VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2017/05/20

石川初研『神山暮らしの風景図鑑』

201703_kamiyama_landscape慶應義塾大学SFC石川初研究室 神山プロジェクトチーム『神山暮らしの風景図鑑』2017.02(Keio University SFC hajime lab., Visual Guide to Living Landscape in Kamiyama, 2017.02)

目次:

第1章 風景の要素(ザ・イシヅミスト/軽トランドスケープ/神山ガーデンズ/ワンコイン神山/パーソナル・ブリッジ)

第2章 暮らしの工夫と人々の風景(神山ガールズトーク/FAB-G/軒下の豊かさ/神山DECO/丈夫で長持ち)

第3章 神山の歴史と地理 (神山の風景史/神山の山と谷)

第4章 観察と採集の記録 (記録の方法/図面の採集)

 この本はスゴイよ。素晴らしい。先月、石川さんが送ってくださいました(非売品)。

 じつは僕(を含む何人か)は、この本のネタを昨年末に聞かせてもらっている。神山は僕たちにとっても2015-16の2年間にわたってすごくお世話になった学びのフィールド。大学院の授業(設計スタジオ2)というかたちだったがこんな感じこんな感じで、相当欲張った。昨年は9月の神山合宿の週に石川研も神山に入っていて、(残念ながら石川さんとは入れ違いになっちゃったのだが)えらくシッカリした学生さんたちが彼らだけで神山のおじちゃんやおばちゃんたちにがんがん接触して調査しているのに感心した。それでランチの時かなにかに、石川さんにお互いがやってること見せ合いっこしようと伝えてね、といったら、「褒め合うならいいよ」と東京からの即答があって決定、というのが合同報告会(2016.12.18)をやることになった経緯(明大側は僕と伊藤暁さん、門脇耕三さん)。

 本書に提示されるイメージ×概念の数々は、12月のときよりも美しく整理され、しかし生彩を失うことなく、むしろ魅力的な写真とともに手書きのイラストがふんだんに盛り込まれていよいよ鮮やかさを増している。「ハイブリッド石積み」、「軽トランドスケープ」「ワンコイン神山」(犬in神山の意)、「パーソナル・ブリッジ」・・・と冒頭から順にワードを拾ってみるだけで、もう推理とニンマリが止まらないだろう。それらが展開する基盤となった、地球の一部としての神山の地形とインフラの歴史もきちんと描かれる。もう、こういう世界なら石川さんたちにかなう者はない。

 ただ、この本には昨年末の褒め合い会(合同報告会)で聞いた話題のすべてが盛り込まれているわけではない。あのときの石川レクチャでは、学生さんたちが足で稼いだ大量の情報が研究室での徹底的な議論を通して再解釈され、ある独特の仕方で凝縮されていた。それは、神山の風景をおりなすさまざまなスケールの形をつくった工作者たちの、いわば工作のアティテュードを5つほどにカテゴライズして名付け、論評を加えるものであった。それが中心だった。この本にもその一部が登場するが、ないものもある。神山の風景資産を楽しく伝えるという体をとったこの本には、多くの読者が明瞭には気づかないかもしれない批評的な視座が隠れている。

 工作者たちのアティテュード、と書いた。いってみれば、あの日の石川さんの話は「工作者批評の一般理論序説」とでも題せるものだったのである。

 たとえば、あの日僕が一番印象に残ったのは、「FAB-G」と石川さんたちが名付けたひとつのアティテュード、あるいはそれを備えた工作者たちのことだった。文字通り、工作者としての爺さんたちの意であるが、彼らの仕事ぶりはブリコラージュである。でも、ブリコラージュだから面白い、という話ではない。僕の理解では、ブリコラージュの史的前提が問題なのである。

 石川さんにも話したのだが、明治末年生まれの僕の祖父は村の野鍛冶で、自分で建てたという家のいっかくに彼の仕事場はあった。自らも農民である野鍛冶のもとへ持ち込まれるのは、周辺の農民たちが使う、経験的にチューンナップされた地域性や個別性の高い鍬やら鋤やらであり、祖父は彼らの微細なニーズを聞いては減った刃を付けたり、柄を変えたりした。子供のころの僕は祖父の近くにいることが多く、一度なにげなく「刀つくれる?」と聞いたことがあった。「一回つくってみたがすぐに錆びた」と言葉短かに祖父が答えたのをおぼえている。固有名の高みを目指す刀鍛冶と、祖父のような野鍛冶とはまるで違う世界なのだ、と子供ながらに感じ入った。たぶん、むかしは田舎にも町にも、祖父のようなローカル+パーソナルなチューンナップをになう工作者たちがたくさんいたのだろう。

 彼らは企業社会と標準消費財ヘゲモニーによって仕事を失った。僕の父は学校教師となり、日曜の農作業ではもう鍛冶屋の世話になるような道具はめったに使わなくなった。家には大量生産された機械と消費財がとめどなく侵入した。この本のなかにもストックヤードとしての家・倉とオブタ(軒下)がとりあげられているが、農家は容量的にデカイのだ。「FAB-Gの分類によって分けられ、保管され」ているさまざまな商品やその部品が、ストックヤードに寝かされ、元来の意味を失って、工作の「素材」となる(p.50-51)。

 ブリコラージュは、じつは超時代的な普遍性をもつわけではないのかもしれない。それは日本ならば戦後、1970年代以降に隆盛するのではないか。石川さんはたしか、大量消費財があまねく家々に侵入して沈殿する状況と、(案外どうということのない、身の回りの)生活実践上の要求とをブリッジする営為として、FAB-G的なものはあるんじゃないかといっていた気がする。きっとそうだ。しかし他方で、それは野鍛冶を含む工作の旧世界を知る爺さんたちのワザであったようにも思える。四六時中、家と田んぼを往復して生活・生産環境を隅々まで知り、その動的な修繕台帳と資材台帳とがつねに手中にあるような爺さんこそが、ブリコルールすなわちFAB-Gの有資格者であろう。その段階をすぎると一切が既製品となる。ブリコラージュが帯びる意外に強い歴史性。ブリコラージュ概念は現代思想の展開のなかで過剰に敷衍されて批評性を失っていたのかもしれない。

