VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2010/05/26

未来派の料理ってどんなんだ?

僕は授業の準備のためによくネット検索をする。情報の判断と使い方はそれなりにきちんとしないといけないけど。たとえば近代建築史、西洋建築史で、その辺の教科書や図集に掲載されようはずもない詳細な情報が知りたい時は、Wikipediaでも英語版を繰ってみるとかなり充実しているし、語彙とかけっこう発見的な勉強にもなる。で昨晩は今週の授業で20世紀初頭のアヴァンギャルドを喋るので去年とは違う味付けができないものかと(+自分のなかでも怪しいところを補強的に勉強もする)、未来派について調べてみると、この運動が文学から絵画、彫刻、演劇、映画・・・といった広がりを持つのは無論だが、「and even gastronomy」とある。料理? というわけで世界卓球男子を横目に見ながらみつけたのが「未来派料理宣言」。(→このサイト

「口がゴミ箱になっている」。「拝金主義者どもの唾棄すべき攻撃から口を守りたい」 おー。ひょっとして盛りつけもジャコモ・バラとかウンベルト・ボッチオーニの絵画みたいに激しいのだろうか。

未来派料理宣言:ジュール・マンカーヴ(1913) (出典:ロミ『悪食大全』作品社、1995)

調理場よ、悪臭漂う牢獄、腐肉に満ちた穴倉よ、不潔きわまるルーが仕込まれる怪しげな悪の温床にして、素性の知れぬ悪党どもさえ吐き気を催す臭い食い物をこねくり回す、悪臭芬々たる洞穴よ。その食い物が、毎日決まった時間に大口開けて、決して満たされぬ食欲を少しでも癒したいと願う何千という人間たちにあてがわれる。大昔から人間、ああ、獣というべき人間どもは食い物を必要としてきたのだ。『まだ食べていない』などと言いながら。

人間には生来味覚というものがあり、口にはその充分なる力がある。それを押さえつけ、駄目にしようと躍起になっている輩がいる。無知蒙昧なだけでなく卑劣なあたまの輩。シェフなどと大仰な呼び名をつけて恬として恥じず、その名の効験に胡坐をかいている輩。奴らのせいで、本来最も強烈な喜びの中心たるべき口が単なる咀嚼器官に成り下がっている。

食事の妙なる快楽のためにある口がごみ箱になっているという事実。

延々と続いてきたこの状況、人間を反芻動物の程度にまで貶めかねないそうした状況を変える時が到来したのである。我々は、快適な現代生活と最新の科学理論に合致した料理をこそ作りたいと願うものである。

あらゆる芸術のなかで料理芸術のみが原始の動物的状態にとどまっている。我々は『新に新しい』料理を渇望する。恥知らずにも厚化粧した料理が食卓を飾っている。滑稽なわざとらしい名称が違うだけであり、料理自体には何の変化もない。

料理芸術を革新するのは未来派の役割である。未来派は自由な翼で世界を飛翔したあと、今や地上に降り立って、実際生活に関わらんとする。大袈裟な言い方を敢えてすれば、人間に関わるものは未来派にとって無縁ではあり得ない。未来派は人間や思想を動かすわけではない。未来派は物事を変えてゆくのである。

口は肉体の本質的部分である。エネルギーの元となる滋養はすべて口を通して体内に入ってくる。未来派は、拝金主義者どもの唾棄すべき攻撃から口を守りたいと強く願うものである。シェフであれ見習いであれ恥知らずなペテン師には変わりない。お前たちの白い制服はそのままお前たちの屍衣になるであろう。

お前たちの巣窟に我々の太陽の光を射し込んでやる。さすれば闇も晴れるであろう。

食器戸棚をひっくり返し、竈を逆さにしてやろう。お前たちのペストのような練り粉だの膿の入った酒瓶だのはどぶに捨ててやろうではないか。

現今の調理法は愚かしく、あまりに決まり切ったものばかりである。それらは非合理的な原則に則っているに過ぎない。未来派の料理は、奴隷のような教本通りの料理法を一掃し、現代の料理が拠って立つおぞましい二つの砦を開放するために闘う。二つの砦とはすなわち、メランジュとアロームにほからなない。

2008/07/28

近代建築史/期末試験

0724

試験やりました。

何しろ明大生に対する初めてのテストだからね、採点の苦労はあえて我慢し、理解度を問う問題にしたぜよ。しかしおまえら、けっこう面白がって聞いててくれたと思ったのに、そりゃないぜって感じの理解度だぜよ。

