VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2009/01/16

都市史特論13/見えない都市〜磯崎新の1960年代 (最終回)

 まだまとまった研究のない日本の戦後都市史への展望を描いてこの授業を終わろうと思い、いろいろ悩んだあげく、磯崎さんが1960年代に書きまくっていた都市論の著作をひととおり読み直して紹介するという方法を選ぶことにした。それは、圧倒的な先見性(したがって射程の長さ)、膨大な勉強量・作業量、そして同時代的状況との微妙だが大きな距離、による。

 有名な都市デザインの4段階説というのを磯崎は書いている。磯崎自身、丹下研究室時代には第2段階の機能論を代表するCIAMにずいぶん浸ったが、同時期にTeam Xとかメタボリズムとかが、そして師匠の丹下も、第3段階の構造論的方法を示していく。都市をその物的形態の造型術のレベルでとらえる第1段階も、都市が混乱すればするほど逆に復活する。この論文は、これらの方法ではすでに都市は捉えられないのではないかという磯崎の直感を理論的に整理しようとするものだった。

 この頃の磯崎には、都市が見えない、急速に見えなくなろうとしている、見えないとはどういうことか、そして見えないものを操作するにはどうしたらよいのか、こうした問いを何とか言葉にしようともがいている感じがひしひしと伝わる文章がたくさんある。メタボリズムは、都市が捉えがたくなっているときに、いわば建築の枠をとっぱらうことによって短絡的に都市を可視化した。しかし磯崎は、建築は敷地を超えられないと言っている。「見えない」ことに踏みとどまらなければならない。

 「見えない都市」という文章に、「夜間の計器飛行」という比喩が出てくる。暗黒のなかでコックピットに座るパイロットに実体的環境との関係をつなぎとめるのは「計器」だけである。しかも、この計器によって見えないはずの環境との折り合いをつけながら飛ぶことができてしまう。そういう計器こそが第4段階の方法となるだろう、と磯崎は考えた。

 最初に悩んだ人の思考は、およそのちの時代の人々が考えることを、ほとんど組み込んでしまっているものだ。磯崎都市論にもそういうところがある。「都市破壊業KK」という文章は、もはや殺し屋の営みとその美学を埋没させてしまうほどに都市そのものが殺人の集積になってしまっているという寓話。あらゆるアヴァンギャルドを無効化するほど都市自体が錯乱しはじめている。それが人々の身体にまで浸透してしまった頃、都市に対して建築を透明化・一体化しようという伊東豊雄の都市論は抗いがたいリアリティを持つことになった。むかし、この歴史的関係に気づいてハッとしたことがある(拙論「透明な環境」『建築思潮』1995)。

 そのときにも書いたことだが、磯崎はしかし「計器」が実体都市から離れていることに強みがあるとも考えていた。都市と一体になってしまったものに都市を変える力はないからだ。じゃあどんな計器をつくり出してどう都市を変えられるのか、明瞭に描かれたわけではないけれども、この時に曖昧な捉えがたさをはらまざるをえなかったところに、磯崎都市論を再考する意義があるように思う。

2009/01/08

都市史特論12/自然環境と構築環境

 話題はソウルの清渓川(チョンゲチョン)再生事業。現大統領李明博の市長時代のプロジェクトである。

 李朝時代、日本植民地時代、朝鮮戦争時代、高度成長期、そして21世紀。こうして通時的に清渓川の景観と社会的位置を辿ってゆくと、この川の変化、とりわけ大戦後のその目まぐるしさに驚かされる。朝鮮戦争の難民がソウルに押し寄せて川辺に木造3層バラックの長大なスクォッター集落をつくってしまったかと思えば、その前方の川床からニョキニョキ生え出てきたコンクリートの橋脚によって川に蓋が被せられてスクォッターは一掃され(壮大なスラム・クリアランスだったはずなのだが記録は存在するのだろうか)、かわりに形成された電気や繊維の零細店舗群も今回の再生事業で再び追い出されるようにして転出した。今日、都心のオアシスのような川の両岸には、すでに超高層オフィスビル群の建設が動き始めている。誰にでも分かることだが、これは明白な地上げ事業であって、グローバル企業の拠点オフィスを獲得しようとする世界的な都市間戦争である。そのために“自然(的)環境”が利用された。

 都市史の強みは、この著名な事業の先進的なお題目の数々とか、首長の実行力とかいったものの背後でこの場を構造づけている何か、それはこの場が体現してきた何らかの変化のパタンといったものに現れているはずなのだが、そのなかでこの事業の特質を批判的に検討できることにある。つまり清渓川の目まぐるしい速度を、都市ソウルの速度と見るのである。

