VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2017/11/10

研究室10周年記念サブゼミ大会にて國分功一郎『中動態の世界』を読む。

國分功一郎『中動態の世界』(医学書院、2017)を読んだ。OB・OGが研究室10周年の集まりを企画してくれ、その第1部としてサブゼミ大会(OB・OGをまじえた文献購読ゼミ)をやることになったので、課題図書にこれを選び、皆で議論した。

完全な能動でも完全な受動でもない、あるいはその両方でありうるような、私たちのごくありふれた思考や行為のあり方を適切に表現できる言葉の可能性、具体的には動詞の「態」を探索・開拓する本。私たちがより自由になり、より生きやすくなることについての本だから、都合のいい読み方するとオイオイってなっちゃう本でもあると思った。他方で、私たちが考えてきた都市や建築の無名的ないし集合的な動的世界の「態」と、もう一方の「主体」や「意志」といった主題を考え直すよい機会になった。それはともかく、「態」をめぐる言語哲学的な推論の系譜がわかりやすく跡付けられた本でもあり、一読の価値あり。

世界の多様な言語のなかには、動詞の「態」が、能動受動だけでないものがある。たとえばギリシア語の peitho という動詞を例にとり、「私」を主語とする文を考えると・・・能動態では「私は説得する」、受動態に活用させると「私は説得される」となるが、もうひとつ、中動態と呼ばれる態がある。この中動態に活用させた peithomai を使うと、私が私自身を説得する、つまり、「私は納得する」という意味になる。「私を」という再帰的な目的語は不要。一瞬ピンとこないが、動詞を活用させるだけで意味(sens =方向)が変わる。

数千年あるいは1万以上前には、世界のさまざまな言語に中動態的なものがあったらしい。ところが、いまなお中動態を残しているギリシア語ですら、古代においてすでに、能動受動とを対立させ、そのうえでどちらにも分類しがたいものとして「中動態」をネガテイブに(あらず、あらず、というかたちで)規定するのが普通になっていた。しかし、歴史的には、受動態はむしろ中動態の派生形であったらしく、能動態と中動態の対が先行するようなのだ。

つまり、《能動/中動》というセットが、《能動受動》というセットに、支配的なフレームの座を奪われていく、そんな地殻変動が「言語〜思考」系に起きたらしい。「中動態」という名付け自体が、古代に文法学が発達したとき、すでに《能動受動フレーム》が当たり前になっていて、両者に対する第三項という発想から与えられたものだから、かつての《能動/中動フレーム》を考える作業はどうにもぎこちないものになってしまうという、ややこしい事情もある。だって能動と中動じゃ、ぜんぜん対になっていない。

ここが重要なポイントで、対立の相手が違うなら、じつは「能動」の意味も今日とは違っていなければならない。実際、どうやらかつては、能動態の表現をする際の主語は、極端にいえばたんに人や物に働きかけるだけであり、実際にその人や物において起こる変化・効果からみれば、その契機を与えているにすぎないという捉え方がなされていたらしいのだ。そして中動態とは、その変化・効果が主語という座において起きていることを表現する態だったという。

上にあげた例、同じ動詞でも活用によって「説得する」が「納得する」になるという、あの再帰的な意味合いへとクルっと方向が変わる感じがおもしろい。別の例も紹介しよう。「馬の綱を外す」、という動詞があって、その能動態ではたとえば従者が主人のために馬の準備をすること、中動態では自分が自分で馬に乗ることを意味したという。綱を外す、という動詞が、中動態では綱を外して馬にまたがり駆け出していく、という行為の継起(シークエンス)、あるいは一定の持続を含んでいるように思われることは興味をそそる。このように、中動態とは、動詞の指す行為が主語自身において引き起こす変化や出来事を意味するように使われたらしいのである。

いかえれば、かつては「誰が」という主体よりも、「どう変わっているか、何が起きているか」、つまり動詞が指す行為=入力が、その作用が及ぶ場=系に引き起こす効果にこそフォーカスがあった。そのうえで、主語がその効果の生じている現場に対して、外から入力をしている者か、当の変化とともにある者か、によって動詞を活用させていた、と解釈できる。

中途は飛ばす。スピノザ(1632-77)の『エチカ』にある、「変状」の二段階説が、じつは本書の議論の要約になっている。すなわち、スピノザの語法でいえば、ある「様態」があって、そこに外部の原因が作用するとき、それは「外態」として記述される。ついで、これを受けた様態が、それ自身を座として変状の過程に入る。この変化は「内態」として捉えられる。この変状は、外力が物理的につくり出すのではなく、様態自身の(その本質を維持しようとする)固有の特質に規定されるかたちで進むのである。

スピノザは中動態についてはふれていないようだが、この理解は、古い言語における、変化や出来事に着目して主語の位相をみわける、あの観点と通じる。

ここまで来ると、著者國分功一郎が説く理解の枠組みとは、サイバネティクス的なシステム論、あるいは生態系論、オート・ポイエーシス理論、免疫論、創発論・・・などと基本的に同じものだとわかる。スピノザの「様態」は系であり、外部の「原因」は系への入力、「変状」は系が表現する出力、ということだ。スピノザは汎神論だから、すべては神であり、その神が姿を変えたひとつひとつの現れが「様態」と呼ばれていたわけであり、ある「様態」が他の「様態」と相互に作用することを上記の二段階説で説明するのだが、スピノザにおいてはそれもすべてが神の再帰的・自己言及的なとどまるところのない複雑な変化なのであった。サイバネティクスはここから「神」を消したもので、だから小さな要素間の相互作用がつくる系を階層的に積み重ねていくその思考によって最終的に世界や宇宙を説明しようということになって、くるっとまわって汎神論と同じようなものになる。

10年前に研究室が発足する少し前からぼくが考えていたのは、ベイトソンなんかを参照しながら、都市の動態をサイバネティクス的に考えるということだった。とくに近代都市計画史が、計画する者/計画される者という能動受動フレームで語られていたことにすごく違和感があり、いずれにせよ都市のプレイヤーたちはどんな立場であれその相互作用によって「都市」と名指されるような何かを効果として生み出している、それを裏からいえば、都市史の主語を「都市」とすればよいのではないか、ということだった。

この見方を、災害の理解の仕方にも意識的に連続させてきた。ある社会の表現する出力が災害過程であるが、それは外力が直接決めるのではなく、その社会の特質が決める、と考えるのである。社会は地震津波に対してたんに受動的なのではないし、だからこそ社会を変えていく可能性が探求できる。

