VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2017/09/09

10+1 website 2017年9月号 特集「東京の〈際〉」 ---- 網と魚

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10+1 website 201709 特集 東京の〈際〉

都市のダイナミックな動き    それを僕は何か巨大な心臓みたいな生き物がドクンドクンと膨張しながら自身のかたちをも変形させていくような、そんな動きとしてイメージしているんですが    その動きが激しい社会的=空間的な変化としてあらわれてくる、そういう地帯としてアウターリング(=朱引・墨引の外側、旧東京市をとりまく旧郡部、生産+流通のエリア、ざっくりと皇居から8-16km圏)を見ています。

最近、オリンピックが近づいてるからでしょうが、テレビでちょっとマイナーな(失礼!)スポーツでも中継や解説が流れていたりして、昨夜はサーファーが格闘する大波が、沖から次々に送り出されてくるのをしばらくぼーっと見ていました。あの波、ある一定の条件をもった場所に大きくあらわれ、サーファーはその動きへの観察眼を研ぎ澄ましている。

大きなうねりが何らかの条件下でぐあーっと立ち上がって波形を顕在化させる、それに似たものを都市のなかにつかまえることで海=都市それ自体のうねりとそれが具体的に形態化する条件みたいなものが分かるんじゃないかなという    原稿〆切の前にサーフィン見てたらよかったのになあ。波頭っていう隠喩は思いついたんだけど、その波をつくり出している巨大な海それ自体のダイナミズムと、それをもたらす宇宙の動きと、海のうねりを波というかたちに整形する地形や風などの条件と、そして波という顕在化を感知する眼=身体の精度を上げていくサーファーと・・・こういうイメージをもうちょっとはっきり書けたらよかった気がする。

今回の特集の、東京の〈際〉をみようというテーマは面白いと思いました。当然ながらかつての文化記号論みたいなスタティックな中心-周縁論ではなく、ダイナミズムの表現としての〈際〉、つまり変化の波頭としての〈際〉を捉えることができるはずですが、それは必ずしも文字どおりの端っこ(物理的周縁)に現れるわけではない、ということをひとつは書きたかった。私たちの研究プロジェクトの場合、それを〈都心〉と〈郊外〉のような比較的安定的にカテゴライズ可能なエリアに挟まった、多義的・両義的な場所に見いだしてみようということです。

他方で、今回の文章はリングのかたちをした網にひっかかるものは何でも集めて、どんな魚がどれくらい含まれるか、その組成を調べていこうというわけで、つまりはリングは網にすぎないので、結果はリングをかき消すことにつなることはまあ規定の路線なわけです。網だって繕ったり縫い足したりもするでしょうしね。結局、そういうヤケクソな漁師+キマジメな検体検査官みたいな作業をやっていかないと、サーファーみたいな感度が手に入ないのかなと、そういう感じです。

学生の皆さんにもいつもそう言っているつもりなんだけど、アウターリングとは網なのか魚なのか、それを混同しちゃうと、自縄自縛になっちゃうよ(!)

2015/02/12

数年間の共同研究の成果、『明治神宮以前・以後』が刊行されました。

2009年より、藤田・青井・畔上・今泉を中心に、たくさんの方々のご参加・ご協力をいただいて進めてきた分野横断型の共同研究の成果が、鹿島出版会より刊行されました(担当は川尻大介さん)。装丁デザインは中野豪雄さん(nakano design office/本書の紹介ページはこちら)。左の書影(nakano design office 提供)から、全540ページのヴォリューム感と造本の誠実さが伝わることと思います(グラマラスなのに軽い!)。

《近代日本において国家的・公共的存在とされた神社。変貌してゆく都市や地域社会のなかで、それはどのような機能や特質をもつ空間として期待され、いかなる環境・風致・景観が創出されようとしたのか   大正時代明治神宮造営を大きなメルクマールと捉え、神道史、建築史、都市史、地域社会史、造園史などを横断しつつ、神社境内の環境形成をめぐるダイナミックな構造転換を描く。》(本書オビ)

(以下はわたし個人の表現ですが)明治神宮創建というプロジェクトは、近代「日本」の規定そのものに関わるようなナショナルパブリックな空間をいかに組み立てるか、というモメントにおいて、国民、国家、帝国、天皇宗教公共性、都市、資本、技術、学知、美学・・・といったものをひとつの構造とイメージの下に束ねること、そうしてそれらの意味を再定義すること、だったのではないかと考えられます。国家運営を担う政治家資本家官僚有識者技術者らが行ったケーススタディとしての明治神宮プロジェクトがある種の総合的な「科学」の創出運動であったと回想したのは神道学者・内務官僚の宮地直一でした。実際、神社境内は明治神宮「以前」と「以後」とで大きく、構造的な意味での変化を遂げており、今日のわたしたちの眼前の境内環境イメージはその頃の地殻変動の結果がさらに広範に波及し自明化したものだと言えます。また、それはたんに神社境内の問題にはとどまらないでしょう。

 本書はこんなことを考えるための基盤をつくるものです。みなさま是非ご一読いただきご批判いただければと思います。

明治神宮以前・以後 ―近代神社をめぐる環境形成の構造転換
藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子 編

鹿島出版会2015年2月12日刊行) amazon  鹿島出版会

序説 近代神社の造営をめぐる人々とその学知(藤田大誠)

◆第1部 神社造営をめぐる環境形成の構造転換
◇第1章 神社における「近代建築」の獲得(青井哲人
◇第2章 戦前日本における「鎮守の森」論(畔上直樹)
◇第3章 帝都東京における「外苑」の創出(藤田大誠)

◆第2部 画期としての明治神宮造営
◇第4章 明治神宮が〈神社〉であることの意義(菅 浩二)
◇第5章 近代天皇像と明治神宮(佐藤一伯)
◇第6章 外苑聖徳記念絵画館にせめぎあう「史実」と「写実」(今泉宜子)
◇第7章 森林美学明治神宮の林苑計画(上田裕文)
◇第8章 明治神宮外苑前史における空間構造の変遷(長谷川香)
◇第9章 明治神宮林苑から伊勢志摩国立公園へ(水内佑輔)

