VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2016/11/20

明治大学 建築史・建築論(青井)研究室 今年もOB/OG会をやった。気づくと間もなく10周年。

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毎年やっているOB/OG会。間もなく青井研10周年ですよと誰かが教えてくれ、研究室のウェブサイトで数えてみたところすでに90人くらいのメンバーがいることに気づく。

今回(20161119)は忙しいなか十数人のOB/OGが駆けつけてくれ、5期生の滝沢さん(野村不動産)・野口さん(永山祐子建築設計)・笹さん(フジテレビ)の3人がそれぞれの仕事についてレクチャしてくれた。毎度このレクチャがめちゃ面白く、しかも勉強になる。

2次会は流れでメキシコ料理

2016/11/12

20160925「都市としての闇市」・・・もうかなり前になりますが。

闇市研究会主催のこのシンポに、日本近世史の小林信也先生、社会学・都市論の吉見俊哉先生とともにコメンテーターとして参加させていただきました。ほんとはこの研究会のメンバーだったのですが前に足を洗い(笑)、少し時間が経ちました。この間にヤミ市研究会は『盛り場はヤミ市から生まれた』および『同 増補版』を出していますが、さらにその後各メンバーが個別あるいは共同で進めつつある作業群を「闇市研究のフロンティア」として提示する試み。

公開研究会「都市としての闇市 闇市研究のフロンティア
 2016年9月25日(日)13時〜17時30分
 東京⼤学⼯学部⼀号館3階建築学専攻会議室
 司会:橋本健二
 主旨説明(初田香成・10分)

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全体質疑(20分)
まとめ(橋本健二・5分)
コメンテーター
 青井哲人建築史・明治大学理工学部建築学准教授
 小林信也(日本史東京都公文書館
 吉見俊哉社会学東京大学大学院情報学環教授)

闇市研究」は、共同研究プロジェクトとしては、かなり面白いと思う。色々な分野の研究者が「闇市」という対象を共通項として集まる、ということが面白い。逆にいえば、プロジェクトによって闇市の像が多角的に充実した立体となっていくだけでなく、各々が(プロジェクトにおいて闇市を位置づけている)フレームワークパースペクティブが更新されていかなくてはあまり意味がないと思うのだ。

そんなことを考えたときに重要な視点となるのは、闇市にまつわる「量」と「政治」なんじゃないかと僕は思う。闇市というのは闇取引の市場であって、それを一般の市場から区別するのは「ヤミ性」だ。したがって通常(というか定義上)それは地下化していて見えないのが当然である。しかし太平洋戦争の敗戦は、本来なら不可視のヤミの空間を、地上に、大量に、出現させた。それゆえに、ある種の空間的・景観的な特質もかたちづくられた。これらが「闇市」(戦後闇市)の基本的な特質だろう。地理的には主要駅だけでなく郊外部にまで分布し、社会経済的には出自の異なる無数の素人を商人に変え、また表象的には統制解除(=ヤミ性の解消)後にも維持・強化されるようなイメージを形成し、そして都市政策的にはこれまた圧倒的な経済復興・成長とぶつかって整理対象とされていった・・・という一連の事情が、私たちの「闇市」理解を強く規定している。これらはいずれも「量」なしには起こり得なかったことだろう。

 次に「政治」である。ヤミが地上化する事態が大量に生じたのは、行政・警察機構がイリーガル・セクターと手を組まざるをえないほどに、通常の経済麻痺したからだろう。しかも商業者は大量の「素人商人」である。いくつかの部門が抜き差しならない利害関係をもって有機的に協調する、一種のコーポラティズムをそこにみることができる(たとえ消極的な選択であったとしても)。突飛なことをいうと、占領軍天皇を担ぐ、という構図があらゆる戦後的な協調を吊り支える、象徴的な協調であったという見立てもできそうな気がする。

 逆に、統治者にとって、この種の協調はあくまで社会統治の手段だったのだから、闇市が狂乱状態や暴動・革命の原因になるようなら取り締まらなければならない。それ自体、微妙なバランスの求められる政治的問題だった。そのうえ店主も客も素人だったのだから、闇市は社会一般からみて特殊な領域だったのではなく、ほとんどの国民がその一部だったのだ。闇市の制御は相当に難しい問題だったのではないか。

 しかも、社会の一部には闇市への倫理的な憎悪がみられた。逆井さんによれば、その憎悪が社会的・民族的な周縁性に投影され、闇市を旧植民地・旧外地人(第三国人)に結びつける文化表象が形成される。それは保守的政治家などにも顕著な傾向だったようだし、エリート文化人の場合もそれが大衆憎悪と結びつくかたちで意外に根強かったのではないか。では、左翼闇市観はどうか。逆井さんに尋ねたところ、それも単純でなかったという。左翼にも、ヤミ性を倫理的に間違ったもの、封建的・旧弊的なものとして嫌悪するグループもあれば、むしろ民衆的リアリティそのものと賞賛し、さらに積極的にオルグ組織化)の対象として捉えるグループもあったという。占領軍政府はこの後者の側面に注意を向けざるをえなかっただろう。1947年ゼネスト中止命令以降の、いわゆる“逆コース”のなかで闇市の取締が強化されていったのも当然である。

 そんなわけで、橋本先生の「社会移動」(階層間の移動)の計量分析を歴史研究に応用するアプローチはマクロな社会構造・社会変動のなかに闇市の位置と輪郭を与えており、これは文句なしに素晴らしかったのだが、加えて、表象文化論の立場から闇市の「政治」に切り込んだ逆井さんと、占領軍闇市との関係に迫るために基礎的な作業を積み上げつつある村上さんに、僕は多くを教えられ、刺激された。また議論しましょう。

2016/11/05

WEB建築討論 新シリーズ「建築と戦後70年」第1回平良敬一「運動の媒体としてのジャーナリズム」公開

“201611_toron_taira_keiichi”日本建築学会のWEB建築討論で、新しいシリーズ「建築と戦後70年」をはじめました。発足メンバーは当方と、橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和の5名ですが、今後、有志の方々に加わっていただき拡大していこうと思っています。シリーズの主旨は同サイトをご覧いただければと思いますが、インタビューによるオーラル・ヒストリーを軸にしながら、他の形式も交えつつ、「戦後」という独特の地場がいったいどのような空間であったのか、その証言と議論を公開・ストックしていくシリーズです。どうも建築分野では「戦後70年」はあまり議論を喚起しませんでしたし、これをきっかけに新しい歴史的パースペクティブ建築論を作り出そうという機運も高まっていません。しかし、「戦後」は確実に終わろうとしており、同時に、「戦後」が生み出してきたものを私たちは曖昧なままひきずり、また新しい文脈で半ば無意識に「戦後」的なものが噴出したり利用されたりしている状況は、正直にいって気持ちのよいものではありません。風通しが悪い。「戦後」を規定し、私たちがそれとどのような関係にあるのかをはっきりさせる運動は、今後の建築・都市への構想の努力を支援していく意義を持つのだと思っています。歴史は未来予測や占いではありませんが、現在へと至る過去の見通しを描く努力があまりにも少ないのは事実です。

 さて、第1回は今年齢90を迎える平良敬一さんを仙台に訪ねたインタビュー「運動の媒体としてのジャーナリズム」を公開しました。平良町(宮古)と赤羽東京)、50年代建築論におけるNAUからの持続と分岐、運動の媒体としての雑誌、共産党コミンフォルム事件・・・。重要な証言が満載です。ぜひお読みください。われわれも大いに視野を開かれ、今後なすべき作業にも示唆いただきました。

2016/10/18

法政大学建築フォーラム「建築と都市と民主主義を考える」20160927〜1206

20160824HUAF2016flyer民主主義」というレンズを通して建築と都市を捉え直してみよう、という講演シリーズ。時宜を得たテーマですね。コーディネータは橋本純さん。第1回の湯浅誠さん、第2回の僕はもう終わってしまいましたが、今後も面白そうな講演が続くので是非。

