VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2018/05/12

ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展2018日本館のプレスリリースが出ました。福島アトラスも出展!

http://relayrelay.moo.jp/relayrelay/files/Pressrelease_VeniceBiennaleJapanPavilion_20180510_jp.pdf

会津建築家芳賀沼整が立ち上げた私たちのプロジェクトも参加します。青井哲人NPO福島住まい・まちづくりネットワーク福島アトラス制作チーム。展示されるのは『福島アトラス01』『福島アトラス02』『福島アトラス03』。まもなく産声をあげる『02』『03』はいま印刷所にいますが、先行してつくった見本刷りが本日貝島桃代さんのカバンのなかに入って日本を発ちました。明日にはヴェネチア入り。

こちらもご覧ください。

2016/09/26

「津波と綾里博物館展」第2回展覧会 20160912-18@綾里地区港集落内

 去る9月12日(月)から18日(日)に、岩手県大船渡市三陸町の綾里地区にて「津波と綾里博物館展 歴史・復興・住まい」が開かれました。

 饗庭伸(首都大学東京都市計画)を中心に、池田浩敬(常葉大学防災)、木村周平(筑波大学文化人類学)、青井哲人・石榑督和(明治大学/都市史・建築史)、岡村健太郎(東京大学/都市史)、佐藤翔輔(東北大学アーカイブ(記録の保存活用学)、山岸剛(写真家)といったメンバーと、6大学の各研究室の学生たちが、早いところでは2012年より地区復興のサポートに入り、2014年頃からは歴史・民俗・未来にわたって「津波綾里」を多角的に掘り下げる研究を行ってきました。この間、じつに多くの方々にご協力と励ましをいただいてきました。この「博物館展」では、伊藤暁(建築家)、中野豪雄(グラフィックデザイナー)の参画を得て、これまでの成果を地区の皆さんにご覧いただきました。17日には研究成果の報告会(@綾姫ホール)も実施し、町民の方々が約100名お集まりくださいました。

 展覧会の会場は、昨年に引き続き港集落の空家(昭和三陸津波後の復興時の建設された築約80年の建物)をお借りしています。「博物館展」というちょっと奇妙な名称はですね・・・、架空の「博物館」が、この空家を借りて「展覧会」を開いている、ということなのだと私は理解しています。このヴァーチャルな「博物館」は、現時点では参加各研究室あるいは本プロジェクトで整備中のデジタル・アーカイブ、さらには町民の皆さんの知恵や資料などのかたちで、やや分散的かつ潜在的に存在しています。しかし、「展覧会」を開くことで、町の方々や、あるいは現在は町外にお住まいの方々が足を運んでくださり、展示物を前に生き生きとした語りを生み、ひとつひとつの資料に意味の厚みを与え、我々の知らなかった資料を持参くださることによって、「博物館」は姿を表し、成長していきます。その意味で、架空の博物館が具体的な場所に立ち現れる、「博物館」×「展」という形式は我々の予想を超えて意義深いものを秘めているように感じました。

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↑外観。最終日閉館後(9月18日)、看板を下ろして集合写真(会期中、博物館に詰めた先生・学生はもっと沢山います)。中央が公民館の西風さん。西風さんがいなかったらこの研究プロジェクトも展覧会もすべてありえなかったでしょう。感謝しております! そして隣近所の奥様方。毎日差し入れありがとうございました!

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↑内観。綾里地区の典型的な民家の間取りに対して、そこからズレて白いフレーム・パーティションが走り、両者のオフセット(ズレ)が順路をつくり出しています。

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明治東大チーム(=空間チーム)で担当した、昭和三陸津波後の復興期につくられた民家の実測図。博物館展のなかで一番ストイックな一角。

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↑つづいて綾里の歴史・産業・民俗・社会、そして津波被害・再生の歴史、3.11避難行動、3.11直前の町並み景観復原・・・などのコンテンツが続きます。展覧会には綾里関係者だけでなく色々な方が来てくださいました。東北大の川島秀一先生、早稲田の佐藤滋先生、それに(偶然!通りかかった)塚本由晴さん・貝島桃代さん。

