VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2017/04/26

『福島アトラス01:原発事故避難からの復興を考えるための地図集』について

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福島アトラス 01:原発事故避難からの復興を考えるための地図集』という冊子をつくりました。

本のタイトルにあるとおり「アトラス=地図集」です。非常に短時間に膨大な情報を集めて整理していますが、そういう意味では生々しい実態からすーっと上に引いた視点から、ドライに、そして空間と時間のスケーリングということだけにほぼ集中して福島の推移と現況を可視化した地図集です。

発行主体は「NPO法人住まい・まちづくりネットワーク」。県の助成を得て、原発事故のために避難を強いられている方々への全戸配布を前提とした地図をつくりたい、という相談を芳賀沼整さん(建築家、はりゅうウッドスタジオ)から持ちかけられたのが昨秋。非売品という形式、5万部という部数、読者(利用者)が決まっていたわけです。2011年以降、建築研究者として災害を考えるだけでなく、当の東日本大震災の現場にも色々なかたちで関わらせていただいたり、建築雑誌の編集をやったりしてきたこともあり、また芳賀沼さんは(ちょっと何言ってるか分からないことの方が多いけど)圧倒的に尊敬する建築家であるということもあって、ぼくは監修(+編著)のかたちでこのプロジェクトに関わらせていただくことにしました。

そこから打合せを重ね、全域を廻る予備的な取材を終え、編集方針が確定したのが年末。本格的な取材、情報収集、執筆、グラフィック作成などが進み出したのは年明けでした。よくこぎつけたと思います。じつは、当初は1枚ものの大きな地図をつくるのか、それとも・・というようなところから話ははじまっています。それが64ページの冊子というか本のかたちになりました。

避難を強いられたのは12市町村です(実際の汚染の範囲については当然議論の余地があります)。各市町村は、その住民の避難先はもちろん、域内の除染や復旧復興関係の作業、公的サービスの稼働予定など、当然すべて把握していて、住民への情報提供をしているのですが、住民の生活再建の模索はもっともっと広い視野で行われているのが実態です。要するに「戻るか否か」、だけではないのですね。もちろん何らかの施策やアクションや情報によって潜在的な「戻る」が顕在化されるようなことは望ましいでしょう。しかし「戻るか否か」に選択肢を限定することは、あれだけミクロ−マクロにわたる複雑なコンテクストが絡み合う状況では、じつは端的に乱暴です。「フクシマ」として一括されがちな地域がかかえる、驚くほどの差異と複雑さは(浅い取材ではありましたが)のちに思い知ることになりました。それは必ずしも「線量」の程度と、住民の「帰還」の動向との関係だけで語れるものではありません。「線量」は、さまざまな政策や現場での作業の組み立てを連鎖的に組み立てさせています。除染・解体・土木工事・原発作業などの進展と、その膨大な作業員収容する宿舎や詰所、新しい企業や商業の誘致(逆にいえば企業の思惑)、そして避難先からの生活再建の方向性・・・きわめて複雑です。そのすべてを可視化することもまた暴力になりかねませんから慎重な態度が求められますが、そういった色々なことを踏まえたうえで、全体像の整理(マッピング)が必要だろう、というのが芳賀沼さんたちが考えたことでした。さまざまな模索の前提となるレファレンスブックのようなものがイメージされました。

何しろ非売品ですので、配布対象の方々以外にはなかなかお目にかけるチャンスがありません。そこで本の成り立ちをご紹介しておきたいと思います(目次ページの再掲)。

本誌の構成と読み方:
◆全域アトラス
 原発事故後の避難復興の状況について、市町村をこえる全体像をつかむための地図集です。
 避難区域の推移、役場機能、医療福祉施設など、注目することがらによって、見わたす地域の広がりも、そのなかでの施設等の分布の様子も違います。
 7つの地図をそれぞれ違う描き方にしたのはそのためです。

1 避難区域の変遷 ……02
2 役場機能の立地変遷 ……03
3 医療福祉施設の開業状況 ……04
4 幹線交通網と商業施設の稼働状況 ……05
5 地域公共サービス施設 ……06
6 小学校・中学校の校区と再開状況 ……07
7 大規模復興事業の分布 ……08

市町村アトラス――ランドスケープ・データスケープ・ヒストリカルスケープ
 各市町村について、色々な角度から、じっくり見つめ直すための地図集です。
 自治体別に、3種類のページを用意しました。
 ・ランドスケープ景観)・・・普段とちがう、50〜100メートルくらいの高さから、町や村の風景を見直してみます。
 ・データスケープ(資料)・・・2011年3月11日から今日までの避難復興の歩みを、事実と数字でまとめています。
 ・ヒストリカルスケープ(歴史)・・・先人たちは町や村をどのようにつくってきたのでしょうか。明治末から100年くらいを振り返ります。

南相馬市 ……09
浪江町 ……15
双葉町 ……19
大熊町 ……23
富岡町 ……28
楢葉町 ……32
広野町 ……36
飯舘村 ……40
川俣町 ……46
葛尾村 ……51
田村市 ……55
川内村 ……59