◆第3部 近代における神社境内の変遷と神社行政
◇第10章 神田神社境内の変遷と神田祭(岸川雅範)
◇第11章 明治初年の東京霧島神宮遥拝所(松山 恵)
◇第12章 近代神戸の都市開発と湊川神社吉原大志
◇第13章 法令から見た境内地の公共性(河村忠伸)
◇第14章 近代神社行政の転回と明治神宮の造営(藤本頼生)
◇第15章 近代神社の空間整備と都市計画系譜(永瀬節治)

◆第4部 基礎的史料としての近代神社関係公文書
◇第16章 基礎史料としての東京府神社明細帳(北浦康孝)
◇第17章 「阿蘇郡調洩社堂最寄社堂合併調」一覧解題(柏木亨介)

末筆になり恐縮ですが、大事なことを二つ。

まず、本書はこれまで共同研究を組織・牽引してきた藤田大誠さんの無私の努力なしには実現していません。

また、本書の出版にあたって明治神宮国際神道文化研究所の助成を頂戴しました(編者のひとり今泉さんが在籍する同研究所にはこれにとどまらぬ様々な支援をいただいてきました)。

記して感謝します。

2014/12/14

都市史研究の運動性を感じた1日

一昨日(12/12)の日本建築学会都市史小委員会シンポにつづき、都市史学会大会に参加。残念ながら12/13は大学院の中間発表会だったので西川幸治先生の記念講演を拝聴できなかったのだが、14日のシンポでは各分野の研究動向の報告を聞き、ラテンアメリカ都市史に関する加嶋章博さんの報告へのコメントをさせていただいた。都市史研究の緊張感ある議論の場とそれが創り出す運動性をひりひりと感じた1日だった。

2014年度都市史学会大会プログラム
日時:2014年12月13日(土)・14日(日)
会場:京都工芸繊維大学60周年記念館1階記念ホール

12月13日(土)
都市史学会総会

記念講演:西川幸治(京都大学名誉教授)
    「都市史への試み」
司会:石田潤一郎(京都工芸繊維大学)

12月14日(日)
記念シンポジウム「都市史の現在 II」
司会:三枝暁子(立命館大学)
趣旨説明:中川理(京都工芸繊維大学)

遠く隔たった世界の事象同士が複雑な連関をみせる現代社会において、その激動の最前線にあるのが都市である。そこに生きるわれわれにとって必要なのは、目の前の問題への対症療法ではなく、歴史的な視野をもった展望であろう。このような問題意識にたち、都市史学会の第2回大会にあたる今回のシンポジウムでは、昨年度に引き続き「都市史の現在」をテーマとする。今年度は日本、イギリス、イスラーム、ラテンアメリカの都市史研究の動向を報告いただく。それぞれ対象とする時代も地域も方法論もさまざまであるが、個々の領域に閉じるのではなく、都市史にどのような方法的可能性があるか、最適都市の探求にどのような展望が拓けるかについて広い視野から議論することを目標とする。今回の開催地京都は、日本の都市のなかでもとりわけ長い歴史を有する都市であり、都市史研究においても数多くの素材と視座を提供してきた。この京都の地から、日本のそして世界の「都市史の現在」を見つめることにより、都市史研究の地平をさらに拡げていけるものと考える。

報告1 日本古代都市史:山田邦和(同志社女子大学)
報告2 日本近代都市史:松山恵(明治大学
報告3 イギリス都市史:本内直樹(中部大学)
報告4 イスラーム都市史:長谷部史彦(慶応義塾大学)
報告5 ラテンアメリカ都市史:加嶋章博(摂南大学)

コメントとリプライ、全体討論:
報告1←河角龍典(立命館大学)
報告2←高木博志(京都大学)
報告3←大橋竜太(東京家政学院大学)
報告4←三浦徹(お茶の水女子大学)
報告5←青井哲人明治大学

2014年度都市史学会大会実行委員会:中川理(委員長/京都工芸繊維大学),石田潤一郎(京都工芸繊維大学),松本裕(大阪産業大学),三枝暁子(立命館大学),岩本馨(京都工芸繊維大学),三宅拓也(京都工芸繊維大学),花田卓司(京都大学)

2014/12/13

大地/地面/土地の三位相の複合としての「地」

20141212.Fri. 日本建築学会都市史小委員会シンポジウムが行われ、コメンテーターとして参加したが、とても面白かった。早起きして京都へ行った甲斐あり。

日本建築学会主催 建築歴史・意匠委員会 都市史小委員会シンポジウム
「都市と大地」シリーズ1
「都市史の基層として大地・地面・土地を考える」

日時:2014年12月12日 10:30〜17:30
会場:京都工芸繊維大学工繊会館
趣旨説明 松田法子(京都府立大学/建築史)
報告1 金田章裕(元人間文化研究機構長・京都大学名誉教授/人文地理学)
   「大地へのまなざし」(基調講演)
報告2 河角龍典(立命館大学/地理学・環境考古学)
   「都市史研究とジオアーケオロジー:古代日本における都市開発と微地形」
報告3 樋渡彩(法政大学/建築史)
   「都市の領域と流域:ヴェネツィアの繁栄を支えたテッラフェルマの流域」
報告4 福村任生(東京大学/建築
   「建築から大地へ:20世紀イタリア都市計画の射程とその方法論」
コメント1 岩本馨(京都工芸繊維大学/建築史)
コメント2 青井哲人明治大学建築史)
全体討論

 都市史小委員会では2006年度から4年間を1クールとするシンポジウム・シリーズを継続している。2014〜17の第3クールは、「大地と都市」を基調テーマに毎年異なるオーガナイザーがシンポを企画する。

 今年2014年度担当の松田法子さんの提案は、「都市と大地」という問題系を、「大地/地面/土地」の三位相の複合としてモデル化しようとするものだが、いやこれは冴えている。「大地」は地面より下にあって大きな厚みを持つ地形の骨格。「地面」は大地の上の表層土壌、いわゆる地表面。「土地」はこれらを切片化した社会的位相であり、人間活動と制度の体系にかかわる。これは「地」をたんなる層の重なりとしてでなく、異質な原理の緊張あるダイナミクスとして捕まえる包括的な枠組みになりうる予感がある。たとえば・・・「地面」は、「大地」の論理によってそのつくられ方が左右されるが、他方では「土地」の論理によってつくり変えられもする。「大地」の激しい運動がいきなり「地面」を奪い去り「土地」の再編を強いることもあり、また「地面」も長期的には相当に大きく変動して「土地」を揺さぶる。「土地」が深く「大地」に介入することも決して少なくない。