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↑そして昨年の博物館展で来館いただいた方がご提供くださった映像2編の上映。1949年制作。おじいちゃん、おばあちゃんたちが、映像のなかに登場する人々を見ては「あのバッバだべちゃ」とか「あの頃はべっぴんだったんだなア」と盛り上がる。そういう語りを集めればどのカットにもキャプションと解説が付けられそうだ。映し出される風景・風俗がわが実家(愛知県中山間地域)の70年代前半(つまり僕が小学校に上がる前の頃)の写真(つまり僕のアルバムの写真)とそう大きく変わらないことにすぐさま思い至る。日本の農山漁村近世から1970年頃までおおむね連続的に推移してきたのだ。一方で、道路建設や医療・保険の普及などが「近代化」の文脈で持ちえた意味も考えさせるフィルムである。

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↑空間チームの一員が解説中。

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↑ 17日夜の飲み会。

*本記事掲載の写真は、饗庭伸先生・熊倉永子先生に提供いただいたものを含んでいます。

2015/09/18

津波と綾里博物館展9月19日〜22日 いよいよ明日から!

 明日2015年9月19日(土)から22日(火)まで、毎日10時〜18時、大船渡市三陸町綾里港のヤマジュウ電気隣にある空家にて、「津波綾里 博物館   歴史・復興・すまい」が開かれます。

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 明治大学建築建築論研究室では、東京大学の岡村健太郎先生とともに、空間チームとして、昭和三陸津波後の復興地とそこに建てられた家屋について実測および聞き取り、史資料にもとづく研究を進めておりますが、今回は2014年度調査の成果の一部である、石浜・港・岩崎・田浜の4集落に現存する昭和津波後の家屋10棟の実測調査図面を展示します。

 実測させていただいた家屋のひとつが、他ならぬ今回の展覧会の会場となっており、この家屋の棟箱(棟札等をおさめた箱)とその内容物他もご覧になれます。さらに民俗・歴史、避難行動、復興経験の継承などを主題とする展示があります。最近地域の方からご提供いただいた貴重な映像資料も放映される模様。そして山岸剛さんの写真も強力。会場構成は伊藤暁さん、施工は首都大饗庭研を中心とする学生さんたち、そして会場およびフライヤー(上掲)のグラフィックデザインは中野豪雄さん。

 ところが関係者MLに流れてくるメールを見ると・・・もう昨日からてんやわんやのスクランブル状態のようで・・・(徹夜かも!?)。皆頑張っています(明大チーム行けなくてホントにすみません!)

 地域に埋め込まれたマイクロアーカイブの実験となる「津波綾里博物館」の第一回展覧会へ、みなさん奮ってお運びください!!

(20150919 Sat. 追記)はじまったようです! 写真(↓)は初日の様子(伊藤暁さんより無断拝借)。

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(↓)同じく初日の様子(石榑督和さん提供)。

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2014/01/17

インフォ・グラフィクスを通して、建築を考える。

※ 展覧会は1月19日(日)をもって終了しました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。

※本日1月20日(月)、撤収作業を行いました。これにて建築雑誌関連のお仕事すべて完了です。執筆者・登壇者の皆様、ライターの皆様、制作のMDRの皆様、事務局の片寄様、中野デザイン事務所の中野豪雄様・皆様、編集委員会の皆様、ありがとうございました。今後の建築雑誌も楽しみに拝見します。

14725e2dd9dbfb4fcd8d1d89c00ddd5f7931c28bbig昨日(20140116 Thu.)、建築雑誌2012-2013展のトークイベント「建築的思考とインフォ・グラフィクス:『建築雑誌』2012-2013の編集とデザインのインタラクションを通して」を盛況のうちに終えることができた(満席)。今期(2014-2015)の会誌編集委員会の委員である南後由和さん、デザイナーの原田祐馬さんをお招きして、任期を終えたばかりの前編集委員会のデザイナー中野豪雄さんと青井、というメンバー。いや、ほんとに、この展覧会と討議をやることで、2年間24冊の建築雑誌の仕事が何だったのか、自分たちなりに客観化する機会になった。

 昨日の議論では、南後さん(グラフィックデザイン、タイポグラフィー等々に通暁してらっしゃる!)の言葉と、原田さんの方法論を通して、中野さんの仕事と、私たち編集委員会でやってきたことの意味というか特質というか、そういうものを再確認できた。ありがたい。

