと専任・兼任教員とで一次会をした後、学生たちのところに合流して4時まで?飲んだ。1週間疲れたー。
建築史・建築論研究室の9名(論文3名・設計6名)の成果は以下のとおり。
- 河合 彩「護国神社の建築史的研究:造営組織・設計手法・祭祀プログラムからみるその近代的特質」★徳永賞
- 齋藤 玲「日本橋「保存」の歴史的特質:首都高速道路建設をめぐる議論の構図と推移から」
- 大山達也「三陸漁村における昭和津波後の「復興地」と戦後の変容過程:3Dモデル制作を通して」
卒業設計
- 笹 朝斐「あさひはうすと米屋のおじさんと中井商店街」★堀口賞
- 滝沢皓史「進化する保存建築:伊根浦伝統的建造物群保存地区における船屋のリノベーション」★優秀賞
- 中村円香「スキマナガヤ」
- 西村拓真「Bypassing-the-Mass」
- 関口晶子「けろべのカベ:ノコルカベ・キエルカベ」
- 林 直弘「SELF-ORGANIZING MOLECULES」
徳永賞は卒業論文の最優秀賞(計画系・環境系・構造系別)。堀口賞は、意匠的に傑出した作品に与えられる賞。滝沢君は惜しくも建築学科賞(総合的に優れており学科として顕彰する作品に与えられる)を逃しましたが優秀賞(上位5作品)。ということで今年は皆さんが素晴らしい結果を残してくれました。公開講評会に選ばれず悔しい思いをした人も多かったですが、大きな課題は大きな糧。その課題が何なのかをじっくり考えることが大事だと思います。
2012/01/28
第8回編集委員会
色んな仕事に振り回されて目がまわり、ブログ書く時間がなかなかとれません。遅くなりましたが新年最初の編集委員会と関連事項の記録を。
2012.01.18 Wed. 第8回編集委員会
(1) 連載記事A〜Gの進捗状況を確認、検討。
(2) 1月号の感想。
(3) 2〜5月号特集 進捗報告。
(4) 6月号(前・渡辺)原案の再検討。ある中毒症についての特集。何とかまとまる。担当のお二人に感謝。
(5) 7月号(吉村・蜷川)原案の検討。ほぼ骨格は見えてきた。クローネンバーグ氏による概説をつけることに。あとは実践編に泥臭いのが欲しいなあ等。次回最終決定。
(6) 8月号(砂本・初田)素案の検討。小特集ではあるが重いテーマなので、短い記事を集めるカタログ的手法ではなく、読み応えあるテキストをかっちり綴じ込むことが重要と思う。
(7) 9月号年報(とりあえず青井)の企画について。震災対応・UIA対応などしっかり記録する方向で。
2012.01.20 Fri. 4月号第2部結びの座談会。
2012.01.22 Sun. 4月号第2部対談、さらに4月号第1部巻頭座談会とダブルヘッダー。
いずれも拡がりと深みのある、そしてイメージャブルな記事になりそうです。お忙しいところご協力いただいた皆さまに感謝します。
2012/01/22
1月16日・名古屋市立大学にて特別講義
1月8日(日)、台湾より帰国の機内で何だかノドがおかしいなと思っていたら、翌朝高熱が出て下がらず、次の日に受診したところインフルエンザ(A型)の診断。そのまま木曜の朝まで38度から39度のあいだを三日三晩彷徨うことに。結局、感染力が残るといけないのでセンターの試験監督は欠席するよう指示があり・・皆様ご面倒をおかけしました。
1月14日(土)センター試験だけれど僕は自宅。台湾では台湾総統選挙。うちの奥さんは投票のため前日より2泊3日で台北へ。僕は中央選挙管理委員会(台湾)の開票速報(ネット)を見守りはじめて間もなく諦めムードに。民進党の蔡英文さんを国民党の馬英九氏が次第に引き離していく。馬氏の求心力はかなり後退していたし、人物の評価ならきっと蔡さんが勝ったと思うのだが、中国経済依存が企業にも社会・家族にも根を張っているということかな。台湾とタッグを組んで中国進出を狙う日本企業にとっては「吉」ということなのだろうが。重要なのは今後のグローバル経済の動向。
1月16日(月)は名古屋市立大学芸術工学研究科の特別講義。以前『新建築住宅特集』の近作訪問の取材(会田友朗さんと共同で設計されたPeriscope House)でお世話になったtele-designの久野紀光さん(久野研究室)にお招きいただき、「City Learns 都市は学ぶ:時間をめぐるフィールドワーク」と題して大学院生の皆さんの前でお話させていただいた。内容はちょっと難しかったかな。でも楽しそうに聞いてくれている学生さんの表情があって良かった。話が進むにつれて都市がざわざわ蠢いているような、そんな気になってくれたら成功なんだけど、どうだっただろうか。ざわめく都市をスタティックでない捉え方で捕まえたいんです僕は。会場にはC+Aの伊藤恭行さん(伊藤研究室)もおられ、飲み会はお二人と学生さんたちとで2時半くらいまで盛り上がる。少年のように真面目な建築談義だったなー。久野さん、伊藤さん、改めましてありがとうございました(ブログでの報告が遅くなってしまいましたが)。
2012/01/09
ヴァナキュラーの公定化