 次に、こうした諸関係を理解・記述するのにふさわしい地理的枠組みを考えてみよう。つまり「大地」や「地面」はそれ自体の拡がりとまとまりがあり、人間活動の体系性がそこに緊密な関係をもって重ねられるわけで、それを捉えるのに適切な地理的単位すなわち「圏域」の発想が必要になるということである。人間活動の圏域にはたとえば生産・経済圏があり、統治圏もそれと重なり合うことが容易に想像されるが、経済と統治がつねに同調するとは限らないし、他の圏域との連関もあるから、領域の再編は鋭い政治的緊張を孕みながら起こるだろう。

 こうして、「都市と大地」という問題系は都市史理解に多面的で複雑な緊張を持ち込みうる。

 金田章裕先生のお話、とくに『微地形と中世村落』(吉川弘文館、1993)にもとづく基本微地形/微細微地形と人間社会の活動/制度の対応関係(「地面/土地」のセンシティブな関係)に関する復元研究の紹介は、先生ご自身はずいぶん昔の研究とおっしゃってはいたが、すこぶる面白くて興奮した。たとえば東寺桂荘などの荘園文書から失われた中世の景観を復元するプロセスは、条里制グリッド単位の登記情報から、いわばマス目毎の土地利用の“割合”だけが表現されたメッシュマップを作成し、そのデジタルな(不連続な)地図からアナログ(なめらかに連続した)な河道や土地利用の画像を導き、その土地利用の特質から逆に微細微地形を復元してゆくといったきわめて鮮やかなものだった。また、人間活動と「地面」との関係において「平坦化」(すなわちデジタルな不連続面の形成)がひとつのキーワードになることにあらためて気づかされた。

 河角龍典先生の研究は、ジオアーケオロジー(地考古学)の方法によって都市史研究の基盤に「大地・地面」の厚み(物理的な深さ、時間的な厚み)を持ち込もうとするもので、考古学データとGIS技術とを大きな武器としている。たとえば「大地」の立場からいえば平安京とは「更新世段丘面I・II/鴨川流域扇状地帯/桂川流域自然堤防帯I・II」に分けられ、市街地の大部分が扇状地の緩斜面に乗っていること、宮域は段丘面に位置し、その東南端にのちの二条城が立地することなどが客観的に把握される。桂川流域は京域面積の10%程度にすぎず、右京が桂川の反復的氾濫のために衰退したとする説は当たらない。「地面」の観点からいえば、千年強の間に鴨川も垂直方向に激しく変動しているため、市街地の水害リスクは時期によってまるで違い、また洪水による地表面の上昇も時期や場所によって違う。京都の地面が最大で3mも上昇しているとはまったく目から鱗であった。

 樋渡彩さんのヴェネツィア研究の独自性は、一般には海洋国家として理解され、それゆえにアドリア海−地中海に向いてきた従来の研究動向に対して、むしろラグーンの背面に拡がり、また立ち上がっていく「大地」に注目するという視点の反転にある。この大地が「テッラフェルマ」(動かぬ大地)と呼ばれることが逆説的に示すように、ヴェネツィアは元来(海と陸の両方から運ばれた土砂によって形成された)ラグーンのなかの砂の高まりにすぎなかった。頼りない「地面」に木杭を多量に打ち込んでつくられた第二の「地面」には何の資源もなく、他ならぬ杭のための木材を含む資源供給は動かぬ「大地」に依存せざるをえなかった。それゆえヴェネツィア共和国は領土(テリトーリオ)を獲得・保全せねばならないし、いくつかの河川流域に「大地・地面」上の位置に従って機能分化した流通・産業拠点が形成される。

 福村任生さんの報告は、20世紀イタリアの都市計画史を「建築から大地へ」というパースペクティブにおいて辿るもの。緻密な思潮史的整理がなされ、用語集や年表も含めて報告者の努力と力量を感じさせた。単純化していえば、「centro storico 歴史的中心」の保全から出てくる建築学起源の「tessuto 組織」や「tipologia 類型」の観点・方法と、農業景観の人文的成り立ちにアプローチする地理学・歴史学起源の「paesaggio umano 人間的風景」とが合流するところに、非都市領域の歴史的構造を「territorio storico 歴史的領域」と呼び、「大地・地面」と人間活動の関係が景観として物化された状態を読解・保全する枠組みが成立してゆく、ということになるだろうか。ここまで来れば、やはり是非ともこうした思潮的系譜と政治的脈絡との交錯を描き出してほしいと思う。

 20世紀は、多かれ少なかれ前近代と近代とのアマルガムであった段階と、それなりに一貫した強力な近代的政策技術体系が確立された段階とからなると思うが、その移行期が1930〜60年代であり、だから様々に対立する思想が政治と緊密にかかわりながら一挙に噴出し、戦わされたのだろう。このシンポジウムの枠組みである「大地/地面/土地」の関係も、この移行期を経て大きく変わった。「土地」側の論理によって「大地」を暴力的に刻んだり、元来は災害リスクの高かった「地面」が「土地」化されたりするようになるのはその一端だ。

2014/09/07

ミクロな実証とマクロな枠組がいよいよ立体的に結びつきつつある・・・台湾調査2014沙仔崙

 2014.08.09〜08.24 台湾。学生たちとみっちり調査をしたのは8月11日〜21日で、そのうち2日はエクスカージョンだったし、初日と最終日は半日だから、まあざっと1週間の調査だったことになる。今年のターゲットは彰化県田中鎮の沙仔崙Sua-a-lun という街だ。いや「街」だと思って調査に臨んだら「村」だったので腰が抜けた、というのが初日で、そこからモリモリと色々なことが分かっていくというちょっと今までにない経験をした。 (*以下、地名にアルファベットで読みを付しているが今回はすべてホーロー(ミンナン語)にしてみた。