そして、そこには「意志」が求められる。

本書では「意志」をめぐるハンナアレント(1906-75)の議論も参照されている。アレントによれば、普通わたしたちが意志とみなしているものはすべからく選択」にすぎない。過去から流れてきた幾筋もの線がつくる現在の文脈において、私たちはつねに大小の岐路を選んで生きている。それは日常であり、事実にすぎない。意志は、何らかの選択がなされた後に呼び出されて、過去と切断された始まり、のちの選択が繰り返しそこに遡って検証されるような原点、起源、つまりゼロ地点を仮構するにすぎない。

いや、「すぎない」というのは國分の論調であって、アレントは違う。意志なしには動かないこと、たとえば公共性という水準がたしかにあるし、事後的な仮構であっても現にその後にそれなしにはありえないような特異な磁場が生まれることがある。都市や建築では、むしろそれが求められる。膨大な選択を重ねた先に、どこかで決定的な「意志」の承認が要請される。誰も完全に能動的で全能的でないがゆえに、集合的な意志、あるいは建築家と名指されるほかないものの意志が、ゼロ地点をつくる。それは過去を切断するが、しかし過去の堆積でもあるという両義性をもつ。意志とはそのようなものだろう。

結局、中動態は能動性の契機を含んでいて、それをどう捉えるかという問題、あるいはどこかで意志が呼び出されるという問題が、本書を通じて浮かび上がらざるをえない。都市史・建築史としても、スピノザ汎神論的あるいはオートポイエーシス的な都市観は、あまりに素朴な能動受動フレームを相対化するうえで有効だが、そのうえで、「意志」の召喚という問題をあらためて扱う必要がある。これが本書を読んだ私たちの収穫だった。

2017/07/17

浅間山麓の宇宙/荷車のある日常:種田元晴『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)を読んで

 口絵に立原道造(1914-39)の絵が2点選ばれている。

 ひとつは無題だが、浅間山麓の小学校を描いた鳥瞰図(1935春頃)、他は未発表のパステル画「荷車」(1930年6月)である。この2点が、表・裏に印刷されている。

 前者は、著者の種田によれば、立原が都市の「煩わしさから逃れるように」、とりわけ自己の再生をもとめて繰り返し訪れた信濃追分付近の浅間山麓の風景のなかに、設計課題のために計画した小学校を描き込んだものである。建築ドローイングとしての一般的な透視図と比べて、立原には背後の自然風景を大きく描く傾向があるが、とりわけ浅間山麓を舞台としたこの透視図にあっては視点がきわめて高く持ち上げられ、そのために浅間山が大きくのびやかに捉えられ、主役であるはずの建物は画面下の隅に見下されるような構図をとる。これは「主題と背景との逆転」であり、「自然優位」であり、また山の描き方は雑誌『白樺』の誌面(1920年)を通じて立原も見ていたはずのセザンヌのサント・ヴィクトワール山と似ている。著者はこうした分析と推論を重ねながら、ゆっくりと読者を立原の抒情の世界につれてゆく。要するに立原は建物そのものではなく、理想的な自然環境が建物を包摂する風景を描こうとしたのであって、「徹底した自然回帰の、非物質的な豊かさを志向した」のである、というのが著者の論調である。

 もうひとつの「荷車」はどうか。立原の生家(日本橋区橘町)は荷造り用の木箱を製作・販売する商店を営んでいた。この絵に描かれた店先の荷車は、「立原の日常を象徴する」、と述べながら著者は、これを先の浅間山の鳥瞰図と「最も対照的な絵であった」と位置づける。本書で詳しく紹介されるように、立原には東京の家屋と電柱の風景をとらえた絵がいくつかあり、なかには関東大震災後のバラックの名残と林立する電柱とで構成される、きわめて興味深い絵も含まれる。著者はこれらも立原が忌避した都会のイメージ群として捉えている。

 あえて概括してしまえば、本書の描く立原は、最終的には反都市・反近代・反物質文明的な思想の体現者であるということになる。あるいは都市や戦争といった大きな渦に飲み込まれることを恐れ、個人自由を守るべく田園のコロニーに向かう、逃避的な理想主義者の心性というべきか。

 立原をめぐって多くの資料を丁寧に読み直し、多くの人々の生の証言を集めながら書かれた本書を、僕は素直によい本だと思うし、若い著者がじっくりとひとつの対象に取り組む本には久々に出会った気もして、真剣に読まねばならないと思った。だからこそ正直に書くのだが、著者の種田にはずいぶんと逡巡があったらしきことが随所に感じられるのに、それを押し殺してしまったらしいことが何よりも残念に思われる。上記のような比較的単純な図式は、そうした割り切りの結果なのだろう。

 だがやはり単純化しすぎていると思う。実際、立原は都市に背を向けて「田園」という価値を見出したのかもしれない(1930年代も末になると遁走も緊張を強いられる選択であった可能性はあるが)。しかし、そうだとしても、それだけでは立原道造という夭逝した詩人建築家が、なぜ丹下建三ら多くの同世代者にとって怖れやコンプレクスとともに自らの位置を測る参照軸=批評者たりえたのかの説明にならない。要するに「彼奴は理想に逃げたのだ」と言ってすまされぬ何かを、立原は持ち合わせていたに違いない。

 といっても、僕自身は立原については何も知らず、別様の立原像を示すための用意もない。

 ただ、著者が口絵にあの2点を選んだことは、やはり示唆的に感じられる。あざやかな選定だと思うのだ。というのは、その2枚に田園(への憧憬)と都市(の忌避)を二分法的に割り振るのか、むしろ田園にも都市にも同じ感性が向けられ得た、その可能性を提示するための、つまり対照的にみえて(であるがゆえに)表裏一体の2点と捉えるか    それ如何で本書の全体が書き替わってしまうほどの分岐点がそこに暗示されるからだ。もちろん僕としては、後者の可能性を妄想してみたくなる。だからこれは書評ではないが、本書に励まされた僕が、その著者を励ましたくて書く妄想である。

 浅間山と学校の鳥瞰図から見直そう。もっともこの絵については著者の細微にわたる観察で尽くされている。ただ、僕がこの絵から強く感じるのは「正面性」だ。セザンヌのサント・ヴィクトワール山についても、都市から田園へというような、画布の外から持ち込んだ理屈より前に、まずもって山への正対、という画家の対象への向き合い方をこそ取り出すべきであろう。あの山を何とかつかみ取りたいという焦り。セザンヌはあの山に、自分にとってのすべてがあると信じたのである。種田がいうように、もし若き立原がセザンヌを見ていたとすれば、そうした偏執信仰さえ混じるセザンヌの気迫を感じなかったはずはない。立原も浅間山にひとつの世界を見、その「全体性」をつかみとろうとしただろうし、その具体的な方法ないし結果が「正面性」だったと僕は考えたい。