このシリーズ、学部3年生向けの授業として位置づけられているようですが、公開講座でもあって、学生・院生から教員・社会人まで大勢聴講されてます。ポスターには書かれていますが、法政の専任教員がディスカッション相手役をつとめるかたちになっています。そうそう、終了後はワンコインパーティもありますよ。

左の画像、クリックで拡大(法政大のページ)。


法政大学建築フォーラム:「建築と都市と民主主義を考える」
モデレーター:橋本 純(編集者)

第1回  9月27日(火)湯浅 誠(社会活動家法政大学教授)「都市はだれのものか--公共性について」
第2回 10月11日(火)青井哲人建築史家・明治大学准教授)「「民主主義」を建築はいかに翻訳してきたか--戦後史の見直しから」
第3回 10月25日(火)吉良森子(建築家神戸芸術工科大学客員教授)「今、ヨーロッパで起こっていること--社会的空間を形成する主体から考える」
第4回 11月8日(火)饗庭 伸(都市計画家・首都大学東京准教授)「超民主主義社会における縮小都市」
第5回 11月15日(火)青木 淳(建築家東京藝術大学客員教授)「建築の都市性について」
第6回 11月22日(火)内藤 廣(建築家東京大学名誉教授)「3.11以後の日本社会と都市と建築の行方」
第7回 12月6日(火)水野和夫経済学者法政大学教授)「ポスト資本主義社会のイメージ」

 僕は「「民主主義」を建築はいかに翻訳してきたか    戦後史の見直しから」と題して話をしました。45年〜50年頃の文学建築などでの文化運動(民主人民戦線)、50年代の民衆論・伝統論の構図、CIAM批判から出てくる個と全体の問題、それらの延長上に展開する60年代、そして70年前後のパラダイム・シフト、近年の50-60年代回顧ブームと70年代的問題設定の広範な微温的回帰といったところでしょうか。

 「時宜を得たテーマですね」なんて書きましたが、正直いうと、僕は「民主主義」×「建築」などという厄介なお題について、学部3年生からプロまでを含む聴衆に向けて60分で話せ、などという無理難題をいただいて頭を抱えました(抱えないはずがない)。そもそも「民主主義」が説明できそうにないのに、そこに「建築」というまたよく分からないものを掛け算して・・・ややこしすぎる! でも、逆に考えると、「建築」というあやふやなものが、「民主主義」というもうひとつの漠たる正しさによってその定義さえも規定される、あるいは少なくともどこに向かうと正しいとされるのかが規範化される状況があったのだと考えると、腑に落ちてくる気もしたわけです。

 今回、戦後建築史の主だった言説をざっと点検してみたところ、建築人の言説には、予想に反して「民主主義」という言葉はあまり出てこないことがわかりました(あくまで、ざっとですけどね)。浜口隆一『ヒューマニズム建築』(1947)なんて「民主主義」を連呼していると思い込んでいましたが、じつは全然出てこない。興味深い発見でした。彼らは民主主義という「正しさ」の負荷を強烈に感じていたはずですが、それを直接言説化していないのです。おそらく、建築人たちはそれを、現実的な社会構築の問題というよりは、エリートたる建築人(とそのコミュニティ)が民衆との関係において自身をいかに正当に構えうるかというモラルの問題として受け取ったのです。まず、その翻訳の構図自体が問われるべきです。「人民のための建築(家)とは何か」という受け止め方ですね。

 今回、1948〜53年に中学・高校の社会科の教科書として広く使われた文部省編『民主主義』という本があることを知って、読んでみました。当時の中学校はレベルが高かったんですね。興味ある方、是非読んでみてください。この本で何よりも強調されているのは、民主主義は狭義の政治の問題というよりも、自律した個人としてのひとりひとりが、自己と他者とを尊重し、自由と平等を価値として生きる、そういう「精神」の問題である、ということです。やはりモラルの問題ですね。そして、そうしたモラル個人と社会が共有できないと、独裁全体主義を招き、「戦争と破滅」に至るのだと断言されています。

 「人民建築」「民衆的建築」などといった内実のよく分からない言葉も、当時の認識のコードにおいては、たとえば国家や資本という「権力」への建築家の奉仕を反対側(悪)に置いて、人民・民衆への奉仕を正義(善)とするモラル問題であったことが理解できます。そういった回路において、こうした標語は、民主主義建築的翻訳だったのでしょう。繰り返しますが、こういった翻訳の回路自体がまずは問われるべきです。戦後すぐから、リベラリストモダニスト)とマルキストの間で、どちらが「人民建築」の正しい理解かを争うディベートがありますが、それはたとえ当人たちにとっては切実な問いであったとしても、彼らが「人民」「民衆」と呼んだ人々が関知するはずもない抽象論でした。

 50年代に入り、朝鮮戦争特需のおかげもあって都市復興が動きはじめ、実際に建物がたつようになると、40年代の形式ばった党派的な論議が、実践とそのターゲットの問題へと書き換えられ、活気づきます。民衆論争・伝統論争がそれですね。これらは「民衆+伝統」論争として一体的に理解すべきものと思いますが、その読み直しはとっても重要な課題だなとあらためて思いました。あれはたんに狭義のデザインにおける国際的標準と伝統との接続の問題ではない。巨視的には、アメリカ占領政策保守化(いわゆる逆コース)の線と、ソビエトが各国共産党に指示した民族独立戦線の方向性とが交差したところに、戦後数年のあいだタブーとして抑制されていた戦前以来の「伝統」の議論が、50年代に「民衆」とくっついて噴出する背景があった。そして、広くとると1953〜57年の数年間に及んだこの論争は、「民衆+伝統」に対してどう構えるかという問いを突きつけ、あるいは少なくともそのような効果を持ちました。建築家だけでなく多くの建築専門家がどの線に自分の身を置くのかの選択を迫られ、急速に分裂・分岐していったように見えるのです。それは他ならぬ論争を仕掛けたジャーナリストたちも例外ではありませんでしたし、また戦前派の一部の人たちはこのとき決定的に時代遅れとなりました。それが、60年代の動きの背景的構図をなし、そしてパラダイムの変わる1970年頃(68年といってもよいですが)の断面にも大きな影を落としている。

 「民衆+伝統」は今日でも決して死んだ主題ではないでしょう。「民衆」はもちろんですが(たとえば「みんな」という言葉はすでに50年代後半には「建築界の民主化」や「人民建築」を歌うなかで使われています)、「伝統」も各時代に思わぬかたちで回帰してきた(いる)のでしょう。それらは何だかんだ言っても知識層である建築人たちが何らかの時代状況と自分らの職能が置かれた環境のなかから、勝手に言挙げして自縄自縛に陥ることが多いのです。それは民主主義とほとんど何の関係もないでしょう。いま言いたいのは、自分の都合で立ち上げた命題を民主主義と混同しても捻れていくだけ、ということです。では建築専門家がまともな社会運営に果たすべき役割は何でしょう。新国立豊洲あたりはその辺を問うてますよね。

2016/09/27

ISAIA 2016@Sendai has been Closed with a Great Success!