 雑誌というものがひとつのメディウムとしての形式性をもつのだとすれば、そのメディウムの上(内)にヴィジュアル化された情報(あるいは情報化されたヴィジュアル)の論理性と読解性を徹底していく中野さんと、メディウム自体が置かれうる生態学的な関係(例えば雑誌がヒトや他のモノとの関係性のなかでどう振る舞いうるか)にデザインの論理を求める原田さん    というような対比的な整理ができそう、というのが昨日得られたわたしなりの理解。これは建築の現在を考える上でも重要かつ面白い指標になると思う。

 南後さん、原田さん、ありがとうございました。そして中野さん、お疲れさまでした。なんだかんだいっても、やっぱりシンクロしたんですよね。避けがたいもの、人間の根深いものを感じた2年間でした。

2014/01/07

建築雑誌2012-2013展 はじまりました。

いやあ、これは必見です。編集とデザインとのインタラクション、それを支える論理と技法、その背景の試行錯誤を惜しげもなく開陳。力入ってます。是非ともお見逃しなく。本日1月7日(火)より1月19日(日)まで、2週間弱です(短い!)。

日本建築学会 http://jabs.aij.or.jp/pdf/2012_2013_exhibition.pdf
日本タイポグラフィ協会 http://www.typography.or.jp/topics/topics01.html#t77
中野デザイン事務所 http://nakano-design.com/?p=5599
10+1 website http://10plus1.jp/information/2014/01/kenchikuzasshi.php

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昨日(1/6)、中野デザイン事務所の皆さんと当方の研究室の院生たちとで設営を行いました。

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記念撮影。

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2014/01/02

【告知】建築雑誌2012-2013展/2014年1月7〜19日/建築会館ギャラリーにて

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建築雑誌2012-2013展」を開催します。この間、日本タイポグラフィ年鑑2013グランプリ、同2014各部門賞などを受賞し、高い評価を得てきた中野豪雄さんによる『建築雑誌』の表紙および誌面デザインを、大判に引き延ばし、またヴィジュアル制作プロセスも惜しみなく図解する生唾ものの展示です。年末から年始にかけて中野さんの事務所と青井の研究室とで展示の制作をがしがし進めています(→作業風景@研究室ブログ)。インフォグラフィクスのロジカルな思考と技法に直に触れながら、建築雑誌2012-2013の編集を振り返っていただける機会です。みなさま是非ともお運びください!

16日には新編集部の委員である社会学の南後由和さん、同じく新体制でのデザイナーを担当される原田祐馬さんをお迎えして、中野さんと青井との4人で、建築的思考とインフォグラフィクスとのインタラクションをテーマに議論するトークイベントを企画。こちらも席数は少ないですが、是非ご参加ください。

詳細は以下。

建築雑誌2012-2013展
展覧会
会場:建築会館1Fギャラリー
会期:2014年1月7日(火)〜1月19日(日) 休館なし
時間:9:30〜19:00 入場無料
主催:日本建築学会会誌編集委員会

トークイベント
建築的思考とインフォ・グラフィクス:
建築雑誌』2012-2013の編集とデザインのインタラクションを通して
会場:建築会館1Fギャラリー
日時:2014年1月16日(木)18:30〜20:30
出演:青井哲人 建築史・都市史、2012-13編集委員長
   中野豪アートディレクター、デザイナー、2012-13デザイナー
   南後由和 社会学、都市・建築論、2014-15編集委員
   原田祐馬 アートディレクター、デザイナー、2014-15デザイナー

開催主旨
日本建築学会の会誌『建築雑誌』(月刊)は、1887(明治20)年に創刊された日本で最も歴史ある雑誌媒体のひとつです。
震災後に発足した2012-2013会誌編集委員会が担当した24冊には、「3.11=東日本大震災」の投げかける問いが深く刻み込まれることになりました。編集部が強く意識したのは、災害がすぐれて社会的現象であること、ゆえにきわめて多数の要因が絡み合う複合的な事象であるということでしたが、建築の学・術は、もとより、問題系を構成する要因の複数性を引き受けつつ統合することをその本領としてきました。社会も地球も揺れ動くなかで、今期の『建築雑誌』は、建築学術の課題と可能性を問い直す上で足掛かりとなる諸条件の「地図」を、何枚も何枚も重ねるように描く作業であったといえます。
地図集(アトラス)としての24冊の編集意図を、表紙および誌面デザインを通して、稠密な結晶のように定着したのが、中野豪雄氏のデザインです。中野氏の毎号におよぶ膨大な作業は、編集部との触発に満ちた恊働を通して、いかにして複数の異質な情報群を統合し、読者の主体的読み取りに開くかを探求する、真摯で論理的なものでした。振り返ってみると、それは建築的思考とインフォ・グラフィックスの共振だったのだと思います。
こうした中野豪雄氏のエディトリアル・デザインは、日本タイポグラフィ年鑑 2013グランプリ、同2014各部門入賞と高い評価を得ています。このたび、中野氏による表紙と誌面から、多様なダイアグラム・年表などのグラフィクスを、大判印刷あるいは制作プロセスの図解によって分かりやすく示す展覧会を企画しました。是非多くの方にご覧いただきたいと思います。(2012-2013会誌編集委員長 青井哲人