 そんなお粗末な、と思われたであろう。はい、そうです。ぼくたち、周到な準備をして調査に臨むなんて滅多にない。でも研究の枠組みというものは当然ある。すぐ近くに田中Tian-tiong という街があって、これは20世紀初頭に新たに建設された都市。もとは地名が田中央であったことからも察しがつくように水田のただなかであった。昨年はこの田中という街の調査をして、漢人が何もないところからどうやって都市を立ち上げるのかのひとつの重要なドキュメントをつくる手がかりを得た。彼らの理念的な都市像と、実際の開発手法、土地所有=経営、社会=権力構造などが立体的に結合した都市概念が描き出せるだろう。さて、以前から知っていたことではあるが、この街には前身があって、それが1898-99年の両年にわたり激甚な水災・火災に見舞われたため田中に移動してきたのである。この前身の街こそが沙仔崙であり、今年はこの街を調べることで、旧街と新街との関係すなわち都市移動のダイナミクスへと視野を広げようと考えたのである。ところが・・・沙仔崙は街ではなかった。正確には、アーバンな類型のティシューを備えていなかったのである。

P8180549[fig.01] 沙仔崙は、この一本の道路を軸とし、これに沿った長さ三〜四百メートルのリニアな集落なのだが、この写真のごとき景観を見れば、まあ小さいながらもいちおう都市的なティシューだなと思うよね。昨年、車でざっと廻ってもらって下見したときは、僕もそう思った。けれどやっぱり自分の足で歩かないうちに判断しちゃいかんということを今年は痛感した。次の写真をご覧あれ。

P8200215[fig.02] うわ、マズイと思ったね。新しいRC町屋の間に挟まれるように、古そうな三合院のカケラが残っておるではないか。裏へ回り込んでみると・・・

P8120284[fig.03] はい、三合院。正身の左右から護龍という腕が伸びてコ字型平面をつくる三合院の、片方の肩から腕にかけての部分が残っている。つまりもともとは整った三合院が立地する、正方形に近いプロポーションの大きな屋敷地があって、それが比較的近年(過去30〜40年の間に)細分化されていった結果が、fig.01のような状態なのであろうことが直ちに理解される。

P8150259[fig.04] もうちょっとカケラの写真をどうぞ。写真の左に見える赤煉瓦が正身(の中央部)で、右に見える赤煉瓦は左護龍(の中央部)。うひゃ、ぶつ切りにされているではないか。こういうのがよく見ると集落のあちこちに転がっている。だんだん面白くなってくる。

というわけで、最初の思い込みを否定するのに30分も要しなかった。沙仔崙は紛れもなく農村的な集落だったのだ。次に立てた仮説は、20世紀初頭の遷街で住民が田中へ移ってしまったために沙仔崙は農村化したのだろう、というものだ。ここで「棄てられた都市」というキャッチフレーズをとりあえず立ててみたのだが、歩けど歩けど、百年ほど前には都市だった、とみなせる根拠は見つからない。アーバンなティシューとルーラルなティシューとは基本的に異質なものであって、かつてアーバンであったのなら僕らにも察知できる何かがあるはずだが、それが一向に見つからない。

P8120220[fig.05] 初日夜、宿の食堂にてミーティング。「棄てられた都市」というテーマはいちおう留保して、現在の公図(地籍図)をじーっと睨んでみた。アミダクジをみれば誰だって後に入れたのはタテ線じゃなくヨコ線だと分かるよね(線の勝ち負けという図的な理屈)。それと同じ要領で新しく短い線から順次間引いていけば、かなり蓋然性の高い地割の復原図が得られる(もちろん仮説)。それを皆でやってみると、多少の解釈のズレはあっても、大局的にはどう見てもこりゃ正方形に近い元来のロットが相続等のために分割されてきたと見るのが適切だなと判断できる。都市が棄てられたから農村化したのではなく、沙仔崙ははじめから農村だったとみてまず間違いない。

 ここで一気に視野を広げてみよう     この地域は、台湾西部平原の中央を流れる濁水渓Lo-chui-khoe(螺渓Le-khoe とも)の流域としてつかまえられる。中央山脈から丘陵部を走った河川は、平野部へ出ると土砂を大量に吐き出しながら流速を下げ、複雑な網状の流路をなし、複数の流れに分かれ、やがて蛇行し、最後に三角州やラグーンをつくって海に注ぐ。このうち、山から平野に出た後、15〜20Kmくらいの間は3本の主流を擁する見事な扇状地が形成された(20世紀の治水工事により今は1本の主流に集約されている)。台湾は台風の通り道だし、雨期の雨は凄まじい。ひとたび大雨になれば流れは暴れ狂い、溢れ出して流路を変える。これを繰り返して砂礫を均等にばらまいたから(水圧をあげるとホースが首を振るイメージ)、濁水渓の扇状地はとても美しいかたちをしている。

 ざっくり言うと、濁水渓流域では18世紀を通じて大陸からの漢人移民・開拓が進み、大陸の泉州Choan-ciu や厦門E-mng などとの交易を担う沿海部の港市(鹿港Lok-kang)、平野部穀倉地帯の集散拠点(多数)、山地資源の集散拠点(林圯埔 or 林杞埔 Lim-ki-poo)、これら全体を統治する行政拠点(彰化Tsiong-hua)といった諸カテゴリーの都市も育っていった。思い切って要約すると、この世界は(1)地理学的には濁水渓流域、(2)行政的には彰化縣城管下、(3)経済的には鹿港経済圏として規定できる。

 経済的支配力は対岸貿易港たる鹿港が握ったが、しかし、その「鹿港経済」ともいうべきものが内陸部にまで浸透するには中流域=扇状地内に立地する小規模都市群の存在が不可欠だったことも事実である。最近ぼくらが注目しているのはこれらの都市群である。言い換えれば、繁栄する対岸貿易港(鹿港)と、山地エンポリアム(林圯埔)との間に立地して内陸部に物流の血液を行き渡らせる、内陸中流域の河港都市群である。これらは荒ぶる扇状地の水害リスクに悩まされつつ、しかし扇状地に立地し鹿港経済圏のサブセンターたることによって経済的に存立するというアンビバレンツに規定された都市群だと見ることができる。鹿港が景観的にも社会的にもほとんど泉州や厦門とそっくりの街だったとすれば、むしろこれら内陸河港都市群こそ、地理学的に厳しい環境に適応し、何度も破壊と再生を繰り返し、入植者たちの貧困や闘争を体現した台湾的な都市だったということもできるのではないか。