カテゴリ別住所データ ……63
 いざというときに役立つ連絡先をまとめました。

Topics
 地図は町や村を鳥の目で見下ろすものですが、ここでは人の目線から2017年1〜2月の地域と人々の活動を伝えます。

1 集まって、食べる――地域を盛り上げるこだわりの一杯 ……26
2 届けて、見守る――地域を駆け回る小型バス ……27
3 使って、生かす――よみがえる家と地域 ……44
4 手を入れ、伝える――地域のなかの神社 ……45

「全域アトラス」は、NPO法人の高木さんが全力でデータを集め、イラストレータ上にプロットしたものです。役場機能は複数の拠点を結ぶ広域ネットワークとして存在しており、小中学校はそれぞれの学校区という単位での再開・統合などとして動いており、商業は住民がいなくとも諸種作業員の人口がかなりの大きさになるため幹線道路に沿って営業している・・・などなど。避難区域の設定の変遷だって、案外その骨子さえ知られていないのでは?

市町村アトラス」のうち「データスケープ」は、『建築雑誌』2015年3月号に掲載された、市町村別の詳細データ(避難者人口・避難先・3.11以後の推移・復興計画など)をもとに、いくぶん項目を取捨整理したうえで、同ページを作成された東大の井本佐保里先生ほかの皆さんにアップデートしていただいたものです。各市町村のトビラページを兼ねる「ランドスケープ」は”株式会社ふたば”さんによるドローン撮影。「ヒストリカルスケープ」は、1910年頃の地形図1970年頃の空中写真を、現在のGoogleと比べて、約100年のあいだの市街・集落の移り変わりを解説したページで、これは私たちの研究室(当時M1の4名)が担当しました。都市部はともかく、ほとんどの地域は1970年代まで近世と大きくは変わらず、それ以降に急激に開発されている。全域アトラス市町村アトラスの情報をふまえつつ、このタイムラインのなかでどのような復興の像を描くのか、難しいでしょうが、長期的なパースペクティブが求められます。

「Topics」は研究室の学生たちが川尻さんの指導を受けつつまとめた取材記事です。ひとりひとりの人間、地域共同体などなどの生活再建に向けた動きを、会うべき人に会い、話を聞いて伝えるという基本作業をしました。取材にご協力いただいた皆さんに感謝申し上げます。

そして、これらすべてを中野豪雄さんの事務所でデザインしてもらいました。いつもながら、本の目的・趣旨に遡り、情報の構造化、インフォ・グラフィクスの作成にいたるまで、本質的なデザインの仕事をしていただいています。

最後に今回のチームと関係者を紹介します(つまり奥付の再掲)。みなさま本当にありがとうございました。

福島アトラス FUKUSHIMA Atlas
原発事故避難12市町村復興を考えるための地図集
Reference Maps for Building Back Daily Lives from Evacuation
2017年3月30日発行

発行所:特定非営利活動法人 福島住まい・まちづくりネットワーク
企画:特定非営利活動法人 福島住まい・まちづくりネットワーク
監修:青井哲人明治大学理工学部准教授)+明治大学 建築史・建築論研究室
編集:川尻大介
デザイン:中野豪雄、小林すみれ(中野デザイン事務所)
編集協力:井本佐保里、須沢栞、千野優斗(以上、東京大学
     芦谷龍征、富山大樹、中井希衣子、西恭平(以上、明治大学
ドローン撮影:株式会社ふたば
協力:株式会社はりゅうウッドスタジオ
   日本大学工学部 浦部智義研究室

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2016/09/26

「津波と綾里博物館展」第2回展覧会 20160912-18@綾里地区港集落内

 去る9月12日(月)から18日(日)に、岩手県大船渡市三陸町の綾里地区にて「津波と綾里博物館展 歴史・復興・住まい」が開かれました。

 饗庭伸(首都大学東京都市計画)を中心に、池田浩敬(常葉大学防災)、木村周平(筑波大学文化人類学)、青井哲人・石榑督和(明治大学/都市史・建築史)、岡村健太郎(東京大学/都市史)、佐藤翔輔(東北大学アーカイブ(記録の保存活用学)、山岸剛(写真家)といったメンバーと、6大学の各研究室の学生たちが、早いところでは2012年より地区復興のサポートに入り、2014年頃からは歴史・民俗・未来にわたって「津波綾里」を多角的に掘り下げる研究を行ってきました。この間、じつに多くの方々にご協力と励ましをいただいてきました。この「博物館展」では、伊藤暁(建築家)、中野豪雄(グラフィックデザイナー)の参画を得て、これまでの成果を地区の皆さんにご覧いただきました。17日には研究成果の報告会(@綾姫ホール)も実施し、町民の方々が約100名お集まりくださいました。

