VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2010/01/08

2010年元旦の話。莆田 Putian での奇妙な都市体験について。(旅行記風+長文御免)

1月1日。夕方つかまえたタクシーは泉州 Quanzhou から莆田 Putian までの100Km強を飛ぶように走り、夜8時頃に我々3人を降ろした。できるだけ中心部の古い地区で降ろしてくれと運転手に頼んだが、莆田の街は不慣れで分からない、国道沿いだがほぼ中心部のようだしホテルもいくつか見えるからよいだろうと。もともと250人民元の約束だ。ホテル探しに付き合わされるのはご免というところか。しかし国道沿いの「飯店」や「酒店」はみなレストランだった。中国の夜は暗い。大都市でも日本や台湾のように煌々と明かりが灯ることはない。手もとに地図もない。初めての都市でもだいたい読めるという妙な自信があるのでガイドブックも地図もその街で買う癖なのだ。小雨が降る。寒い。

息を吸い、わずかな光の具合から中心部らしく見える方向を選び、暗く広い道を歩き出す。一階の店舗の連なりがそれなりにリズムをつくり出しているものの、見上げれば10〜15層程度の高層住宅の塊が矩形街区に一体的に立ち上がる。新市街であることは疑えない。どこまでも同じタイプの街区が続く。荷物をひきずりながら、道行く人に古い地区はどこかと何度も訪ねる。しかしこのあたりが中心だ、このあたりが一番古いと誰もが口を揃える。そんなことはない、これは新しい。古代からの基盤がすべて消されるこなどありえない。経験則からそう自分に言い聞かせる。言い聞かせるほどに心細くなる。夕食をとっていないことに気づく。宿もない。

もう少し賑やかな地区があるという話をようやく聞き出したのでタクシーをつかまえる。ポンコツで尻が痛い。スポーツ刈りの運転手は、挑発するかのように大声でわめきちらしては、愛嬌と狂気の混じったような笑い声をあげる。街のちんぴらといった風だ。タクシーを降りるとそこは繁華街。休日のためだろう、雨にもかかわらず無数の若者が繰り出して街は渦を巻いている。しかし古い街のかけらも見当たらない。見えるのは高層ビル。そして洋品店とファーストフード。ともかく宿をとる。食事のためすぐ外出したが、行けども行けども雑踏は絶えない。同じような若者向けの洋品店だけが蜿々と連なる。ジーンズ、ダウンジャケット、コート・・・。店頭で配られたビラはすぐに投げ捨てられ、堆積した紙が雨に溶けて歩道は黄土色にぬかるんでいる。どの店先にもスピーカーが置かれR&Bを大音量で鳴らす。負けじと大声で怒鳴る若者たち。バイタクのクラクションはいつしか背景に退く。しかし目の前の大通りでは地下街建設が進み、フェンスの裏で日本製の重機が轟音をあげる。あまりの喧騒に頭がおかしくなりそうだ。所在ない不安感にさいなまれる。

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何とか食事にありつき宿に戻る。11時。ずいぶん彷徨ったものだ。宿のおばさんたちも古い街は全部壊してしまったのだと言う。まあお寺ならあるけどねと。たしかに私たちの目的のひとつは北宋1009年の玄妙観三清殿を見ることだった。しかし、街の風景に時間の層を読み取り、民家をたずねて生活を見ないことには、都市を体験したことにはならない。少なくとも私にとってはそうだ。

P1029083 P1029078クラクションは朝まで止むことはなかった。雨もまだ続いている。しかし、書店で地図を手に入れれば勘も働きはじめる。街区の裏の路地に入り込んでみる。ようやく20〜30年ほどの時間の厚みは感じられるようになる。そうだ、時間はそう易々と消せるものではない。しかしまだこの都市の厚みには届かない。つづいて城隍廟、三清殿、東嶽殿など、宋から清にかけてのいくつかの木造建造物を見る。幸い古い民家の内部も詳しく見ることができた。明代の建物だが、文革以後の雑居状態の名残りも含めて生活ぶりがよく分かる。朝から歩きはじめて午後2時をまわっていた。莆田の街が、ようやく自分たちのものになりかけていた。