 端的に言って、清渓川は都市ソウルのど真ん中に口を開けた穴のようなものだ。それは、たとえばヨーロッパ都市の広場が市民共同体(「私」の集合体)の所有物であるような帰属のあり方とは違っている。私たちがいう官有地は私有の排除が暗黙に宣言された「誰のものでもない場所」である。とりわけ、川、山、緑地といった自然的環境は我々の都市の穴だ。それは穴であるがゆえにさまざまな「行き場のないもの」を飲み込む、つまり都市にかかる圧力を吸収する場となる。スクォッターも、道路も、零細な問屋集積も、グローバル企業の陣取る超高層オフィスも。

 しかし、穴を穴たらしめている(私有を禁じる)権力は、飲み込んだものの吐き出しを命ずることができる(自らが投げ込んだものも含めて)。そうでなければ、その場の穴としての性質は死んでしまうからだ。その意味では、現在の「人工の川」(清渓川)は、かつての高架道路と同様に、この場に被せられた構造物なのであって、いつかまた時機が来れば引きはがせるものと考えておく方が正確な理解であるような気がする。

 都市というのが実は「構築/自然」の区別をつくり出すことによって、自らの変化の速度に堪える仕組みなのだとしたら、この区別を解きほぐす作業は都市史の重要課題である。前回は、災害「後」を題材として、構築環境を、発生的メカニズムをもつ何か(生き物)と捉える方向性を示した。逆に今回は、都市のなかの自然環境を、欲望や意図とともにある構築物として捉える方向性を頑張って話したつもり。その両方の戦略を意図的に開発する必要があるのではないかとつねづね考える。

 都市のなかには、構築されたのにもかかわらず「自然的」であると信じられている領域がたくさんある。いや、信念というのではなくて、ただ漠然と暗黙のうちに人の関知しない自生的・自立的な何ものかとして向こう側に放り出されているということだろう。

 たとえば森。明治神宮は大正期の樹林創出プロジェクトだったが、そう言われると学生たちはハッとする。ちなみにこのときに集結した造園・造林技術者たちは都市公園デザイナーでもある。

 ついでにいうと、神社の場合はその社殿すら「自然」の側に放り出されている。近代の神社建築の研究が進まないのは、国家神道時代へのタブー意識によるものだと僕もずっと思っていたが、それはやや安易であったと思うようになった。つまり、近代(とくに昭和以降)の神社における建築・造林の歩みが、実は神社を「自然」の側へ送り込む巨大な努力であったとしたら? 角南隆以下、昭和の技術者たちはこれに成功してしまった気がする。戦争を挟んで1930〜60年代の間に。これはたぶんモダニズムのある側面がもつ重要な問題だ。そんなの昔から神社はそういうもんなんじゃないの?と訝る人もいるかもしれないが、少なくとも伊東忠太神社をそんなふうに考えてはいなかったし、近世にも多様な社殿が試みられていた。

 ついつい、余談に力が入りすぎました。失礼。

2008/12/18

都市史特論11/破壊と再生〜都市生成のシャーレ

 今回は都市の破壊を題材とした。関東大震災(震災・火災)、第二次世界大戦(戦争)、そして高度成長や規制緩和だってある種の都市破壊であるから、日本の都市はほとんど20年に満たないピッチで破壊を繰り返し、そのつど再生してきたことになる。

 災害復興については越澤明『復興計画』(中公新書)がある。越澤先生の本はあくまで都市計画史的観点から書かれているのだが、実は、同時に都市史としても読める側面がある。それは復興計画が現実の都市をつくる力を現実に(正負両面含めて)持ってきたこと、それを知ることで東京をはじめとする都市の現在がかなり解読できることを示しているからだ。しかしながら、この本で都市の復興過程が分かるわけではない。僕が言いたいのは同書への批判ではなくて、復興計画と復興過程とが違うという単純な事実。そのことが一般にどれほど明確に意識されているかというと、実はあやしいのではないか。とりわけ建築分野に学ぶ者にとってこの差異は重要な意味を持ちうると僕は思う。僕たちは、実際、焼け野原にバラックが立ち始め、それがやがては恒常的な街へと収れんしていくプロセスを知らない。闇市が生み出され、そして取り払われたことは、都市にとってどのような意味を持つのか、ちゃんと考えたことがない。それでよいのだろうか。復興じゃなくて再生かな、いや「再生」もいまやプランナー的観点に侵されすぎた言葉なので、「生成」という言葉で復興を考えてみたらどうなるか。これはかなり重要な研究になると思う。シャーレのなかの培養実験というと語弊があるかもしれないが、逆にそういう抽象度を高めた、ある意味では醒めた視点を持つことによって得られるものも大きい気がする。