 展覧会の会場は、昨年に引き続き港集落の空家(昭和三陸津波後の復興時の建設された築約80年の建物)をお借りしています。「博物館展」というちょっと奇妙な名称はですね・・・、架空の「博物館」が、この空家を借りて「展覧会」を開いている、ということなのだと私は理解しています。このヴァーチャルな「博物館」は、現時点では参加各研究室あるいは本プロジェクトで整備中のデジタル・アーカイブ、さらには町民の皆さんの知恵や資料などのかたちで、やや分散的かつ潜在的に存在しています。しかし、「展覧会」を開くことで、町の方々や、あるいは現在は町外にお住まいの方々が足を運んでくださり、展示物を前に生き生きとした語りを生み、ひとつひとつの資料に意味の厚みを与え、我々の知らなかった資料を持参くださることによって、「博物館」は姿を表し、成長していきます。その意味で、架空の博物館が具体的な場所に立ち現れる、「博物館」×「展」という形式は我々の予想を超えて意義深いものを秘めているように感じました。

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↑外観。最終日閉館後(9月18日)、看板を下ろして集合写真(会期中、博物館に詰めた先生・学生はもっと沢山います)。中央が公民館の西風さん。西風さんがいなかったらこの研究プロジェクトも展覧会もすべてありえなかったでしょう。感謝しております! そして隣近所の奥様方。毎日差し入れありがとうございました!

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↑内観。綾里地区の典型的な民家の間取りに対して、そこからズレて白いフレーム・パーティションが走り、両者のオフセット(ズレ)が順路をつくり出しています。

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明治東大チーム(=空間チーム)で担当した、昭和三陸津波後の復興期につくられた民家の実測図。博物館展のなかで一番ストイックな一角。

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↑つづいて綾里の歴史・産業・民俗・社会、そして津波被害・再生の歴史、3.11避難行動、3.11直前の町並み景観復原・・・などのコンテンツが続きます。展覧会には綾里関係者だけでなく色々な方が来てくださいました。東北大の川島秀一先生、早稲田の佐藤滋先生、それに(偶然!通りかかった)塚本由晴さん・貝島桃代さん。

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↑そして昨年の博物館展で来館いただいた方がご提供くださった映像2編の上映。1949年制作。おじいちゃん、おばあちゃんたちが、映像のなかに登場する人々を見ては「あのバッバだべちゃ」とか「あの頃はべっぴんだったんだなア」と盛り上がる。そういう語りを集めればどのカットにもキャプションと解説が付けられそうだ。映し出される風景・風俗がわが実家(愛知県中山間地域)の70年代前半(つまり僕が小学校に上がる前の頃)の写真(つまり僕のアルバムの写真)とそう大きく変わらないことにすぐさま思い至る。日本の農山漁村近世から1970年頃までおおむね連続的に推移してきたのだ。一方で、道路建設や医療・保険の普及などが「近代化」の文脈で持ちえた意味も考えさせるフィルムである。

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↑空間チームの一員が解説中。

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↑ 17日夜の飲み会。

*本記事掲載の写真は、饗庭伸先生・熊倉永子先生に提供いただいたものを含んでいます。

2016/09/04

村々の風景の世界性をめぐって 20160831-0903 綾里調査

 岩手県大船渡市三陸町の綾里という地区はいくつもの浜からなるのですが、そのうち「砂子浜」に、この綾里というエリアの草分け(中世)の系譜を継ぐ家があり、今回わたしは学生たちとこの家にマル2日お世話になりました。屋敷・建物の実測と聞き取りです。

 屋号を「砂子浜大家(スナゴハマオオヤ)」といいます。17世紀末には製塩から鰯漁の経営へと転じ、18世紀中盤には廻船業へと進出して、綾里−気仙沼−銚子−江戸という交易ネットワークの産地側の拠点として隆盛を誇りました。姓は千田。歴史研究者らの努力により「千田家文書」として整備されつつある膨大な文書は、近世史では知られる存在です。私もそれを活用した2〜3の論文を拝読しました。

 現在の屋敷には、母屋と土蔵と納屋(綾里ではナガヤと称する)があり、庭園や露地や井戸があり、さらに「お御堂」と称する持仏堂があります。(千田家の系譜にかかる資料から推すかぎり)主だった建物はおそらく19世紀初頭かと思われます。いずれも昭和戦前期にかなり手が入っていますが。

R9288626 砂子浜大家の名にふさわしく、屋敷は堂々たるものでした。砂子浜は、こじんまりとした浜から急峻に立ち上がる斜面に展開する小集落ですが、砂子浜大家は最も海に近いといってもよい切り立ったテラス上にあり、海には背を向け、山側に回りこむアプローチで家のオモテに至ります。パルテノンのようです。でも、集落は「大家」より高いところにある。