ところが、この民家の前の路地はどうやらかなり古い。「大路街」という名もむしろ都市の本来の中心であったことを物語る。木造平屋〜二層の傾いた町家が連なる。その連なりは屈曲した路地の、さらに向こうへと続いているようでもある。いてもたってもいられず歩きはじめる。店は3〜4mの間口いっぱいに吹き放たれ、傍らに10枚ほどの板が積み重ねられたり立て掛けられたりしている。夜になればこの板を立て並べて店をふさぐ昔ながらのやり方だ。台湾ではほぼ見られない。この商店街には、食堂があり、米屋や肉屋があり、道具屋、雑貨屋、布団屋、反物屋がある。まさに日常生活を支える商業空間であり、その建物はたぶん清代までのものがかなりの割合を占めるだろう。この街で食べた牛肉麺は素朴で美味かった。そして安かった。この街を行く人々にはとてもダウンジャケットなど買えそうにない。目を上にやれば高層住宅群が取り巻いていた。

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牛肉麺を食べながら、これではまるでSF映画ではないかと何度も目をこすった。高層の新市街に住む人々と、目の前の商店街の人々とは、おそらく宇宙から飛来した征服者と、彼らに洗脳された先住民の関係であるに違いない。でなければ、なぜ新市街にいた人々は異口同音に古い街はすべて壊してしまったのだと答えたのか。眼前を行く人々もまるで周囲の高層ビル群に気づいていないかのように思われてくる。

どうにか理解できたと思われた莆田の都市が、再び、いやすでに昨夜以上に不可解なものになってしまっていた。もちろん、これは映画のセットではないし、街行く人は俳優ではない。この道をもう少し進めば再びあのR&Bと鎚音と怒声とクラクションの世界に戻れるし、その上にはコンクリートの住宅が積み重なっている。人々は彼此を行き来している。どうということはない、たんに高層住宅に住む人々も日用品はこういうところで買っているのだと考えればよいだけの話だ。ならば、このSF的感覚はどこから来るのだろうか。実は、それは現実の風景のコントラストそのものよりも、そのコントラストにもかかわらず人々が「古い街はもうない」と答えたという事実に由来していたのかもしれない。

P1039522この日の夜、私たちはさらに東へ100Kmの福州 Fuzhou へ移動し、翌日その巨大都市の中心部に見事に凍結保存されようとしている歴史的市街地を見た。高層ビル群がこのかつての官人の邸宅群を取り巻く様子は莆田の比ではない。ビルの上層からは、近代都市の模型にコケか何かが貼り付いているように見えた。そこには、実は誰も住んでいない。修復と観光開発のために何千人という雑居住人が追い出され、あるいは望んで高層住宅に移ったのだ。住人が出たままの状態の廃虚。修復された広大な邸宅。そして新たに「復元」され一昨日にオープンしたばかりの商店街。早くも観光客で賑わっていた。意図された、計画的な、そして最も望ましくない保存である。驚いた。ただ、これをやってはだめだ、という嘆息は、実は安心感でもあった。この方があのSF的な莆田の街よりもはるかに分かりやすいからだ。

これに対して、莆田の古街は意図的に保存されたものではない。福州の官人邸宅群のような立派な建物もない。にもかかわらずしかし高層住宅に覆われた都市の真ん中にへばりつくように、あの映画セットのような街は今もたしかに息づいている。そのことを都市計画当局が問題視していないはずはない。早晩、周囲と同じような高層住宅に取って変わられてしまうか、あるいは福州のように凍結され観光化されるのかもしれない。その意味で、あれは奇跡的な、そして長い歴史のなかで見れば瞬間的な風景なのかもしれない。そして、少なくとも私たちにとって、あの二重性のありようが、きわめて無意識的に招来されたものに見えたことは、きっとこの文章では伝わりにくいだろうが、しっかりと記憶しておきたいと思うのである。それは、ひょっとすると私たちの時間的感性の何らかの異常さ(少なくともステロタイプ)を逆照射しているのかもしれないからである。

2010/01/06

厦門(アモイ)の“市区改正”

もちろん“市区改正”というのは明治の日本語(市街地改造というほどの意味)。海外では日本の植民地でしか通用しない。台湾では「亭仔脚」と呼ばれる連続した歩廊の町並みがつくられたことが知られる。さかのぼればシンガポールやペナンも、そして銀座煉瓦街も歩廊付き。くだって中国南海岸地域(福建・広東の両省)でもよく似たことが広く行われた。19世紀から20世紀前半の東アジア東南アジアは、都市開発のあり方という点でもひとつながりの世界だったのである。