 ところで、生活と工作の旧世界が亡び、実践的架橋者たるFAB-Gも相対化されていくような時代にこそ、ホンモノ志向もまた強くアタマをもたげる。それは手仕事性を重視するが、FAB-Gとはそのアティテュードにおいて鋭く対立する。むしろ素材を選び、技術的な血統書自尊心の核とし、案外グローバルに通用させうる意味付けによって手仕事のローカリティを囲い込み、遠くへ開く。それは顧客を選びもする。野鍛冶ではなく刀鍛冶的なもの。ラスキン=モリス主義中世主義)的なもの。それは資本主義経済グローバリズムへの対抗のようにみえるが、近年の消費はむしろこの種のホンモノ志向をふつうに取り込み、世界的に流通させる(それはそうと、ヨーロッパアメリカにもFAB-Gたちの活躍はあったのだろうか。1960年頃のレヴィ=ストロースは、じつは「未開」社会じゃなく、高度消費社会の到来に立ち会ってあの概念に気づいたんじゃないだろうかなどと妄想は膨らむ)。

 石川さんは他にもいくつかのアティテュードの類型を示していたが、ぜんぶバラすわけにはいかないのでこの辺でやめておく。僕らはいったい工作者としてどんなアティテュードを知らず知らずのうちに選んでいるのだろうか。何がより創造的かつ継承的な工作者の態度たりうるのだろうか。意外に難しい問いである。だから、『神山暮らしの風景図鑑』と題するこの色鮮やかな本がどう読まれるかということに、石川さんたちは相当に慎重であったに違いない。マクロからミクロまでのブリコラージュが本書の主役だといってさしつかえないが、それを地形と経済の両側から条件づけることを忘れていない(経済とか近代とかは暗に示唆されるだけではあるが)。他方で、ホンモノ志向の賞賛は徹底的に締め出されている(バランス感覚、というようなものとはちょっと違う)。そのあたりを注意して読むと、観察者の面目躍如たる軽妙な知性とともに、慎重に選ばれた本書の批評的な「持ち場」が見えてくる。

 建築は、何だかんだいっても、観察と批評を吹っ切って、何らかの全体性を形式化することでしか立ち上がらない。それをヴァナキュラーと近現代が交錯する場から立ち上げ直してみよう、という僕らのスタジオは、やっぱりかなり欲張りだった。でも地域向けにはたしかに「工作者批評」的なことは考えてたね>伊藤さん

2016/09/14

大学院設計スタジオ2 「神山スタジオ」:0829プレゼミ+0904-10神山合宿(中間報告)

 神山スタジオ2年目。伊藤暁さんと青井、そして門脇耕三さんの3人が担当。M1が13人履修し、アシスタント(M2)3名が運営補助。

 昨年度に引き続き「ヴァナキュラーなもののテクトニクス」とその現代的再編がテーマ。去年は民家(建物)を実測して分散公共図書館に改修する提案を求めたが、今年は視野を広げ、人が環境に取りつき、自らの生きる場所へと改変する、そういった工作者と環境との生きた造形上の関係に迫りたいと考えた。具体的にリサーチしたいと思ったのは石積み。

R9289014* 石積みは資材の再配置である。山の土壌を「資材」とみなし、土と石とに選り分け、それらを平場(土の耕作面)と土留(石積み)とに再配置するのである。

千枚田」などと呼ばれる、みわたすかぎりの山の地表を覆い尽くしている見事な棚田や段々畑の風景は、こうした再配置の行為を小さな単位で反復し、平場の面積を最大化した状態に他ならない[写真は1964撮影/神山町郷土資料館蔵]。

 ちなみにこの地域では近世まで人々は山のかなり高い位置に屋敷を構えていた。つまり棚田や段畑とともに斜面に暮らした。それが近代の治水・道路建設や学校等の社会インフラの配置に伴って低地に下り、凝集するようになったという。

agawa_jingi この写真は同じ場所の現在の姿。かつて、こうした中山間地域の畑は大半が自給用のイモやムギをつくっていたが、戦後は高所に建材用樹種(杉・檜)、中腹以下には果樹(梅・スダチ等)が、競うように植えられていった。工作者と環境との関係に、貨幣と市場が割って入り、そうして段畑の先行形態(F)とその利用(S)の組み合わせが書き換えられることになった。

 植林された山は水を失うという。低地への家屋の移動も促される。他方で教育・就業環境も激変して、息子・娘たちが町外・県外へ出ていくのも普通になった。

 そして今や、果樹・林業(S)は商売になりにくいため耕作や施業の放棄が増え、それゆえ先人(工作者)がつくり維持してきた段畑(F)も崩壊が進みつつある。近代というプロセスの凄まじさを考えざるをえない。

 先走りすぎた。上に書いたことが事前に分かっていたわけではない。以下ではスタジオの実際の進行に沿って諸々ノートし、備忘録としたい。

まずは8月29日(月)にプレゼミ実施。課題図書は下記のとおり。

[A] テクトニクス×機能・・・建築の躯体・部位が何らかの機能(生産・環境制御etc)をそなえる
 -後藤治ほか『食と建築土木』(LIXIL出版、2013)
 -安藤 邦廣『小屋と倉 干す・仕舞う・守る 木組みのかたち』(建築資料研究社、2010)
[B] テクトニクス×構成・・・テクトニクスが空間の分節や拡がりの編成と連関する
 -山本学治『造型と構造と』(SD選書244、鹿島出版会、2007)
 -山本学治『素材と造形の歴史』(SD選書009、鹿島出版会、1966)
[C]テクトニクス×類型・・・テクトニクスのいくつかの類型とその複合
 -太田邦夫『工匠たちの技と知恵:世界の住まいにみる』(学芸出版社、2007)
[D]テクトニクス×時間・・・地形・構築物などの先行形態と次なる介入とのテクトニックな関係性
 -中谷礼仁宮本佳明ほか 特集「先行デザイン宣言」(『10+1』no.37、2004年12月)

 3〜4人のグループを自由につくり、上記A〜Dのいずれかを選んでレジュメを切り発表。加えて、読書から得られた知見(論理)を応用するために参考となる現代建築の事例を選んで紹介せよ、という難題。多くの班が現代建築の潮流にとらわれて課題図書を置き去りに。これ、たぶん出題が悪かった。むしろヴァナキュラーなテクトニクスにみられる論理をなぞる(復習する)ことができる現代建築を探せ、という感じにすべきだったかな(そもそもよい事例がほんとに少ないとは福島加津也さんの言)。