 要するにザシキなどの公式な空間(オモテ)が地形的にはウラにあって集落を向き、私的な生活空間(ウラ)が地形的にはオモテにあって海を向くわけです(これをあえて反転というのは恣意にすぎませんし、浜にオモテを向けないのは海風への配慮からして当然ともいえるわけですが)。面白いのは、このウラの生活空間の中央に「カッテ」と称する、通常ならば物置か隠居の寝間にでも当てられる部屋があるのですが、この家ではそのカッテが、当主がその座を構え、家の者たちがおうかがいを立てに来る、いわば司令塔のような部屋であったことです。この家ではカッテこそが海へと視界を開く唯一の部屋であったことが、製塩・漁業・廻船を経営してきたこの家にとって何か意味があるのだと考えてみたい誘惑にかられます。

 この家は、斜面に展開する集落の家々へと社会的なオモテを向け、反対に家の内部秩序の中心を海に向け、その海を通じて江戸とつながる流通経済を動かしていたと見立てられるわけです。

R9288694 少し斜面を上ったところ、ちょうど砂子浜の集落がほぼ終わるその背面の山になるわけですが、そこにこの家の墓地があります。この墓には度肝を抜かれました。

 斜面に沿って上昇する軸線上に、前後ふたつ、大きな石を積んでつくった正方形の基壇があるのですが、前方の基壇中央には角柱の墓石が立ち、うしろの基壇中央には逆に丸い穴が掘り込まれています。この穴は近世から戦後すぐの頃まで使われてきた火葬場でした。しかも、ふたつの基壇の縁には大樹がそびえ立ちます。基壇の外ではなく、内側の縁に、です。手前の基壇は前方左右に、奥の基壇は(正面をのぞく)三方にぐるりと列状に。構築的な石積みの、その上に、墓碑をはるかにはるかにしのぐ大きさの、ぐねぐねと枝をくねらせながら広げた大樹の生命感が立ち上がるその光景には、たんなるモニュメンタリティを超えた、有機性と一体化された形式性とでもいうべき世界観のようなものを思わずにはいられませんでした。

 現在この墓地は鬱蒼とした雑木林に包まれていますが、かつては見渡すかぎり田畑であったそうです。手入れの行き届いた棚状の農地のまんなかで、この墓地は異様な力を発散していたに違いありません。

 海と浜、屋敷のオモテとウラ、集落と農地、そして墓地、山林・・といった風景の全体にわたって、ある種の論理が貫いていたであろうことを、考えなければならないのでしょう。

 綾里の浜々には近世を通じて集落が育っていきます。明治津波はその多くを流し、昭和の津波では国家−地方の行政的枠組みのなかで集落の風景が再編され、高度成長期を迎え、そして東日本大震災がありました。3年前から縁あって綾里に入らせていただきましたが、多くの方々にお世話になりながら(今年は砂子浜大家=千田家のご当主に、本当によくしていただきました)、屋敷や建物を実測し、お話をうかがい、史資料にあたり、ようやく、そこに流れる悠かな時間のダイナミクスが少しだけつかめてきた気がします。

2015/03/28

福島原発事故現場20Km圏内を見て

kj201504昨日(2015.03.27.Fri.)明治大学中野キャンパスにてアーキエイド総会が開かれ、ゲスト・コメンテーターとして参加させていただいた。塚本由晴・貝島桃代のお二人の進行により12本の活動報告があり、懇親会、二次会と・・・。こうした試みの数々からどのような建築論が立ち上がるかがやはり重要だろう。


で、総会での報告者のひとりとして参加されていた芳賀沼整さんから、会場で、発刊されたばかりの『建築ジャーナル』no.1237, 2015年4月号を頂戴しました。特集は「3.11から4年 2 原発事故と建築家」。

去る1月25日に、五十嵐太郎、浅子佳英、中川純の3氏とともに芳賀沼さんにご案内いただいて福島原発被災地(双葉町中心部、同海水浴場、第一原発西側フェンス際、南相馬市小高区、請戸漁港など)を1日かけて巡った記録と、夕方に郡山市希望ケ丘で開かれたトークイベントの内容が掲載されている。コンテクストが不確定で不定形な状況においてこそ建築的思考+行動がものごとを動かしうるのだということをまたしても芳賀沼さんに教えていただいた。濃密な誌面になっているので是非ご一読を。

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2014/09/24

綾里プロジェクト2014:大船渡市綾里にて昭和三陸津波後の「復興地」の家屋調査

報告遅くなりましたが、2014.08.26〜08.30の5日間(実質的な調査期間は4日間弱といったところ)、岩手県大船渡市綾里の各集落にて大変有意義な調査をしてきました。首都大学東京の饗庭伸先生を代表者とする科研費のプロジェクトで、災害復興の経験を含む地域の歴史・文化を後世へ継承するローカルでスペシフィックなアーカイブをつくることを試みるのですが、空間チームの私たち(青井および当方の研究室メンバーと、東大の岡村健太郎さんを中心とするチーム)は、まず昭和三陸津波後に高所を造成してつくられたいわゆる「復興地」に建てられた家屋の調査を行っています。