厦門では、辛亥革命(1911-12)後に設立された「市政処」が精力的に都市改造を推進した。旧城壁外に広がるスプロール市街地を改造し、世界につながる海港都市の面目を示すためだった。既存街路の拡幅、あるいは都市組織の切り裂き。恩田重直氏の研究によれば、31年頃以降の事業では、市政処は道路用地のみならず沿道の土地(奥行き15mほど)をも収用し、クリアランスしたうえで、新たに地割りして原所有者優先で払い下げた。土地を取得した者は、連棟式・原則3層の街屋(ショップハウス)を建設し、面路部に「五脚基」と呼ばれる歩廊を設けて開放する。この収用地(=街屋奥行き分)の裏には在来の都市組織が残されるので、街屋はそれらへのアクセス用の路地を挟みながら、また微細な土地のひずみを吸収しつつ、折り合いをつけて建設されてゆく。それゆえ、こうした路地を入れば街区内部は相当に複雑な様相を呈するのである。


大きな地図で見る

台湾では、植民地政府は道路用地だけを無償で取得し、切り刻まれて残った土地・建物はその所有者が自分で繕ったり建替えたりしなければならなかった。そのとき連続した歩道(亭仔脚)もつくらせる。政府は道路(+下水道)を整備すればよい。厦門で沿線の土地まで収用する事業方式が可能だったのは、おそらく華僑資本が大々的に投入されたためだろう。買い戻した土地に建設された街屋も台湾に比べて立ちが高く、意匠もエレガントだ。尺がフィートなのも(たとえば五脚基の奥行きは8フィート)、英領海峡植民地とのつながりを示唆する。

色んな意味で植民地台湾との共通点と差異が見えてとても面白い。

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2010/01/04

SF的時間体験を毎日のように。

12月25日から福建省のいくつかの地域を巡って、今晩(1月3日夜)厦門に戻ってきた。明日台北に帰り、翌日台南へ行って所用を済ませ、7日には帰国の予定。今回の旅ではほとんどSFのような不思議な感覚をたびたび味わい、色々考えることも多かった。個々の事件についてはあらためて写真付きで報告するつもり。以下最近3日間の簡単な日誌。

P1039539*写真は今日の晩ご飯より。これも外観はSF的であった(けっこう美味)。

1月1日(金)泉州。中山南路付近を歩く。五脚基(騎楼)のあるショップハウスが途切れることなく続く。もちろん色々な更新がなされているのだがファサードの連続は圧巻である。裏通りにはさらに複雑な世界が展開する。大通り沿いには一見するとショップハウスの進化形かと思われるような街並み。しかし、よく見るとショップハウスとは基本的に異なる何種類かの民間開発の型が旧市街各地で実験されているようである。一方、壁面の材料・色と屋頂(屋根)の形における泉州の「伝統」の表象はきわめて一貫している。夕方、角南さんはじめ3人は厦門へ帰還。我々はタクシーを捕まえて莆田ヘ。見渡す限り近代的な開発の高層集合住宅が並ぶが、足もとの人々はほとんどアナーキーでカオティックな様相。

1月2日(土)莆田の街を歩く。人に尋ねても古い街は全部壊してしまったと口をそろえる。しかし裏路地に入るといくらか層状の歴史が感じられる。城隍廟に出くわす。明代の様式。ついで目的のひとつ玄妙観三清殿。北宋1009年の建物で、外部からは分からないが堂内に一歩足を踏み入れたとたんに圧倒的な構造が展開する。しかし神像も何もない。隣の東嶽殿では卓球ビリヤードに興じる人々と骨董屋が待ち受けていた。その向かいに古い民家を発見。幸い住人に親切に案内してもらう。色々と発見あり。そしてこの家の前の通りを進むとそこには信じられないような古びた町並みが蜿々とつづくのであった。狐につままれたような不思議な体験だった。これについては別にレポートする。夜、バスで福州へ到着。

1月3日(日)福州。まずは華林寺。北宋だが昨日の三清殿よりさらに半世紀早い。木太く力強い架構に圧倒される。ついで街歩き。昨日の莆田が嘘であったかのように福州の都市は現代的で落ち着いて見えた。ただし高層住宅群の背後には今まさに破壊されたばかりの旧市街の残骸があった。そして、「三坊七巷」の名で知られるかつての官人の邸宅街は、最近数年のうちに住人を移住させて歴史的町並みとしての修復がなされている。いや、ほとんどディズニーランドのように新しい歴史的街並みをつくり出していると言った方がよいかもしれない。今回の旅のなかでは時間が最も機械的に扱われている都市と言ってよい。夜、厦門へ戻る。