 実はこのプレゼミ、何とゲスト講師に福島加津也さんをお招きし、馬場兼伸さんも参加されて、なかなかハイブロウ議論になった。福島さんは瀝青会の「〈日本の民家〉再訪」の活動を紹介してくださったが、ほとんど狭義のテクトニクスにふれなかったのが印象的。むしろその建物にまつわる社会的・生産的・信仰的な意味を強調し、いわゆる構法・技術はそれらとの関連において建築の「建築性」あるいは「世界性」「象徴性」のようなものを組み立てる道具立てにすぎないのだと強調されたように思う。というわけで夜の飲み会はそのあたりに議論が集中。(福島さんは美学的判断の重要性を説く。たしかに構法的・技術的判断だけを合理的に走らせる、などということはそもそもあえりない。かといって、建築多元性を、分裂症的・コラージュ的に肯定するやり方もまた福島さんの良しとするところではない。何らかの統合性がなくてはならない。そこに、広義のテクトニクス、あるいは「テクトニックであらんとすること」がアクチュアルな意味を持ってくるのではなかろうか)

 現地合宿は9月4日(日)スタート。サテライトオフィス・コンプレクスに明大理工学部サテライトオフィスを開所し、宿泊先である上分川又の民宿「田中屋」さんにて夕食。以後一週間、合宿最終日前夜のオロナミンCの差し入れに至るまで、田中屋さんは我々のスケジュールの一切をお見通しなのであった。ありがたや(まじめに神山合宿ならイチオシの宿)。

 2日目の9月5日(月)はそぼふる雨のなか神山町内見学ツアー。対象地である阿川の神木(じんぎ)集落もざっと確認。午後は真田純子先生(東京工業大学)と金子玲大さん(上勝町地域おこし協力隊/石積み学校)にレクチャーをしていただく。今回のテーマは、建築分野の人間には(なぜか)とんと馴染みのない石積みなもんだから、謙虚にその道のプロに学ばせていただこうというわけ。真田先生は土木分野で日本の近代都市計画史の研究をなさっているが、実は徳島大学におられた時期に石積みの修復と技能継承の活動をやってこられた(今もやっている)。真田先生は『棚田・段畑の石積み:石積み修復の基礎』という自作テキスト(よい!)に沿って講義をしてくださり、お弟子さんの金子さんは実測方法の講義と野外での実地講習をしてくださった。お二人のおかげで、我々の石積み観察の解像度は700%ほども高まり、翌日以降は自分たちの観察と聞き取りだけでもかなり相乗的に知見をふくらませていくことができるようになったのであった。ありがとうございました!!

 9月6日(火)は、対象エリアの石積みの実測と、加えて3棟の民家の実測を行った。田畑の持主や民家にお住まいの方々への連絡は、神山町役場の高橋成文さんが東京営業から帰られたばかりなのにフットワーク軽く対応してくださる。ありがたい。以後最終日まで、我々の実習に(普通ではあえりない)機動性を与えてくださったのは他ならぬ高橋さんであった。学生たちはといえば、やはり建物に向き合って実測するのは楽しいらしい。ただしモノの組み立てをその基本的な理屈を考えながら見る、測る、描く、という作業がちゃんとできる人は存外少ない。となれば門脇先生の出番というわけで、どこでも滔々たる講義と推理がはじまるのであった。

 9月7日(水)午前中も実測を継続。午後はNPOグリーンバレー理事長・大南信也さんのレクチャーと質疑応答、つづいて神山町長の後藤正和さんにもレクチャーをしていただいた。大南さんからは一連の「神山プロジェクト」の組み立てと行動原理、そして後藤町長からは神山の産業や歴史について学んだ。このあたりで門脇先生は東京帰還。学生たちはこの日までに「えんがわオフィス」「WEEK神山」はじめ、いくつかのサテライトオフィスや移住者のショップなども見学させていただいていた。こうしたインプットを踏まえて、夜はいよいよ提案すべきプログラム(つまり新たなF-S結合をつくる「S」の提案)についてのファーストMTG

 9月8日(木)。石積みの実測はこの日の15時くらいまでで完了。神木集落あたりでは明大の学生が何やら石積みの測量をしているらしいというのはすっかり知れ渡っている。V字谷に男子学生どもの奇声が響き渡る。あとで聞くとスズメバチだという(被害なくてよかった・・)。皆さんご苦労さん。そしてこの日、学生たちが実測するフィールドにふらりと寄ってきたある男性が、我々の眼前にひろがる環境のテクトニックな成り立ちについて決定的に重要かつ高解像度の情報を提供してくださったのだが、このあたりは伊藤さんのFBを参照されたい。あの話は興奮したねえ。

 伊藤暁Facebook 9月8日の記事
 伊藤暁Facebookアルバム「明治大学神山スタジオ2016」

 夜のMTGでは、3班がそれぞれプログラム提案=設計要項の作成に取り組む。2班は方向性が見えた。1班は昏迷MTGには高橋成文さんにも参加いただいたが、高橋さんがあまりに的確に助言くださるのでもう次第に頭が上がらなくなる。なおかつ、方向性見えた2班には、ならば明日はあの地へ行くがよい、あの者に会うがよい、と賢者の導き(というかその筋に連絡してセットしてくださる)。

 9月9日(金)プログラム提案=設計要項作成の作業を継続。C班は鬼籠野の神山町郷土資料館へ取材。ここが思いのほかと言っては失礼なほど面白く、ヒント満載なのであった。昼には川又郵便局長の塩本さんが改修中のご自宅(昭和初期)を見せてくだった(これは知的ヨダレ止まらぬ逸品であった!)。A班は夕方、神山フードハブ・プロジェクトの白桃薫さんのお話をうかがい、勉強させていただき、自分たちの方向性を定める。賢者ありがたや。B班は昏迷深まり・・・いや何とか行けそうだ。

 9月10日(土)はサテライトにて1週間の合宿の報告会(スタジオ中間発表会)を行って12:30頃全日程終了。写真(↓)は阿波踊りのポーズ。中央のホンモノが高橋さん。

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 いやはや、学生たちには折りにふれ吐露していたとおり、このスタジオ、教員もどこへ進むか分からないまま、フィールドを共有し、一緒に競うように学んでいるつもりだったが、多くの方々のご協力とご教示のおかげで対象地の広い意味でのテクトニックな成り立ちを知ることができ、学生たちもよく頑張り、まずまずリアリティある提案(設計要項)ができてきた。続く東京編では、これまで実測+要項作成を行ってきた班のメンバーはそのまま維持し、他の班がつくった要項に対して具体的な建築設計を進めていくことになる。というわけでまだまだ続くよ。4単位とは思えぬタフな授業。多方面に迷惑をおかけしています!(感謝の意) 学生諸君、プレゼミの本、福島さんの言葉を思い出そう。12月には昨年同様、神山町での成果発表会やるよ。

 さて、これ(↓)が今回、神木集落を対象地に選ぶ理由となったブツ。わずかな地形の特徴によってつくられる、「風玉」と呼ばれる極度に強い風の通り道となる5〜6軒の家だけが、こうした石積みの自立壁によって家を守ってきたのだという(伊藤さんのFB参照)。写真のケースでもこのL字の壁に守られる位置にもともと屋敷があったそうだ。