 18世紀中に姿を見せるこれら内陸河港都市群のひとつに東螺Tang-le という街がある。やはり細かい話は省くが、沙仔崙はこの東螺から19世紀の初頭に分裂し移転してきたある集団の流れ着いた先である。東螺ものちに移動して寶斗Po-tao (のちの北斗)になるのだが、それはさておき、沙仔崙は再び19世紀末に壊滅的被害を受けて田中に移った、というのがそれなりに知られている歴史の筋書きだ。だから沙仔崙もまた、歴史のなかで変転めまぐるしい小さな内陸河港都市のひとつだったのだろうと思い込んでいた。

 ところが、それがルーラルな集落だったことが分かったのである。ただし一方で、屋敷地が一本の道路に沿って整然と並べられており、かつ、地割のサイズに計画性がうかがえることも特徴。ここから立ち上がる仮説は、次のとおり。

(1)19世紀初頭に東螺街から分裂した集団は、おそらく他集団との闘争(いわゆる「械闘」)に敗れて水運の権利を失い、商業を放棄し、沙仔崙に土地を取得して計画的にルーラルな集落を営んだのではないか。

(2)沙仔崙とは直訳すれば“砂の山”の意味で、台湾には同様の地名が多数ある。おそらく河川敷(増水時には冠水する)のすぐ外側にできた自然堤防的な砂礫の微高地がそう呼ばれており、彼らはその微かな線状の高まりを選んで移転先を決めたのだろう。

(3)その後ようやく安定した沙仔崙の集落も、19世紀末に再び大洪水で流され、応急的に再建された集落も火災で焼失してしまう。これを機に、沙仔崙に隣接する田中央に土地を入手して集住地を移転させる事業を決断したのだろう。

(4)新街建設を主導したのは沙仔崙の有力者で、彼らは移住同胞を率いたのみならず、濁水渓河系のネットワーク内から移住者を募って、最初から都市的集住地を創出する開発計画を練った(このときの市街計画のプランがきわめて興味深いのだがそれはあらためてどこかで発表するつもり)。このとき主導者らが植民地権力による鉄道駅開設の情報を得てそれに近い立地を選んだとの説もある(実際、田中は植民地期を通じて鉄道街として発展)。

(5)いま沙仔崙に残る三合院のカケラは、田中への遷街後も沙仔崙に残った者たちと、空になった地所を購入して周辺から移住してきた者たちとが20世紀前半から中盤にかけて建築したものであろう。

 およそこうした仮説が調査1〜2日で立った。いつもそうだが、ここまでは速い。しかしこれを検証・修正するには馬鹿馬鹿しいほどの労力と時間が要るし、たくさんの方々を巻き込み、面倒をお願いすることになる。

 今回の調査期間中には、まずカケラの実測調査と詳細な聞き取り調査によって、20世紀中盤の集落景観を復原することができた。予想通り、三合院だけが並ぶ完全にルーラルな集落景観の復原図が得られた。この経験は重要だった。類型性(タイポロジカルな性質)を分有する建物のカケラ(オブジェクトレベルの断片の残存)と、それに対する介入のパタン性(メタレベルの変化の論理)がつかめれば、論理的な類推によって数十年遡る程度の復原はかなりの精度を持たせうることをあらためて実感。

 20世紀前半については植民地期の行政書類ならびに主要家族の族譜(家系図)を付き合わせることによって概況をつかみつつある。植民地行政は遷街直後の沙仔崙の土地・建物の状況を記録しているが、それはぼくらがまったく予想しなかった集落の実態を指し示している。

 19世紀の地域史に関する仮説は、調査期間中に専門的研究者の方々に色々ご教示いただいて修正することができたし、またより大きな視野で展開すべきテーマも見えつつある。

 たったの1週間ほどであったが、意義深い調査だった。

 地域の皆さん、とくに沙仔崙の住人の皆さんにはほんとによくしていただいた。謝謝。成果は法政大高村雅彦先生代表の科研研究会でまず報告し、来年の建築学会大会で発表しますので、それを持ってまた来年うかがいます。

P8190010[fig.06] 後日、沙仔崙在住の方から提供いただいた約40年前の写真。正身がRC町屋型に建て変わっているが、護龍(腕)は残っている。これが竹造であることに注意されたい。聞き取りによると50年前までほとんどの家屋は竹造・平屋建・茅葺だったという。

 一昨年に調査した北斗には竹造町屋がたくさん残るので、濁水渓河系は20世紀初頭まではほぼ全面的に竹造家屋に埋め尽くされていたとみて間違いない。南部はその割合がもっと高かったことを示す総督府調査がある。これも従来の台湾建築史・都市史で看過されてきた重要問題。

P8190066[fig.07] こんなこともやらせていただいた。廟での聞き取りシンポジウム。

P8150318[fig.08] 皆、疲れてきたみたい。沙仔崙の大廟(天受宮)前にて。

 この場所にはもともと沙仔崙の中心となる媽祖廟「乾徳宮」があった(媽祖=天上聖母は台湾でもきわめてポピュラーな航海の女神)。それが遷街によって田中に移され、以後半世紀ほど空地になっていた。現在の天受宮は1950年代の創建で、玄天上帝を祀る。

P8200222[fig.09] 調査最終日の一枚。通い詰めていた食堂「大象」(象さんの意)のオヤジ夫妻と。学生の皆もお疲れさん。

2013/12/07

とりあえず1本、おめでとさん。

俗にいう黄表紙に、下記論文が掲載されました。

石榑督和+青井哲人「闇市の形成と土地所有からみる新宿東口駅前街区の戦後復興過程」(日本建築学会計画系論文集 no.694, 2013年12月, p.2627-2635)

明治に来て、学生さんによる黄表紙の記念すべき最初の1本です。わざわざ書くのもちょっとこっぱずかしいけど、まあそういうことで。博士学位は研究者の免許証。博士論文は研究者の若き日の問題系と思考回路と汗の凝縮。

2013/12/06

10+1 web site 201312「東京オリンピック」からの問い──2020年の都市計画は可能か

201312_tenplusone_website昨日より10+1 website で新国立競技場問題の特集が公開されている。槇文彦さんの批判以後、活発な議論が行われているが、どうも建築界の人が建築の話をしている、という感じがあるのに対して、この特集ではもう少し冷静に共有されるべき議論の枠組みを描き出そうとしている。