2013/06/12

堀口・神代展記念シンポジウムの内容が 10+1 website にて公開されています。

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2013年4月28日(日)に行った堀口捨巳・神代雄一郎展記念シンポジウムの内容が活字になりました。

「建築家とは何か:堀口捨己・神代雄一郎の問い」@10+1 website

登壇:磯崎新/藤岡洋保/ケン・タダシ・オオシマ/日埜直彦/藤村龍至/天内大樹/青井哲人


ディスカッションの後、磯崎新さんが発言された内容が今後追加されるはずですが、ひとまずほぼ全貌が公開されたかたちです。MDRの荻原さん・斎藤さん、お世話になりました。こうしたかたちで早いタイミングで活字化でき、企画者としては大変ありがたいです。

ディスカッションは時間切れで問題の展開は不十分なものに終わったのですが、今後も様々なかたちでこうした議論を継続的に深化させていきたいと思っています。堀口資料、神代資料のこともきちんとしなければなりません。このうち神代資料は、学科として立ち上げた「明大建築アーカイブ」にて管理していますが、その整理作業もこれから進めていきます。作業チームの一員としてアーカイブにご協力いただける責任感ある有志の方はご連絡ください。

2013/05/22

「建築家とは何か:堀口捨己・神代雄一郎展」(2013年4月20日〜5月19日)無事終了しました。

R0039928すでにツイッター(@horiguchikojiro)でお伝えしましたとおり、5月19日(月)をもって、「建築家とは何か:堀口捨己・神代雄一郎展」(於:明治大学博物館特別展示室)が無事に終了いたしました。来場いただいた多くの方々にまず御礼申し上げます。また、この展覧会を実施するにあたって多くの方のお力添えをいただいたことは言うまでもありません。ギャラリートーク、シンポジウムにご登壇いただいた皆様は、本展覧会でとりあげた二人の先達と今日の私たちを結ぶ線の数々を生き生きと描いて下さいました。あらためまして、関係するすべての皆様に、心より御礼申し上げます。

R0039943展示室の入口に掲げました展覧会の開催主旨文を以下に掲載して記録としたいと思います。

建築家とは何か 堀口捨己・神代雄一郎展 開催にあたって

 堀口捨己(1895〜1984)、神代雄一郎(1922〜2000)は、1949年明治大学建築学科の創立時からの教員であり、本学科の六十数年の歩みのなかで、その理念の最も核心的な部分を築かれました。

 周知のとおり、建築家・堀口捨己は、1920年の分離派建築会の結成以降、我国における近代建築の歩みをその思想と作品とで牽引し、また1930年代以降は茶室・数寄屋・庭の研究を深め、今日なお他の追随を許さない仕事の数々を大成しました。堀口は、それらを総合し、時代状況に翻弄されない表現者としての独自の立場を築き、多くの作品と著作を遺しました。本学各キャンパスの計画や施設設計に対する多大の貢献も銘記しなければなりません。

 神代雄一郎は、近代建築史研究、デザインサーヴェイ、日本建築意匠論などに力を注ぐ一方で、つねに同時代の建築やデザインの状況に対して鋭い批評の筆を揮いました。戦後復興期から1960年代、70年代に至る目まぐるしい時代の変転のなかで、その批判精神を決して曲げることのなかった神代の言葉の数々と、その基盤にあった独自の感性は、今、私たちへの切実な問いとなって響きます。