P8270368[fig.01]これは港地区の俯瞰。中央の道を進んでいくと、岩崎地区。

R0028756[fig.02]そのなかに例えばこんな家屋があります(写真は2011.09.07)。昭和三陸の復興地に建てられた家屋の典型例。もちろん気仙大工系の棟梁の仕事。こうした家屋が綾里の各地区に残っています。

1933(昭和8)年の津波後、壊滅した低地(原地)にすぐさま家屋を再建した人々がやがて完成した造成地に徐々に新しい家屋を建てて移っていったのですが、早いもので1935(昭和10)年竣工の家屋がある一方で、遅いものでは1960年代に建築した例もあり、この間にそれぞれのタイミングで建築したらしいこと、国の復興政策はトップダウン型だったことは間違いないが一方で個別家屋の建築は建主が信頼できる大工に個別に頼んでおり多様性があること、被災家屋の使える部材を使った例や、既存の家屋を解体移築した例などが少なからずあること・・・などが分かってきて、昭和の「復興」に関する私たちのイメージはどんどん相対化され、色鮮やかに塗り替えられていきました。

R0028728[fig.03]これは綾里の田浜地区の例(写真は2011.09.07)。

P8270508[fig.04]同じく石浜地区。右手が1937(昭和12)竣工の例。

P8280730[fig.05]我々素人同然の集団ではありましたが、できるだけきちんとした実測を目指しました。小屋裏にも上がらせていただき、棟札もチェック! 写真は棟束に打ち付けられた棟箱。このなかに棟札だけでなく実に色々なモノが入っているのであります。

そして小屋組をみると・・新材と古材とが混用されていますね。古材は昭和三陸津波で流されずに残り、いったんは低地での再建に使い、さらに復興地での建築に使ったそうです。おおっー感慨深い・・。

P8290772[fig.06]田浜の例ですが、左の家の軒裏に注目。民家なのに隅扇垂木であります。気仙大工!

P8280538[fig.07]これは・・・1941(昭和16)に建てられた当初小屋組と、戦後1955(昭和30)年に一部取り壊して建て替えた部分との取り合い。

P8270468[fig.08]あるお宅ではお昼をご馳走になり、その後、学生達が実測を続けるなか、僕は朝ドラの再放送をご夫妻と一緒に見ました。「花子とアン」どうですか?と聞いたら「うーん、ま、そごそごダネ」と手厳しい批評・・というか僕も賛成。あ、そういえばこのお宅では写真家の山岸剛氏が三脚をセットしシャッターを押すところを初めて見た。

私たち10人くらいだったのですが、メンバーを臨機応変に組み替え、動かしながら、部落長さんはじめ地域の方々への挨拶・趣旨説明、実測と聞取、さらには古老や専門家へのインタビューに走り回り、毎日ヘトヘト。4日弱で10棟の実測・聞取データを得ることができました。本当に充実の調査でした。いや、ヘトヘトなどと偉そうな書き方をしましたが、実際はたくさんの方々に次々にお膳立てやら紹介やらをしていただいたのです。調査先のお宅でも本当によくしていただき、実測が終わって失礼する段になると名残惜しくて涙が出そうになります。色々な気持ちをビシバシいただきました。ありがとうございました。また必ず参ります。

P8280535[fig.09]寝泊まりさせていただいた仮設住宅の一室。

P8260354[fig.10]初日の夜のミーティングの様子@仮設住宅の集会所。筑波大の木村周平先生がおられます。皆様たいへんお世話になりました。責任もってきちんとまとめましょう。

2014/05/10

近世的な「地震の間」の継承と、近代的な「在来工法」への変化、との併存:千葉県佐倉市にて

2014.05.04 Sun. 千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に出かけて、「歴史にみる震災」展(2014.3.11〜5.6)をみてきた。今年から首都大の饗庭伸先生代表のチームで進めることになった綾里プロジェクト(岩手県大船渡市)の仲間である、東大の岡村健太郎さんが企画・制作にかかわった展示。日本の災害史に関する書物はそれなりにフォローしてきたし、災害史は都市史・建築史の鍵のひとつを握っていると思って興味を持ってきたので、だいたいのことはその知識を確認していくような感じだったが、やはり生の史料には迫力があった。それとたぶん岡村さんの仕事だと思うのだが、吉里吉里の白い地形模型に対して各時期の景観を投影していく展示なども分かりやすかった。各地域であのような知識の可視化と継承の仕組みがあるとよいのだろう。上に述べた綾里プロジェクトもそうしたもののモデルのひとつを構築するものになるだろう。あと個人的には丹後地域の街や集落は、1927年の北丹後地震の後に復興しており、関東大震災と昭和三陸津波の間なので前々から気になっていたのだが、やはりしっかり見る+勉強する必要があるなと再確認。