2016年9月20日〜23日にわたって開催された11th ISAIA 2016@Sendaiが大成功のうちに閉幕しました。中国韓国・日本の3建築学会が2年に1度持ち回りで開催している国際会議です。今回は Student Competition、Sendai Declaration、そして Indonesian Built Environment Research Institute のゲスト参加といった新しい試みもありました。

↓フェアウェル・パーティで上映されたムービー

実行委員会の一員として振り返ると、小野田・渡辺両委員長委員の皆さん、事務局の方々、学生ヴォランティア・・・がチームでつくりあげた会議でした。フェアウェル・パーティの随所にそのことが現れていたように思います。

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実行委員会プログラム班の隊長3連射。

青井もプログラム班の一員でして、決して真面目な委員ではありませんでしたが、本番は4日間にわたり駆けずり回りました。主な仕事のひとつは、牧紀男さんとTheme Session A: A World Beyond Borders, the Wisdom Shared by People: Our Future Cities and Regions under Risksの企画・進行を担当したこと。パネリストの皆さん、ありがとうございました。4時間を超える充実のセッションでした。

Theme Session A: Risk Management, Disaster Prevention, Mitigation and Recovery
A World Beyond Borders, the Wisdom Shared by People: Our Future Cities and Regions under Risks

Part1 Strategy for Our Future City Management

  • Yumiko Noda (Partner, PwC Advisory LLC, Japan)
  • Lee, Kyung Hoon (Professor, Korea University, Korea)
  • Yao Dong (Associate Professor, Dongji University, China)

Part2 Toward Establishment of an Asian Disaster Recovery Cooperation Network
  • Norihito Nakatani (Professor, Waseda University, Japan)
  • Osamu Murao (Professor, International Research Institute of Disaster Science, Tohoku University, Japan)
  • Ikaputra (Associate Professor, Universitas Gadjah Mada, Yogyakarta, Indonesia)
  • Song Bo (Director, China Architecture Design Group, China)
  • Seo, Soo-Yeon (Professor, Korea National University of Transportation, Korea)

Moderator:
  • Norio MAKI (Professor, Disaster Prevention Research Institute, Kyoto University, Japan)
  • Akihito AOI (Associate Professor, Meiji University, Japan)

2016/09/26

「津波と綾里博物館展」第2回展覧会 20160912-18@綾里地区港集落内

 去る9月12日(月)から18日(日)に、岩手県大船渡市三陸町の綾里地区にて「津波と綾里博物館展 歴史・復興・住まい」が開かれました。

 饗庭伸(首都大学東京都市計画)を中心に、池田浩敬(常葉大学防災)、木村周平(筑波大学文化人類学)、青井哲人・石榑督和(明治大学/都市史・建築史)、岡村健太郎(東京大学/都市史)、佐藤翔輔(東北大学アーカイブ(記録の保存活用学)、山岸剛(写真家)といったメンバーと、6大学の各研究室の学生たちが、早いところでは2012年より地区復興のサポートに入り、2014年頃からは歴史・民俗・未来にわたって「津波綾里」を多角的に掘り下げる研究を行ってきました。この間、じつに多くの方々にご協力と励ましをいただいてきました。この「博物館展」では、伊藤暁(建築家)、中野豪雄(グラフィックデザイナー)の参画を得て、これまでの成果を地区の皆さんにご覧いただきました。17日には研究成果の報告会(@綾姫ホール)も実施し、町民の方々が約100名お集まりくださいました。

 展覧会の会場は、昨年に引き続き港集落の空家(昭和三陸津波後の復興時の建設された築約80年の建物)をお借りしています。「博物館展」というちょっと奇妙な名称はですね・・・、架空の「博物館」が、この空家を借りて「展覧会」を開いている、ということなのだと私は理解しています。このヴァーチャルな「博物館」は、現時点では参加各研究室あるいは本プロジェクトで整備中のデジタル・アーカイブ、さらには町民の皆さんの知恵や資料などのかたちで、やや分散的かつ潜在的に存在しています。しかし、「展覧会」を開くことで、町の方々や、あるいは現在は町外にお住まいの方々が足を運んでくださり、展示物を前に生き生きとした語りを生み、ひとつひとつの資料に意味の厚みを与え、我々の知らなかった資料を持参くださることによって、「博物館」は姿を表し、成長していきます。その意味で、架空の博物館が具体的な場所に立ち現れる、「博物館」×「展」という形式は我々の予想を超えて意義深いものを秘めているように感じました。

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↑外観。最終日閉館後(9月18日)、看板を下ろして集合写真(会期中、博物館に詰めた先生・学生はもっと沢山います)。中央が公民館の西風さん。西風さんがいなかったらこの研究プロジェクトも展覧会もすべてありえなかったでしょう。感謝しております! そして隣近所の奥様方。毎日差し入れありがとうございました!

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↑内観。綾里地区の典型的な民家の間取りに対して、そこからズレて白いフレーム・パーティションが走り、両者のオフセット(ズレ)が順路をつくり出しています。

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明治東大チーム(=空間チーム)で担当した、昭和三陸津波後の復興期につくられた民家の実測図。博物館展のなかで一番ストイックな一角。

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↑つづいて綾里の歴史・産業・民俗・社会、そして津波被害・再生の歴史、3.11避難行動、3.11直前の町並み景観復原・・・などのコンテンツが続きます。展覧会には綾里関係者だけでなく色々な方が来てくださいました。東北大の川島秀一先生、早稲田の佐藤滋先生、それに(偶然!通りかかった)塚本由晴さん・貝島桃代さん。

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↑そして昨年の博物館展で来館いただいた方がご提供くださった映像2編の上映。1949年制作。おじいちゃん、おばあちゃんたちが、映像のなかに登場する人々を見ては「あのバッバだべちゃ」とか「あの頃はべっぴんだったんだなア」と盛り上がる。そういう語りを集めればどのカットにもキャプションと解説が付けられそうだ。映し出される風景・風俗がわが実家(愛知県中山間地域)の70年代前半(つまり僕が小学校に上がる前の頃)の写真(つまり僕のアルバムの写真)とそう大きく変わらないことにすぐさま思い至る。日本の農山漁村近世から1970年頃までおおむね連続的に推移してきたのだ。一方で、道路建設や医療・保険の普及などが「近代化」の文脈で持ちえた意味も考えさせるフィルムである。

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↑空間チームの一員が解説中。

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↑ 17日夜の飲み会。

*本記事掲載の写真は、饗庭伸先生・熊倉永子先生に提供いただいたものを含んでいます。

2016/09/14

大学院設計スタジオ2 「神山スタジオ」:0829プレゼミ+0904-10神山合宿(中間報告)

 神山スタジオ2年目。伊藤暁さんと青井、そして門脇耕三さんの3人が担当。M1が13人履修し、アシスタント(M2)3名が運営補助。

 昨年度に引き続き「ヴァナキュラーなもののテクトニクス」とその現代的再編がテーマ。去年は民家(建物)を実測して分散公共図書館に改修する提案を求めたが、今年は視野を広げ、人が環境に取りつき、自らの生きる場所へと改変する、そういった工作者と環境との生きた造形上の関係に迫りたいと考えた。具体的にリサーチしたいと思ったのは石積み。

R9289014* 石積みは資材の再配置である。山の土壌を「資材」とみなし、土と石とに選り分け、それらを平場(土の耕作面)と土留(石積み)とに再配置するのである。

千枚田」などと呼ばれる、みわたすかぎりの山の地表を覆い尽くしている見事な棚田や段々畑の風景は、こうした再配置の行為を小さな単位で反復し、平場の面積を最大化した状態に他ならない[写真は1964撮影/神山町郷土資料館蔵]。

 ちなみにこの地域では近世まで人々は山のかなり高い位置に屋敷を構えていた。つまり棚田や段畑とともに斜面に暮らした。それが近代の治水・道路建設や学校等の社会インフラの配置に伴って低地に下り、凝集するようになったという。

agawa_jingi この写真は同じ場所の現在の姿。かつて、こうした中山間地域の畑は大半が自給用のイモやムギをつくっていたが、戦後は高所に建材用樹種(杉・檜)、中腹以下には果樹(梅・スダチ等)が、競うように植えられていった。工作者と環境との関係に、貨幣と市場が割って入り、そうして段畑の先行形態(F)とその利用(S)の組み合わせが書き換えられることになった。

 植林された山は水を失うという。低地への家屋の移動も促される。他方で教育・就業環境も激変して、息子・娘たちが町外・県外へ出ていくのも普通になった。

 そして今や、果樹・林業(S)は商売になりにくいため耕作や施業の放棄が増え、それゆえ先人(工作者)がつくり維持してきた段畑(F)も崩壊が進みつつある。近代というプロセスの凄まじさを考えざるをえない。

