VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2018/07/21

mediumのサイトをご覧ください。

vestigial tails/tales: aoi's journal

やっぱり画像の扱いとかメモのようにサラサラ書ける感覚とか、Mediumはわりと僕に合っているみたい。日本ではユーザー数が少ないのが難点なのでしょうが。

2018/05/01

日常的にはmediumで書いています。

vestigial tails/tales: aoi's journal

どうも今までのように長文ブログを書くのがしんどくなり、すると更新頻度もガタ落ちで、かといってtwitterは自分には何となく馴染めない気がしていたのですが、きっかけがあり medium に日常的なメモなど書くようになりました。よければのぞいてやってください。

たまに長いの書くときはこっちに書きます。

2018/03/04

日常的にはmediumで書いています。

vestigial tails/tales: aoi's journal

どうも今までのように長文ブログを書くのがしんどくなり、すると更新頻度もガタ落ちで、かといってtwitterは自分には何となく馴染めない気がしていたのですが、きっかけがあり medium に日常的なメモなど書くようになりました。よければのぞいてやってください。

たまに長いの書くときはこっちに書きます。

2018/01/01

謹賀新年2018

新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。年始にあたり昨年(2017)を振り返って書き留めておくことにしたいと思います。

1(1-3月):〈NPO法人福島住まい・まちづくりネットワーク〉による原発避難12市町村の復興を考えるための地図集『福島アトラス』に2016年秋から監修の立場で関わりはじめていたが、1月にいよいよ現地取材が佳境に。K尻さんと院生たちが記事作成。データ編を含む鬼のデザインワークは中野豪雄さん。3月10日最終校正のため中野事務所に缶詰。30日納品(しかし致命的なテキストのミスがありました。関係者各位には心よりお詫び申し上げます)。日本建築学会の戦後空間WGが1月に動きはじめている。香川県立ミュージアムと森美術館からアプローチがあったのは2月初だったと思う。2月25日はJIA神奈川の卒制イベントでトーク。それと・・・浅子佳英さんから東京デザインテンという展覧会の話が前年末にあったのだが具体的なMTGが2月にあり、院生急遽ガンバル。僕も勉強。3月20日川口駅前のネウロズ祭でクルド人十数人にインタビュー。彼らの生きる政治的環境と、個人的ネットワークと、日本での食い扶持について多くを学んだ。

2(4-6月):5月12日デザインハブ@ミッドタウンに搬入。14日東京デザインテン開幕(〜5月21日)。4月26日オープニングのトークイベント。そういえば4月14-15日は某OB×OGの門出ってことで箱根の富士屋ホテルに泊めてもらった。なかなかできないよい経験だった。5月14-15日は会津にて福島アトラス01の打ち上げ。首都大の饗庭伸さんたちとやってきた綾里PJの出版もこの頃かなり具体化した。6月25日tOR 05 丸子(武蔵小杉)街歩き。日本建築学会建築討論委員会の委員長をと4月に打診あり、5月中に色々考えたり人に会ったりして新委員会を整えた。

3(7-9月):恩田重直さんのシンガポールからの帰国にあわせ7月14日に台湾科研の研究会。7月17日第1回建築討論委員会。僕の方針を提示し、アイディアを出し合う。デザインの改訂に予算をあてると原稿料が削られてしまうのが悩み。8月4日ウェブデザイナー白石洋太さんの助言でmediumの利用を決心。ウェブらしい軽快さと柔軟さ、同時に個人のブログとは違う共同編集マガジン的な「わかりやすい雑多さ」を考えつつあったように思う。8月2-3日は上越教育大の小島伸之さん(憲法学)・畔上直樹さん(近代史)がお招きくださり、双方の学生による他流ゼミ。これは面白かった。ヒートアップしてゴメンナサイ、上越の夜。8月10〜20日台湾調査(二林、西螺)。また新しい主題と、そして生き生きとした若き研究者に出会ったよー。8月31日〜9月2日広島にて日本建築学会大会。9月2日に地域文脈小委員会のシンポジウム。この小委員会の展開はちょっと強引だったかもしれないけど、よい方向に進んでいると思う。そういえば前日1日夜は日埜直彦さんとサシで飲みはじめ、だんだん大勢になり、ビルの一室で最近有名な人がレクチャしはじめたところで力尽き、内容はひとつも聞いていない。9月4日〜7日は綾里。今年からは筑波大学の木村周平さん(文化人類学)の科研。民俗学の専門家数人とフィールドを共有できるという僥倖(!)。砂子浜大家の千田基久兵衛さんはじめ村の皆さんにもホントによくしていただく。