 彼の計画する学校は、その全体性=世界に参加する。というより、自身の幼少期を介して想像するほかない児童たちが、あの世界の住人となり、あの世界に包まれて学ぶ村    そんな夢想こそがあの絵なのだとすれば、あの構図はすとんと僕の胸に落ちてくる。他の課題の透視図には、そのような全体性の強度が足りない。そして卒業設計「芸術家コロニイ」で蘇る。だが、そこに文字通りの都市を忌避する志向性を、あらかじめ読み込むことには賛成できない。その理由が「荷車」にある。

 「荷車」の画面は、上下におよそ2:1:2に分割される。下部は道路面、中央の帯が歩道、上部は家屋の正面である。荷の括り付けられた車は、中央の歩道上、左寄りに描かれ、車輪がほぼ円形にみえる。つまり荷車の側面がこちらに向いている。上部の家屋は木造で、低い床、継ぎ接ぎのパッチワークのような腰壁と格子・障子・戸袋・・のコンポジション。立原はこれに正対している。この絵を特徴づけるのも、強い「正面性」だ。

 家屋の壁面は画家のいる空間をふさぎ、そのことによってこの空間をかたちづくる。壁面に光は当たらず、歩道に影を落とす。これが立原の生家なら、彼の家は道の北側にあったことになる。どうやら建物の右脇に路地、いや隣家との隙間があるらしい。向こう側からの光はそのわずかな隙間にピッタリ沿ってこちら側の世界へと差し込むのだから、立原はこの絵に作為的な構図を読み取られかねないことを怖れていないし、逆にいえば自然なスナップに見せようとする作為も見せていない。むしろ画面は衒いなく形式化されている。また、この一筋の隙間は、こちら側の世界を破綻に陥れるような亀裂では決してない。その証拠に、家業の荷車も、遊び場の道路面も、黄色い光できらめいている。

 立原はこうした路傍のどうということのない風景のなかにも、ひとつの世界を捉え、自分の内面とつながった全体性とでもいうべきものを掴んでいたのだと思う。少なくともこの優しく強い絵に、忌むべき都市のイメージといった読み込みをする必然性はない。この絵が捉えるのは幼年期からの立原の世界そのものであり、そこには小さな隙間が空いているがむしろそのために暖かく照らされた、柔らかく守られた場であって、いずれこれを捨てねばならかったとしても、それは決して容易なことではなかったはずだ。もし、彼のロマン主義が、都市を否定し、田園を理想化するようなものであったとしたら、それは「荷車」の世界(それはたしかに世界だったのだろう)を打ち消すことになりかねなかったはずであり、それへの抵抗が彼の心に働いたとするなら、立原のロマン主義は万一にも文字通りの田園/都市のあいだに境界線を引くものであってはならない、という精神の働きをむしろ生むはずである。

 いずれにせよ、もし立原の心性を「田園的なものへの志向」と呼ぶのであれば、その心性は、こうした路傍の風景にも、都市の乱雑な甍の家並みにも、バラック電柱の森にも、均しく向けられえたものであったと思う。つまり「荷車」のある風景を「田園」と呼べるような感性があったとして、そのときの「田園的なもの」とは何か、というのが立原的問題なのだ。

 ところで・・・

 「自然主義」を、我々人間を離れてすでに=つねに世界に埋め込まれているところの自然法則(たとえ神がセットした法則であろうと)を絶対視する考え方だとすると、そこには古典主義建築や近代建築のように、すべては自然法則に支配された機械である(機械として設計されねばならない)、とする考え方が典型的に含まれる。

 対して人間の内面・感受性・主観・主体性、あるいはそこから立ち上がる理想といったものを重視する考え方がひろく「ロマン主義」といわれる。すると近代建築には、人間こそがある全体性、すなわち理想の世界を構想しうるのだというロマン主義も含まれるとしてよい。

 ロマン主義を、冷たい自然主義あるいは合理主義では割り切れぬものを補うものとして、二義的に捉える論調がある。これは日本語で書かれている素朴な近代建築史の大半に、多かれ少なかれ流れている。おそらくまだまだ近代建築の理解が一面的であり、合理主義におさまりにくいものは「周縁的なもの」として拾い上げる、という感覚から脱していない。そこではロマン主義の強度が蔑ろにされてしまう。ロマン主義ゆえの、主体との関係において切実な強度をもった全体性への強い志向がある。『白樺』は反自然主義標榜した運動のひとつで、同誌がサント・ヴィクトワール山を紹介したのであった。

 多くの人が予期するように、立原の「田園」志向は、大正的なロマン主義、たとえば堀口捨己の「非都市的なもの」という心性に何らかのかたちで接続し、そして昭和戦中期的なロマン主義、たとえば富士山麓に展開する忠霊施設を描いた丹下健三のあのドローイングへと連なるだろう。そして、その接続の仕方が本書でどのように分析されるかが興味の引かれるところである。詳しくはぜひ本書を読んでいただきたいと思うのだが、これもまた、上述の「分岐」のいずれを進むかで異なった読みが開かれうる。

 たぶん、こういうことになるのではないか    堀口はロマン的な心性を「非都市的」な表現に託して慎重に差し出し、それに対立するものと折衷的に接合した。立原はロマン的な心性から把捉されうる全体性の感覚をつかんだ。丹下は、だからこそ立原を怖れ、そして立原亡き後、そのロマン主義の起点にあった孤独な主体を、群衆(国民)の代弁者たる天才へと反転させる感覚をつかみ、自然さえも自己の構築的意志に従わせるような創造性を手にした。もちろん、この天才はつねに創造の狂気をメンテナンスしつづけなければならない。

 立原的な感性は、没後30年のとばりをへて、都市や田園に向かう新しい感性、つまりヴァナキュラーな風景にアノニマスな人々のコミットメントの蓄積あるいは自由を見るような、そんな感性として復活する、という見立ても可能かもしれない。丹下的な国民=国家の機制、あるいは都市の構造化という主題が後退する1970年前後のことだ。このときのそれは、孤独どころか広範に共有された集合的な感性としてあらわれ、私たちの足もとまで地続きであるように思われもする。

2017/05/20

石川初研『神山暮らしの風景図鑑』

201703_kamiyama_landscape慶應義塾大学SFC石川初研究室 神山プロジェクトチーム『神山暮らしの風景図鑑』2017.02(Keio University SFC hajime lab., Visual Guide to Living Landscape in Kamiyama, 2017.02)

目次:

第1章 風景の要素(ザ・イシヅミスト/軽トランドスケープ/神山ガーデンズ/ワンコイン神山/パーソナル・ブリッジ)

第2章 暮らしの工夫と人々の風景(神山ガールズトーク/FAB-G/軒下の豊かさ/神山DECO/丈夫で長持ち)

第3章 神山の歴史と地理 (神山の風景史/神山の山と谷)