さて、歴博を出たあとは、近くにある旧堀田邸(重文)を見にいった。明治中期(1890=明治23年)に竣工した旧佐倉藩五代藩主堀田正倫の邸宅で、建築は西村市左右衛門、造園が伊藤彦右衛門。いずれも東京から招かれた。簡素な邸宅ではあるが、芝のやわらかい曲面がひろがる庭は起伏ある地形を生かしていて飾り気がなく、なかなかモダンで見事だと思った。伊藤は前田家の庭師として知られる人で、東大本郷キャンパスの懐徳館庭園は彼の作品。

堀田邸には、すでに失われてしまっているが、かつては「地震の間」という附属の棟があった。正倫の娘であり、堀田家に迎えられた正恒の室となる和子のために増築された棟(和子の間とも呼ばれた)。

この「地震の間」という言葉は、どうやら近世初期に遡るものらしく、学会のウェブサービスで検索してみると例えばこんな論考が出てくる。

・大熊喜邦「地震の間と耐震的構造に対する観念」(『建築雑誌』345号、1916年9月号)

・内川亜紀+小沢朝江「近世における「地震の間」の機能と平面・構造について」(日本建築学会大会学術講演梗概集、9061、2005年9月)

内川さんのはたぶん卒論をもとにしたもので、その卒論は学会の優秀卒業論文賞をとっている(論文本体は未見)。この大会発表によると史料的に確認できる地震の間は29例あり、地震時の緊急避難所、余震が続くあいだの仮住まいといった意味をもつ建物で、17世紀前半から江戸城や大名の屋敷、あるいは京都の御所において断続的につくられてきた。大熊の論考にもあるように、柱を掘立てにして地中の土台とともに固め、上部構造はできるだけライトにした、きわめて簡素な独立の建物を、庭園の池のほとりなどに建てたようだ(相当に大きな平面をもつ系列もあるが、多くは1.5×2間から2×3間程度と規模も小さい)。

この堀田邸の地震の間も、主屋から廊下ではりだしたウィングをなす独立の棟で、2×5間程度に入側をまわした程度のもの。いくぶん大きめではあるが、近世の地震の間に連なるものとみてよいのだろう。

で、話はややこしくなるのだが、堀田邸は、伝統工法の変化がはじまる時期に建った。邸内に掲げられたパネルによると、ボルト・ナットなどの金物を加え、火打を打ったりする改良が採用されていたことが分かる。この先に、のちに在来工法と呼ばれるような体系が確立されてくるということだろう。近世的な地震の間が、緊急避難というテンポラルな使途のための離れのようなものであったとすれば、家屋全体を、伝統工法から解放しつつ耐震化していくプロセスの先に在来工法があるわけで、堀田邸はその両方の流れの並在の証ということになるだろう。

ついでにいえば、こうした変化は帝国規模でも観察できる。たとえば日本植民地期の台湾では1935年に中部で大震災がおきた後、被災地の再建でRCの基礎、アンカーボルト等の金物、火打や方杖などを用いた工法が推奨されている。彼の地の人たちはそれを「地動厝」つまり“地震の家”(!)と半ば誇らしげに称しているが、日本的在来工法の浸透によって、台湾的伝統工法との技術的二重化がおこってもいる。家内の母方の実家は、実はこれに当てはまる実例のひとつで、2年程前だったか詳細に実測したことがある。陳正哲さんは自身の修論で地震後の建築技術の変化について研究し、本にまとめている →陳正哲『台湾震災重建史』(南天書局、1999)。そういえば彼と共著でこんなのも書いた→青井哲人・陳正哲「震災の変質と住まいの変質〜日本統治下台湾の震災と復興〜」(『すまいろん』no.89,2009)。

2012/11/25

Lifting of Chicago

chicago_lifting_house1+このサイト、よくまとまっています → the Lifting of ChicagoRaising of Chicago@wikipedia (English)

たぶんよく知られた話なんだろうと思うが、19世紀半ばのシカゴでは建物のリフトアップが頻りに行われていた。1830年には人口50人の小さな交易の街にすぎなかったシカゴは、運河開設を契機に土地投企家が殺到、1860年には人口6万人に達した。もともと低湿地だったため街はたびたび浸水し、チフスやコレラが流行した。このため1850-60年代には、建物を持ち上げ(最大で約1.8m)、道路の嵩上げに合わせていくという対策がとられた。それだけでなく、住宅を郊外に移動させることも頻繁に行われ、シカゴを歩けば移動する家に出会わない日はない、というような状態であったとか。

Chicago_lifting_house3+煉瓦造や鉄骨造の大規模な建物もジャッキアップされたが、大半は木造のいわゆるバルーンフレーム(枠組壁構造)だった。それが1871年のあのシカゴ大火で焼け、都市計画建築制限の幕開け、そしてシカゴ派建築家たちの活躍へ、と相成るわけである。その前史として、日本の曳家業みたいな事業者がシカゴに多数あり、やはりそれが災害(この場合は水害と伝染病)に絡んで活躍したということになる。面白い。