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↓同じ壁を、川を挟んで対岸から見た立面。壁の向こう、中腹までは果樹園、それ以上は杉林(ほぼ放棄)。これは比較的新しい風景であり、1960年頃に遡ればほとんど尾根に至るまで自給的な段畑だった。

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↓下の写真も暴風石垣だが、やはり家がなくなっている(これは2015年12月撮影)。

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 M1およびM2諸君の報告によると、一般的な観察結果としては、田畑の奥行きは概して小さく、石積みの高さは2m内外で大きなばらつきはないという。つまり、石積みの労力と強度から石積み高さに一定の目安があり、そこから平面奥行きが決められていると考えられる。対して屋敷の場合は一定の奥行き(広さ)が必要なので、逆に石積みが5〜6mと非常に高くなることがある。つまり田畑とは逆に、平面から高さが決まっているのだろう。加えて、それらとはまったく異質なこの防風の石積みがあって、これは民家の軒高と風の向きが形態を決めている。いや、ここを選んだのは正解だったなあ。上一宮大粟神社のお導きじゃ。

 ちなみに大粟神社神山町神領字西上角)のご祭神は、町長が紹介してくださったとおり大宜都比売命オオゲツヒメノミコト)。『古事記』に次のようにある。《高天原追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオ食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。》(wikipediaより)・・これもまた、古代に起きた資材再配置の物語なのであろう。

2016/09/04

村々の風景の世界性をめぐって 20160831-0903 綾里調査

 岩手県大船渡市三陸町の綾里という地区はいくつもの浜からなるのですが、そのうち「砂子浜」に、この綾里というエリアの草分け(中世)の系譜を継ぐ家があり、今回わたしは学生たちとこの家にマル2日お世話になりました。屋敷・建物の実測と聞き取りです。

 屋号を「砂子浜大家(スナゴハマオオヤ)」といいます。17世紀末には製塩から鰯漁の経営へと転じ、18世紀中盤には廻船業へと進出して、綾里−気仙沼−銚子−江戸という交易ネットワークの産地側の拠点として隆盛を誇りました。姓は千田。歴史研究者らの努力により「千田家文書」として整備されつつある膨大な文書は、近世史では知られる存在です。私もそれを活用した2〜3の論文を拝読しました。

 現在の屋敷には、母屋と土蔵と納屋(綾里ではナガヤと称する)があり、庭園や露地や井戸があり、さらに「お御堂」と称する持仏堂があります。(千田家の系譜にかかる資料から推すかぎり)主だった建物はおそらく19世紀初頭かと思われます。いずれも昭和戦前期にかなり手が入っていますが。

R9288626 砂子浜大家の名にふさわしく、屋敷は堂々たるものでした。砂子浜は、こじんまりとした浜から急峻に立ち上がる斜面に展開する小集落ですが、砂子浜大家は最も海に近いといってもよい切り立ったテラス上にあり、海には背を向け、山側に回りこむアプローチで家のオモテに至ります。パルテノンのようです。でも、集落は「大家」より高いところにある。

 要するにザシキなどの公式な空間(オモテ)が地形的にはウラにあって集落を向き、私的な生活空間(ウラ)が地形的にはオモテにあって海を向くわけです(これをあえて反転というのは恣意にすぎませんし、浜にオモテを向けないのは海風への配慮からして当然ともいえるわけですが)。面白いのは、このウラの生活空間の中央に「カッテ」と称する、通常ならば物置か隠居の寝間にでも当てられる部屋があるのですが、この家ではそのカッテが、当主がその座を構え、家の者たちがおうかがいを立てに来る、いわば司令塔のような部屋であったことです。この家ではカッテこそが海へと視界を開く唯一の部屋であったことが、製塩・漁業・廻船を経営してきたこの家にとって何か意味があるのだと考えてみたい誘惑にかられます。

 この家は、斜面に展開する集落の家々へと社会的なオモテを向け、反対に家の内部秩序の中心を海に向け、その海を通じて江戸とつながる流通経済を動かしていたと見立てられるわけです。

R9288694 少し斜面を上ったところ、ちょうど砂子浜の集落がほぼ終わるその背面の山になるわけですが、そこにこの家の墓地があります。この墓には度肝を抜かれました。

 斜面に沿って上昇する軸線上に、前後ふたつ、大きな石を積んでつくった正方形の基壇があるのですが、前方の基壇中央には角柱の墓石が立ち、うしろの基壇中央には逆に丸い穴が掘り込まれています。この穴は近世から戦後すぐの頃まで使われてきた火葬場でした。しかも、ふたつの基壇の縁には大樹がそびえ立ちます。基壇の外ではなく、内側の縁に、です。手前の基壇は前方左右に、奥の基壇は(正面をのぞく)三方にぐるりと列状に。構築的な石積みの、その上に、墓碑をはるかにはるかにしのぐ大きさの、ぐねぐねと枝をくねらせながら広げた大樹の生命感が立ち上がるその光景には、たんなるモニュメンタリティを超えた、有機性と一体化された形式性とでもいうべき世界観のようなものを思わずにはいられませんでした。

 現在この墓地は鬱蒼とした雑木林に包まれていますが、かつては見渡すかぎり田畑であったそうです。手入れの行き届いた棚状の農地のまんなかで、この墓地は異様な力を発散していたに違いありません。

 海と浜、屋敷のオモテとウラ、集落と農地、そして墓地、山林・・といった風景の全体にわたって、ある種の論理が貫いていたであろうことを、考えなければならないのでしょう。

 綾里の浜々には近世を通じて集落が育っていきます。明治の津波はその多くを流し、昭和の津波では国家−地方の行政的枠組みのなかで集落の風景が再編され、高度成長期を迎え、そして東日本大震災がありました。3年前から縁あって綾里に入らせていただきましたが、多くの方々にお世話になりながら(今年は砂子浜大家=千田家のご当主に、本当によくしていただきました)、屋敷や建物を実測し、お話をうかがい、史資料にあたり、ようやく、そこに流れる悠かな時間のダイナミクスが少しだけつかめてきた気がします。

2015/11/26

辻原先生のブログより:台湾調査をご一緒したことなど

そうそう、熊本県立大学の辻原先生のブログに8月の台湾調査のことが書かれています。当方の研究室とご一緒した日のこと。

2015.08.18 青井研究室の皆さんの調査に合流させて頂きました_午前版
2015.08.18 青井研究室の皆さんの調査に合流させて頂きました_午後版
2015.08.20 台中から台北に日帰り