ところで、授業でいつも最前列に座ってものすごい勢いでノートをとり、しかも僕が何か言うたびに、それ何かで読んだやつだって感じでウンウンと深くうなづいてくれる学生がいる。彼のおかげで調子出るのだが、その彼が、文学部の学生だったことが判明(建築の学生があれくらい熱心に履修してくれたなあ)。しかも、きっとモダニズム・マニアに違いないと思っていたら、「機能主義とユニヴァーサルスペースの違いの図解」か「擬洋風建築の擬洋風たる所以を示す特徴の図解」のどちらかを選んで回答せよという問題で、何と擬洋風を選んでいるではないか。しかも、その絵がめちゃウマイ。あやつ、ただ者ではないナ。

2008/07/17

近代建築史15(最終回)/モダニズムを超えて

まずはモダニズムの最低限の規定をしなくちゃ。Clement Greenberg の「自己批判を通じた自己純化」は古典的。「絵画とは何か?」を突き詰めれば平面であるということ以外には残らないように、「建築とは何か?」を問えば人間活動を内包する空間だということになり、人間−空間系を成立させうるギリギリまで理屈が切り詰められる。もちろん人間も眼と手と足があって直立したり腰掛けたりする動物などと抽象的・一般的に規定されるだろう。国際主義、歴史様式との決別、装飾の忌避、工学技術への信頼などはこうしたモダニズムの核心とリンクしていることが比較的素直に理解できる。ちなみに藤森照信さんの「植物→鉱物→幾何学→数式」というのもモダニズム建築の抽象度を高め、純度を高めていったことを、各段階のモデルで示したものだ。

ではモダニストたちのアーバニズム志向は? 意地の悪い見方をすれば、建物単体が純化されても、周囲との関係における混乱や矛盾は残ってしまうから、そんなことが問題にならない都市をつくらねばならない、ということであったろう。もちろん、真正面から都市の批判・純化が目論まれたのだとしてもよい。この場合も「都市とは何か?」があくまで一般論的に純化される。現実の錯綜した都市を背景におけば、これは倫理的なヒロイズムあるいはパラノイアにならざるをえない。

いずれにせよ、批判して削ぎ落とせるものがある間はモダニズムは走ることができる。しかし、逆にいえばもう走れないという地点を目標にしていたのだから、つねに先細りでいかにも窮屈だし、もし辿り着いてしまったその時にはムーブメントは止まってしまう。Le Corbusier の「300万人の都市」他の一連の都市プロジェクトも、飛行機や自動車が高速で移動するらしいが、都市そのものがいかにも静かに見えるのは当然といえば当然なのだ。

ところで、自己純化のふるいにかけたとき手許に残るギリギリのものは何だっただろうか。それは、(1) 機能主義、(2) ユニヴァーサルスペース、の二つであったろう。前者=(1)は、カタチを決定するのは機能だけだというところへ「純化」している。具体的には機能的要求を分解して純粋な機能単位を取り出し、それぞれその機能が要求する適切な空間ヴォリュームを与え、それらを最も無駄がないように再構成する、という方法をとる。これが最も厳密な機能主義で、実はその忠実な実践者は構成主義者の一部などにみられるにすぎない。ちなみにコルビュジエなんか建築ではほとんど機能主義者としてはいい加減だが、アーバニズムでは純度の高い機能主義を強く要求しているのが興味深い。対して後者=(2)は、いかなる機能をも許容できる無限定で均質な空間へと建築を「純化」する。というわけで、この二つは全く異質なものだ。ただし、ユニヴァーサル・スペースの場合も、無限定空間に放り出せない機能を収める容れ物としての限定的な「コア」によって補完されねばならない。そこの部分では機能主義が働いている。というように、(1)と(2)をもってモダニズムの純度の高い成果としてよいと思う。

ここで注記が必要。機能主義は機能決定論だが、実は機能はカタチを決めることができない(とりあえず与えたカタチを機能によってチェックすることはできるが、そうである以上カタチはいくつもありうる)。それからユニヴァーサル・スペースはもはやカタチの放棄である(敷地サイズとか施主の要求する面積とかがカタチを決める)。