第4章 観察と採集の記録 (記録の方法/図面の採集)

 この本はスゴイよ。素晴らしい。先月、石川さんが送ってくださいました(非売品)。

 じつは僕(を含む何人か)は、この本のネタを昨年末に聞かせてもらっている。神山は僕たちにとっても2015-16の2年間にわたってすごくお世話になった学びのフィールド。大学院の授業(設計スタジオ2)というかたちだったがこんな感じこんな感じで、相当欲張った。昨年は9月の神山合宿の週に石川研も神山に入っていて、(残念ながら石川さんとは入れ違いになっちゃったのだが)えらくシッカリした学生さんたちが彼らだけで神山のおじちゃんやおばちゃんたちにがんがん接触して調査しているのに感心した。それでランチの時かなにかに、石川さんにお互いがやってること見せ合いっこしようと伝えてね、といったら、「褒め合うならいいよ」と東京からの即答があって決定、というのが合同報告会(2016.12.18)をやることになった経緯(明大側は僕と伊藤暁さん、門脇耕三さん)。

 本書に提示されるイメージ×概念の数々は、12月のときよりも美しく整理され、しかし生彩を失うことなく、むしろ魅力的な写真とともに手書きのイラストがふんだんに盛り込まれていよいよ鮮やかさを増している。「ハイブリッド石積み」、「軽トランドスケープ」「ワンコイン神山」(犬in神山の意)、「パーソナル・ブリッジ」・・・と冒頭から順にワードを拾ってみるだけで、もう推理とニンマリが止まらないだろう。それらが展開する基盤となった、地球の一部としての神山の地形とインフラの歴史もきちんと描かれる。もう、こういう世界なら石川さんたちにかなう者はない。

 ただ、この本には昨年末の褒め合い会(合同報告会)で聞いた話題のすべてが盛り込まれているわけではない。あのときの石川レクチャでは、学生さんたちが足で稼いだ大量の情報が研究室での徹底的な議論を通して再解釈され、ある独特の仕方で凝縮されていた。それは、神山の風景をおりなすさまざまなスケールの形をつくった工作者たちの、いわば工作のアティテュードを5つほどにカテゴライズして名付け、論評を加えるものであった。それが中心だった。この本にもその一部が登場するが、ないものもある。神山の風景資産を楽しく伝えるという体をとったこの本には、多くの読者が明瞭には気づかないかもしれない批評的な視座が隠れている。

 工作者たちのアティテュード、と書いた。いってみれば、あの日の石川さんの話は「工作者批評の一般理論序説」とでも題せるものだったのである。

 たとえば、あの日僕が一番印象に残ったのは、「FAB-G」と石川さんたちが名付けたひとつのアティテュード、あるいはそれを備えた工作者たちのことだった。文字通り、工作者としての爺さんたちの意であるが、彼らの仕事ぶりはブリコラージュである。でも、ブリコラージュだから面白い、という話ではない。僕の理解では、ブリコラージュの史的前提が問題なのである。

 石川さんにも話したのだが、明治末年生まれの僕の祖父は村の野鍛冶で、自分で建てたという家のいっかくに彼の仕事場はあった。自らも農民である野鍛冶のもとへ持ち込まれるのは、周辺の農民たちが使う、経験的にチューンナップされた地域性や個別性の高い鍬やら鋤やらであり、祖父は彼らの微細なニーズを聞いては減った刃を付けたり、柄を変えたりした。子供のころの僕は祖父の近くにいることが多く、一度なにげなく「刀つくれる?」と聞いたことがあった。「一回つくってみたがすぐに錆びた」と言葉短かに祖父が答えたのをおぼえている。固有名の高みを目指す刀鍛冶と、祖父のような野鍛冶とはまるで違う世界なのだ、と子供ながらに感じ入った。たぶん、むかしは田舎にも町にも、祖父のようなローカル+パーソナルなチューンナップをになう工作者たちがたくさんいたのだろう。

 彼らは企業社会と標準消費財のヘゲモニーによって仕事を失った。僕の父は学校教師となり、日曜の農作業ではもう鍛冶屋の世話になるような道具はめったに使わなくなった。家には大量生産された機械と消費財がとめどなく侵入した。この本のなかにもストックヤードとしての家・倉とオブタ(軒下)がとりあげられているが、農家は容量的にデカイのだ。「FAB-Gの分類によって分けられ、保管され」ているさまざまな商品やその部品が、ストックヤードに寝かされ、元来の意味を失って、工作の「素材」となる(p.50-51)。

 ブリコラージュは、じつは超時代的な普遍性をもつわけではないのかもしれない。それは日本ならば戦後、1970年代以降に隆盛するのではないか。石川さんはたしか、大量消費財があまねく家々に侵入して沈殿する状況と、(案外どうということのない、身の回りの)生活実践上の要求とをブリッジする営為として、FAB-G的なものはあるんじゃないかといっていた気がする。きっとそうだ。しかし他方で、それは野鍛冶を含む工作の旧世界を知る爺さんたちのワザであったようにも思える。四六時中、家と田んぼを往復して生活・生産環境を隅々まで知り、その動的な修繕台帳と資材台帳とがつねに手中にあるような爺さんこそが、ブリコルールすなわちFAB-Gの有資格者であろう。その段階をすぎると一切が既製品となる。ブリコラージュが帯びる意外に強い歴史性。ブリコラージュ概念は現代思想の展開のなかで過剰に敷衍されて批評性を失っていたのかもしれない。

 ところで、生活と工作の旧世界が亡び、実践的架橋者たるFAB-Gも相対化されていくような時代にこそ、ホンモノ志向もまた強くアタマをもたげる。それは手仕事性を重視するが、FAB-Gとはそのアティテュードにおいて鋭く対立する。むしろ素材を選び、技術的な血統書を自尊心の核とし、案外グローバルに通用させうる意味付けによって手仕事のローカリティを囲い込み、遠くへ開く。それは顧客を選びもする。野鍛冶ではなく刀鍛冶的なもの。ラスキン=モリス主義(中世主義)的なもの。それは資本主義経済やグローバリズムへの対抗のようにみえるが、近年の消費はむしろこの種のホンモノ志向をふつうに取り込み、世界的に流通させる(それはそうと、ヨーロッパやアメリカにもFAB-Gたちの活躍はあったのだろうか。1960年頃のレヴィ=ストロースは、じつは「未開」社会じゃなく、高度消費社会の到来に立ち会ってあの概念に気づいたんじゃないだろうかなどと妄想は膨らむ)。