それと、ひとつ前の記事で紹介した11月の熊本講演+天草旅行についても。
20151106 明治大学の青井哲人先生の講演会
20151107 天草に
20151108 天草に(2日目)

2015/11/25

熊本県立大学にてレクチャー+天草の旅

報告がすっかり遅くなりましたが、2015年11月6日、熊本県立大学の辻原万規彦先生に呼んでいただきレクチャーをさせていただいた。神戸芸工大出身で有明高専で教えている鎌田誠史さんも聞きに来てくれて感激。先日、辻原先生が学生さんのアンケートを送ってくださったのだが、皆さん熱心に書いてくださり、なかには極めて的確に要点をまとめながら自分の驚きを綴ったものもあって、心から嬉しい。

辻原先生は、奥様の今村仁美さん(→atelier image)とともに、つづく11月7〜8日の両日にわたり天草をご案内くださった。これがまた大変興味深い場所ばかりで目を見張った。素敵な人たちにも出会わせて下さった。辻原さん、今村さん、ありがとうございました。

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↑三角港(世界遺産)。この景観は地形と土木と建物群(ティシュー)が凝縮されてクオリティが高い。

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↑崎津天主堂(世界遺産)。天主堂と集落とが一体になって水面に浮かぶかのよう。

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↑加世浦集落(牛深)。辻原先生はこの集落の(建物の、ではなく集落の)環境工学的調査を行ったのだそう。興味深い。超高密かつ迷宮的なこの集落にもきっと組織構成の原理がある。いつか調査してみたいな。

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↑旧梶原産婦人科病院(本渡古川町、1927竣工)の小屋組。これは面白い。マンサール的な腰折屋根を構成する、一風変わった解釈のトラスと和小屋のハイブリッド。近代建築技術史の無名の一局面というべきか。

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↑御領集落。御領石(凝灰岩)の重厚な石垣が魅力的な景観をつくる。ステレオトミクス!

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↑鬼池港より島原を望む。天草と島原はたった4〜5キロメートルほどの距離で向き合う。17世紀前半の、あの事件の舞台となる地理的環境。長崎・熊本・鹿児島、というと南北に相当の距離があるように思えるが、西に突き出した島々や半島部は実に近い、もちろん海を介して。

2014/10/13

古建築実習2014:法界寺阿弥陀堂についての覚書

10月6日(月)生田(開始)/白川郷(キャンセル)/美濃(泊)
10月7日(火)美濃(伝健)/永保寺(開山堂・観音堂・方丈)/関宿(伝健)/奈良駅(解散)
10月8日(水)奈良駅(集合)/法隆寺(西院中門・金堂・五重塔・大講堂/東院夢殿)/薬師寺(金堂・西塔・講堂)/唐招提寺(金堂・講堂・経蔵)/東大寺(南大門・大仏殿・鐘楼・法華堂)/奈良駅(解散)
10月9日(木)奈良駅(出発)/室生寺(金堂・彌勒堂・潅頂堂・五重塔)/当麻寺(本堂・金堂・講堂・塔)/慈光院(書院・茶室)/奈良駅(解散)
10月10日(金)奈良駅(集合)/浄瑠璃寺(九体阿弥陀堂・三重塔)/平等院(鳳凰堂・鳳翔館)/法界寺(阿弥陀堂)/西本願寺(阿弥陀堂・御影堂・書院・飛雲閣)/京都駅(終了)

 今年は大型バスの料金改定のあおりで日程を1日短縮し、そのうえ台風の影響で初日の出発が大幅に遅れて白川郷の合掌造民家のキャンセルを余儀なくされる不運もあったが無事終了。門脇先生・川嶋先生・TAの皆さん、お疲れさまでした。

 今年のレポート課題は、4日目に訪ねた室生寺金堂の分析・批評。学生たち(4年生)は3日目までで実地に古代・中世建築に関する初歩的な見方をいちおう身につけている。室生寺金堂は、斜面と木立という環境のなかで柔らかくも端正な佇まいを見せる、僕の好きな建物のひとつだが、正堂の身舎/庇スパンの異例な扱い、孫庇による礼堂の付加過程、これにともなう正堂隅木と礼堂母屋との軒裏での納まり、正堂・礼堂の床高の処理、野屋根と縋破風の構成、正面中央の階の有無・・・などなど、考えてみるに足るポイントが次々に見えてくるのも魅力。学生たちが自らの目で着眼点を見つけ、問いを立て、仮説をつくっては観察や論理によってそれを検討するなどといったことが出来るのか、実は半信半疑だったが、これは杞憂だった。金堂の周囲を取り巻く学生たちを廻って議論に付き合ってみると、むしろ彼らに鋭い観察と多様な着眼の可能性を教えられた。レポートを読むのが楽しみ。

“PA164274”“R0017770” さて、それとは別に、今回自分なりに気付きがあったのは、これまた以前から好きな建物のひとつ、法界寺阿弥陀堂についてである。

 一間四方の身舎を構成する四本の柱を四天柱というが、法界寺阿弥陀堂ではそのスパンは18尺と常軌を逸する大きさで、巨大な円柱にはかつて極彩色の曼荼羅が描かれていた。その四周に庇をめぐらせて内部空間をつくるのだが、そのスケールの異常さは、法界寺と同じ丈六の阿弥陀像をおさめる平等院鳳凰堂と比べてみるとよく分かる。鳳凰堂の中堂は3×2間(34×26尺)で、木割も常識的であり、庇はない。対して法界寺では庇を含む内部空間が44尺四方の広がりをもつ。

 法界寺阿弥陀堂の身舎は、四天柱によって幾分縦長ながらキューブのごとく定義される。面白いのはこの一間四方の身舎に対して、庇を(三間でなく)五間四方とすることだ。このため庇の柱径は四天柱よりひとまわりもふたまわりも小さく、また当然ながら身舎(四天柱)と庇とでは柱筋が合わない。異例のプランだ。こうして四天柱は特異な存在感を放つ。

 同時に注意すべきは、この柱筋の不一致ゆえに、通常なら身舎柱と庇柱とをつなぐ繋虹梁が架けられないということだ。つまり庇部分は力動感あふれる構造材を欠き、化粧垂木のストライプだけが支配する。それがグラフィカルといってもよい鮮烈な面をかたちづくり、垂木の線が中央のキューブに向かって上昇することによって、入れ子状で求心的な空間構成に異様な強度が与えられる。