 先走りすぎた。上に書いたことが事前に分かっていたわけではない。以下ではスタジオの実際の進行に沿って諸々ノートし、備忘録としたい。

まずは8月29日(月)にプレゼミ実施。課題図書は下記のとおり。

[A] テクトニクス×機能・・・建築の躯体・部位が何らかの機能(生産・環境制御etc)をそなえる
 -後藤治ほか『食と建築土木』(LIXIL出版、2013)
 -安藤 邦廣『小屋と倉 干す・仕舞う・守る 木組みのかたち』(建築資料研究社、2010)
[B] テクトニクス×構成・・・テクトニクスが空間の分節や拡がりの編成と連関する
 -山本学治『造型と構造と』(SD選書244、鹿島出版会、2007)
 -山本学治『素材と造形の歴史』(SD選書009、鹿島出版会、1966)
[C]テクトニクス×類型・・・テクトニクスのいくつかの類型とその複合
 -太田邦夫『工匠たちの技と知恵:世界の住まいにみる』(学芸出版社、2007)
[D]テクトニクス×時間・・・地形・構築物などの先行形態と次なる介入とのテクトニックな関係性
 -中谷礼仁宮本佳明ほか 特集「先行デザイン宣言」(『10+1』no.37、2004年12月)

 3〜4人のグループを自由につくり、上記A〜Dのいずれかを選んでレジュメを切り発表。加えて、読書から得られた知見(論理)を応用するために参考となる現代建築の事例を選んで紹介せよ、という難題。多くの班が現代建築の潮流にとらわれて課題図書を置き去りに。これ、たぶん出題が悪かった。むしろヴァナキュラーなテクトニクスにみられる論理をなぞる(復習する)ことができる現代建築を探せ、という感じにすべきだったかな(そもそもよい事例がほんとに少ないとは福島加津也さんの言)。

 実はこのプレゼミ、何とゲスト講師に福島加津也さんをお招きし、馬場兼伸さんも参加されて、なかなかハイブロウ議論になった。福島さんは瀝青会の「〈日本の民家〉再訪」の活動を紹介してくださったが、ほとんど狭義のテクトニクスにふれなかったのが印象的。むしろその建物にまつわる社会的・生産的・信仰的な意味を強調し、いわゆる構法・技術はそれらとの関連において建築の「建築性」あるいは「世界性」「象徴性」のようなものを組み立てる道具立てにすぎないのだと強調されたように思う。というわけで夜の飲み会はそのあたりに議論が集中。(福島さんは美学的判断の重要性を説く。たしかに構法的・技術的判断だけを合理的に走らせる、などということはそもそもあえりない。かといって、建築の多元性を、分裂症的・コラージュ的に肯定するやり方もまた福島さんの良しとするところではない。何らかの統合性がなくてはならない。そこに、広義のテクトニクス、あるいは「テクトニックであらんとすること」がアクチュアルな意味を持ってくるのではなかろうか)

 現地合宿は9月4日(日)スタート。サテライトオフィス・コンプレクスに明大理工学部サテライトオフィスを開所し、宿泊先である上分川又の民宿「田中屋」さんにて夕食。以後一週間、合宿最終日前夜のオロナミンCの差し入れに至るまで、田中屋さんは我々のスケジュールの一切をお見通しなのであった。ありがたや(まじめに神山合宿ならイチオシの宿)。

 2日目の9月5日(月)はそぼふる雨のなか神山町内見学ツアー。対象地である阿川の神木(じんぎ)集落もざっと確認。午後は真田純子先生(東京工業大学)と金子玲大さん(上勝町地域おこし協力隊/石積み学校)にレクチャーをしていただく。今回のテーマは、建築分野の人間には(なぜか)とんと馴染みのない石積みなもんだから、謙虚にその道のプロに学ばせていただこうというわけ。真田先生は土木分野で日本の近代都市計画史の研究をなさっているが、実は徳島大学におられた時期に石積みの修復と技能継承の活動をやってこられた(今もやっている)。真田先生は『棚田・段畑の石積み:石積み修復の基礎』という自作テキスト(よい!)に沿って講義をしてくださり、お弟子さんの金子さんは実測方法の講義と野外での実地講習をしてくださった。お二人のおかげで、我々の石積み観察の解像度は700%ほども高まり、翌日以降は自分たちの観察と聞き取りだけでもかなり相乗的に知見をふくらませていくことができるようになったのであった。ありがとうございました!!

 9月6日(火)は、対象エリアの石積みの実測と、加えて3棟の民家の実測を行った。田畑の持主や民家にお住まいの方々への連絡は、神山町役場の高橋成文さんが東京営業から帰られたばかりなのにフットワーク軽く対応してくださる。ありがたい。以後最終日まで、我々の実習に(普通ではあえりない)機動性を与えてくださったのは他ならぬ高橋さんであった。学生たちはといえば、やはり建物に向き合って実測するのは楽しいらしい。ただしモノの組み立てをその基本的な理屈を考えながら見る、測る、描く、という作業がちゃんとできる人は存外少ない。となれば門脇先生の出番というわけで、どこでも滔々たる講義と推理がはじまるのであった。

 9月7日(水)午前中も実測を継続。午後はNPOグリーンバレー理事長・大南信也さんのレクチャーと質疑応答、つづいて神山町長の後藤正和さんにもレクチャーをしていただいた。大南さんからは一連の「神山プロジェクト」の組み立てと行動原理、そして後藤町長からは神山の産業や歴史について学んだ。このあたりで門脇先生は東京帰還。学生たちはこの日までに「えんがわオフィス」「WEEK神山」はじめ、いくつかのサテライトオフィスや移住者のショップなども見学させていただいていた。こうしたインプットを踏まえて、夜はいよいよ提案すべきプログラム(つまり新たなF-S結合をつくる「S」の提案)についてのファーストMTG

 9月8日(木)。石積みの実測はこの日の15時くらいまでで完了。神木集落あたりでは明大の学生が何やら石積みの測量をしているらしいというのはすっかり知れ渡っている。V字谷に男子学生どもの奇声が響き渡る。あとで聞くとスズメバチだという(被害なくてよかった・・)。皆さんご苦労さん。そしてこの日、学生たちが実測するフィールドにふらりと寄ってきたある男性が、我々の眼前にひろがる環境のテクトニックな成り立ちについて決定的に重要かつ高解像度の情報を提供してくださったのだが、このあたりは伊藤さんのFBを参照されたい。あの話は興奮したねえ。

 伊藤暁Facebook 9月8日の記事
 伊藤暁Facebookアルバム「明治大学神山スタジオ2016」

 夜のMTGでは、3班がそれぞれプログラム提案=設計要項の作成に取り組む。2班は方向性が見えた。1班は昏迷MTGには高橋成文さんにも参加いただいたが、高橋さんがあまりに的確に助言くださるのでもう次第に頭が上がらなくなる。なおかつ、方向性見えた2班には、ならば明日はあの地へ行くがよい、あの者に会うがよい、と賢者の導き(というかその筋に連絡してセットしてくださる)。

 9月9日(金)プログラム提案=設計要項作成の作業を継続。C班は鬼籠野の神山町郷土資料館へ取材。ここが思いのほかと言っては失礼なほど面白く、ヒント満載なのであった。昼には川又郵便局長の塩本さんが改修中のご自宅(昭和初期)を見せてくだった(これは知的ヨダレ止まらぬ逸品であった!)。A班は夕方、神山フードハブ・プロジェクトの白桃薫さんのお話をうかがい、勉強させていただき、自分たちの方向性を定める。賢者ありがたや。B班は昏迷深まり・・・いや何とか行けそうだ。

 9月10日(土)はサテライトにて1週間の合宿の報告会(スタジオ中間発表会)を行って12:30頃全日程終了。写真(↓)は阿波踊りのポーズ。中央のホンモノが高橋さん。

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 いやはや、学生たちには折りにふれ吐露していたとおり、このスタジオ、教員もどこへ進むか分からないまま、フィールドを共有し、一緒に競うように学んでいるつもりだったが、多くの方々のご協力とご教示のおかげで対象地の広い意味でのテクトニックな成り立ちを知ることができ、学生たちもよく頑張り、まずまずリアリティある提案(設計要項)ができてきた。続く東京編では、これまで実測+要項作成を行ってきた班のメンバーはそのまま維持し、他の班がつくった要項に対して具体的な建築設計を進めていくことになる。というわけでまだまだ続くよ。4単位とは思えぬタフな授業。多方面に迷惑をおかけしています!(感謝の意) 学生諸君、プレゼミの本、福島さんの言葉を思い出そう。12月には昨年同様、神山町での成果発表会やるよ。