10+1 web site|テンプラスワン・ウェブサイト(LIXIL)
201312「東京オリンピック」からの問い──2020年の都市計画は可能か

新国立競技場──ザハ・ハディド案をめぐる諸問題
 日埜直彦(建築家)×フェリックス・クラウス(建築家)×吉良森子(建築家
都市景観と巨大建築
 五十嵐太郎(建築史、建築批評/東北大学教授)
建築コンペティションの政治学──新国立競技場コンペをめぐる歴史的文脈の素描
 青井哲人建築史・都市史、明治大学准教授
オリンピックは時代遅れの東京都市計画を変える好機
 蓑原敬(都市プランナー)

フェリックス・クラウスさん・吉良森子さんとの鼎談で日埜さんは2つのことを問題にしている。ひとつはコンペの問題、もうひとつは都市の問題。前者は公共財のデザインを誰がどのような権限と責任において担うのか、後者は突き詰めれば都市の歴史と未来に関する公共的な議論の場がつくられない日本の政治風土の問題、ということかな。いずれも環境形成をめぐるガバナンスの問題であることはいうまでもない。たとえばフェリックスさんは日本では「「良い街をつくる」ということが政治的なアジェンダになっていない」と指摘するが、それはつまりありうるはずのポリティクスが働かない、という問題だ。建築界の言論が、都市計画造園の専門家、多層的な市民、あるいは財界、政界、神社界などなどの立場からの主張と交錯するなかで、議論の軸や境界条件がつくられ、練り上げられていく    といったことが起こらない。マスコミはスキャンダルだけを指摘し、建築家は党派的な集団をつくってしまいがち。

日埜さんから、前者、つまりコンペの歴史的脈絡から新国立競技場問題を論じてほしいとリクエストがあり、上記の論考を寄せた。心がけたのは、まず今回のコンペをめぐる経緯をできるだけ正確に調べて整理すること。次に、そこから見えてくる問題を日本近代のコンペ史の脈絡に接続すること。で、作業してみると断片的な事実からでも色々なことが透けて見えてくる気がした。

一般には、新国立競技場の設計者がザハ・ハディドに決まったのだと漠然と受け止められているように見える。でも重要なのは、実質的な設計を担う組織設計4社によるJV組織体の存在もあわせて見ることだと思う。コンペをめぐる諸状況から判断するに、組織設計のJVが実質的な設計者となることがおそらく既定路線としてあり、その「デザイン監修者」を選出するためにコンペが行われたのである。それは、近年世界の大都市で共通に見出される「アーキスター+組織型デザインファーム」という設計体制をなぞるものだ。都市に国際競争力を与える「アイコン」をアーキスターが、そして「深層」の技術的ソリューションを組織設計JVが担う、という体制。今回の新国立競技場の場合、「フレームワーク設計者(→基本・実施設計者)」を決める公募型プロポーザルに参加したのは、「日建設計・梓設計・日本設計・アラップジャパン」の4社JVと、「久米設計・佐藤総合計画・東畑建築事務所・松田平田設計・パシフィックコンサルタンツ・三菱地所設計」の6社JV、の2組だけ。これはできすぎ。プロポーザルによる選定の成立のため最低2組は出てもらわなければならないが、できるだけ日本の組織設計の総力を結集させたかたちをとりたいということがあったのだろうか。そうすると、今度の設計体制は、近年の新自由主義政策下での大規模開発の世界標準の一例であるということに加えて、ナショナリズム(表層は外部から借りても、深層は内部性を保証する)が滑り込まされているともみえる。

当選者を設計者としないコンペの前例は、明治から戦後にいたるまでたくさんある。たとえば大正期から戦後1960年頃までだと、国や県の営繕が設計をすることを前提に、「デザイン」(何と卑しめられた言葉か!)だけを与えるためのコンペが幾度となく実施された。そうした悪弊を排し、建築家の一貫した責任と顕現を明確にしようとする運動が闘われた歴史がある。日埜さんの言葉を借りれば、これは「建築家という立場が守られていないことへの不満ではなくて、むしろ建築家が責任を負わない構造に問題があるという意味」で捉えるかぎりで重要な闘争だったが、日本の建築生産体制の実態の前では、よいコンペの実例をつくることはできてもシステム的な勝利には至らない歴史でもあった。

ところで拙稿では字数(依頼よりも大幅に膨張してしまった)の都合上、また勉強不足のため、80〜90年頃の設計者選定の動向はネグってしまった。本当はそこも埋めて議論しないといけない。

さっき家の近所で飯食ってたら、酔っぱらった師匠(布野修司)から電話がかかってきて、流れでこの記事の話になったのだが、うーんアウトだな、ぬるいっていうか、的外れだナ、と厳しい評。そうすかあ?けっこう頑張っていいとこ突いたつもりなんですけど!と返してみても相手は酔っぱらい。でもこのへん布野さん一家言も二家言もあるから、また今度、会ったときに議論しようっと。

2013/05/08

渋谷ヒカリエの SHIBUYA VISION 展について:建築家坂倉順三展2009のために作成した模型をお貸しした立場で若干の説明

R0039983展覧会「SHIBUYA VISION」をご覧になった方は多いと思います。展示協力というかたちで「明治大学建築建築論(青井哲人)研究室」とかなり大きく入口のところに明記されていたかと思います。恥をしのんで申しますと、僕は先週初めて見に行きまして、この文字を発見してちょっと面食らいました。模型をお貸ししただけなので、あれほど大書いただくとは・・・と、恐縮した次第。あの模型は「建築家坂倉準三展」(2009)の展示物として私どもの研究室で作成したものです。当時、同展覧会実行委員会の末席に当方からお願いして加えていただき、五島慶太と坂倉準三の関係、渋谷での坂倉の仕事の都市史的な特質、戦後復興との関係、などを短時間でしたが当時の学生たちとそれなりに研究した上で、近代日本の都市開発史のなかでの渋谷の位置と建築家の役割を考えて、あの模型をつくったり、図録の解説を執筆したり、ダイアグラム的な図を作成したりしました。