 ティム・インゴルドは『ラインズ:線の文化誌』(工藤晋訳、左右社、2014)で、線はサーフェスを伴うものとそうでないものに大別できるという。インゴルドは前者をトレース(軌跡)、後者をスレッド(糸)と呼んで分類しつつ、互いの流動的な関係を分析するのだが、建築の部材にもこの二種類がある。柱や梁は、壁と一体化せずに、空中を走る独立した線として存在することができるが、根太や垂木はつねにサーフェスとともにある。建築表現の力点が後者に置かれることは稀だ。垂木は、たとえば板軒にすれば省略することだってできるが、それは(そこでは)面こそが命題として先行するからだろう。

 ところが法界寺阿弥陀堂の庇空間では、通常ならば存在する、空中を走るダイナミックな繋虹梁が消され、かわりにサーフェスと一体化された垂木のストライプが、内部空間の求心性をエスカレートさせる。垂木が持ちうる表現力がこれほど高められた建物が他にあるだろうか。また庇柱もすべて壁と一体化してサーフェスをつくっているから、あれほど巨大な空間のなかに、独立したスレッドとしての線は四天柱の四本しか存在しないことに気づく。あの建物の異様さはここに起因している。他の一切をサーフェスに還元することで、それがつくるボックスのなかに四天柱だけを独立した強い線として残す。庇を五間として柱筋をズラしているのはこの点でも意味深い。

 いい換えると、この建物は三次元的な構成の形式的強度という点ではきわめて建築的なのだが、しかしその強さは軸組の一貫性という構造合理性、つまり建築的な統合性を部分的に放棄することで、比類ない水準にまで高められている。平安末からの浄土信仰の高まりは、現世(混沌)からの逃亡と、完璧な法(仏法)による救済への憧れであった。希求される秩序は、それが秩序であるかぎり形式の強度が不可欠であり、なおかつ、不在の世界(ユートピア)の再現には構築的・力学的なものは障碍とみなされたようにも思える。

 浄土信仰の高まりを背景に盛んに営まれた阿弥陀堂のひとつの型に、九体堂(九体阿弥陀堂)と呼ばれるものがあり、その唯一の現存遺構として浄瑠璃寺本堂がある。9×2間の身舎に庇をめぐらせた横広の長堂をなすのだが、やはり繋虹梁がなく、法界寺と同様に庇は化粧垂木の鮮烈なグラフィックをなす。この事例では、柱筋の不一致はないから、繋虹梁は架けられないわけではない。とすれば、法界寺のケースでも、柱筋がズレるから繋虹梁を架けられなかったというより、やはり構造的な力動感の表現が避けられた、ということかもしれない。そもそも、柱筋をズラすという操作自体、構造的一貫性に対する忌避の意識を感じさせる。

R9281427 おそらく、唐様式導入以降の古代建築の国風化の流れのなかでも一貫して維持された構造-空間の統合性は、平安末からの浄土信仰ブームのなかで先鋭的な忌避の対象とされたといえるのではないか。建築の構築性に対するアンビヴァレントな逃走の欲求が広範にわき起こったのではないか。そう考えると、鳳凰堂をつくらせた藤原頼通の着想は、軸足を建物からピクチャレスクな環境デザインへと強引に移行させることで、この逃走をもう一歩先に進めることにあったように思える。内部空間をもつ阿弥陀堂本体そのもの(中堂)はミニマムに抑え、その左右に翼廊を延ばして池のある庭園とともにひとつの絵画を現出させる。それは、浄土変相図に描かれた、池を前にして立つ、ウィングを拡げた浮遊感のあるあの建物の姿である。死者の魂を迎える阿弥陀はその中堂に座す。頼通にとっては、このイマジナリーな世界の地上への移植が重要だったのだろう(しかしそれはなぜ地上になければならないのか?)。翼廊の二階は人が立てないほど低く、吹き放ちの一階は不安定に思えるほど高いのだが、その落ち着きのない腰高のプロポーションは、中堂の裳階とも連動して、このイマジナリーな世界の完成度を高めている。それは建築ではない。しかし、こうした緊張感こそが、この時期の一連の阿弥陀堂の建築性なのだろう。

2014/09/24

綾里プロジェクト2014:大船渡市綾里にて昭和三陸津波後の「復興地」の家屋調査

報告遅くなりましたが、2014.08.26〜08.30の5日間(実質的な調査期間は4日間弱といったところ)、岩手県大船渡市綾里の各集落にて大変有意義な調査をしてきました。首都大学東京の饗庭伸先生を代表者とする科研費のプロジェクトで、災害や復興の経験を含む地域の歴史・文化を後世へ継承するローカルでスペシフィックなアーカイブをつくることを試みるのですが、空間チームの私たち(青井および当方の研究室メンバーと、東大の岡村健太郎さんを中心とするチーム)は、まず昭和三陸津波後に高所を造成してつくられたいわゆる「復興地」に建てられた家屋の調査を行っています。

P8270368[fig.01]これは港地区の俯瞰。中央の道を進んでいくと、岩崎地区。

R0028756[fig.02]そのなかに例えばこんな家屋があります(写真は2011.09.07)。昭和三陸の復興地に建てられた家屋の典型例。もちろん気仙大工系の棟梁の仕事。こうした家屋が綾里の各地区に残っています。

1933(昭和8)年の津波後、壊滅した低地(原地)にすぐさま家屋を再建した人々がやがて完成した造成地に徐々に新しい家屋を建てて移っていったのですが、早いもので1935(昭和10)年竣工の家屋がある一方で、遅いものでは1960年代に建築した例もあり、この間にそれぞれのタイミングで建築したらしいこと、国の復興政策はトップダウン型だったことは間違いないが一方で個別家屋の建築は建主が信頼できる大工に個別に頼んでおり多様性があること、被災家屋の使える部材を使った例や、既存の家屋を解体移築した例などが少なからずあること・・・などが分かってきて、昭和の「復興」に関する私たちのイメージはどんどん相対化され、色鮮やかに塗り替えられていきました。

R0028728[fig.03]これは綾里の田浜地区の例(写真は2011.09.07)。

P8270508[fig.04]同じく石浜地区。右手が1937(昭和12)竣工の例。

P8280730[fig.05]我々素人同然の集団ではありましたが、できるだけきちんとした実測を目指しました。小屋裏にも上がらせていただき、棟札もチェック! 写真は棟束に打ち付けられた棟箱。このなかに棟札だけでなく実に色々なモノが入っているのであります。

そして小屋組をみると・・新材と古材とが混用されていますね。古材は昭和三陸津波で流されずに残り、いったんは低地での再建に使い、さらに復興地での建築に使ったそうです。おおっー感慨深い・・。

P8290772[fig.06]田浜の例ですが、左の家の軒裏に注目。民家なのに隅扇垂木であります。気仙大工!