 石川さんは他にもいくつかのアティテュードの類型を示していたが、ぜんぶバラすわけにはいかないのでこの辺でやめておく。僕らはいったい工作者としてどんなアティテュードを知らず知らずのうちに選んでいるのだろうか。何がより創造的かつ継承的な工作者の態度たりうるのだろうか。意外に難しい問いである。だから、『神山暮らしの風景図鑑』と題するこの色鮮やかな本がどう読まれるかということに、石川さんたちは相当に慎重であったに違いない。マクロからミクロまでのブリコラージュが本書の主役だといってさしつかえないが、それを地形と経済の両側から条件づけることを忘れていない(経済とか近代とかは暗に示唆されるだけではあるが)。他方で、ホンモノ志向の賞賛は徹底的に締め出されている(バランス感覚、というようなものとはちょっと違う)。そのあたりを注意して読むと、観察者の面目躍如たる軽妙な知性とともに、慎重に選ばれた本書の批評的な「持ち場」が見えてくる。

 建築は、何だかんだいっても、観察と批評を吹っ切って、何らかの全体性を形式化することでしか立ち上がらない。それをヴァナキュラーと近現代が交錯する場から立ち上げ直してみよう、という僕らのスタジオは、やっぱりかなり欲張りだった。でも地域向けにはたしかに「工作者批評」的なことは考えてたね>伊藤さん

2017/04/26

『福島アトラス01:原発事故避難からの復興を考えるための地図集』について

201703_fukushima_atlas_01

『福島アトラス 01:原発事故避難からの復興を考えるための地図集』という冊子をつくりました。

本のタイトルにあるとおり「アトラス=地図集」です。非常に短時間に膨大な情報を集めて整理していますが、そういう意味では生々しい実態からすーっと上に引いた視点から、ドライに、そして空間と時間のスケーリングということだけにほぼ集中して福島の推移と現況を可視化した地図集です。

発行主体は「NPO法人住まい・まちづくりネットワーク」。県の助成を得て、原発事故のために避難を強いられている方々への全戸配布を前提とした地図をつくりたい、という相談を芳賀沼整さん(建築家、はりゅうウッドスタジオ)から持ちかけられたのが昨秋。非売品という形式、5万部という部数、読者(利用者)が決まっていたわけです。2011年以降、建築史研究者として災害を考えるだけでなく、当の東日本大震災の現場にも色々なかたちで関わらせていただいたり、建築雑誌の編集をやったりしてきたこともあり、また芳賀沼さんは(ちょっと何言ってるか分からないことの方が多いけど)圧倒的に尊敬する建築家であるということもあって、ぼくは監修(+編著)のかたちでこのプロジェクトに関わらせていただくことにしました。

そこから打合せを重ね、全域を廻る予備的な取材を終え、編集方針が確定したのが年末。本格的な取材、情報収集、執筆、グラフィック作成などが進み出したのは年明けでした。よくこぎつけたと思います。じつは、当初は1枚ものの大きな地図をつくるのか、それとも・・というようなところから話ははじまっています。それが64ページの冊子というか本のかたちになりました。

避難を強いられたのは12市町村です(実際の汚染の範囲については当然議論の余地があります)。各市町村は、その住民の避難先はもちろん、域内の除染や復旧復興関係の作業、公的サービスの稼働予定など、当然すべて把握していて、住民への情報提供をしているのですが、住民の生活再建の模索はもっともっと広い視野で行われているのが実態です。要するに「戻るか否か」、だけではないのですね。もちろん何らかの施策やアクションや情報によって潜在的な「戻る」が顕在化されるようなことは望ましいでしょう。しかし「戻るか否か」に選択肢を限定することは、あれだけミクロ−マクロにわたる複雑なコンテクストが絡み合う状況では、じつは端的に乱暴です。「フクシマ」として一括されがちな地域がかかえる、驚くほどの差異と複雑さは(浅い取材ではありましたが)のちに思い知ることになりました。それは必ずしも「線量」の程度と、住民の「帰還」の動向との関係だけで語れるものではありません。「線量」は、さまざまな政策や現場での作業の組み立てを連鎖的に組み立てさせています。除染・解体・土木工事・原発作業などの進展と、その膨大な作業員を収容する宿舎や詰所、新しい企業や商業の誘致(逆にいえば企業の思惑)、そして避難先からの生活再建の方向性・・・きわめて複雑です。そのすべてを可視化することもまた暴力になりかねませんから慎重な態度が求められますが、そういった色々なことを踏まえたうえで、全体像の整理(マッピング)が必要だろう、というのが芳賀沼さんたちが考えたことでした。さまざまな模索の前提となるレファレンスブックのようなものがイメージされました。

何しろ非売品ですので、配布対象の方々以外にはなかなかお目にかけるチャンスがありません。そこで本の成り立ちをご紹介しておきたいと思います(目次ページの再掲)。

本誌の構成と読み方:
◆全域アトラス
 原発事故後の避難と復興の状況について、市町村をこえる全体像をつかむための地図集です。
 避難区域の推移、役場機能、医療・福祉施設など、注目することがらによって、見わたす地域の広がりも、そのなかでの施設等の分布の様子も違います。
 7つの地図をそれぞれ違う描き方にしたのはそのためです。

1 避難区域の変遷 ……02
2 役場機能の立地変遷 ……03
3 医療・福祉施設の開業状況 ……04
4 幹線交通網と商業施設の稼働状況 ……05
5 地域公共サービス施設 ……06
6 小学校・中学校の校区と再開状況 ……07
7 大規模復興事業の分布 ……08

◆市町村アトラス――ランドスケープ・データスケープ・ヒストリカルスケープ
 各市町村について、色々な角度から、じっくり見つめ直すための地図集です。
 自治体別に、3種類のページを用意しました。
 ・ランドスケープ(景観)・・・普段とちがう、50〜100メートルくらいの高さから、町や村の風景を見直してみます。
 ・データスケープ(資料)・・・2011年3月11日から今日までの避難や復興の歩みを、事実と数字でまとめています。
 ・ヒストリカルスケープ(歴史)・・・先人たちは町や村をどのようにつくってきたのでしょうか。明治末から100年くらいを振り返ります。

南相馬市 ……09
浪江町 ……15
双葉町 ……19
大熊町 ……23
富岡町 ……28
楢葉町 ……32
広野町 ……36
飯舘村 ……40
川俣町 ……46
葛尾村 ……51
田村市 ……55
川内村 ……59

カテゴリ別住所データ ……63
 いざというときに役立つ連絡先をまとめました。

Topics
 地図は町や村を鳥の目で見下ろすものですが、ここでは人の目線から2017年1〜2月の地域と人々の活動を伝えます。

1 集まって、食べる――地域を盛り上げるこだわりの一杯 ……26
2 届けて、見守る――地域を駆け回る小型バス ……27
3 使って、生かす――よみがえる家と地域 ……44
4 手を入れ、伝える――地域のなかの神社 ……45

「全域アトラス」は、NPO法人の高木さんが全力でデータを集め、イラストレータ上にプロットしたものです。役場機能は複数の拠点を結ぶ広域ネットワークとして存在しており、小中学校はそれぞれの学校区という単位での再開・統合などとして動いており、商業は住民がいなくとも諸種作業員の人口がかなりの大きさになるため幹線道路に沿って営業している・・・などなど。避難区域の設定の変遷だって、案外その骨子さえ知られていないのでは?