この写真の建物、RC(鉄筋コンクリート)ラーメン構造・・・ではない。いや、そう答えても完全な間違いとも言い切れないが、でもやっぱり違う。コンクリートの柱・梁の輪郭がもうひとつ鮮明じゃないのにお気づきだろうか。そう、煉瓦壁を一層分ずつ積み上げては、コンクリート部分を打設する、という工法なのである。もちろん煉瓦を積むときに柱型のところは空けておき、型枠を組んでコンクリートを流し込むのだが、煉瓦壁が型枠の一部となりそのまま鋳込まれるあたりは古代ローマの工法を想起させる(壁部分はあくまでただの煉瓦壁なので、構造的な思想はまったく違うけどね)。
この種の構造物が台湾の、とりわけ地方都市の建物の大半を占めている。台湾で「加強磚造」(=補強煉瓦造)と呼ばれていることが示すように、この工法はあくまで煉瓦を積んでいく壁構造を、コンクリートの柱型・梁型・床スラブによって補強改良したものとして認識されている。台湾には日本と違って「建築法」と称する堂々たる法があるが、同法97条によって定める「建築技術規則」には「第五節 磚造」(煉瓦造)につづけて「第六節 加強磚造」があり、壁量に関する規定があったり、最近改正されたが少し前までは壁位置は各階で揃っていなければならないとされていたりして、明らかに壁構造の延長上に位置づけられていることが分かる。
街や村の大半をつくる(内田祥士先生流にいえば「量を担う技術」である)モダン・ヴァナキュラーを法的に公定しているという意味では、日本の木造在来工法みたいな位置を占めるといえるかもしれない。
2012/01/02
新年のご挨拶 『建築雑誌』2012年1月号が間もなくお手元に届きます。
2012年が明けました。皆様すこやかに新春をお迎えのことと思います。私は台中市内のホテルでの年越しとなりました。
さて、日本建築学会の新・会誌編集委員会は2011年7月に始動しましたが、新年を迎えて日本建築学会HPの会誌ページが新体制の情報に更新されています。
同サイト内には、今期の編集体制(会誌編集委員)ならびに編集方針(委員長挨拶)も掲載されておりますのでご確認いただければ幸いです。
創刊126年目を迎える『建築雑誌』ですが、2012年と2013年の2年間、24冊をこの体制でお届けします。読者の皆様からのご批判をお待ちしております。
さて、私ども新委員会の最初の成果、2012年1月号は特集テーマを「前夜の東北 Tohoku on the Night Before」とし、東北の地図を幾重にも折りたたむような雑誌づくりを試みました。今後も東日本大震災が投げかける諸問題を幅広い視野と角度から検討する特集を組んでいきますが、それに先だって、東北の時-空間的な地図集(アトラス)をつくっておこうと考えたのが本特集の意図です。もちろん東北といえば「東北学」の蓄積があるわけですが、近代史、とりわけ戦後史については実は隔靴掻痒の感がありました。そこで、人文・社会系の専門家の方々にも多数登場いただき、「前夜の東北」がどのような時-空間的な脈絡で成り立っていたのかを、寄稿だけでなく、対談、インタビュー、コラム、統計、地図(文字どおりの)など多様な形式を束ねるかたちで描き出そうと考えました(吉田初三郎の手になる岩手・宮城・福島の3枚の鳥瞰図も掲載!)。もちろん、それなしには震災の意味も、復興への道筋も描き出せませんし、また私たちが地方への視線(地政学的な観点を含めて)を忘れてきたことを率直に反省しようという意図もありました(グローバル経済への視点が弱くなったのは反省点ですが)。もちろん、今後の特集も何らかのかたちで建築をめぐる我々の「地図」の描き直しになるでしょう。24冊がそうした地図の重層になればとも思っていますし、表紙デザインも24枚の地図(文字どおりの地図であるかどうかは別として)になるのではないかと思っています。
座談、インタビューでお会いした多くの方々が、このような特集が必要だと思っていたとおっしゃってくださったのが大きな支えとなりました。ご協力いただいた皆さまに御礼申し上げます。
もうひとつ。今号は前委員会(中谷礼仁委員長)の2011年11月号の継承という側面もあります。また、巻頭の震災レポートについても前委員会の実績を引き継ぎ、今後の2年間もHP公開も含めて継続していきます。ただし、災害の実像に迫るため、「連続ルポ 東日本大震災|動き出す被災地」、「連続ルポ 東日本大震災|仮すまいの姿」の二つの記事を毎回並べる複眼的な構えをとることにしました。
2月号からは連載ページもさらに充実してお届けしますのでご期待ください。
2011/12/27
2006年4月火災の彰化元清観、修復工事成る。
拙著『彰化一九〇六年〜市区改正が都市を動かす』(アセテート、2006)の口絵に「元清観」という廟を都市の「トラウマ」の例として紹介した。植民地末期(1940年前後)の市区改正道路の建設により南西側が薄く斜めにスライスされてしまったのである。先行する肉片のような都市組織に、市区改正計画という金網を炙って押しあてるとジュッと音を立てて焦げ付く。こうして都市は二つの異質な形態の重合というべき状態になるのだが、元清観の壁面は、その両者の境界面の一部なのである。