P8280538[fig.07]これは・・・1941(昭和16)に建てられた当初小屋組と、戦後1955(昭和30)年に一部取り壊して建て替えた部分との取り合い。

P8270468[fig.08]あるお宅ではお昼をご馳走になり、その後、学生達が実測を続けるなか、僕は朝ドラの再放送をご夫妻と一緒に見ました。「花子とアン」どうですか?と聞いたら「うーん、ま、そごそごダネ」と手厳しい批評・・というか僕も賛成。あ、そういえばこのお宅では写真家の山岸剛氏が三脚をセットしシャッターを押すところを初めて見た。

私たち10人くらいだったのですが、メンバーを臨機応変に組み替え、動かしながら、部落長さんはじめ地域の方々への挨拶・趣旨説明、実測と聞取、さらには古老や専門家へのインタビューに走り回り、毎日ヘトヘト。4日弱で10棟の実測・聞取データを得ることができました。本当に充実の調査でした。いや、ヘトヘトなどと偉そうな書き方をしましたが、実際はたくさんの方々に次々にお膳立てやら紹介やらをしていただいたのです。調査先のお宅でも本当によくしていただき、実測が終わって失礼する段になると名残惜しくて涙が出そうになります。色々な気持ちをビシバシいただきました。ありがとうございました。また必ず参ります。

P8280535[fig.09]寝泊まりさせていただいた仮設住宅の一室。

P8260354[fig.10]初日の夜のミーティングの様子@仮設住宅の集会所。筑波大の木村周平先生がおられます。皆様たいへんお世話になりました。責任もってきちんとまとめましょう。

2013/10/16

2013年古建築実習:ようやく解説も落ち着いてきたので来年度はもう一枚脱皮したいと思う。

 今年は門脇耕三先生、川嶋雅章先生が前・後半の引率について下さり、TAの院生も含めて49名で行ってきました。皆さんお疲れ様。

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10月7日(月)生田(開始)/白川郷/輪島(宿)
10月8日(火)輪島(宿)/黒島(北前船の船主・船頭町)/金屋町(高岡の鋳物師町)/瑞龍寺(禅宗七堂伽藍)/奈良駅(解散)
10月9日(水)奈良駅(集合)/法隆寺(西院中門・金堂・五重塔・大講堂/東院夢殿)/薬師寺(金堂・西塔・講堂)/唐招提寺(金堂・講堂・経蔵)/東大寺(南大門・大仏殿・法華堂)/春日大社/奈良駅(解散)
10月10日(木)奈良駅(出発)/今井町(寺内町)/室生寺(金堂・彌勒堂・潅頂堂・五重塔)/大神神社(拝殿)/慈光院(書院・茶室)/十輪院(本堂)/奈良駅(解散)
10月11日(金)奈良駅(集合)/浄瑠璃寺(九体阿弥陀堂・三重塔)/平等院(鳳凰堂・鳳翔館)/法界寺(阿弥陀堂)/南禅寺(三門・方丈庭園)/水路閣(琵琶湖疎水)/無鄰菴(山縣邸)/東本願寺前(解散)
10月12日(土)東本願寺前(集合)/下鴨神社(本殿屋根葺替工事)/円通寺(庭園)/龍安寺(石庭)/仁和寺(金堂・御殿・遼廓亭・飛濤亭)/二条城(二の丸御殿)/京都駅(終了)

 写真と関係ないんだけど、好きな建物のひとつ室生寺金堂についてちょっと。あの建物、正堂部分が先にできて、孫庇形式の礼堂は事後的に付加されたってのはホントなのかなあ。ふとそんなことを思った。

 正堂は平安時代(9世紀後半)の建立とされているんだけど、礼堂部分は17世紀にまるごと新材でつくり直されてしまっていることもあって、実はよく分からないらしい。ただ、修理報告書を読むと、やはり事後の「付加」であるということ自体は疑われていないようだ。たしかに、正堂の正面軒廻りの化粧隅木・垂木に当初材が残り、正堂部分が建築物としての独立・完結した姿をもっていたことは事実なので、事後的付加とみるのが自然だし、報告書によれば、正堂前面の側廻りの柱間装置は痕跡からもともと扉口であったとみられ、かつその方立ての一部が当初材で風蝕が大きいので外部に露出していた期間がそれなりに長いことがわかる。ついでにいうと、正堂は二軒なんだけど、礼堂付加時に正面のみ飛檐垂木を取り外して、礼堂の化粧垂木を重ねたとみられる。時期としては、鎌倉期に大掛かりな修理が行われたらしく、礼堂の付加もそのときであろうという。

 というわけなので、正堂と礼堂に時間差のない「一体的計画」の可能性、なんて考えるのは素人の思考実験でしかないし、大して意味もないかもしれないけど、でもそう考えてみるのはちょっと面白いような気がした。純然たる仏の空間であった古代の仏堂が、内陣+外陣を一体的に計画する中世仏堂に至るまでの過渡期の例としては、ほかに東大寺法華堂、当麻寺曼荼羅堂、長寿寺本堂なんかが代表的で、これらはいずれも明瞭に付加的というか、連鎖的に変形を加えていった過程を想定するほかない。でも、双堂(ならびどう)形式にせよ、孫庇形式にせよ、当初からそのように計画することは不可能ではない。もし、仏像を安置する空間はあの「身舎+庇」という構造-空間-意匠の古代的統合形式によらねばならない、という観念が十分に強固であったとしたら、その原理的形式性を温存したまま礼堂を設ける「一体的計画」だってあってよいように思う。もしそういう遺構があったら、「古代的アーキテクチャー」がいかに乗り越えられていくか、という問題も一段とダイナミックになるような気がするなー。神社だと、本殿はいつまでも身舎+庇形式だよね。その後いくら礼拝空間が発達して複合化しても、本殿の独立性・完結性はいつまでも保持される。このへんでやめとこ。以上、素人でした。

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2013/09/20

日本建築学会大会@北大+研究室合宿@青森県

2013.08.29出発。8.30〜9.1 日本建築学会大会に参加。実は大学院生時代に発表して以来、PDとか協議会とかで話をすることはあったが、いわゆる学術講演は20年振りくらいにやった。2011-2012年の台湾調査の成果(澎湖県吉貝4本、彰化県北斗4本、永靖餘三館2本)を発表したのだが、さすがに10本は赤ペン先生死んだ。来年からは4〜5本にしよう。8.30は8本の発表と、PD(地域文脈デザイン小委員会「成長時代のコンテクスチャリズムから縮小・災害時代の地域文脈論へ」)で報告とディスカッション。時間もバッティングしたので北大のキャンパスを走った。疲れた。今年はこういうバッティングが多いらしい。要するに縦割りのプロ編が意味をなさなくなりつつあるということ。夜は法政大学高村研究室の皆さんと札幌の焼き鳥屋で盛り上がる。高村研の学生さんたちの笑顔と高村先生の人なつこい友人の皆さん、ほんとにすばらしい。招待くださった高村先生、いつもありがとうございます!