 さて、これ(↓)が今回、神木集落を対象地に選ぶ理由となったブツ。わずかな地形の特徴によってつくられる、「風玉」と呼ばれる極度に強い風の通り道となる5〜6軒の家だけが、こうした石積みの自立壁によって家を守ってきたのだという(伊藤さんのFB参照)。写真のケースでもこのL字の壁に守られる位置にもともと屋敷があったそうだ。

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↓同じ壁を、川を挟んで対岸から見た立面。壁の向こう、中腹までは果樹園、それ以上は杉林(ほぼ放棄)。これは比較的新しい風景であり、1960年頃に遡ればほとんど尾根に至るまで自給的な段畑だった。

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↓下の写真も暴風石垣だが、やはり家がなくなっている(これは2015年12月撮影)。

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 M1およびM2諸君の報告によると、一般的な観察結果としては、田畑の奥行きは概して小さく、石積みの高さは2m内外で大きなばらつきはないという。つまり、石積みの労力と強度から石積み高さに一定の目安があり、そこから平面奥行きが決められていると考えられる。対して屋敷の場合は一定の奥行き(広さ)が必要なので、逆に石積みが5〜6mと非常に高くなることがある。つまり田畑とは逆に、平面から高さが決まっているのだろう。加えて、それらとはまったく異質なこの防風の石積みがあって、これは民家の軒高と風の向きが形態を決めている。いや、ここを選んだのは正解だったなあ。上一宮大粟神社のお導きじゃ。

 ちなみに大粟神社神山町神領字西上角)のご祭神は、町長が紹介してくださったとおり大宜都比売命オオゲツヒメノミコト)。『古事記』に次のようにある。《高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオ食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。》(wikipediaより)・・これもまた、古代に起きた資材再配置の物語なのであろう。

2016/09/04

村々の風景の世界性をめぐって 20160831-0903 綾里調査

 岩手県大船渡市三陸町の綾里という地区はいくつもの浜からなるのですが、そのうち「砂子浜」に、この綾里というエリアの草分け(中世)の系譜を継ぐ家があり、今回わたしは学生たちとこの家にマル2日お世話になりました。屋敷・建物の実測と聞き取りです。

 屋号を「砂子浜大家(スナゴハマオオヤ)」といいます。17世紀末には製塩から鰯漁の経営へと転じ、18世紀中盤には廻船業へと進出して、綾里気仙沼銚子江戸という交易ネットワークの産地側の拠点として隆盛を誇りました。姓は千田。歴史研究者らの努力により「千田家文書」として整備されつつある膨大な文書は、近世史では知られる存在です。私もそれを活用した2〜3の論文を拝読しました。

 現在の屋敷には、母屋と土蔵と納屋(綾里ではナガヤと称する)があり、庭園や露地や井戸があり、さらに「お御堂」と称する持仏堂があります。(千田家の系譜にかかる資料から推すかぎり)主だった建物はおそらく19世紀初頭かと思われます。いずれも昭和戦前期にかなり手が入っていますが。

R9288626 砂子浜大家の名にふさわしく、屋敷は堂々たるものでした。砂子浜は、こじんまりとした浜から急峻に立ち上がる斜面に展開する小集落ですが、砂子浜大家は最も海に近いといってもよい切り立ったテラス上にあり、海には背を向け、山側に回りこむアプローチで家のオモテに至ります。パルテノンのようです。でも、集落は「大家」より高いところにある。

 要するにザシキなどの公式な空間(オモテ)が地形的にはウラにあって集落を向き、私的な生活空間(ウラ)が地形的にはオモテにあって海を向くわけです(これをあえて反転というのは恣意にすぎませんし、浜にオモテを向けないのは海風への配慮からして当然ともいえるわけですが)。面白いのは、このウラの生活空間の中央に「カッテ」と称する、通常ならば物置か隠居の寝間にでも当てられる部屋があるのですが、この家ではそのカッテが、当主がその座を構え、家の者たちがおうかがいを立てに来る、いわば司令塔のような部屋であったことです。この家ではカッテこそが海へと視界を開く唯一の部屋であったことが、製塩・漁業・廻船を経営してきたこの家にとって何か意味があるのだと考えてみたい誘惑にかられます。

 この家は、斜面に展開する集落の家々へと社会的なオモテを向け、反対に家の内部秩序の中心を海に向け、その海を通じて江戸とつながる流通経済を動かしていたと見立てられるわけです。

R9288694 少し斜面を上ったところ、ちょうど砂子浜の集落がほぼ終わるその背面の山になるわけですが、そこにこの家の墓地があります。この墓には度肝を抜かれました。

 斜面に沿って上昇する軸線上に、前後ふたつ、大きな石を積んでつくった正方形の基壇があるのですが、前方の基壇中央には角柱の墓石が立ち、うしろの基壇中央には逆に丸い穴が掘り込まれています。この穴は近世から戦後すぐの頃まで使われてきた火葬場でした。しかも、ふたつの基壇の縁には大樹がそびえ立ちます。基壇の外ではなく、内側の縁に、です。手前の基壇は前方左右に、奥の基壇は(正面をのぞく)三方にぐるりと列状に。構築的な石積みの、その上に、墓碑をはるかにはるかにしのぐ大きさの、ぐねぐねと枝をくねらせながら広げた大樹の生命感が立ち上がるその光景には、たんなるモニュメンタリティを超えた、有機性と一体化された形式性とでもいうべき世界観のようなものを思わずにはいられませんでした。

 現在この墓地は鬱蒼とした雑木林に包まれていますが、かつては見渡すかぎり田畑であったそうです。手入れの行き届いた棚状の農地のまんなかで、この墓地は異様な力を発散していたに違いありません。

 海と浜、屋敷のオモテとウラ、集落と農地、そして墓地、山林・・といった風景の全体にわたって、ある種の論理が貫いていたであろうことを、考えなければならないのでしょう。

 綾里の浜々には近世を通じて集落が育っていきます。明治津波はその多くを流し、昭和の津波では国家−地方の行政的枠組みのなかで集落の風景が再編され、高度成長期を迎え、そして東日本大震災がありました。3年前から縁あって綾里に入らせていただきましたが、多くの方々にお世話になりながら(今年は砂子浜大家=千田家のご当主に、本当によくしていただきました)、屋敷や建物を実測し、お話をうかがい、史資料にあたり、ようやく、そこに流れる悠かな時間のダイナミクスが少しだけつかめてきた気がします。

2016/08/06

布野修司連続インタビュー第1回「1968-69年:東大入学と全共闘運動への共振」公開。

こんなサイトがはじまりました(というか勝手につくりました)。布野修司インタビュー 戦後日本と世界の往還

すでに3回ご自宅を訪ねてインタビューをしてますが、ついに第1回を公開。たぶん全部で20回くらいやります。楽しい持久戦。きっと戦後建築史、あるいは広く建築議論するうえで欠かせない事実と論点が次々に語られるはずです。しかし、布野修司という一人の「少年」がこの世界を真面目に面白がってきたのだということが何よりも生き生きと伝わることでしょう。ひそかにご期待ください。

funo_interview

次回は8月末ないし9月初の公開を目指しています。

2016/04/30

[復刻]AAR Sep.2011, 台湾の都市発生学(聞き手:松島潤平+藤村龍至)

この記事、掲載サイトが事実上消滅してしまったので見れなくなっていました。松島さん、藤村さんの許諾をいただいたのでこの場であらためて公開させていただきます(おかしなところには手を入れました)。

AAR(Art and Architectural Review, Sep.,2011 special issue: Asian Global Cities)