「市町村アトラス」のうち「データスケープ」は、『建築雑誌』2015年3月号に掲載された、市町村別の詳細データ(避難者人口・避難先・3.11以後の推移・復興計画など)をもとに、いくぶん項目を取捨整理したうえで、同ページを作成された東大の井本佐保里先生ほかの皆さんにアップデートしていただいたものです。各市町村のトビラページを兼ねる「ランドスケープ」は”株式会社ふたば”さんによるドローン撮影。「ヒストリカルスケープ」は、1910年頃の地形図と1970年頃の空中写真を、現在のGoogleと比べて、約100年のあいだの市街・集落の移り変わりを解説したページで、これは私たちの研究室(当時M1の4名)が担当しました。都市部はともかく、ほとんどの地域は1970年代まで近世と大きくは変わらず、それ以降に急激に開発されている。全域アトラス、市町村アトラスの情報をふまえつつ、このタイムラインのなかでどのような復興の像を描くのか、難しいでしょうが、長期的なパースペクティブが求められます。

「Topics」は研究室の学生たちが川尻さんの指導を受けつつまとめた取材記事です。ひとりひとりの人間、地域共同体などなどの生活再建に向けた動きを、会うべき人に会い、話を聞いて伝えるという基本作業をしました。取材にご協力いただいた皆さんに感謝申し上げます。

そして、これらすべてを中野豪雄さんの事務所でデザインしてもらいました。いつもながら、本の目的・趣旨に遡り、情報の構造化、インフォ・グラフィクスの作成にいたるまで、本質的なデザインの仕事をしていただいています。

最後に今回のチームと関係者を紹介します(つまり奥付の再掲)。みなさま本当にありがとうございました。

福島アトラス FUKUSHIMA Atlas
原発事故避難12市町村の復興を考えるための地図集
Reference Maps for Building Back Daily Lives from Evacuation
2017年3月30日発行

発行所:特定非営利活動法人 福島住まい・まちづくりネットワーク
企画:特定非営利活動法人 福島住まい・まちづくりネットワーク
監修:青井哲人(明治大学理工学部准教授)+明治大学 建築史・建築論研究室
編集:川尻大介
デザイン:中野豪雄、小林すみれ(中野デザイン事務所)
編集協力:井本佐保里、須沢栞、千野優斗(以上、東京大学)
     芦谷龍征、富山大樹、中井希衣子、西恭平(以上、明治大学)
ドローン撮影:株式会社ふたば
協力:株式会社はりゅうウッドスタジオ
   日本大学工学部 浦部智義研究室

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2017/03/07

台湾の世界遺産!?

201703_taiwan_world_heritage_class_guide 平野久美子 編著『ユネスコ番外地 台湾世界遺産級案内』(中央公論新社、2017年3月)刊行。

 作家の平野さんとは、昨年2〜3月に横浜バンカートで開かれたBankART schoolでの全8回のレクチャーシリーズ「アノニマスな世界をつくるアート(わざ・すべ):台湾の都市・建築を読む」でお知り合いになった。この本は、一般向けの台湾旅行ガイドブックの体裁をとって、台湾の世界遺産候補地(政府選定)を18ヶ所解説するもの。平野さんにお声がけいただいて、18ヶ所のうち1つを担当させていただいた。

 ご存知の人も少なくないとは思うが、台湾には世界遺産はひとつもない。実際には、台湾は地球レベルで誇るべき自然的・文化的なヘリテージの宝庫であるが、台湾(正確にいえば中華民国)が国連加盟国でないというその1点において、それらが世界遺産になることは法的にありえない。ユネスコは「人類」の遺産をうたっているが、実際には国家の連合という枠組に規定されている。

 文化財だって、健康や衛生だって、国際政治と分かつことができないということを浮き彫りにする、そういう活動のスタイルは台湾らしい。機能しないことがわかっている枠組みを大真面目に動かして、それが無効とされるプロセスを国際社会にディスプレイする。こういうのは台湾お得意の戦術だ。真剣なのだが、どこかで楽しんでいる。いいぞ、頑張れ、と僕はエールを送る。そういうつもりで1つお引き受けした次第。でも日本でこういう本を出すときって、どういう顔をすればいいのだろうと考えはじめると複雑ではある。「いや人類としてさあ」、というわけにもいかないところがある。台湾が国際的な地位という点で宙吊り状態になっている理由は某大国ばかりにあるのではなく、日本の戦前の台湾統治(植民地支配)と対中国戦争(日中戦争)と戦後の対米従属的な外交などは無視できないわけで。

 それはそうと、真っ赤な表紙がつづいたね。

2017/03/05

モダニスト再考[日本編]建築の20世紀はここから始まった

201702_RethinkModernist_JP 20代の頃とてもお世話になった『建築文化』。その2000年1月号(Vol.55, No.639)特集「日本モダニズムの30人 モダニスト再考2 国内編」が、単行本になりました。青井は角南隆と森田慶一の2編書いていまして、今回少し手を入れています。

 以下に目次を流しておきますが、ネット上に完全な目次が転がっていないようで、手打ちするのは面倒なのでタイトルだけでご容赦を。著者は表紙画像(下の方)に目を凝らせばわかると思います。

中村達太郎 亀裂の保存
佐野利器 都市・テクノロジー・ナショナリズム
角南隆 技術官僚の神域 機能主義・地域主義と「国魂神」
藤井厚二 藤井厚二という不安
今和次郎 ノート-「日本の民家」を中心として
アントニン・レーモンド 表現と表象
村野藤吾 「社会的芸術」として構想されたもうひとつのモニュメンタリティの射程
小山正和 日本的モダニズムの雑誌編集人
上野伊三郎 さまよえる建築工芸
石本喜久治 「建築美」、その転換という作為
山田守 形態の誘惑ーあるいは禁欲的エロティシズム
吉田五十八 本音と建前/蔵田周忠 日本モダニズムの「水先案内人」
森田慶一 IMITIATIO CORBUSIERI-分離派から古典主義
堀口捨己 「どうしようもないもの」の形容矛盾
石原憲治 全体性を回復する回路をつなぐ「社会技術」という視座
今井兼次 ドキュメンタリーのモダニズム
伊藤正文 反転する純粋技術
土浦亀城 迷いなく駆け抜けること
岸田日出刀 丹下健三を世に送り出した男
佐藤武夫 建築の政治性と記念性
山越邦彦 「建築 ルート・マイナス1建築→構築」という冒険
坂倉準三 他者による建築はどこまで他者的であり得るか
川喜田煉七郎 ユートピア-アヴァンギャルドの往還
山口文象 「実践へ」
谷口吉郎 転向の射程
白井晟一 伝統のパラドックス
前川國男 木村産業研究所という出発点
小坂秀雄 「体系」の刻印
丹下健三 神話的「日本」と「計画の王国」