大会は9/1に学生の発表も終わり、ジンギスカンを食ってフェリーで翌朝八戸着。

研究室合宿は色々まわったが、いくつか感じたことを書くと・・・

(1)まず弘前の前川建築はいま次々に改修のタイミングが来ていて、実際、市民会館と博物館のふたつは大改修工事中で見れず。だが人口18万の自治体がきちんと使い続ける覚悟、えらい。個人的には「弘前市庁舎」の第1期(1958)とそのうしろにある1970年代の増築部分をみて、前川の中世主義的志向(ラスキン-モリス的なもの)とはこういうことかと一目見て合点がいくところがあり、同時に神代雄一郎の前川評価の理由も分かった気がした。前川國男はル・コルビュジエの弟子と考えるだけでなく(いやそう考えるよりも)ラスキンからバウハウスの流れを考えないと分からないな。前々から言われていることだと思うけど。

(2)菊竹清訓の「黒石ほるぷ子ども館」(1975年竣工)はもう心底驚きつつ楽しんだ。実際に行かないとなかなかあの感じは伝わらないかもしれない。棟持柱列で勾配の緩い屋根がすっと持ち上げられているのは、蔵がモチーフというが、どこか東南アジア的な民家の祖型のようなものが軽やかに小振りに再現されたような感じで、けれど建物本体はピロティで屹立するどころか地べたにすっと伏していて優しい。スケール感が絶妙だし、小さい建物なのにさりげない事物がつくる多様な場所があり、子どもたちが生き生きと走ったり、のぼったり、本を読んだりしていた。彼らに「いらっしゃい!」と歓迎され、女性職員の方にも親しく色々なことを教えていただいた。菊竹さんの一面をみた思い。

(3)中世に十三湊として繁栄した「十三」の集落を歩いた。神代雄一郎による一連の初期デザインサーヴェイのなかで調査された集落のひとつ(1972年8月)で、その図面をもって歩いたのだが、あの板張りの閉鎖的なコミセがついた当時の建物はいくつか残る程度ではあったものの、その残り方と、痕跡と、その遺伝子を受け継いだとしか思えない建物も少なくなく、やはり類型学的な思考を動的な理論体系に鍛え直す意義をここでも確認できた。学生たちが聞き取っていたが、しじみ漁の話も驚き。

 他にも色々な建物と街を歩いて、発見や考えさせられた点多し。というわけで9.4新幹線で帰着。1週間のよき長旅。でも疲れた。

 学生たちのブログにもレポートが出ているのでリンクはる。

建築学会大会発表

津軽/十三集落再訪

2012/10/11

2012年度 古建築実習 20121001〜1006

先週10月1日から6日の期間で今年度の古建築実習を実施した。今年の行程は以下のとおり(生田キャンパスからバスで出発し、最終日の夕方に京都駅で解散)。今年はまた参加者が増え全体で50名をこえた。マネジメント全般を担当した助手・TAの皆さん、本当にお疲れさまでした。

  • 10/1 Mon 仁科神明宮/開智学校/奈良井(町並)
  • 10/2 Tue 永保寺開山堂・観音堂/如庵/善水寺本堂/長寿寺本堂
  • 10/3 Wed 園城寺金堂・光浄院客殿/近江神宮/坂本(町並)/日吉大社/延暦寺根本中堂・担い堂(法華堂+常行堂)
  • 10/4 Thu 法隆寺金堂・五重塔・中門他/薬師寺金堂・講堂・西塔(東塔は修理中)/東大寺南大門・大仏殿・法華堂(修理中)・鐘楼他/唐招提寺金堂・講堂他/十輪院本堂
  • 10/5 Fri 慈光院書院・茶室他/室生寺金堂・彌勒堂・潅頂堂・五重塔/大宇陀(町並)/談山神社本殿・権殿・十三重塔他
  • 10/6 Sat 浄瑠璃寺本堂(九体阿弥陀堂)・三重塔/平等院鳳凰堂(修理中)・観音堂/法界寺阿弥陀堂/西本願寺対面所・白書院・飛雲閣

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西本願寺御影堂前にて

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長寿寺本堂前にて

 明治に来て早5年目。古建築実習の解説は2年目。毎年必ず見ている建物も三分の一くらいはあって、やはり反復的に見ていると理解が深まる。理解が深まるというのは、つまり相互に脈絡をもっていなかった複数の理解、複数の箇所、複数の側面が、ふとした瞬間にパッとひとつにつながり、整序される感じだ。

 僕はとくに形式性が弱いというか形式性を逃げていくような建物が苦手。民族建築的なものとかヴァナキュラーな都市建築とか、あるいは反対に強い引力や斥力が働いている宗教建築とかは、きわめてクリアな形式性を備えている。そういうのはわりとよく分かる。反対に、形式性から逃げようとする繊細な意識ってある意味ですごい高度。そんなもの要らないと思うくらい高度。最終的には僕は要らない派だが、分からないというのは癪に障る。

 たとえば戦中期に堀口捨巳がこもっていた慈光院。あのくだけた感じの変則的な書院を学生たちは素直に「よい」という。何でよいのか聞くと「何となく」とか言いながらパシャパシャ思うままに写真を撮っている。僕はほとんどシャッターが切れない。何らかの理解の形式がキャプションにならないとシャッター切れない。たぶん頭が固い。そんな感じで、慈光院は謎(なんでこうなの?という)だらけでイヤだった。だけどたぶん分からないということを受容するのが苦手だったんだなと思う。受容してしまえば、ぼんやりした疑問のひとつひとつがなぜ疑問に感じるのかを考えていける。疑問を構成していたコンテクスト(条件の束)が見えてくれば、他の疑問のそれと突き合わせる作業ができ、次第に連立方程式みたいな数学的な問いになってくる。すると妙な柱の位置ひとつとっても、相容れない二つのコンテクストが重合している状態への調停的な回答なんじゃないかとか、けっこう見えてくる。そういう感覚をようやく持ちはじめた。で、そんな問答の相手になってくれる学生さんが何人かいて今年はとてもよかった。でもまだ謎だらけ。