台湾の「都市発生学」青井哲人(聞き手:松島潤平+藤村龍至

建築史家の青井哲人氏は、京都大学布野修司研究室を経てアジア都市史・住居史研究や植民都市・建築研究に携わっており、特に台湾における建築・都市の近現代の成り立ちと展開について詳細な研究を行っている。今回のインタビューでは、アノニマス台湾建築の特徴を教授いただきながら、台湾独特の都市構成とそのグローバルな展開について、都市発生学の見地から様々なお話をうかがった。


列壁都市論 −Wall to Wall Architecture−

松島|まずは台湾建築・都市のタイポロジカルな特徴について教えていただけますでしょうか。

青井|現在も続いている台湾の都市の基本的なあり方として、「壁でできた都市」という点に注目して色々と調査を行っています。都市の特質を「列壁都市」、建築の特質を英語で「Wall to Wall Architecture」と造語で呼んでいます。

tissue_wutiaogang台湾は日本とずいぶん違って、現在も市街地の大部分は町屋型の建物で出来ているんですね。とにかくこの形式の根強いことが台湾の都市の特徴だと思います。町屋ひとつの間口を指して「一間」と数えるのですが、間口サイズは古いもので4,5m、新しいもので5,6mくらい、中庭を挟んで奥まで深く展開していて、平入りの屋根を連ねて延々と並んでいます。奥行は標準的には20-30m、長いものになると100mを超えるものもあります。必ずホールがあって廊下があって部屋があり、中庭を挟んで繰り返し、という形式です。構造は大体木造で、壁はレンガ、屋根は瓦葺です。狭い道を巡るとところどころ広場があって、広場があると廟(びょう)がある。街並は大体そんな構成になっています。

現代の町屋ディベロッパーがたとえば十間などの連棟形式で一気に建てます。このスタイルは1960年代から都市開発の典型としてディベロッパーの基本ツールになっています。郊外でも国道沿いにこれから市街化していくぞっていうところはディベロッパーが安く土地を買って十間とか二十間単位で建てていくんですね。建てたその後は一間単位が持ち主によって様々に更新されていくわけです。

ting_a_kahこれらの町屋はどれも「亭仔脚(ていしきゃく)」というピロティ的な空間を前面道路沿いに備えています。私有地ですが、通行人が往来出来るように解放されていて通り抜けができるようになっているわけです。これは本来、伝統的には無かった形式なんですが、清朝の末期に派遣された官僚台北で実験的にやり始めたことを、日本の植民地政府が引き継いで法制化したものです。市街地の指定地域では規定の奥行と高さの亭仔脚を設けることを義務付ける形態規制が為されて、それが戦後もそのまま受け継がれて現在まで続いています。

1910年くらいまでは平屋、1920年代にはレンガ造で二層のものが増え、1930年代からだんだんとモダンスタイルになってきて三層が出現し、第二次大戦終戦後には四層が一般化します。今でもディベロッパーが作る連棟式町屋の標準はだいたい四層くらいです。プランの原理は基本的に以前と変わらず垂直に面積を増やしながら積み重なっていくので、四層の中庭というと本当にライトウェルという感じで、ズドンと抜ける空間になっています。

「透天」というのは天まで通るという意味で、土地に乗る建物の下から上まで全部をひとりのオーナーが所有する。平面方向は間口ごとに壁で仕切られており、それが所有境界そのものになっています。

藤村|壁は二重になっているのでしょうか。

青井|壁は原則的に1枚の共有壁になります。[補注:開発の単位が違うものが接するところは壁は2枚になるが、接着しているので事実上は1枚。近年では建て替え時に隙間を空けるのが一般的になりつつある。]

松島|建物は四層止まりになるから台湾の都市のスカイラインは低めなんですね。

青井|ビジネス街には高層・超高層が集中して建ちますが、基本的にそれ以外のところは二層〜五層くらいの建物がずっと連続していきますね。

藤村|更に大きなまとまりとして、街区レベルではどのような特徴が見られますか。

青井|基本的には市街地であれば街区は町屋で埋められます。ここではちょっと歴史的な特徴を紹介しましょう。

changhua_dualism台湾中部の彰化という街で、街区ブロックのなかを走る路地が、街区を超えてつながり、ネットワークをなしています。なぜこんなことが起こるのかと最初は不思議に思ったんですけれど、どうっていうことはなくて、本来それが古い道で元々これに町屋が張り付いていた。そこに日本植民地政府が上から重ねるように都市計画をしたんですね。これが市区改正というものですが、計画内容は日本のそれと全然違っています。

changhua_fragmentもともと日本の都市は中世京都以降、街を作っていく計画のシステムが確立していき、基盤整備と都市計画がはっきりとしたパタンを持っていて、江戸でもそういった基本的なパタンがある。東京の市区改正は基本的にはそれを拡幅する形で行われたんですが、台湾の場合は自然発生的に道が出来ては家が立ち並んで廟が建って --- といった状態だったので植民地官僚としてはとてもそれを拡幅してもまともな都市基盤など出来ないと考えたのではないかと思います。それで既存の街路網とはまったく無関係なグリッドをかぶせた。しかし、だからこそ、かつての街路網は「網」としての特性さえ残しているのです。暴力的な改造が、むしろ先行する形態をよく残すという関係に気づいたときはちょっと驚きました。

しかしこういう改造が行われれば、商店は新しい計画道路に面する土地へ移っていくので、都市組織の餡(アン)と皮(カワ)がプログラムレベルでは入れ替わってしまい、内側は居住区として寂れていく、というか安定状態になって残っていくという構図になっています。寺廟も街区の内側にたくさん残されます。破壊されるものに無関心、残るものにも無関心というような改造をしているんですね。最近もほとんど同じことをしていて、上から新たな計画を重ね、切り裂いていくことで都市の組織が出来上がっています。

以前、新しい道路で切断された箇所が具体的に建築レベルでどう解決されているのか、サンプルを集めるサーベイを学生が中心となって台南で行いました。つまり台南も彰化と同じように改造されたわけです。言ってみれば、土地-建物が道路によって切断されたとき、そこにどう継ぎ当て(パッチ)をしているか。切断への反応の様式みたいなものを調べたんですね。たとえば斜めにカットされた町屋では、バルコニーを三角形にしてそのズレを吸収している。どうってことないですが、そういうことに気づくと、この種の「鋭角町屋」は無数に見つかります。それから、道路によって土地が削られたけれども法規的に亭仔脚を取らなければいけないので一階がなくなってしまって二階へ梯子で登る状態のもの、使わなくなった路地をふさいで建てたマイクロ町屋。一階部分が亭仔脚しかないので「純粋亭仔脚」と学生たちは名づけましたが、これも意外にたくさんある。他にもいくつかの反応パタンが見られましたが、どんな切断のされ方をしても、町屋形式を実現することを諦めることはほとんどない。残骸のような土地を町屋に戻すための局地的な解決の痕跡が集積して、都市組織はみごとに再編され、縫合されています。そういう都市組織のダイナミズムのなかでの安定性(平衡)を見ようとしたサーヴェイです。

void_t_lところで町屋は隙間なく建っているので、ひとつ解体されるとそこだけセルの抜けたような風景になります。両側の壁は隣戸との共有癖なので絶対残る。いってみれば間口約5m、奥行き30m程度の立体的なインフラが残った状態になるんですね。そうすると次に行われる建築行為というのは、この立体インフラの中を充填することです。これが日本の都市との決定的な違いで、そもそも隣とのあいだに隙間がないので、基本的に建築は「地面とその上物」という捉え方でなくて、「地面+共有壁」がインフラとして常に残ってその間を充填する、ある種「造作」が建築行為そのものと考えられているのではないかと思うんですね。このために都市組織というのもどこで切断されようとも基本的な原理は保ったまま、パッチをしてみたり、角度を調整してみたり、90度方向転換してみたり、ということで柔軟に対応していくということになります。しかし、立体インフラという意味での共有壁が強固な持続性を持つことで、いわばデザインにあたって考慮しなければならない条件が非常に縮約されていることも重要です。

