法政大学建築フォーラム「建築と都市と民主主義を考える」20160927〜1206

20160824HUAF2016flyer「民主主義」というレンズを通して建築と都市を捉え直してみよう、という講演シリーズ。時宜を得たテーマですね。コーディネータは橋本純さん。第1回の湯浅誠さん、第2回の僕はもう終わってしまいましたが、今後も面白そうな講演が続くので是非。
このシリーズ、学部3年生向けの授業として位置づけられているようですが、公開講座でもあって、学生・院生から教員・社会人まで大勢聴講されてます。ポスターには書かれていますが、法政の専任教員がディスカッションの相手役をつとめるかたちになっています。そうそう、終了後はワンコインパーティもありますよ。

左の画像、クリックで拡大(法政大のページ)。

法政大学建築フォーラム:「建築と都市と民主主義を考える」
モデレーター:橋本 純(編集者)

第1回  9月27日(火)湯浅 誠(社会活動家・法政大学教授)「都市はだれのものか--公共性について」
第2回 10月11日(火)青井哲人(建築史家・明治大学准教授)「「民主主義」を建築はいかに翻訳してきたか--戦後史の見直しから」
第3回 10月25日(火)吉良森子(建築家・神戸芸術工科大学客員教授)「今、ヨーロッパで起こっていること--社会的空間を形成する主体から考える」
第4回 11月8日(火)饗庭 伸(都市計画家・首都大学東京准教授)「超民主主義社会における縮小都市」
第5回 11月15日(火)青木 淳(建築家・東京藝術大学客員教授)「建築の都市性について」
第6回 11月22日(火)内藤 廣(建築家・東京大学名誉教授)「3.11以後の日本社会と都市と建築の行方」
第7回 12月6日(火)水野和夫(経済学者・法政大学教授)「ポスト資本主義社会のイメージ」

 僕は「「民主主義」を建築はいかに翻訳してきたか    戦後史の見直しから」と題して話をしました。45年〜50年頃の文学・建築などでの文化運動(民主人民戦線)、50年代の民衆論・伝統論の構図、CIAM批判から出てくる個と全体の問題、それらの延長上に展開する60年代、そして70年前後のパラダイム・シフト、近年の50-60年代回顧ブームと70年代的問題設定の広範な微温的回帰といったところでしょうか。
 「時宜を得たテーマですね」なんて書きましたが、正直いうと、僕は「民主主義」×「建築」などという厄介なお題について、学部3年生からプロまでを含む聴衆に向けて60分で話せ、などという無理難題をいただいて頭を抱えました(抱えないはずがない)。そもそも「民主主義」が説明できそうにないのに、そこに「建築」というまたよく分からないものを掛け算して・・・ややこしすぎる! でも、逆に考えると、「建築」というあやふやなものが、「民主主義」というもうひとつの漠たる正しさによってその定義さえも規定される、あるいは少なくともどこに向かうと正しいとされるのかが規範化される状況があったのだと考えると、腑に落ちてくる気もしたわけです。
 今回、戦後建築史の主だった言説をざっと点検してみたところ、建築人の言説には、予想に反して「民主主義」という言葉はあまり出てこないことがわかりました(あくまで、ざっとですけどね)。浜口隆一『ヒューマニズムの建築』(1947)なんて「民主主義」を連呼していると思い込んでいましたが、じつは全然出てこない。興味深い発見でした。彼らは民主主義という「正しさ」の負荷を強烈に感じていたはずですが、それを直接言説化していないのです。おそらく、建築人たちはそれを、現実的な社会構築の問題というよりは、エリートたる建築人(とそのコミュニティ)が民衆との関係において自身をいかに正当に構えうるかというモラルの問題として受け取ったのです。まず、その翻訳の構図自体が問われるべきです。「人民のための建築(家)とは何か」という受け止め方ですね。
 今回、1948〜53年に中学・高校の社会科の教科書として広く使われた文部省編『民主主義』という本があることを知って、読んでみました。当時の中学校はレベルが高かったんですね。興味ある方、是非読んでみてください。この本で何よりも強調されているのは、民主主義は狭義の政治の問題というよりも、自律した個人としてのひとりひとりが、自己と他者とを尊重し、自由と平等を価値として生きる、そういう「精神」の問題である、ということです。やはりモラルの問題ですね。そして、そうしたモラルを個人と社会が共有できないと、独裁や全体主義を招き、「戦争と破滅」に至るのだと断言されています。
 「人民の建築」「民衆的建築」などといった内実のよく分からない言葉も、当時の認識のコードにおいては、たとえば国家や資本という「権力」への建築家の奉仕を反対側(悪)に置いて、人民・民衆への奉仕を正義(善)とするモラル問題であったことが理解できます。そういった回路において、こうした標語は、民主主義の建築的翻訳だったのでしょう。繰り返しますが、こういった翻訳の回路自体がまずは問われるべきです。戦後すぐから、リベラリストモダニスト)とマルキストの間で、どちらが「人民の建築」の正しい理解かを争うディベートがありますが、それはたとえ当人たちにとっては切実な問いであったとしても、彼らが「人民」「民衆」と呼んだ人々が関知するはずもない抽象論でした。
 50年代に入り、朝鮮戦争の特需のおかげもあって都市復興が動きはじめ、実際に建物がたつようになると、40年代の形式ばった党派的な論議が、実践とそのターゲットの問題へと書き換えられ、活気づきます。民衆論争・伝統論争がそれですね。これらは「民衆+伝統」論争として一体的に理解すべきものと思いますが、その読み直しはとっても重要な課題だなとあらためて思いました。あれはたんに狭義のデザインにおける国際的標準と伝統との接続の問題ではない。巨視的には、アメリ占領政策の保守化(いわゆる逆コース)の線と、ソビエトが各国共産党に指示した民族独立戦線の方向性とが交差したところに、戦後数年のあいだタブーとして抑制されていた戦前以来の「伝統」の議論が、50年代に「民衆」とくっついて噴出する背景があった。そして、広くとると1953〜57年の数年間に及んだこの論争は、「民衆+伝統」に対してどう構えるかという問いを突きつけ、あるいは少なくともそのような効果を持ちました。建築家だけでなく多くの建築専門家がどの線に自分の身を置くのかの選択を迫られ、急速に分裂・分岐していったように見えるのです。それは他ならぬ論争を仕掛けたジャーナリストたちも例外ではありませんでしたし、また戦前派の一部の人たちはこのとき決定的に時代遅れとなりました。それが、60年代の動きの背景的構図をなし、そしてパラダイムの変わる1970年頃(68年といってもよいですが)の断面にも大きな影を落としている。
 「民衆+伝統」は今日でも決して死んだ主題ではないでしょう。「民衆」はもちろんですが(たとえば「みんな」という言葉はすでに50年代後半には「建築界の民主化」や「人民の建築」を歌うなかで使われています)、「伝統」も各時代に思わぬかたちで回帰してきた(いる)のでしょう。それらは何だかんだ言っても知識層である建築人たちが何らかの時代状況と自分らの職能が置かれた環境のなかから、勝手に言挙げして自縄自縛に陥ることが多いのです。それは民主主義とほとんど何の関係もないでしょう。いま言いたいのは、自分の都合で立ち上げた命題を民主主義と混同しても捻れていくだけ、ということです。では建築専門家がまともな社会運営に果たすべき役割は何でしょう。新国立、豊洲あたりはその辺を問うてますよね。