 彼らはまた、建築のみならず文学・美術・工芸などの諸領域を横断し、国境を越えて、幅広い人間的・知的な交流のなかで、日本の文化と現在を捉え、発信しました。

 そして、建築家とは何か、という問いを私たちが掲げるとき、彼らの姿勢と軌跡は最も貴重な道標となるのです。

 堀口捨己の建築設計図面をはじめとする明治大学所蔵堀口資料は、堀口研出身でもある木村儀一本学科元教授が継承され守ってこられたもので、同氏と、堀口研究の第一人者である藤岡洋保東京工業大学教授の尽力により整理され、資料目録が作成されています。

 また、本学建築学科所蔵の神代雄一郎資料は、神代研出身の松崎照明氏が保管されていたデザインサーヴェイ図面および蔵書を中心とする資料群と、同じく松本勝邦本学科元専任講師が保管されていた写真資料等を、本学科(明大建築アーカイブ)が収蔵し、整理を進めつつあるものです。

 このたび、これら資料を、そのごく一部ではありますが、皆様に広くご覧いただく機会を設けることができ誠に嬉しく存じます。この展覧会と関連企画が、堀口捨己・神代雄一郎という巨大な先学の今日的な再評価につながること、同時にまた、建築や職能をめぐる私たちの議論の活発化につながることを期待しています。

 そして、堀口捨己・神代雄一郎両先生の貴重な資料群を大切に後世に受け継ぐことは、本学科ひいては明治大学の重要な使命であると、あらためて切実に考える次第です。

 最後になりましたが、開催にあたってご協力をいただいた御遺族や関係者の皆様に、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第です。

2013年4月20日

明治大学理工学部建築学科

最後に、同展覧会と関連イベントの全般にわたり、惜しみない努力を注ぎ込んでくれた学生諸君に、心より御礼申し上げたい。ありがとう。

2013/05/08

渋谷ヒカリエの SHIBUYA VISION 展について:建築家坂倉順三展2009のために作成した模型をお貸しした立場で若干の説明

R0039983展覧会「SHIBUYA VISION」をご覧になった方は多いと思います。展示協力というかたちで「明治大学建築建築論(青井哲人)研究室」とかなり大きく入口のところに明記されていたかと思います。恥をしのんで申しますと、僕は先週初めて見に行きまして、この文字を発見してちょっと面食らいました。模型をお貸ししただけなので、あれほど大書いただくとは・・・と、恐縮した次第。あの模型は「建築家坂倉準三展」(2009)の展示物として私どもの研究室で作成したものです。当時、同展覧会実行委員会の末席に当方からお願いして加えていただき、五島慶太と坂倉準三の関係、渋谷での坂倉の仕事の都市史的な特質、戦後復興との関係、などを短時間でしたが当時の学生たちとそれなりに研究した上で、近代日本の都市開発史のなかでの渋谷の位置と建築家の役割を考えて、あの模型をつくったり、図録の解説を執筆したり、ダイアグラム的な図を作成したりしました。

 端的にいうと、坂倉の渋谷は、丹下スクール的なヒロイックなアーバニズムの構想とはまったく異質な、実際の土地・建物所有やサーキュレーション等の条件のなかで、ひとつひとつ建物を実現して連鎖的・段階的につなぐことで、駅近傍の空間と人の流れを組織しなおした、そういう仕事なのです。それは渋谷の都市構造を鮮やかに刷新したわけではないし、ほとんど東急電鉄(五島慶太)に与えられた仕事をこなしただけとも言えるのですが、それでもある種のアーバニズムのありようをそこに読み込むことは許されるでしょう。たとえば最初の仕事「東急会館」(1954)は実は1930年代に3層目まで建設されたまま戦後を迎えた「玉電ビル」を垂直に増築する仕事であり、それゆえにPC版による軽量化に取り組んだり、また国鉄改札を組み込むために平面計画を再編集していたりと、実際的な諸条件との格闘の痕跡がけっこう残されています。他にも各所に読み取れるそうした継ぎ接ぎが、渋谷をつくってきた。坂倉が関わった難波なんかも同じ意味でとても興味深いですし、ヒロイックな造形で知られる新宿西口広場ですら実は、全体が地下に埋設され、最上階に例の車路をとりつけた、ひとつの建築物(駐車場ビル)であって、周辺の諸条件や権利関係の縫い合わせが設計の中心的課題であったはずです。同じ新宿の小田急ビルと地下鉄ビルの関係なども、ほとんどヴェンチューリの多様性と対立性の議論を地でいくようなファサードの処理が施されている。丹下スクールのように、万博やニュータウンの白いキャンバスではなく、あくまでも民間資本とその活動拠点である都心の複雑な条件とともかくもストラグルしたのがこの時期ほとんど坂倉準三くらいものであったことはあらためて丁寧に位置づけるべきことだろうと思います(他方には、まったく理念もコンテクストも違いますが、RIAによる地方都市中心部の仕事群があることも重要なので付記しておきます)。