藤村|建築という単位が都市をつくる、という概念ではないんですね。

青井|日本では「都市型建築を確立しなければいけない」ということがしきりに言われますが、台湾においてはそもそも建物という独立した形の上物ユニットを並べていく発想が全く無い。我々はどうも都市を考える際に「建築」にとらわれすぎているような気がします。台湾都市は、コルビュジエの「これからの建築は機能というものを内側から吹きこんであげて内側から膨らんだものが建築の外形を作るんだ」というシャボン玉建築の概念が全く無意味な世界ですね。コーリン・ロウが批判しているフリー・スタンディング・オブジェクトのような発想は全く無い。

walls既成市街地では稀なことですが、たまたま再開発か何かで面的に廃墟になってしまった地区を見たことがあります。屋根や床が崩れ落ちて何枚もの共有壁が静かに姿を現していました。その「造作部分が抜けた5mピッチの壁が道路に直交して並んでいる」という姿が、台湾都市の原イメージそのものなのではないかとそのとき思いました。それを「列壁都市」と言っているわけです。「Wall to Wall」というのはマックス・ウェーバーの『都市の本質』(The Nature of the City, 1921)という本にそういう言葉が出てくると教えてくれた人がいて、まあウェーバーを引くまでもないありふれた表現だとは思うのですが、「都市は家が密集していて、家はWall to Wall、壁を接して作られている」とありました。これをちょっと読み替えて、「都市では家は“壁から壁までの間に”作られる」、「Wall to Wallに建築が作られる」と考えて、フリースタンディングな建築とは違う「Wall to Wall Architecture」という言葉で都市〜建築を捉えてみようと考えました。

tectonicsこの関係は、さらに構法のレベルで補強されているようにも思います。K.クラプトンの『テクトニック・カルチャー』にならっていえば、伝統的な町屋の場合、壁はステレオトミクス(切石組積術)、造作的な部分は木で出来ていて軸組架構、つまりテクトニクス(結構術)になっている。ステレオトミクス的な壁がインフラとして残り続ける役割をしていて、柔軟に組み替えられる部分がテクトニクス的にできている、と構法的に考えると説明しやすいのではないかと思っています。


都市発生学の構想

青井|台湾の都市を調べていくなかで得た考え方ですが、台湾に限らず東京も、願わくばヨーロッパも含めて「都市発生学」という捉え方で分析していきたいと考えています。ある時間軸の中で都市組織を考える、つまり更新していく時間的なプロセスのなかに構法の問題や土地所有の問題を入れ込んだ形で、都市がどういう振る舞いをするか。都市は自らの何を編集し、何を保存しながら生き続け、変容していくのか。そんなことを実証的かつ理論的に考えたいと思っています。生物学における発生学のように、モノが持っている秩序が時間の中でどう展開して形を生成していくのかを知りたい。何らかの形態秩序がうまく咬み合っていれば都市組織は生命のように柔軟に生き続けられるはずです。そういう観点サーベイしていきたいと考えています。

一般的には都市の調査や集落の調査をして論文を書くと、スタティックな空間構成の分析をモノグラフとして書いたものになりがちで、歴史的に見ていく場合も、ある時期にはこうだった、この時期にはこうだった、と輪切りの時間になってしまうのですが、そうではなくて、「ある時点でこうだったものが微細な時間の中でどう動いていくのか」という連続的展開(デベロップメント)を考えるのが大事だと思っています。生物学では「発生」(デベロップメント)というと、個体が生まれてからたどる構造変化の全プロセスを言うんですが、都市もこのように発生学的に捉えて、モノと時の組成みたいものを見出さないと都市への建築的介入の基礎理論ができないのではないかと考えています。

生物学だと例えば微生物がどう増殖していくかという実験をする場合、それだけを取り出してシャーレの中に置いて理想的な状態にして挙動を観察していくわけですが、都市の場合、例えば戦争でゼロになったとか、台湾の都市であれば市区改正バサッと切断されたとか、極端な出来事が起こった時点を選んで、それに対して都市がどう動いていったかを歴史的に復元しながら考えていくことは出来るわけで、それをシャーレの中の実験と同じように考えてみようということなんですね。生物学ではガラスの中でということで「イン・ビトロ」と言いますが、それにならえば「イン・ビトロな都市史研究」のようなことが出来ないか思っています。

東京の場合だと関東大震災後の復興について田中傑さんが非常に緻密な研究をしていたり、初田香成さんは闇市の研究で第二次世界大戦焼け野原だった東京から何がわき起こって更新されながら現在に至っているのかを調べていますが、それもイン・ビトロな、微分的な組成の転換みたいなレベルの研究だと思います。さきほどからお話しているのもすべてイン・ビトロ的な台湾都市の観察のつもりです。

もうひとつ、最近考えていかなきゃと思っているのは、「都市は学習する」というテーマです。日本だと区画整理や市街地再開発法というのがあって、もともと持っている権利を違う土地や床に変換できる制度が非常に発達しているんですが、台湾の場合は植民地支配時代の50年間、植民地政権の権力が強いために土地を政府へ差し出させることが出来たので、ややこしい権利変換の手続きを取らずに都市改造が出来たんですね。都市組織が切られると、切られた分がただ無くなる。そして切られた人が個別に応答する。だから権利変換の経験学習がほとんどないかわりに、パッチを当てたり、局所的な修正の作法を集合的に学習してきた。これも列壁都市の原理を保存してきた要因でしょうね。なぜならこういうやり方を続けるかぎり、構造そのものは意識化しないで済むからです。このことがある意味、それぞれの土地所有者のできることの選択肢を狭めてきたわけで、それがマクロで見ると都市組織の安定性というものを確保してきているとも考えられる。

例えば日本の江戸京都ではかつては列壁都市的原理があったと言えるのだろうか、と考えたとき、実際に日本の町家は木造の軸組で全部出来ていて壁が共有されることはありません。隙間がほとんど無いというケースは多いんですけれども、壁は必ず二つ立っているんですね。明治期になると民法の外壁後退義務が出来て、隙間をとることが常識として学習されることで都市組織の安定性が崩壊してきた、という歴史を考えなければいけません。ほかにもヨーロッパの都市は中世以来の都市核はすごく安定性がありますよね。むしろ台湾のように更新すら起こりませんが、戦争で破壊されて再生された都市はドイツにも東欧諸国にもありますし、フランスではペレが全部計画したルアーブルの例があったりします。そういったところではどのように都市を見ればいいのか。うちの研究室から留学生を送りながら都市発生学的に都市を見てみようと考えています。

松島|権利の等価変換が当たり前の我々にとってみると、台湾不動産動産の仕組みがどう成立しているのか、想像が及びません。

青井|そうですね、戦災復興とか都市再組織化の国際比較みたいなものができると基礎的な資料ができるのではないかと思っていますが、不動産の観念や制度、所有や賃借というのは、売買や保証、変換といった「動き」が起きるときに破綻が生じないように作られているはずですよね。つまりスタティックな状態では制度はあまり問題にならないはずで、むしろ何かが動くときに機能するように制度って設計されているはずだし、その背後の思想にダイナミクスが反映されているはずです。だから不動産の考え方とか制度を丹念に見ていくことが都市発生学的な見方の基本的な部分になるはずです。

台湾の場合だと民法上どう規定されているか、例えば一間分だけ壊すという場合、当然共有する壁は壊してはいけないという民法上の規定はあるはずですし、積み増しも隣人と協議して近隣関係の問題を処理しているはずです。それからそもそもの開発の方法については向こうのディベロッパーの戦略を調べればよいはずです。それが台湾の都市空間のマジョリティがどう出来ているかを知るうえで一番手っ取り早いだろうと思っています。

藤村|東京をイン・ビトロ的に見る場合、どのようなところに着目されていますか。

青井|まずは実際の都市の歩みのなかで行われてきた権利返還のドキュメント、空間やモノが組み替えられるドキュメントを豊富化することが大事だと思います。一例ですが、曳屋(ひきや)はとても面白いですね。都市が動くだけじゃなくて建物も結構動かせるんですよね。関東大震災復興の時は建ぺい率を通常よりより少し小さく設定してバラックを建てさせてるんですよ。区画整理の計画が決定したあと、それを曳屋で動かして換地していくんですね。藤森照信さんや田中傑さんも書いてますけど一年半で二十万棟を引越しさせたらしい。そのときのバラックは、形式としては町屋と一緒なんですけれど、簡単な木造で軸も細くてペラペラ。まず「自分たちで勝手に作れ」と誘導しておいて、区画整理ができたらそれを動かして、「区画整理が済んだら各自で更新してください、その時は通常の法律を遵守してください」と進めていくんですね。曳屋という、一般にはインフォーマルと捉えられがちな技術を組み込みながら政策決定がされてきたことは面白い。