左の絵は建物の下に井桁状に積まれた枕木が見える。日本と似てるなー。道路はこれから嵩上げ、てことでしょう。所有者の違う複数の建物が同じ高さまでジャッキアップされ、手摺付きの空中歩廊(歩道)が付いている。面白い。

2012/11/13

明大建築シンポ/建築学会復旧復興支援部会シンポにて災害復興について議論。建築家って何だろう。

最近二つのシンポジウムで議論に参加した。

(1) 2012.11.03 Sat. 明治大学建築学科シンポジウム「震災・復興と向き合う」

(2) 2012.11.09 Fri. 日本建築学会 復旧・復興支援部会主催 第4回復旧復興支援部会連続シンポジウム「復興の原理としての「建築」:コミュニティ・アーキテクト制をめぐって」

 前者では明治大学教員の震災へのかかわりの報告に続けて(青井もその1人として報告)、吉村靖孝・福屋粧子・西田亮介の3方が門脇耕三先生の司会でディスカッション。新しい社会システム、新しい公共とそこに関わる建築家について議論。学生にはハイブロー過ぎたけどマジでした。

 後者は、伊東豊雄氏の基調講演の後、陶器浩一・森傑・杉本洋文・芳賀沼整・石原健也・竹内泰・福屋粧子・手塚貴晴・ヨコミゾマコトの各氏から被災地での活動報告。それを受けて山本理顕・小嶋一浩・塚本由晴青井哲人・姥浦道生・伊東豊雄の6名が、宇野求先生の司会で討議。みなさん大変真摯に活動しておられ感銘を受けたが、議論の性質というのかな、届いていく先というのかな、実に様々である。

 私としては、以下のことを喋ろうと思ってシンポジウムにのぞんだ。

1) 20世紀後半型災害復興スキームが有効に機能せず、地域の矛盾に根ざすダイナミズムが行き場を失っている。だからこそ建築家はそのスキームの内で奮闘しながら、そのスキームから半歩出るような仕事の仕方を。硬直した枠組みが一気に清算されることはないので、制度にフィードバックされうる小さな新しい実績をたくさんつくることが重要。

2) ハウジングの考え方がどれほど変わるか。応急仮設住宅が関心を集めやすいが、その枠組みへの実践的批判が伴わなければあまり意味がない。復旧復興のプロセスをどうマネジするか、そのなかで住宅再建のフェーズをどう描くか。それに応じて各段階の住まいに相応のスペックを与える、と考えるのが本来だろう(応急仮設は場合によってはスキップできるし、場合によっては長期に使用しながら復興住宅化するなど)。

3) コミュニティ・アーキテクトは重要な話題だが、コミュニティはむろん一枚岩ではないしきわめて流動的。明治三陸津波では集落全滅の事例も多いが比較的短期間のうちに漁業権を求めて流入した人々によって集落は復元された(人口の総入替)。コミュニティはすさまじいものだ。それでもプロの技術者としてそのダイナミズムを後押しする、一方で、長い目で「場所」を受け継ぐ、ってのがコミュニティアーキテクトなのかもしれない。

 時間切れで 3)は喋れなかった。その後の飲み会でも色々考えさせられた(姥浦さんサイコーであった)。

 建築家とは何か、というのがこの日の本当の主題だったのだが、被災地の現場で建築家がその職能を発揮できる場はいくつかあったし、今もあるのだろうと思う。基本的に復旧復興はマッシブな体制(制度と金、国家と資本)が大勢を支配するし、そうでしか動かないものがあることは認めざるをえないが、(a)そのマッシブなものが機械的に生み出したものをコンテクスチャルにカスタマイズすること、(b)マッシブなものがカバーしない領域を支えること、(c)マッシブな体制の内側に入ってその体制が期待するスタンダードからズレる特殊解を導き出すこと。ジェネラルな条件からスペシフィックな解を生み出すのは建築家のオハコといってよい能力だよね。実は官僚だって新しい法律にフィードバックできる特殊解を期待していたりもする。

 パネリストの建築家のひとりが、3.11はそれまでの建築家像を全否定した、と言ったが、「否定」はだめですよ。心理的・内面的な受容をそのように表現することは自由かもしれないけど、近代あるいは20世紀が培って来たものを正当に地域や大地にランディングさせるために多くの努力が払われてきたことを無視すべきではないし、大半の現実的条件は20世紀後半的なもので出来ていてそれと接続しなければ何もできないんだから。

2012/10/29

復興って実は新しい課題なんじゃないか。

最近読んだ本。

津久井進『大災害と法』(岩波新書、2012年)

北原糸子『地震の社会史:安政大地震と民衆』(講談社学術文庫、2000)(←三一書房、1983)

北原糸子『関東大震災の社会史』(朝日選書、朝日新聞出版、2011)

北村優季『平安京の災害史:都市の危機と再生』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2012)