さて、このように考えてきた上で、モダニズムを批判するとしたらどこを突くか。それを推論的にあげてゆけば、およそ(常識より広い意味の)ポストモダニズムの多様な方向性を網羅することができるに違いない。ということで授業では、(a)変化と成長、(b) 形態の意味と多様性、(c) 地域とエコロジー、に大別してそれを紹介した。

2008/07/10

近代建築史14/日本のモダニズム

0710

前回は1920年代日本=表現主義系の全盛期だったが、今日は1930年代を中心に。Antonin Raymond の位置(めちゃ早い)、デ・スティルの重要性、バウハウスへの接触ときわめて裾野の広い追随者群の形成、そしてLe Corbusier の弟子たちの出現・・・という展開を話す。そのうえで、「近代建築/日本建築」の間をブリッジする論理は如何という話題へ進む。堀口捨巳の茶室研究、吉田五十八の数寄屋のモダニゼーション、岸田の『過去の構成』、タウトの二分法、丹下・浜口らの類型論的思考(戦中)、そしてミース的ユニヴァーサルスペースの把握(戦後)・・・。しかし途中で時間切れ。

建築観そのものの転換によって歴史観は変わりうる。いやむしろ、つねに過去の描き方の変更をもって建築把握の転換は確立・定着される。その意味でモダニズムも原理的に過去を切り離すことはできないのだろう。2年生諸君には難しいかな。来週はこのあたりを引き継ぎながら、モダニズム批判の流れを紹介して授業を締めくくる。そのなかで、たとえば「機能主義」といった概念の整理もしてみたい。時間足りるかな。

2008/07/03

近代建築史13/「我々」の世界史的前提〜日本の初期建築運動

0703

ヨーロッパ、アメリカ、日本のモダン・ムーブメントが同じ時間断面で見渡せるように、相関年表のごときものを作成して配布した。それなりによく分かるものができた。たとえばコンドル先生が来日した1876年というと、英国にArts and Craftsはあるが、次なる運動への展開はなく、辰野金吾が英国へ留学(インターンシップ)へ出かけた1879年時点でも事情に大差ない。ところが伊東忠太が世界旅行に出て中国からインド、中東と旅をしていた頃(1902〜05)はもうArt Nouveauがフランス・ベルギーはもちろんグラスゴー、バルセロナなどあちこちで流行、ウィーンではSecession(Art Nouveauの一派ともされる)がすでに花開いている。1910年代に入るとドイツやオランダでは表現主義の建築が建つようになっている。そのタイミングで佐野利器の「建築家の覚悟」とか野田俊彦の「建築非芸術論」とともに、後藤慶二の諸言説や「豊多摩監獄」竣工といった“出来事”がつづく。・・・この頃、たしかヨーロッパの雑誌など船便で3ヶ月くらいで日本に届いたとどこかで読んだ記憶がある。この時期いちばん層が厚かったドイツ・オーストリア・オランダあたりを中心に、情報はほぼリアルタイムで入ってきていた。そういうなかで、「我々は起つ」なのである。もうとっくに世界が閉じてしまっていたのだということを、したがって同時性 (synchronism) の世界に「我々」がいたのだということを僕らはよーく心得ておかないと「昔」を見くびってしまう。彼らが「世界に向かって宣言」したのもあながちナイーブだったとばかりは言えない。世界がそれなりにリアルであったればこそ、日本回帰もまたリアルな問題だったのだ。

2008/06/27

近代建築史12/国家と建築

0626

幕末明治は潜在的な歴史のパス(経路)が幾筋も見えるような不確定な時代であり、まただからこそひとつひとつの選択がそのパスを確実に狭めて継起的に決めてゆく時代でもあった。たとえば明治国家の首都は大阪になったかもしれないし、江戸・京都の二京制になったかもしれない。そうしたパスの複数性のなかで、江戸が選び取られる。決め手は江戸の土地の60%を占める武家地ストックの転用可能性で、ここに官庁も官舎も、学校や病院も、京都から引っ越させる天皇・皇族の邸宅も、軍隊も、要するに新たに要求されるあらゆるものを突っ込めるし、払い下げれば財源にもなるという判断だったらしい。結果として官庁はあちこちの旧藩邸などに散らばってしまい、だからこそ「官庁集中計画」が必要になった。

さてそもそも、幕末明治の日本は治外法権の居留地を各所に抱えて、国の行方そのものに複数のパスが予想されるきわめて危うい状態にあった。ゆえに近代化とは国を失わないための決断であり、だから日本・近代・建築の歩みにとって「国家」は無条件の枠組みとなるのである。