別の例ですが、駅施設自体がめちゃくちゃ立体化して複雑化するというのが日本の都市の大きな特徴ですね。都市の中に縦横無尽に線路が入っていって駅を核に都市が膨張して、駅自体は商業施設をたくさん積んで複合していく、というのはグローバルに見ても特徴的だと思うんですが、そういったところもどのようなシステムで出来ているのかを発生学的に調べてみようと思っています。


台湾独特の都市組織の安定性

藤村|台湾の都市空間の構成・組織が安定しているひとつに、ディベロッパーが用意している透天形式も関係しているのでしょうか。

toutiancuo_taipei青井|もちろんそうですが、ディベロッパーがそれをツール化したのは戦後で、もともと漢人には透天的に所有するのが当然という観念が伝統的にあるんですね。自分の上に人が住んでいるのは好まない。加えて、不動産の所有に対するこだわりが非常に強いです。その背景の一つには相続の問題があって、息子の数だけ分けてあげないといけないというのは未だに根強いんですね。町屋敷地と建物を四層くらい持っていれば下の二層を長男にあげて上の二層を次男に上げるとか、それでも足りない場合はどこかで買ってあげるとか。日本と違って男子に均等に分ける。それとたまたま植民地期に技術的な条件が変わり、かつ土地のポテンシャルが上がったので、二層、三層、とだんだん積層が進んで、それがディベロッパーの基本ツールとして確立しちゃったと思うんですね。

松島|日本も不動産欲望が強いと思いますが「自由に変換できるからこその欲望」と、台湾の「守ることの欲望」と、欲望の色合いが違うんでしょうね。

藤村|文化的な形式が残っていることと、計画がものすごく強く働いたという二点が大きいということでしょうか。

青井|そうでしょうね、植民地支配を受けたことが非常に大きいと思います。日本国内のように地主の権利を尊重しないと議会を運営できない状態であれば、まったく違う状況になったと思いますね。植民地はそうでなかった。

藤村|宮本佳明さんは区画整理をやめて市区改正に戻せば街並は保存されるから、そちらのほうが良いとおっしゃられていました。しかし聞けば聞くほど、台湾は日本人建築家の考える都市論の聖地のようなところですね。

青井|ところが台湾建築家台湾都市が大嫌い。だって造作しかできないんですから(笑)。日本に来ると、日本人建築家が羨ましいといいますね。

藤村|日本は1920年代に震災復興で大々的に区画整理が行われてきて、60年代には再開発が行われるようになりましたよね。経済成長していくと高度利用が出てきてタイポロジーが変化していきますが、台湾の場合はそういう工業化や経済成長という時期を経て、どのような状況にあるのでしょう。

青井|当然ながら町屋で全部押し切るわけにいかなくなってきた状況が高度成長期以降出てきていて、政府官庁地区とかセントラルビジネス地区を見ていけば、大きな資本が町屋だった場所を買い占めてタワーを建てて公開空地を作っていたりします。そうなるとまったく列壁の街並が無くなることもありますが、タワーを建てても低層部のファサードに亭仔脚をつけたり、4層までは町屋に揃えてそこから上はセットバックして建てたり、と一見した街並を壊さない事例もあります。台北高雄や台中のビジネス地区は公開空地を取ったタワーがかなり増えていますね。それに旧市街地の中心ではここ十五年くらいのあいだに衰退と空洞化が進んでいて、空家率は上がってきていると思います。そういった意味でやはり都市組織は徐々に変わってきていると思いますが、それでも日本と比べるとかなりタイポロジーは安定していると思います。

松島|列壁都市においてまず懸念することは延焼だと思うのですが、そういう恐れはないのでしょうか。東京では家屋の隙間から環状線まで、延焼の防災性を考慮して都市のタイポロジーが作られているわけで、即物的に生成した都市が防災のためにタイポロジーを変化せざるを得ないという事件がこれまでに起こらなかったのは正直不思議でなりません。

藤村|そういう意味で日本の都市はなぜ構造が維持されないかというと、ひとつは経済成長で、もうひとつは防災性と言えますね。

青井|東京のように火事が広がったという話はあまり聞きませんね。一番大きな地震1935年の台中で起こった地震で、台中周辺市街地も相当やられたみたいですが、このときは鉄筋コンクリートが日本で普及していましたので、都市部ではレンガ造に鉄筋を入れたり鉄骨、RCで補強しなさいとか、亭仔脚を支えるフレームだけはRCでつくるとか、そういう規制が出来たようです。構成原理を守るために、より強化するやり方ですね。

藤村|都市建築レベルの話をお聞きましましたが、アイコニックな建築を作るような建築家というのは前に出にくい状況なのでしょうか。

青井|それはあると思います。運良くフリー・スタンディング・オブジェクトみたいなものが出来れば頑張るという感じでしょうか。あと、変な話ですが、高級タワーマンションのモデルルームはある意味では仮設の博覧会建築みたいな側面もあって、デコン風の派手なデザインを競い合う風潮がありますね。

藤村|日本で言うと丹下健三的な、国家を象徴するような建築の政治的な使い方はほとんどしないと。

青井|50年代とか60年代は国家プロジェクトがいくつかありますし、70年代には空港をはじめとするインフラ建設が推進されます(十大建設)。80年代には蒋介石のための慰霊モニュメントとして中正記念堂が建設される。国民党独裁体制下では基本的には中国北方風のデザインがドミナントです。バブル期には台湾ポストモダン・ヒストリシズムみたいな建物が流行しました。そのあたりで活躍したのが李祖原ですが、その後は台湾風から再び中華風の表現に変わっていったりと、表象レベルでのアイデンティティの模索は経済的・政治的状況を反映しているようです。しかし若手の建築家はむしろ比較的に現代の日本を見ている印象があります。

藤村|建築制度に対する民衆の要求みたいなものはあったでしょうか。いわゆる区画整理において、後藤新平台湾で出来て日本で出来なかったようなことがありますよね。台湾的な政治的前提が関係しているんでしょうか。

青井|よく分かりませんが、現在の状況は、独裁体制的なものを引きずりながらも大局的には大衆政治的な構造に移ってきたことは事実で、国民党政治家でも北京語台湾語も交えながら話さなければならない状況なんですよ。都市計画建築にとって良い話かはわかりませんが徐々に規制緩和は進んでいると思います。容積の問題や、最近問題になっているのは農地の転用の問題ですね。

藤村|政治的な状況はリベラルになってきたのに建築システムや都市空間はまだレガシーシステムとして残っているような感じですね。

青井|そうだと思います。不動産の所有に関することなどは歴史的な基盤があることなので政治が変わっても簡単には揺るがないかなと思います。大事なことは、台湾は日本や韓国と違って財閥の力が弱い、ということです。財閥系企業の戦略や状況によって社会が大きく変わるといったことは、少なくともこれまでは起きにくかった。町屋で都市が出来ている理由というのは、ひとつは誰でも小さな社長さんという家業型経済の持続力が強かったということにありますね。

藤村|それでは国際的競争力は弱くなりますよね。それを強化したり外資を受け入れようという動きはありますか。

青井|もちろんあります。工場やオフィスを誘致したシリコンバレー的な工業団地もあります。ただ、新興の小財閥企業みたいな組織は林立してきていますが、日本や韓国に比べればまだまだ弱いと思います。

藤村|財閥の弱さがある種の都市空間の安定性を作っているのですね。経済と政治による計画の強弱で台湾、日本、韓国、といったアジア諸国の状態を語ることが出来そうですね。