 ところで今回の授業を準備していてふと気づいたのだが、阪神淡路大震災ではバラックを見ることはなかった。なぜか。授業中にもその問いを発してみて、そして授業を進めるうちに自分で答えが分かって思わず膝を打ってしまった。何のことはない、レジャー用テントが公園に無数に出現したではないか。バラックは先回りして商品化されていたのだ。考えてみると、被災者はテント、仮設住宅、復興住宅を順次移り住み、そして自力での居住環境回復が可能となった段階でこのルートから脱出する。こうした「移住システム」が見事に機能したということなのだろう。これは相当に驚嘆すべき事実ではないか。関東大震災や第二次世界大戦の復興とは質にな大きな変容が生じたと考えざるをえない。もはや叉首組の廃材住居とかバス住居とかには出る幕はないのだろうか。

 しかし同時に、この種の驚きは僕の過剰なロマンティシズムに根ざすものかもしれない(生成、無名性、自然発生といったものへの素朴な思い入れを相対化できていないかもしれないという意味)。たとえばいかにも自然発生的な混沌状態と見える闇市が、実際にはきわめて組織的に生み出されて運営されていたという事実もある。生成を見届けるのには、やはり醒めた眼が必要とされるに違いない。

2008/12/11

都市史特論10/郊外の誕生〜武家地開発から私鉄支配へ〜

 郊外の問題を考えるには、多少回り道になっても、産業化時代に都市が経験した新しい局面を理解する必要がある。というわけで、産業革命期のイギリスの都市生活誌を紹介。この時期のイギリス都市についてはエンゲルスのものをはじめとして膨大な記録があり、庶民=労働者の生活実態を克明に再現することができる。排泄・入浴から毎週土曜のパブの風俗まで。汚物が溢れかえる道路や裏路地。ゴシック・リヴァイヴァルの国会議事堂前を流れるテムズ川が強烈な異臭を放ち、議員が気絶したことさえある。ペスト、チフス、結核、コレラの流行。新興工業都市リバプールの平均寿命は工場労働者世帯では15才程度であったという記録もある。一般論としては、こうした都市から上流・中流層が脱出していくのが郊外の形成であり、したがって郊外の誕生は階級分化の歴史でもある。

 ハワード田園都市論(1902)は工業も農業も備えた自立都市を目指すものだから、この階級分化の趨勢への抵抗でもある。それは職住一体の中世への回帰志向でもあったし、同時に共産主義思想への共鳴でもあった。それゆえ彼は土地建物が私有されない都市を目指すことで資本によって都市が振り回されるのを抑止しようとした。彼の『明日の田園都市』は、その大半が、資本主義のイギリスにおいて小さな半・共産主義的な都市をつくるための事業計画の検討(計算)にあてられている。

 さて日本はどうだったか。イギリスのような深刻な都市問題を経験したのは大阪である。城下町時代の市街地の周辺にたっぷり残っていた平地に次々に工場が林立して、町場が工場に取り巻かれたかたちになる。明治中期の紡績工場の40%が大阪に集中していたといい、1900年頃には大気汚染や水質汚染はロンドンと同様の水準になっていた。ちなみに同じ頃にロンドンに渡った夏目漱石は、空を見上げても太陽は見えず、タンを吐くと真っ黒なかたまりが出てきたと日記に書きつけている。阪神電鉄(1905開業)や箕面有馬電軌(1907年開業、のちの阪急電鉄)が立ち上がるのも同時期。彼らは最初から、水と緑と太陽にあふれた健康的で文化的な郊外居住の魅力をパンフレットや企業PR誌を通して宣伝する方法をとっていた。そして阪急の小林一三は鉄道線の延伸と住宅地開発を一体的に進める戦略を確立、のちには世界初のターミナルデパートを建設。ビジネスモデルの先進性ではつねにトップを走った阪急に、関東の私鉄も追随した。この動きのなかで「田園都市」はほとんどキャッチコピーとしてのみ使われた(内務省地方局有志の『田園都市』(1907)もまた違う意味で意図的誤読であったことが知られる)。