 端的にいうと、坂倉の渋谷は、丹下スクール的なヒロイックなアーバニズムの構想とはまったく異質な、実際の土地・建物所有やサーキュレーション等の条件のなかで、ひとつひとつ建物を実現して連鎖的・段階的につなぐことで、駅近傍の空間と人の流れを組織しなおした、そういう仕事なのです。それは渋谷の都市構造を鮮やかに刷新したわけではないし、ほとんど東急電鉄(五島慶太)に与えられた仕事をこなしただけとも言えるのですが、それでもある種のアーバニズムのありようをそこに読み込むことは許されるでしょう。たとえば最初の仕事「東急会館」(1954)は実は1930年代に3層目まで建設されたまま戦後を迎えた「玉電ビル」を垂直に増築する仕事であり、それゆえにPC版による軽量化に取り組んだり、また国鉄改札を組み込むために平面計画を再編集していたりと、実際的な諸条件との格闘の痕跡がけっこう残されています。他にも各所に読み取れるそうした継ぎ接ぎが、渋谷をつくってきた。坂倉が関わった難波なんかも同じ意味でとても興味深いですし、ヒロイックな造形で知られる新宿西口広場ですら実は、全体が地下に埋設され、最上階に例の車路をとりつけた、ひとつの建築物(駐車場ビル)であって、周辺の諸条件や権利関係の縫い合わせが設計の中心的課題であったはずです。同じ新宿の小田急ビルと地下鉄ビルの関係なども、ほとんどヴェンチューリの多様性と対立性の議論を地でいくようなファサードの処理が施されている。丹下スクールのように、万博やニュータウンの白いキャンバスではなく、あくまでも民間資本とその活動拠点である都心の複雑な条件とともかくもストラグルしたのがこの時期ほとんど坂倉準三くらいものであったことはあらためて丁寧に位置づけるべきことだろうと思います(他方には、まったく理念もコンテクストも違いますが、RIAによる地方都市中心部の仕事群があることも重要なので付記しておきます)。

 今回、ヒカリエの展覧会では「渋谷再開発計画1966」の図面が大きくプリントされて展示されていましたが、あれもそうした連接的な発想の延長上にあったでしょう。もっともあの計画は地元商店会による協議会(最大の会員は東急電鉄・東急不動産だったでしょう)が、立案グループ(坂倉準三を顧問格の代表に据え、坂倉事務所の数名、東大丹下研の曽根幸一といった人々、さらにパンデコンという東大高山研・丹下研出身者その他で構成されたコンサルが入っていた)を組織させて描かせたもので、坂倉自身の作品というような性質のものとは全く違っていたと考えられます。しかし、ともかくその特徴は、渋谷駅+東急の建物からなる継ぎ接ぎの流体を、さらにペデストリアン・デッキの網目状ネットワークで街へ展開させるというもので、渋谷の地形に対して膨大な群衆の流れをアジャストしつつ分配していくこと、あるいは民有地の内部に公共的な歩行空間を埋め込んで土地利用を半共同化していくこと、といったそれなりのアイディアがこめられた提案ではあったと思います。

 あの模型では、以上を踏まえて、坂倉設計の建物群を白いマットな立体で、また実現しなかった「1966」の構想を赤い半透明のアクリル板で再現し、それらが未だ低層建物の海であった渋谷にそれなりに丁寧な手付きで重ねられようとしたことを表現しました。

 以前、「渋谷学」という国学院大学の研究会でこのあたりのお話をさせていただく機会がありました。渋谷の戦後開発は、まずその時期がきわめて早く、先行するモデルが東京になかったこと、東急がまとまった土地を駅近傍に点在させて所有していたこと、戦後復興区画整理で戦後の露店やバラック飲屋街を移転させていくプロセスを追いかけるように建築計画だけで駅+近傍を創出していったこと等に特徴があります。もちろん、あのスリバチ状の地形と、戦前までの小さな粒の集積による都市形成が新宿や池袋に先んじてあったことも、先行条件として重要でしょう。こういった諸条件が、渋谷を今でも比較的小粒のスケール感と高い密度感をもった町並みにしているわけです。研究会に参加しておられた地元の方々も、それを一掃する再開発が進められていることを危惧しておられました。

 SHIBUYA VISION 展の後半にあった、現在推し進められている渋谷再開発のパースの類を皆さんご覧になったと思います。1950-60年代の渋谷計画を「継承」する、という意味の表現が散見されましたが、あの計画は、かつての渋谷計画とはまるでかけ離れたものです。もっとも、こうした再開発は渋谷にとっては宿願でした。地元や行政が坂倉らの「1966」では飽きたらなかったのか、1971年代には(経緯不明ですが)内井昭蔵が依頼を受けて、駅周辺全体を人工地盤で埋めた上に超高層を林立させる絵を描いたことが新聞記事に出ています。これも構想ではありますが、二つの絵を比べると、ここでも60年代と70年代には大きな断層があると思わざるをえません。しかも、現在の再開発計画では、71年の構想にはなかった奇妙に明るい商業主義が前面に出て、どうにも脈絡や纏まりの感じられない風景が描かれています。そこには建築設計・生産の今日的なありようも関わっています。それこそ(昨日のエントリで書いた)多木浩二の問いや、また神代雄一郎のかつての問いが想起されます。もちろんこういう補助線も安易に書き付けるべきことではないでしょう。計画の実態についても丁寧な跡づけが必要なことは論を俟ちませんが、ひとまず乱暴な素描をお許し下さい。

 あらためて恥をしのんで申しますが、以上はあの(いくぶん無防備に置かれた)模型について、制作者が何を考えてあれをつくったかを説明するために書きました。これから展示をご覧になる方、あるいはすでにご覧になった方も、こうした戦後の渋谷開発史と今日の再開発を考えおなす契機にしていただければ模型制作者としてありがたく思います。

2013/01/14

計画都市・台中が、存外おもしろいのである。

2012年12月29日から2013年1月6日まで台湾に行ってきた。今回は調査でなく、講演のため。

20130103_lecture_001ひとつは1月3日、東海大学にて大学院プログラムのなかのアジアの都市建築に関する授業の1コマとして(翻訳=張亭菲)。台湾の院生に台湾都市の概説は不要なので、まずティポロジアからはじめ、吉貝サーヴェイでのティポの生成論、つづいて列壁都市+wall to wall architecture、さらにアノニマス修復論、そして都市建築史と環境史の接続など。列壁都市論はウケたみたい。イメージ喚起的だからかな。