2009/12/31

閩南(福建南部)調査の途中報告を。

大晦日の今日は泉州。ビジネスホテルをとったらネット接続良好なので、年が明ける前にここ1週間の日誌を取り急ぎ上げることにします。みなさんよいお年を。

PC318705*写真は泉州開元寺門前の路地にて。

12月25日(金)台北(桃園)→厦門高崎)。宿に入る。陳正哲兄と合流。まず厦門大学訪問。広大なキャンパスに無数の宿舎(教職員・学生)が立ち並ぶ。コロニアル+閩南の立派な建物だがベランダには洗濯物がずらり。すばらしい。宿に戻って考古学民族学の角南さんも合流。厦門の歴史に詳しい葉先生を御自宅に訪ね、さっそく厦門周辺の一般的な起居様式等について議論。先生と一緒に夕食。沖縄出身で厦門大学に留学中のKさん加わる。宿に戻ってさらに厦門大学のCさん加わり打ち合わせ。

12月26日(土)葉先生に案内いただき厦門市海滄区へ。まず霞陽村という集落。宗祠や三合院が数多く残る。眠床のいくつかの形式を実見。つづいて新街。古い街屋群。間口が3〜4mと狭い。金城、鹿港、台南五條港などの街屋とよく似る。内部も見せてもらう。たまたま居合わせた職人にも話を聞く。近年の新築住宅では靴を脱ぐ習慣もかなり普及しており、和室のごとき揚床の部屋をつくることもあるという。

12月27日(日)厦門市思明区の旧市街を歩く。辛亥革命後に設立された市政会による道路建設とともに「五脚基」のある街屋が建てられた(五脚基は私有地の面路部に開放された歩廊。いわゆる騎楼。台湾では亭仔脚)。華僑資本による。開元路が1920年に建設された以外は20年代後半か30年代前半に集中。街路幅員9m、五脚基は奥行き2.4m・高さ3.6m(梁下)。同時期(日本植民地)の台湾に比べると街屋の立ちが高く、また街路設計が滑らかな曲線をなすため、町並みの印象はかなり異なる。二階以上も売買が進み内部の垂直導線はかなり複雑な様相。市場、廟などで話を聞く。

12月28日(月)フェリーで鼓浪嶼へ。アモイ島は1841年のアヘン戦争で英軍に占領され、42年の南京条約で開港されたが、1902年に共同租界が設置されたのが、ここコロンス島(鼓浪嶼)。旧ドイツ領事公邸を改装した宿に入る。欧米および日本関係の建物の他に、もちろん華僑系の建物が多く、中心部には小さいが市街地もある。保全活用のための改修工事がラッシュ。資料館等の入場料も異常な値段でかなり滅入る。

12月29日(火)朝、正哲兄は台湾へ帰る。我々は厦門から車で北上。途中の集落で民家を訪ねいくつか房間を実見。目的地の進城県培田の村ヘ。立派な宗祠・家屋その他がよく保存されているが、修復や整備がかなり入っている。ここもすぐに観光地に変貌し、住民の多くが集落の縁辺に建てたコンクリート2〜3階建ての家屋に移り住むようになるのだろう。4時頃に集落を出て湖坑へ。いわゆる福建土楼(客家土楼)を見るため。運転手が2時間というので安心していたが雨と工事のため悪路となり5時間かかる(途中、脱輪のアクシデントあり、冷汗)。土楼のなかの房間に泊めてもらう予定だったが門限に間に合わないので近くの民宿に変更。土楼に住み込んで調査中のKさん(都立大・文化人類学)と飲む。

12月30日(水)まずKさんが住んでいる土楼へ。直径55m前後、4層。版築の土壁を保護するためだろうが軒が3.6mも張り出している。占有形式が1階厨房、2階倉庫、3〜4階房間というかたちで垂直になるのは台湾でも厦門でも街屋の基本。起源と無関係に論じるなら、土楼を展開すれば街屋の町並みのようになる。土楼の外には、ちょうど土楼の2〜3スパンを切り取ったような2〜3層の独立の住家が建つ。これが新しい家屋の一般的形式らしいが、技術的にも空間形式的にも土楼とまったく連続的。土楼とは何か。

12月31日(木)泉州へ。宿を探して入る。宿の目の前にある銅佛寺へ。決して古い建物ではないが穿斗式の架構がよく分かる。福建の建物は、日本でいう大仏様と禅宗様の複合。もちろんこの表現は歴史的には倒錯している。大仏様はむしろ福建の地方様式の“ある部分”を強引に肥大化させた実験の産物と考えるべきだからだ。つづいて文廟。ここは抬梁式の重檐・廡殿式。次は清浄寺北宋創建のモスク。1009年建設、1310年改修だが現在は廃虚。その横に閩南式のモスクが併設されている。最後は開元寺。13世紀の石塔が残る。開元寺門前の東街はかなり面白い。いくつかの形式の街屋あり。