 東京では、少なくとも明治末までは近世の武家地の再開発こそが住宅地開発であるという時期が続く。前回も確認した武家地ストックの量という先行条件はそれだけ大きなヴォリュームを持っていたし、また工業都市化という方向性が弱かったことも、大阪とは条件が違っていた。したがって、まずは旧武家地を何らかのかたちで継承しえた大小の地主階層が、東京の当面の宅地開発の行方を握っていたことになる。そして鈴木博之先生らのグループが明らかにしてきたように、集中型大土地所有者こそが住宅地開発というかたちで新しいまちづくりの実験を行ないえた。私鉄による宅地開発がはじまるのは、おおむね武家地ストックを使い切った大正期からであり、とりわけ関東大震災(1923)の被災状況は丘陵地帯の優位性を明らかにしたため私鉄にとっては追い風となる。昭和期は、私鉄が吸収合併を繰り返して寡占化・肥大化してゆく時代であり、それが戦後の圧倒的な郊外開発と、渋谷・新宿・池袋などのターミナルの急成長を準備したと考えられるだろう。

2008/12/04

都市史09/江戸から東京へ〜明治の東京計画

1204 いよいよ近代。

まずは松山恵さんの研究(たとえばコレ)にもとづき如何にして江戸が首都となったかを概観。考えてみると、実は三都が首都機能を分掌していたのだということも、また大名たちが地方を経営していた時代の徳川の政府機構がいかにコンパクトであったかということも、近代中央集権国家を想定したとき驚きをもって発見されたのではないだろうか。実際、新しい首都には新たに膨大な機構を集約せねばならなかったのであって、それを引き受けられるのは膨大な武家地ストックを擁する江戸=東京だけだった。しかし、江戸城西の丸に「宮中三殿」が設けられるというのはコンバージョンの決定的な徴ですね。で、それは明治元年ではなく、翌年の天皇再幸のとき。東京の首都化はこのとき決着する。ちなみに近代の首都に奉祭すべき神殿の構想は凄まじいものがいろいろあって面白い(→興味ある方はこちらに掲載の拙論を笑覧ください)。松山さんはこの首都化のインパクトを核に明治初期の都市の動きを説明しなおそうとする一連の研究を進めておられ興味深い。

そして明治の東京といえば、いわずと知れた藤森照信先生の『明治の東京計画』(岩波書店、初版は1982)。今回はかなり頑張ってA3×1枚の図解年譜を作成(1冊まるごと入ってます)。銀座煉瓦街から市区改正による丸の内ビジネス街まで、渋沢栄一やら井上馨やらが背負うものを背負って動き回り、ウォートルスやコンドル先生たちが設計の腕を振るい、そして誰もがわずかな都市の形を残して静かに去ってゆく。藤森先生があの頃に書いた歴史の文章はどれも三国志か何かのような活劇であり、しかも読後には何とも言い表しがたいもの哀しさが残るのである。何というか、都市はいつでもそこに横たわっている、という感じなのだ。

2008/11/27

都市史特論08/江戸の町〜都市集住の世界〜

玉井哲雄先生の『江戸〜失われた都市空間を読む』(平凡社、1986年)はホントに面白い。僕の大好きな本のひとつ。土地と建物が社会を織り込んで形態化されるダイナミクス、そしてそれが無意識の内にのちの都市を決めてしまう微弱で強固な規定力が平易に解き明かされる。都市史の醍醐味が味わえる最高の入門書だと思う。

今日の授業はこの本のダイジェストでした。で、僕は以前にこの本を読んだとき、江戸の町が植民地台湾にも移植されていることに密かに気付いたのであります(いや喋っていますが)。と同時に、19世紀汎アジア的な都市文化に通ずるものが何故江戸では18世紀にはすでに開花しているのかという謎にも。高密な集住社会を型として提供できる不動産パッケージの開発、庇下という名の歩廊などなど。

来週は東京遷都論から明治の東京計画へ。

2008/11/20

都市史特論07/城下町〜日本的ゾーニングの基盤はいかにつくられたか〜

 日本の多くの都市に、近代の機能主義的ゾーニングですら依拠せざるをえない先行条件としての土地利用パタンがある。それが城下町の身分制ゾーニングだ。先日、古建築実習で学生を引率して一週間旅行をしたが、姫路城の天守から見下ろした市街地は、かつての武家地と町地との区分が手に取るように容易に読み取れた。こういうことは多くの都市で経験できることで、要するに城下町のゾーニングは今でも土地の規模や利用形態にほとんど直接的な影響を及ぼし続けている。