20130105_lecture_001もうひとつは1月5日、台中市中區再生基地というまちづくり拠点での講演(翻訳=張亭菲)。日治期(日本植民地期)に台湾の都市景観や生活文化はどのように変化したのか。それを神社境内と公園の併存から分離へ、都市の改造と寺廟の整理、寝室の変容という3つのテーマでお話しする。みなさん寝床の変化には興味あるみたいで質問はぜんぶこれに集中。

734326_354220224676594_1133803416_n写真は1月5日の講演の様子。戦後すぐの建物の吹き抜け部に床を張り、内装を剥いで再利用している。少し前に招待された写真家・浅川敏さんが撮った台中市街の写真群が展示されていた。台湾の街にはこういう荒っぽいがいい感じのリノベ?がいっぱいある。

これら講演は、東海大学の蘇睿弼先生のお招きによるもの。蘇さんは香山寿夫先生、大野秀敏先生に師事して学位を取得。母校の東海大学に戻り教鞭をとる一方で、旧市街の急激な衰退に悩む台中市の都市計画・都市デザインにも携わる。

196907_356290444469572_1134538918_n蘇さんには初めてお会いしたのだが、彼が旧市街(中心市街地)を案内してくれ、そしたら台中市が俄然面白くなってきた。

※これら2枚の写真は台中市中区再生基地より拝借。


 清末に台湾は国防上の重要度があがり「台湾省」に格上げされるんだけど、その行政拠点「省城」は台中に置かれることになり、建設は着手されたものの間もなく中止され、台北にその座を譲った、という経緯がある。その後、植民地政府により台湾中部の行政・経済中心都市として位置づけられ、整然たる碁盤目状の市区改正計画により建設された。だから新都市のイメージが強く、僕はあまり興味が持てなかったのだが、不明を恥じるべしだなー。計画都市だからこその面白さがある。

 歴史的基盤が薄いので、植民地政府は台北・台南・新竹・彰化・嘉義などの既成市街地の改造とは違う、純然たる効率的グリッド都市を実現できた。駅、政庁地区、公園(+神社)、市場などでフリンジを定義し、官舎地区などの低密な要素は外側に置き、内側に2〜3層の町屋を詰め込んだ均質な市街地をつくる。1935年頃のデータで人口5万人。うち日本人が25%を占めるが、これは極端に高い比率だし(ちなみに彰化は6%)、新都市だから、漢人都市に日本人が食い込んでいくという他の植民都市の構図と違い、出自の異なる人々が集まって新都市をつくり、活気ある経済と文化をつくりあげていくという自由で進歩的な雰囲気が醸成された。

 このコンパクトで高密で均質な市街地が、植民地解放後の60-70年代に、一斉に中層〜高層のビルに共同化されていったらしい。町屋は間口5m程度の単位で所有が切れているが、これを10〜20個、あるいはもっとたくさん集めてひとつのビルに建て替える。従前の所有権や賃借権はたいてい建替え後のビルの土地や床に変換され、むろん新規の入居者をたくさん集めることで建設費をひねり出すのだから、権利関係は一挙に多数・複雑になる。

 そのため90年頃になって再開発のタイミングが来ても合意形成ができず、かわりに郊外部の大規模開発が促進されることによって、急激かつ一斉に空洞化した。いま中区の人口は2万人しかなく、中高層ビル群は、1棟まるごと廃墟とか、空室だらけとか、一階の店舗がシャッターを閉めたままとかの状態。老朽化したストックがスポンジみたいにスカスカになっているが、目には見えない大量の権利が錯綜しているわけで、しかも開発ポテンシャルが上がる気配もなく、ときどき持ち上がる再開発の話も頓挫してばかり。

P1050326 こういうところでは結局、家賃を下げて賃貸に出すしかない。入居するのは低所得者層か、ちょっと面白いことやったろかっていうアーティストとか学生たちとか、一風変わった商売を仕掛けようっていう跡取り息子とか、それこそまちづくり拠点みたいなものとか。

ほーと思ったのは、1960年代に建設された高層アパートと映画館のコンプレクスで、映画館も閉鎖されて久しいんだが、この複合ビルの広大な1階フロアが土曜日だけ「玉市」になる。玉(ぎょく)、つまり宝石類の市場が開かれるんだけど、どうやら地主と契約して場代をとるテキ屋みたいなのがたくさんいて、そいつらが半坪(〜1坪)くらいの机面をだいたい500元(1500円)/日で貸している。台湾の賑やかな夜市の場代と比べると半分くらいかな。うん、相当おもしろい。

 まあ色々興味深いことがいっぱいあったのだが、とにかく台中の中心市街には60-70年代のストックが集中的に大量に残っているということ、それが植民地期の街屋(町屋)の権利関係を再編したものであることが、歴史屋的には重要だったりする。なぜかって? まあいいじゃん。

2012/12/05

Victor Horta, La Maison du Peuple, Bruxelles, 1896-1898

Maison_du_Peuple_Horta_1898_planヴィクトール・オルタ設計の「人民の家」(ブリュッセル、1896-1898)の平面図。施主は Parti Ouvrier Belge という政党で、英語にすると Belgian Socialist Party つまりベルギー社会党。オルタ、あるいはアール・ヌーヴォーといえば19世紀末のブルジョアの(ある種の狂気の)表現というイメージがあるんだけど、ブルジョア出身知識人のある部分が左翼的進歩主義の傾向をもち、彼らがアール・ヌーヴォーの理解者でもあった、というのはどれくらい奇妙なことなのかも分からないが、何か捩じれている気がして面白い。「peuple 人民」のための家という名前の建物が、近代建築のひとつの先駆的結実ともされるのは分かりやすくてありがたいが、それがオルタの代表的傑作であり、なおかつそのプランは敷地の不整形を見事に都市の一部たる建築へと整合させる手さばきは、(近代的エンジニアリングのおかげで「ポシェ」を極限まで切り詰めているとはいっても)きわめて正当に伝統に接続していることが、とても面白い。

Maison_du_Peuple_Horta_1898_facade Maison_de_Peuple_Horta_1898_auditorium