村々の風景の世界性をめぐって 20160831-0903 綾里調査

 岩手県大船渡市三陸町の綾里という地区はいくつもの浜からなるのですが、そのうち「砂子浜」に、この綾里というエリアの草分け(中世)の系譜を継ぐ家があり、今回わたしは学生たちとこの家にマル2日お世話になりました。屋敷・建物の実測と聞き取りです。
 屋号を「砂子浜大家(スナゴハマオオヤ)」といいます。17世紀末には製塩から鰯漁の経営へと転じ、18世紀中盤には廻船業へと進出して、綾里−気仙沼−銚子−江戸という交易ネットワークの産地側の拠点として隆盛を誇りました。姓は千田。歴史研究者らの努力により「千田家文書」として整備されつつある膨大な文書は、近世史では知られる存在です。私もそれを活用した2〜3の論文を拝読しました。
 現在の屋敷には、母屋と土蔵と納屋(綾里ではナガヤと称する)があり、庭園や露地や井戸があり、さらに「お御堂」と称する持仏堂があります。(千田家の系譜にかかる資料から推すかぎり)主だった建物はおそらく19世紀初頭かと思われます。いずれも昭和戦前期にかなり手が入っていますが。
R9288626 砂子浜大家の名にふさわしく、屋敷は堂々たるものでした。砂子浜は、こじんまりとした浜から急峻に立ち上がる斜面に展開する小集落ですが、砂子浜大家は最も海に近いといってもよい切り立ったテラス上にあり、海には背を向け、山側に回りこむアプローチで家のオモテに至ります。パルテノンのようです。でも、集落は「大家」より高いところにある。
 要するにザシキなどの公式な空間(オモテ)が地形的にはウラにあって集落を向き、私的な生活空間(ウラ)が地形的にはオモテにあって海を向くわけです(これをあえて反転というのは恣意にすぎませんし、浜にオモテを向けないのは海風への配慮からして当然ともいえるわけですが)。面白いのは、このウラの生活空間の中央に「カッテ」と称する、通常ならば物置か隠居の寝間にでも当てられる部屋があるのですが、この家ではそのカッテが、当主がその座を構え、家の者たちがおうかがいを立てに来る、いわば司令塔のような部屋であったことです。この家ではカッテこそが海へと視界を開く唯一の部屋であったことが、製塩・漁業・廻船を経営してきたこの家にとって何か意味があるのだと考えてみたい誘惑にかられます。
 この家は、斜面に展開する集落の家々へと社会的なオモテを向け、反対に家の内部秩序の中心を海に向け、その海を通じて江戸とつながる流通経済を動かしていたと見立てられるわけです。

R9288694 少し斜面を上ったところ、ちょうど砂子浜の集落がほぼ終わるその背面の山になるわけですが、そこにこの家の墓地があります。この墓には度肝を抜かれました。
 斜面に沿って上昇する軸線上に、前後ふたつ、大きな石を積んでつくった正方形の基壇があるのですが、前方の基壇中央には角柱の墓石が立ち、うしろの基壇中央には逆に丸い穴が掘り込まれています。この穴は近世から戦後すぐの頃まで使われてきた火葬場でした。しかも、ふたつの基壇の縁には大樹がそびえ立ちます。基壇の外ではなく、内側の縁に、です。手前の基壇は前方左右に、奥の基壇は(正面をのぞく)三方にぐるりと列状に。構築的な石積みの、その上に、墓碑をはるかにはるかにしのぐ大きさの、ぐねぐねと枝をくねらせながら広げた大樹の生命感が立ち上がるその光景には、たんなるモニュメンタリティを超えた、有機性と一体化された形式性とでもいうべき世界観のようなものを思わずにはいられませんでした。
 現在この墓地は鬱蒼とした雑木林に包まれていますが、かつては見渡すかぎり田畑であったそうです。手入れの行き届いた棚状の農地のまんなかで、この墓地は異様な力を発散していたに違いありません。

 海と浜、屋敷のオモテとウラ、集落と農地、そして墓地、山林・・といった風景の全体にわたって、ある種の論理が貫いていたであろうことを、考えなければならないのでしょう。

 綾里の浜々には近世を通じて集落が育っていきます。明治の津波はその多くを流し、昭和の津波では国家−地方の行政的枠組みのなかで集落の風景が再編され、高度成長期を迎え、そして東日本大震災がありました。3年前から縁あって綾里に入らせていただきましたが、多くの方々にお世話になりながら(今年は砂子浜大家=千田家のご当主に、本当によくしていただきました)、屋敷や建物を実測し、お話をうかがい、史資料にあたり、ようやく、そこに流れる悠かな時間のダイナミクスが少しだけつかめてきた気がします。