 今回、ヒカリエの展覧会では「渋谷再開発計画1966」の図面が大きくプリントされて展示されていましたが、あれもそうした連接的な発想の延長上にあったでしょう。もっともあの計画は地元商店会による協議会(最大の会員は東急電鉄・東急不動産だったでしょう)が、立案グループ(坂倉準三を顧問格の代表に据え、坂倉事務所の数名、東大丹下研の曽根幸一といった人々、さらにパンデコンという東大高山研・丹下研出身者その他で構成されたコンサルが入っていた)を組織させて描かせたもので、坂倉自身の作品というような性質のものとは全く違っていたと考えられます。しかし、ともかくその特徴は、渋谷駅+東急の建物からなる継ぎ接ぎの流体を、さらにペデストリアン・デッキの網目状ネットワークで街へ展開させるというもので、渋谷の地形に対して膨大な群衆の流れをアジャストしつつ分配していくこと、あるいは民有地の内部に公共的な歩行空間を埋め込んで土地利用を半共同化していくこと、といったそれなりのアイディアがこめられた提案ではあったと思います。

 あの模型では、以上を踏まえて、坂倉設計の建物群を白いマットな立体で、また実現しなかった「1966」の構想を赤い半透明のアクリル板で再現し、それらが未だ低層建物の海であった渋谷にそれなりに丁寧な手付きで重ねられようとしたことを表現しました。

 以前、「渋谷学」という国学院大学の研究会でこのあたりのお話をさせていただく機会がありました。渋谷の戦後開発は、まずその時期がきわめて早く、先行するモデルが東京になかったこと、東急がまとまった土地を駅近傍に点在させて所有していたこと、戦後復興区画整理で戦後の露店やバラック飲屋街を移転させていくプロセスを追いかけるように建築計画だけで駅+近傍を創出していったこと等に特徴があります。もちろん、あのスリバチ状の地形と、戦前までの小さな粒の集積による都市形成が新宿や池袋に先んじてあったことも、先行条件として重要でしょう。こういった諸条件が、渋谷を今でも比較的小粒のスケール感と高い密度感をもった町並みにしているわけです。研究会に参加しておられた地元の方々も、それを一掃する再開発が進められていることを危惧しておられました。

 SHIBUYA VISION 展の後半にあった、現在推し進められている渋谷再開発のパースの類を皆さんご覧になったと思います。1950-60年代の渋谷計画を「継承」する、という意味の表現が散見されましたが、あの計画は、かつての渋谷計画とはまるでかけ離れたものです。もっとも、こうした再開発は渋谷にとっては宿願でした。地元や行政が坂倉らの「1966」では飽きたらなかったのか、1971年代には(経緯不明ですが)内井昭蔵が依頼を受けて、駅周辺全体を人工地盤で埋めた上に超高層を林立させる絵を描いたことが新聞記事に出ています。これも構想ではありますが、二つの絵を比べると、ここでも60年代と70年代には大きな断層があると思わざるをえません。しかも、現在の再開発計画では、71年の構想にはなかった奇妙に明るい商業主義が前面に出て、どうにも脈絡や纏まりの感じられない風景が描かれています。そこには建築設計・生産の今日的なありようも関わっています。それこそ(昨日のエントリで書いた)多木浩二の問いや、また神代雄一郎のかつての問いが想起されます。もちろんこういう補助線も安易に書き付けるべきことではないでしょう。計画の実態についても丁寧な跡づけが必要なことは論を俟ちませんが、ひとまず乱暴な素描をお許し下さい。

 あらためて恥をしのんで申しますが、以上はあの(いくぶん無防備に置かれた)模型について、制作者が何を考えてあれをつくったかを説明するために書きました。これから展示をご覧になる方、あるいはすでにご覧になった方も、こうした戦後の渋谷開発史と今日の再開発を考えおなす契機にしていただければ模型制作者としてありがたく思います。