 城下町の形成過程は、地方領主の都市計画チームが試行錯誤を繰り返すドキュメントである。領内の〈境内〉や〈町〉をひとつの都市に集め、配置と再配置を繰り返すのだが、都市の統合・経営のためによりふさわしい物的計画を得るためには、都市ごと移動させることも珍しくなかった。また、そもそも〈境内〉とは寺社等の権力が商工業者や門徒を領域内に包摂して結合したものだから、領主としてはその結合を分解することは新たな統合の前提条件であったろう。寺院から分離された人々は城下に吸収されて町地を形成し、寺院は寺町に配置されていく。言うまでもないが、ゾーニングは政治なのだ(ちなみに検地もこういう作業とともに行われるからこそ政治的な意義があった)。

 城下町にあって寺町が都市周辺部に位置することは、一般には領主による管理あるいは軍事的転用の可能性などから説明されるが、一方では(授業では紹介し忘れたが)寺院はデベロッパーとして利用されたとみる考え方もある。中世では境内とともに市庭がもうけられ、そこにあっては贈与・互酬的な人間関係が神仏の名の下に断ち切られ、モノが経済的交換という新たな関係へと解き放たれる、ゆえに商人たちが集まり町が形成される。このような場の設定を請け負う特殊な職能者がいた。いわばプロジェクト・マネージャである(←網野善彦の中世史)。だから、湿地や海を埋め立てて境内をつくれと命じられれば、寺院はプロジェクト・マネージャを使ってエンジニアやワーカーたちを組織し土地造成工事を行い、商人を集めることができる。寺とともに町ができあがってくると、再び寺院をフロンティアの開発に差し向け、残された土地を町地へ転換する、そのようにして寺院は都市建設の進捗にともない徐々に周辺へ周辺へと追い出されていく場合があったらしい。江戸なんかそうなのだそうだ(←玉井哲雄)。面白いね。

 というわけで来週は玉井先生に従って江戸城下をクローズアップしたい。そんで幕末の遷都論にふれて終わり、って感じかな。いよいよ近代です。

2008/11/13

都市史特論06/〈境内〉と〈町〉〜多核複合的な都市領域

 西アジアでは余剰の社会化過程が都市を発達させ都市国家を生み出すのに対して、東アジア(少なくとも日本)では王権が都市という仕組みを導入した。権力はその機構が大きくなればなるほど商工業者を組み込まざるをえなくなる。古代権力はいちおう国家を一元的に統治していて、そのために必要な機構こそが都城であったし、そこでは官設の市場が管理されていたが、権力が弛緩すれば都城の実効性が弱まり、潜在していた様々な権力が自らの機構を組み立て独自の都市的領域を営むようになる。公家・社寺・武家のいずれもがこうして求心的・階層的な〈境内〉をつくる。第4回ですでにみたように、道路に沿って町家が軒を連ねる〈町〉も古代権力の衰退とともに徐々に形成されたものだった。それはミチという線に取り付く均質な線的領域をなす。〈境内〉は核のまわりにそれを従属させて面的領域をつくったわけだが、一方で権門の支配に取り込まれずに〈町〉だけで自治的な都市的領域を保持する場合もある。戦国期京都の上京・下京集落とか、有力な港湾都市などがそうだ。

このように多様な都市的領域が併存し、拮抗(取引も戦争も含む)するのが中世であり、そのなかから地方領主としての一円支配を確立していく大名が、それら都市的領域をピースと捉えてパズルのように並べ直し、大名の館を核とするひとまわり大きな〈境内〉へと統合する力業が城下町の原理だとみなされる。いやダイナミックだなあ、都市史って。

このあたりを図式的に理解しておくと、近世から近代への展開も飲み込みやすくなるだろう。

2008/11/06

都市史特論05/都市と都市以前 〜都市とは何か?〜

都市以前から都市を分けるもの、つまり都市性とは何か。結論からいえば、今のところ日本では王権の成長が統治機構の一部としての中国都城(外来モデル)を要請したことに都市のはじまりをみるのが学界では妥当とされているよう。しかしそれ以前の大規模集落を都市とできない理由は? また逆にそれを都市と主張する研究者の論拠は? というわけで、もう半世紀以上前のゴードン・チャイルド『都市革命』の議論を紹介。メソポタミアでの都市生成をめぐる理論モデルと指標。大局的にみれば、チャイルド以来の指標を、弥生時代の大規模環濠集落などがどれほどよく満たすかという議論の構図になっていることは否めない。