元清観の建築は、文化財であるから今後も原則的に改築されることはない。しかも、失われた部分は道路用地となっているために、欠損を回復する復元事業もすでに不可能である。この建築は、理不尽にも美しい切断面を保存しつづけるほかないことを条件づけられているのだ。そこに、元清観が今後も持ち続ける独自の意義があるだろう。(『彰化一九〇六』p.23)
で、この元清観で2006年4月9日に出火し、本殿がほぼ全焼、これに接続する側廊その他に大きな被害を出した。出版前だったので、このことに関する僕なりのノートを注として追加してもらった。
国家二級古蹟であるから実測図面・写真等に基づいて再建・修復が行われることになるが、本書に述べたように、焼失した本殿周辺はちょうど市区改正道路による切断面を露呈していた箇所であり、このことが修復にあたっての設計方針に微妙な影を落とすことは必至であろう。被害のない(あるいは小さな)建築物までも含めてすべてを取り壊すという(おそらくありえない)決断が下されないかぎり、中軸線に沿う建築的構成の特質上、在来都市の形態と市区改正との齟齬がすっかり解消されてしまうことはありえないからである。すなわち、市区改正による切断部分がいったんは取り壊されても、残された他の部分に、間接的に都市形態の二重性が保存され、焼失部分を再現する際の設計条件の一部を構成するのである。二重化の徴は容易には消えない。(『彰化一九〇六』p.23-24)
本日(20111227)元清観を訪ねた。一部の彩絵を残すのみでほぼ修復が完成していた。現場に行く前に彰化縣文化局の副局長さん(知り合った頃はまだ課長さんだった)を訪ねてお話をうかがったが、やはり市区改正による切除という履歴は修復方針の検討に影響を与え、切除部分もこの際あわせて復原できないかという意見が複数あったという。結果的にはこの意見は容れられず、火災直前の姿に戻すことが基本方針とされた。つまり、都市形態の二重性は基本的な設計条件として修復の基盤に潜在しつづけることになった。
下の写真は復原された切除部分。内部では斗栱や梁が壁にだんだん埋まっていく様子、外部ではその反対側の先端が壁から飛び出している様子が分かるだろうか。これらはすべて新しい。「スライス+パッチ」(無頓着な暴力による破壊と、アドホックな継当てのような応急処置)という偶然の産物を、文化資産保護法による修復事業によって再現するという、捩じれてはいるが合理的な判断が下されたのである。
壁からいきなり顔を出す斗栱。
梁が埋まっていく。
復原された切除部分。
正面(三川殿)。写真の左側(南側)がスライスされた。
火災を免れた後殿。
2011/12/24
第7回編集委員会、そいでもって忘年会。
2011.12.22 Wed. 前の晩に2月号の特集前言を書いてたら夜明けまでかかってしまい、授業をやってから田町へ向かい、18:00より編集委員会。終了後は委員会の皆さんと忘年会。帰宅は深夜1:30頃で、それからまた別の原稿のデッドラインなので一睡もできず、授業、2月号表紙デザイン打合せ、研究室忘年会、帰宅して年賀状作成・・・と過酷な3日間を何とか乗り越えていま台北で一息ついています。明日から台湾各地を巡る予定。
(1) 連載記事A〜Gの進捗状況を確認、検討。
(2) 1〜4月号の進捗状況確認。
(3) 5月号(竹内・安藤・東・小田島・野田)の最終目次確認と進捗報告。いや産業系の特集は担当者の骨の折れ方が半端ないです。
(4) 6月号(前・渡辺)原案の検討。ある中毒症についての特集なのだが審議不十分にて1月の委員会へ繰越。
(5) 7月号(吉村・蜷川)素案の検討。
(6) その他もろもろ。
2011/12/19
家は誰が建てるのか
今日はムサビで西洋建築史。今年度最終回。学生が入れ替わり寄ってきて、先生他の授業持ってないんすか? --- いや、ムサビはこの授業だけ、と答えると残念そう。いつも楽しそうに話を聞いてくれている子たち。嬉しいもんです。
建築雑誌1月号はすでに編集の手を離れ、印刷所に。紆余曲折ありましたが新年には会員の皆様に届けられます。いま僕は2月号担当の先生方と、表紙等のデザインにつきメール上でデザイナーの中野さんと意見交換中。
ところで日本建築学会会誌編集委員会主催 パネルディスカッション「リジリエント・ソサエティー」というのが今朝あって、僕は行けなかったのですが、仙台の会場(東北大)より牧紀男先生の完了報告(メール)が届きました。セミオープンだったのですが事前のお知らせをせず失礼しました。明日は国交省にて佐藤直良氏(技監)と和田章先生(日本建築学会長)との対談(ぽむ企画の平塚さんと)。いずれも3月号。
前委員会の建築雑誌展2010-11も日替わりトークセッション企画が今日あたりはきっと佳境を迎えていることと思います。