2013/04/30

堀口捨己・神代雄一郎展関連。0421ギャラリートーク/0428記念シンポジウム、盛会のうちに無事終了しました。

 展覧会をご覧になっていただいた皆様、関連イベントに登壇ならびに参加くださった皆様、ありがとうございます。おかげさまで多くの皆様に重要なことを共有いただき、また我々も得るところ大きい経験をさせていただいています。

IMGP2457 4月21日(日)には松本勝邦先生・宇佐美親夫さんのお二人をお招きし、神代研のデザインサーヴェイ(女木島67・伊根68・壱岐勝本浦69・足摺沖の島70・津軽十三71の初期6回)に関するギャラリートークを行い、用意した席数を上回る50名弱の皆さんに来場いただきました。私どもが神代資料から整理した内容(前史、調査準備、実測調査と聞き取り調査の実際、調査のまとめから出版まで、他)を提示しながら、お二人から追想的に証言をいただく、という形で進めさせていただきましたが、とくに松本先生が(前日から高熱を出されていたにもかかわらず)大変熱心にサーヴェイのこと、当時の村々のことをお話し下さり、感激しつつ勉強させていただきました。雑誌からはうかがい知れない、辺境漁村の(伝統的な集落という括りには決して収まらない)社会的な矛盾、潜在的・顕在的ダイナミズムの一端と、彼の地の若者たちと神代研の学生たちとの邂逅潭は、大学闘争が一気に高まり急速に退潮してゆく当時の時代状況と重ね合わせながら、感慨深く心に刻ませて頂きました。

P1320670 つづいて4月28日(日)は豪華キャストでの記念シンポジウム。定員を大幅に上回る530名ほどの方々(30-40名立ち見)が来場されました。堀口捨巳については藤岡洋保先生が「表現者・堀口捨己〜総合芸術の探求〜」という御著書と同名の演題で御講演。神代雄一郎については僭越ながら私が「神代雄一郎、その批評精神の軌跡」と題して報告。つづいて磯崎新さんが、テクノクラート養成機構たる東大周辺の構造から「パージ」されていく人々と、彼らの運動の場としての雑誌メディアを糸口としながら、歴史的な脈絡に裏読み的に補助線を引きつつ諸関係を復元する濃密なコメント。後半は、日埜直彦、天内大樹、ケン・タダシ・オオシマ、藤村龍至の4氏からこの順にコンパクトなプレゼンテーションをしていただいた上で討議。ディスカッションについては3月中旬に私から4氏に作業仮説的なフレームワークをお送りし、これを踏まえて討議するかたちをとりました。堀口捨己・神代雄一郎の二人が「建築家とは何か」という問いにおいて歴史的ランドマークであることは疑う余地はないのですが、それをできるだけ明瞭に現代につなげるためのフレームを用意したつもりです。(このメモは、少しリバイズしたものを当日会場でも配布しましたが、ここでも記録のためにアップしておきます。→こちら)時間切れで十分に展開できたとは言えませんが、いくつかの問題提起と議論のフレームは提示できたのではないかと思いますので、今後も場をあらためて深めていきたいと思います。

P1320590 藤岡先生に多くを学ばせていただき、磯崎さんには最後まで重い問いを投げかけられたことは言うまでもないのですが、個人的には設計と歴史を業とする30〜40代の皆さんと、過去と現在を結び合わせる希有な場を共有できたことが最大の収穫です。

 「建築家とは何か」は今日の問いですが、その問いの形式にも内容にも、避け難い歴史的な脈絡が絡み付いています。建築家が歴史観を問わず、歴史家が現在的問いを忘れがちな今日、このシンポジウムはひとつのキックオフとして重要な場になったと思っています。建築がより自由に様々な場所に接続して社会的意義を多面化できるようにすること、当方の「メモ」に即していえば職能像の安易な収束に抗して、分岐局面を加速化していくこと、そのためには歴史的脈絡を広く共有しつつ解体(相対化)すべきものはしていくことが必要な時期に来ていると思います。歴史的由来の分からないものには私たちは盲目的に縛られがちです。

 シンポの反響はツイッター@horiguchikojiroをご覧ください。

 展覧会は、ひきつづき5月19日まで駿河台キャンパスの明大博物館特別展示室にて開催しております。まだご覧になっていない方は是非御茶の水へお出かけください。(開催案内はこちら

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