ところで今回は池上曽根遺跡(大阪)をケーススタディにとったのだが、「遺跡」というモノとその痕跡の集合体に時間的配列を推論する作業にはかなり刺激的な視点も満載である(たとえば竪穴がいっぱい出てきても同時に存在したとはかぎらない、蓋然性ある時間的再構成をしてみると人口は以外に少ない、とか、あるいは墓群が3つに別れていることから実は複数の集落が一時的に集合して離散するプロセスの一時点を示すにすぎない、とか)。一方で年輪年代法と炭素14年代法とで、出土した木材から「BC.52年」とかの数字がバチっと出てしまうご時世で、個々の遺跡の年代も、あるいは縄文・弥生時代の年代的なレンジもどんどん塗り替えられている。その都度、世界史的なリンケージも連鎖的に変わってしまう。

さて、ともかく我々として最低限、都市とは非食糧生産従事者が集住しているのに何故だか彼らが食べることのできる仕組みである、ということだけはしっかり理解しておこう。つまり都市とその後背地たる農村は、同時に生成・変化する。産業革命期の都市だって、今日の都市だって、この基盤だけは変わっていないはずだ(もちろん各都市の後背地は互いにクロスオーバーするかたちでグローバルに分布する)。

2008/10/23

都市史特論04/計画された都市から、生きられた都市へ

1023 まずは都城論のおさらいから。

(1)コスモロジーは天〜身体の相似学であり、都市にもダイアグラム的形態を要求する。

(2)儀礼は群衆(知覚する身体)に対して皇帝の権威を表象するバロック的空間演出を要求する。

(3)機能、つまり皇帝・貴族・官人らをその官位に応じて収容する機能は、土地のシステム的分配を要求する。

(4)技術(計画の技術、建設の技術、維持の技術)は、それら要求を拘束的に実現する。

 「都城」の形態は、これらの複合として決定される。ちなみに(1)が勝ったのが中央宮闕型(周礼モデル、北京、開封、藤原京etc)。(2)が勝つと北辺宮闕型(随唐長安、ソウル、平城京〜平安京etc)となって、朱雀大路が長大な儀礼空間になる。

こうした論理のなかで建設された平安京は、しかし平安後期には早くもさまざまな側面で解体しはじめ、戦国期には当初からは予想できない驚くべき形態をとるに至っていた。授業ではその様相を現象に即して辿った後、「町家の生成」について考えた(町家は戦国期には相当完成された姿になっているが、平安末にはもう原初的形態が一般化していた)。

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町家(町屋)は、商業の発達が要請した店舗の常設化か、はたまた農家を原型として都市型に展開したものか。前者が機能主義的幻想であり、後者が進化論的幻想であることを指摘してしまったのが、野口徹『中世京都の町屋』(東大出版会)である。伊藤毅先生が言うように、町家の規定要因は「接道性+沿道性」である、つまり面路型でずらりと列をつくるという形態の側から規定するより仕方ない。とすれば僧坊のような原型は昔からあるし、平安京の道路境界にあった築地塀をそうした建築物によって置換すれば町家ができるということになる。問題はそれを誰がどうやったかということだが、おそらくは供給とスクウォッターの両面を包含できる議論が望ましいのだろう。たとえば地主による集合住宅供給が出発点であったとしても、いつしか売買等で所有が分断され、更新(建替え)が個別的に進んだり、その所有区分がブロックの内奥部へ向かって延伸されたりすれば、私たちになじみ深い町屋の市街地が形成される。地震・火災や戦乱などの災害がつくり出す生成の実験場で考えるのもひとつの戦略で、実際そういう研究も行われている。僕はもちろん中世都市史の研究者ではないが、台湾都市の自己再組織化について考えたことがあって(『彰化一九〇六年』アセテート)、その時は植民地権力による都市改造という一種の災害に注目したと言ってもよい。その時思ったのは、町家はその確立後も原初の生成的特質を遺伝子のように組み込んでいて、それはいつでもそこいらで反復的に発現してきたのではないかということだった。

 もうひとつ、授業をやってみてあらためて気づいたことがある。平安後期の原初的町家がすでに土間と揚床の二部構成になっていることだ。「接道+沿道」をもって町家とするとして、その萌芽の最初期から「土間+揚床」という形態が備わっていたことは、はたして「自然」なことなのだろうか。