2016/04/13

『自分にあわせてまちを変えてみる力』が刊行されましたね。

201604_machi_chikaraこういう本が出ています。

饗庭伸・秋田典子・内田奈芳美・後藤智香子・薬袋奈美子 編著『自分にあわせてまちを変えてみる力 ― 韓国・台湾のまちづくり』(萌文社、2016.03)

目次はこちらを参照。

日本の「まちづくり」、韓国の「マウル・マンドゥルギ」、台湾の「社区総体営造」の比較・交流史的な考察の本、というとちょっと堅苦しい紹介になっちゃうかもしれないが、この三つは互いに学んだり交流したりして育ってきたものであると同時に、ちょっとずつ違う。そのあたりを、活動の現場をフィールドワークを通してカタログ化するといったユルイ感じのアプローチと、各々の社会が辿ってきた政治史の文脈で整理するちょっとイカメしいアプローチの、両面から捉えている。というわけで、かわいらしい装丁やタイトルに油断してはいけない。というか、アメリカなんかではまちづくりは実践家と政治学者や社会学者が論じ合うものだろうし、台湾なんかでもそういう感じがある。ということからいえば、日本に案外その手の本がないということはたぶん日本の戦後史の「何か」を物語っているはずである。

唐突で恐縮だが、1930年代の日本では、昭和恐慌がもたらす経済的困窮と社会不安のなかで官僚たちが村や町の「協同組合化」というべき社会統治を組み立てようとした。つまり人々が共助的な経済事業体を形成するようにして、分裂しがちな共同体を安定させ、同時に彼らの経済的持続を彼ら自身で経営するようにした。もともと協同組合は自由主義的資本主義の社会という荒波の海に小さな自律的な島をつくる対抗的な運動だったと思うが、30年代には(自由主義経済の行き詰まりとともに)むしろ国家がそれを活用したのである。70年代だって50〜60年代の反体制的な運動のエネルギーを政策的に社会にビルトインしていくことだったと思うし、そこでも共助的なコミュニティが強調されてきた。20→30年代も60→70年代も世界的にそういうことがあった。そんな脈絡を踏まえると、本書のタイトルが「みんな」ではなく「自分」を謳ってアジアを見なおそうと言っているのは、編者らの大事なメッセージである(本書前書きでは、これを民主主義がもたらす全体化という問題との関連で言っている)。つまりタイトルもじつはユルくなかったりするのであった。とにかく色々な意味で、まちづくりを批評的に捉え返し、そこから何かを取り出そうする本だし、読者もここから幾筋もの線を描き出すことができる。

ところで本書のまんなかには石川初、加藤文俊、青井哲人、山代悟へのインタビューがサンドイッチされていて、前半のカタログを、後半の政治論へとつなぐブリッジの役割ということのようだ。インタビューを受けたときはイマイチ分かっていなかった。ナルホド。

2016/02/29

『明治神宮以前・以後』の書評会、丸一日。

 藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子編『明治神宮以前・以後―近代神社をめぐる環境形成の構造転換―』(鹿島出版会、2005)に関する書評がいくつか出ていることは前に当ブログ(この記事)でまとめた。今後もまだ出るようで、ありがたい。

 で、昨日は2日にわたる第1回 宗教とナショナリズム 研究会(2月27〜28日)の一貫として、この本の公開書評会が催された。企画は藤田大誠さん(御苦労さまでした、感謝!)。そしてお迎えした錚々たる批評者は下記4方。9時から17時まで、批評と応答で丸一日(懇親会は23時まで)。

批評者:
 土居義岳(九州大学芸術工学研究院教授 西洋建築史)
 平山 昇(九州産業大学商学部講師 日本近代史)
 小島伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授 憲法・近代日本法史・宗教社会学)
 山口輝臣(九州大学人文科学研究院准教授 日本近代史)

 平山さん、小島さん、山口さんからも鋭い批評をいただいたが各々書評記事として出版された(される)ので、ここでは建築を中心に振り返る。建築分野では私から是非土居義岳先生をお招きしたいと推薦し、土居先生にも快くお引き受けいただいた。稀有な批判的建築史家にしてフランスを中心とする西洋建築史研究者たる立場から、日本の「建築と宗教」をめぐる歴史過程について比較史的な見通しを鮮やかに開いてくださるだろうと考えたからだ。そしてまさにそのような批評をいただいた。これまでメールでやり取りすることはあったが、昨日はたくさんお話できて率直に楽しかったし、僕の頭もクリアになった。それにしても先生が仮説的整理を組み上げる速度には正直びびった・・・などと思い出していたらさっそく土居先生がブログで昨日のことを書いてくださっている。→「國學院大學たまプラーザキャンパスにて」土居義岳の建築ブログ

 ブログには書いておられないが、土居先生は僕が担当した「第1章 神社における「近代建築」の獲得」について、いかにも曖昧で不自由な(あるいは端的に幻想というべき)「近代建築」の獲得・達成というプロットをとることの問題性(そういうのはやめようよということ)を書評会ではご指摘くださった。8年前に明治大学に来て、まもなく旧知の友人を含む神道史、宗教社会史、地域史、造園学などなどの皆さんと研究会をはじめた頃、神社建築の辿った思想史的軌跡をテコに、日本近代建築史を書き換えられるはずだと漠然と思っていたのだから、「近代建築」を所与の達成目標とするかのような従来型建築史の書き方に見えてしまってはダメなので大いに反省したのだが、著者としてはいちおうアイロニカルではある。神社も、いわば学校や病院と同じく社会政策的枠組のなかで制度としての「近代建築」になったのである。様式(表象)を後退させ、身体・行為の社会的意義が主題化され、経験主義的フィードバックを通して量産に適合的な一定の標準型がテクノクラートたちによってつくられていったわけだから。

 一方で神社の空間は建物だけでない。明治神宮以後ははっきりと森+社殿を一体的に捉える理論(アーキテクチャ)によって整序されていった。明治期には神社といえば社殿のことを指していたのに、昭和期には明らかに森の認識がドミナントになっていく。人為から自然へ。人為を排した有機的 organic な世界の生成の奥深さとして自然をロマン主義的に理解するモードさえできれば、森はある種の全体性のモデルを与えるか、機械的=力学的 mechanical な世俗界を補完するか、あるいはそもそも理解以前に美的な降伏を欲望させる(西行の歌「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに・・」の常套句化)ようになるらしい。つまり宗教性を持ちはじめる。