というわけで、今回は「国家と建築」をめぐって、(1) 御雇い外国人建築家と旧幕系棟梁の時代、(2) 第一世代(辰野金吾ら)、(3)第二世代(伊東忠太ら)、(4)第三世代(佐野利器ら)の基本的な問題設定の転換をたどることにした。

2008/06/20

近代建築史11/コロニアルと擬洋風

0619

さあいよいよ日本です。

まず前提としての地球全体の見取り図。それから徐々に眼を下ろしてゆくと・・・ここは19世紀中頃の台湾北部は大渓という街。淡水河を舟で遡れる限界の地だ。ここに産する材木・樟脳・茶などは舟に積まれて川を下り、台北を通り過ぎると淡水という港に至る。ここから舟は海へ出て、対岸の福州や厦門へ、さらに南へ進めば香港、シンガポール、ペナンなど、さらにはバタビア(ジャカルタ)へ行けるが、逆に北上すれば杭州や上海、そして長崎にたどりつく。東南アジア・東アジアの海域世界は、オランダやイギリスなどによって、また華僑やブギス人たち、その他のローカルな住民たちによって、すっかり結びつけられてしまっており、この世界はさらに列強の本国へとつながっている。海と川で結ばれたこうしたグローバル・ネットワークのノードやターミナルをすべて港市 port city と呼ぼう。日本はこうした意味の port city を長崎(出島)に限定してコントロールしてきたが、ついに開国要求に屈し、治外法権の port city =居留地を建設せざるをえなくなる。

居留地は不思議な緊張感と開放感に満ちた場所だったろう。そこには西洋人たちと様々な出自の労働者たち、華僑、そして日本人も集まってくる。長い鎖国の後に初めて日本人が出会った「西洋の都市・建築」は、(実は)西洋人たちが南アジア・東南アジアなどの植民地支配の経験のなかで次第に確立してきたコロニアルな景観に他ならなかった。そこへ引き寄せられた大工棟梁たちが間もなく生み出したのが「擬洋風建築」だ(→これ以降の授業はもう馬鹿ウケでした)。

*(ちょっと専門的なつぶやき)1872年にはじまる銀座煉瓦街は、明治政府の最初の国家的都市建設事業だったが、これは(居留地どころか)自らの首都の顔を、コロニアルな景観につくり変えるという何とも皮肉めいた捩じれたプロジェクトだった。設計者の英人Thomas Watersは流れ者的・萬屋的な技術者で、来日前には香港にいた。ベランダウェイ(アーケード状歩廊)を持つその都市型店舗住宅は、イギリスの田舎町風だったかもしれないが、同時にシンガポール総督ラッフルズが1824年に定めたベランダウェイ付きショップハウスが以後東南アジア・東アジアを席巻していった、その系譜にもつながっていたはずだ。1895年、日本は初めての植民地・台湾を獲得するが、そこにも自らベランダウェイ付きショップハウスを持ち出していく(法制化は1901年)。ついでに言うと、1920年代には中国国民党政権下の広東・福建諸都市でも同様のベランダ・ウェイが法制化され、雨後の筍のごとくショップハウスの町並みが出現する。こうして、19世紀的なコロニアルな都市建設が連鎖的に波及していく様を思い描くことができる。この約1世紀に及ぶ連鎖の全体像を早く誰か書いてください。

2008/06/12

近代建築史10/摩天楼と草原の家

0612

分厚い過去が堆積するヨーロッパとは異なり、新世界アメリカは独自の近代建築の方向性を提示する。巨大都市の摩天楼群と、草原・砂漠あるいは郊外の住宅群。この二つはもちろん対をなす。

前者はD. Burnham や L. Sullivan らのシカゴ派が先鞭をつける。スチールフレーム(まだリベット打)、テラコッタ製外装、中空煉瓦軽量床板などの採用が、この種の建築に要求される条件(軽量化と工期短縮)を物語る。また従来の建築は4〜5層程度を超えることがなかったが、Otis社などのエレベータがこの限界を取り払うことで、アメリカ都市特有のグリッド状ブロックの枠内で建築の高層化競争がはじまる。マンハッタンではこれがさらにエスカレート。1916年のゾーニングにより建築の可能的な形態が決定される。コールハースもとりあげているマンハッタン建築家たちの自虐的な仮装舞踏会は摩天楼の「設計」の特質を物語る(学生たち大ウケ)。そしてこれら摩天楼のベイ・システム(柱間単位のファサードデザイン)を否定するのがMies van der Rohe のガラスの摩天楼計画。純度の高いユニヴァーサルスペースは通常の機能主義とは異なる、近代建築のもうひとつのモデルだ。