 津久井進氏の本は災害関連法制の基本的知識と現状認識が非常にわかりやすくバランスよく整理された良書。復興に関する著者の立場を強く打ち出した本というわけではないし、きっとそういう書き方を心がけられたと思うが、それでも被災者・被災地域の側に立てという基本的思想と政治的立場は滲み出ている。あらためて確認したのは災害関連法制は「災害対策基本法」をはじめ、防災と緊急対応を中心としており、復興についてはまともな法がないこと。

 これはけっこう重要なことなんじゃないかと思う。

 なぜ復興の法がないか、考えてみよう。おそらく復興が固有の社会的問題系・法的問題系をなすという認識が不要だったからだろう。というのは、災害復興といえども平時のインフラ整備と違わないものを大規模にやるだけのことだからだ。災害をチャンスと捉えて資本が活動しやすい近代的インフラをつくることは経済政策にも防災対策にもなり、民間が安全に利益追求できる環境の整備に公的財源から支出するのは当然と考えられ、災害で露呈する複雑な社会的矛盾も経済成長や文化的な暮らしの獲得といったものの中に吸収させて見えなくすることができたのであろう。

 平安京でも江戸でも、都市の変容あるいは再構築に対して災害が担った歴史的役割は大きい。ただ、復興という概念に通じるものはなかったかもしれない(要検証)。ただ、江戸は災害時に都市建設を推し進めた。近代に入ると資本主義と結びつくかたちで「復興」概念が出て来るのだろう(要検証)。その後、日本は国力をつけるにつれて、災害復興プロセスを官僚機構と建設・産業資本の手にどんどん回収していく。その方が、経済成長と防災対策を一体的に効率よく進めるための災害復興、という論理をより徹底できるから(たとえば関東大震災のときのように被災現地に自力バラックをつくらせてしまうと基盤整備に苦労するので、20世紀後半は応急仮設の団地をつくるようになった)。

 というわけで、“災害復興 disaster recovery” は、それと伴走し、一体的な論理を構築してきたもの(経済成長に支えられた福祉国家、と表現すればよいだろうか?)が力を失いはじめたことによって、いま初めて固有の問題系として浮上したのではないだろうか。

 ・・・というのが最近のわたしの仮説(単純にすぎるとは思うけど)。

 津久井氏が災害復興基本法が必要だと主張されるのは至極まっとうなことだと思う。と同時に、私たちは建築あるいは建設一般に関する基本法を必要とするに至ったのではないか、ということにも気づく。

2012/09/06

『3.11/After 記憶と再生へのプロセス』が届いていました。

41JO9ObJRPL今日久しぶりに研究室に行ったら色んな郵便物やら書類やらに混じって、五十嵐太郎監修/メディア・デザイン研究所編『3.11After 記憶と再生へのプロセス』(LIXIL出版 、2012)が届いていました。中谷礼仁、宮本佳明、今村文彦、山崎亮といった方々の講演が活字化されているほか、饗庭伸、門林岳史ほかの方々の論考、多数の実践や提案(国際交流基金の海外巡回展「3.11-東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」参加建築家の50プロジェクトを紙上構成)など掲載。10+1 website のために行った下記2つの座談会もこの本に再録されています。

  • 対談:牧紀男+青井哲人「移動と定着のメカニズム 災害の歴史から学ぶこと」
  • 対談:牧紀男+青井哲人「三・一一復興へのプロセスとアポリア」

牧さんはいま地元方面の水害で超多忙のようです。お身体気をつけて。


下をクリックで目次あり。

■目次
・対話 After 3.11を生きるということ。 隈研吾+五十嵐太郎
・対話 移動と定着のメカニズム 災害の歴史から学ぶこと 牧紀男+青井哲人
・スタディ 災害のデータスケープ 阿部篤

I 被災と避難
・講演 環境に対応する 1 To Anonymous Architects(匿名的建築家集団へ) 中谷礼仁
・講演 環境に対応する 2 被災地を訪れて感じたこと、これからの提案 宮本佳明
・講演 津波を理解する わが町、自分を知る 今村文彦
3.11 東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか(展覧会採録) 五十嵐太郎

[第一段階]緊急対応(展覧会採録)

II 仮設住宅
・対話 3.11復興へのプロセスとアポリア 牧紀男+青井哲人

[第二段階]仮設住宅(展覧会採録)

III 復興のヴィジョン
・講演 コミュニティを育成する 山崎亮
・インタヴュー ボランティアの現場、ボランティアの経験 山本隆、新雅史(聞き手)
・論考 復興のケーススタディ 真野洋介、西田司+小泉瑛一、田根剛

[第三段階]復興計画(展覧会採録)

IV 3.11/Afterを考える
・論考 都市や地域計画はどう変わるべきか? 饗庭伸
・論考 3.11、思索と伝達、経験と社会
 「今、音楽になにができるか」という修辞に答える 増田聡
・論考 被災のイメージ、イメージの被災 小原真史
・論考 カタストロフに寄り添う映像 震災ドキュメンタリーをめぐって 門林岳史

[海外からの提案](展覧会採録)

[ブックレヴュー]震災を読む25冊 東北大学五十嵐太郎研究室