 土居先生が昨日前提とされたのは「政教分離後の聖性の再構築」というような枠組みで、では日本の場合、神社の場合、それはいかなるシナリオで理解可能か、ということであり、それを建築に引き付けるとどうなのか、ということであった。カトリックの後退は、たとえば自然科学主義思想やそれと絡みあう一群の宗教運動的な動きを生み出したりしたことも知られているし、いずれにせよ哲学や歴史学(普遍史)や社会学や生物学や・・・あるいは芸術が、交錯しながら聖性を練り上げていく。もちろん、それは近代産業社会をどう編成するかという問題でもあった。

 そこでぼくは「生成的なものの技術化」というようなコンセプトを考える(考えてきた)。たとえば王権の崩壊によって顕わになったバラバラな人々の集合(ゲゼルシャフト)を理論化したのが社会学で、つまり「社会」はバラバラ性からなぜだかそれなりの全体がたちあがる生成の謎として発見された。心理とか無意識のような謎も教会の衰退のなかで対象化された。生物の生長・進化も、神が制御しない無目的な過程として捉え返された。こうした生成的なものの発見と理論化が19世紀を通じて進み、20世紀、とりわけ1930年前後の自由主義から計画主義への転換のなかでそれが技術化された。そんなわけで神社では森がやはり重要なのである。それは「生成的なもの」だからこそ聖性をもち(ダジャレじゃなく)、しかしすでに「技術化」されてもいたのである。

 神社の建物(社殿建築)は、つまりその人為性・構築性ゆえに後退を余儀なくされた。とはいえ、上にも書いたように、社殿建築でも「社会」は主題化されている。バラバラの人々がどのように流れ寄り、手を合わせ、祭儀に参加し、去ってゆくのか、それはどのように社会統治とかかわりうるのか・・・。これもまた生成的なものの技術化であり、社会的な身体に建築を適合させる方向性をもつ。だがやはり建築が自然であることは難しい。昭和戦中期の神社量産時代の造営の頂点にいた角南隆は、1940年頃から地域主義的な思想を部下たちに吹き込みはじめたらしいのだが、それはどうやら生成論の建築版(あるいは建築がいかに自然的でありうるかという問いへの回答)だったと思われる。つまり個々の場所がもつ固有の生成力が自然に顕在化したものとして神社はあるべきだというのが角南の「国魂神」論だったのだし、その角南神学は、戦後は汎神論的な傾きを増して、ざっくりいえば生気論によって宇宙から日常までも説き切るような宗教思想へとまとめられていったようなのだ(どことなく19世紀末から20世紀初頭のヘッケルを思い出させる)。

 書評会が終わって懇親会へ移動するとき、土居先生と、神社論の延長上に丹下健三のことも話し合った。丹下は量産時代の神社が備えるロマン主義的な聖性を、モダンな建築造形でもっと力強く上手に再現できると思っただろう。戦中のコンペはもちろんのこと、広島の、これ以上ない公共的=宗教的可能性をもった建築プロジェクトを彼は神社以上の「神社」としてつくったのであった。

2016/01/30

橋本健二・初田香成編著『盛り場はヤミ市から生まれた』増補版が出ました。

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橋本健二・初田香成編著『盛り場はヤミ市から生まれた』増補版、青弓社、2016.01

「敗戦直後、非公式に流通する食料や雑貨などが集積し、人や金が行き来していたヤミ市は、戦後の都市商業を担う人々を育て、その後に続く新たな商業地や盛り場を形成した。フィールドワークや資料調査から、ヤミ市が戦後日本に与えたインパクトを描く。」

出版社ページはこちら(目次等詳細あり)

厚香苗さんの「ヤミ市とテキヤ」、中島和也/石榑督和/初田香成/村上しほり「地方史誌から見た全国ヤミ市の概要」を新たに収載。たんなる増刷じゃないですよ。決定版です。

2015/11/30

『明治神宮以前・以後』の書評など

本年新春(2015年2月)に刊行された藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子編『明治神宮以前・以後:近代神社をめぐる環境形成の構造転換』(鹿島出版会、2014)(→当ブログ内記事amazon)について、管見のかぎりですが以下のような新刊紹介や書評などの記事が出ましたので、備忘録的にメモしつつ、注目してくださっている皆さまに御礼を申し上げたく思います。聞くところでは今後予定されている書評もあるようです。

・山口輝臣著 書評 『宗教研究』384号(日本宗教学会、2015年12月)
・平山昇著 書評 『神園』第14号(明治神宮国際神道学研究所、2015年11月)
・石榑督和著 書評 『建築討論』6号(日本建築学会、2015年10月)
・加藤悠希著 文献抄録 『建築雑誌』1371号(日本建築学会、2015年5月)
・新刊紹介 『神社新報』(2015年4月27日)
・新刊紹介 『中外日報』(2015年3月13日)

 平山さんの書評は、明治神宮はじめ神社を「つくった人々」が本書の主題だとすれば、それを経験した人々の「受容」の側面の探求という課題を、また山口さんの書評は、本書の「明治神宮=構造的転換点」、つまり明治神宮決定論に対する慎重な留保の必要性を、それぞれ鋭く指摘しておられる。近代(モダン)というものが、歴史を構築しながらそのことによって自身を歴史的に差異化してゆく運動を含む以上、その構築者の視点をなぞる危険性に警鐘を鳴らしておられるということでもある。

 後者の「決定論」については、本書の構えそのものがそれを謳っており、とくに編者(とりわけ第1部の3編)の論考はそのシナリオを論理的+実証的に構成するべく書かれている。もっとも明治神宮というヒンジのまわりに全てが一挙に転回・転倒してしまうとはさすがにどの著者も書いてはおらず、転換のプロセスにそれなりの厚みを持たせてはいるが、懐疑的な立脚点からの検証的立論がなされているわけではない。土居義岳さんもこの山口氏の書評を読まれた模様(土居さんのブログ)。

 「決定論」の問題については、今年10月に、「明治神宮「誕生」の前史を考える:境内と社殿の近世・近代」というタイトルで公開研究会(→当ブログ内記事)を行い、批判的な検討を試みた。この問題は、本書のそもそもの構えとともに、著者の研究上の守備範囲に起因する面もあって、だから近世あるいは近代移行期の建築史を専門とする研究者の方々をお招きしたのである。これは来年2〜3月頃に『神園』に載る予定。2月28日には本書編纂の中心にあった藤田大誠氏の企画により公開書評会も準備されつつある。

 これからが楽しみだ。