後者(来週へ)も大きな拡がりがあるが、授業ではFrank Lloyd Wright の Prairie Style(草原様式)を紹介、その水平的な空間の相互貫入もまた近代建築のひとつの空間モデルで、デ・スティルやミースらをはじめとする継承的開発者を生んだ。

2008/06/05

近代建築史09/近代建築の定式化(再)

先週は時間切れでバタバタしてしまったので仕切り直し。コルビュジエの特質について少々丁寧に話す。

L'Esprit Nouveau 誌(コルビュジエが1920年から25年まで計28冊を編集・発行した雑誌)を一度見てみたいと思った。

*授業後、ある学生が質問にきた。Le Corbusier は20世紀最大の建築家だというけれど、もしあの饒舌なほどの言論活動がなければそう言われるようにはならなかったのでしょうか、それから彼の代表作のサヴォア邸は長くは住まわれなかったらしいけれどそれでも最大の建築家と言えるのでしょうか、だんだん分からなくなってきました、と。うん、当然にして重要な疑問だ。そんな君は『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』(鹿島出版会、1976/Philippe Boudon, "The Lived-in Architecture: Le Corbusier's Pessac revisited",1972)を読みたまえ。Lived-in Architecture 、すごいね。日本でこんな作業行われてきたか?

*余談だが、ABC(国際構成主義)というグループがあって、思想的・運動論的にはロシア人 El Lissitzky、建築設計の腕前ではオランダ人 Mart Stamが引っ張るかたちで、スイスの若いモダニストたちが集まっていた。Stamはゴリゴリの共産主義者であり機能主義者であり構成主義者だった。彼が設計した例のVan Nelle工場ではベルトコンベアの入ったチューブが空中を縦横に飛んでいてすげーカッコよいが、あれは分解された機能単位に律儀にヴォリュームを与え、プログラムに従って構成しなおすという作業の結果だろう。徹底的な機能主義が構成主義と結びつく所以だ。CIAMの中核にも当初は彼らABCがいた事実があるのだが、しかし、ほとんど知られていないね、この人たちは。シーマ・イングバーマン著・宮島照久+大島哲蔵訳『ABC:国際構成主義の建築 1922-1939』(大龍堂書店、2000)はよい本。

2008/05/29

近代建築史08/近代建築の定式化(モダン・ムーブメント3)

0529

後ろを顧みない前衛運動から、広く社会一般に定着しうる近代建築の定式化へ向かう1920〜30年代を扱う。ところが授業時間の読みが大誤算、しかも情報過多でシナリオが曖昧だった。失敗だあ、今日は。

ともあれ、次のような話。

(1) ドイツ・オーストリアでは、イギリスのArts and Craftsの移植が一連の「工作連盟」を生み出し、やがてBauhausにつながるのだが、この過程で、工業化を前提としたデザインという課題へとシフトしてゆく。工作連盟については、Weissenhofのジードルンク展、Peter BehrensのAEG専属総合デザイナーとしての雇用などの話題あり。面白いのはBauhausに至るも意外に中世主義の余韻は消えないこと(教官をマイスターと呼ぶ制度、中世以来の現場小屋を想起させるBauhausという名称そのものなど)。規格化に対する手仕事・素材感のアンビバレンツも残る。

(2) フランスでは、Tony Garnier の都市構想や、Auguste Perretの鉄筋コンクリートの軸組フレームの追求があり、そこへドイツ・オーストリア系の思想を組み込んだLe Corbusierが次第に際立ってゆく(彼は若い頃に雑誌をつくって、Adolf Loosの「装飾と罪悪」なんかを訳してフランスに紹介していた)。ドイツ系に比べ、コルビュジエにはむしろブレがなく、のびやかな自由と啓蒙の精神が発見的モデル化とそのプロモーションを押し進める。

そいでもって両者(のみならず構成主義グループなど幅広いモダニストたち)が合流したのがCIAM。

来週あらためて整理しますね。