4(10-12月):10月10〜14日古建築実習で奈良・京都方面へ。今年一番感心したのは京都の無鄰菴が、市が管理していた3年前と全然違って、指定管理者の植彌加藤造園さんが見事に研究と維持管理と公開とをマネジされていることだった。福島アトラスPJは夏前から続編の準備を進めているが、8月24-26日の取材のときに02+03の分冊・同時発行というアイディアに至り、僕は引き続き監修者として全体を見るのだが、03は工学院大学の篠沢健太さん(ランドスケープ)に主導してもらい、03では必須の地形+生産イラストは以前に『建築雑誌』でお世話になったことのある野口理沙子 +一瀬健人(isna design)のおふたりに快諾いただく。先日ラフを見せてもらったのだが、もうね、スンバラシイんですよこれが。3月の刊行をお楽しみに(02も硬派に頑張ってます)。12月16日は戦後空間シンポジウム01「民衆・伝統・運動体」。戦後空間WGのキックオフ記念シンポで、鳥羽耕史さん(近代文学・文化運動史)、ケン・タダシ・オオシマさん(建築史)のご講演と、日埜さんのコメント。僕の進行以外はぜんぶ最高でした。2〜3月あたりの記事化をお楽しみに。

2017/02/27

謹賀新年はあまりに遅すぎてお恥ずかしいのですが。ご挨拶かたがた2016年の備忘録。

 2月も末になったのでもう居直っていいますが、本年もよろしくお願いします。

 年末年始は神山町(徳島, 3日間)、閩南地域(中国福建省南部, 10日間)、原発被災地(福島県, 5日間)と出張続きで、その後もバタバタが止まらず、年賀状も結局あきらめてしまいました。

 さて、昨年(2016年)の自分の1年間を 4半期に区切ってまとめておきます。これやっとかないと区切りがつかないんで。

1(1-3月):1月16日、台湾総統選挙にて蔡英文当選。2月1日〜3月28日、BankARTスクールにて連続8回のレクチャー(うち1回は石榑督和さんに代打頼んだ)。2月24日、都市基盤史研究会にて青井・岡村・石榑の連名発表。近々本になる予定。2月25日、八束はじめさんと対談(10+1website)。2月27-28日、明治神宮書評会、土居義岳さんと。3月4日、TKC(トウキョウ・ケンチク・コレクション)にて論文審査。新谷眞人・石川初・一ノ瀬雅之・森田芳朗・八束はじめの皆さんと。3月19〜25日、台湾調査。9月に控えたISAIA(中国・韓国・日本の建築学会が開催するアジア建築交流国際会議)の準備もいよいよ具体的に。

2(4-6月):4月8〜15日、息子の高校のプログラムでフランス人高校生ホームステイ。4月23日、NUS(シンガポール国立大学)の Chen Yu さんを招いてレクチャ(青井のUrban and Architectural History)。『日本都市史建築史事典』プロジェクトはじまる。伊藤毅先生が編集統括。建築史だけでなく、社会史・考古学・民俗学等の専門家が一冊の事典を編む。青井は戦後編担当、タイヘンだ。研究室で東京のインナーシティの外側を歩く企画、東京アウターリング(tOR)を準備。5月8日に第1回羽田。研究室メンバーだけでなく、建築家・編集者など多くの方々(橋本純・日埜直彦・川尻大介・山岸剛ほか)に参加いただき、近世・近代の羽田のあまりにドラスティックな変転の跡を訪ね歩く(7月初にレポート冊子『tOR01羽田』完成)。

3(7-9月):7月3日、第2回北千住の街歩き。参加者増(浅子佳英ほか)。情けないことに青井は熱中症で倒れそうだった(『tOR02北千住』は10月完成)。7月9日、地域文脈小委員会(日本建築学会都市計画委員会傘下)の企画で明治神宮外苑地区を歩く。中島直人さんら8名と。今日におけるコンテクスチャリズムの可能性を探る共同研究はもう数年になるが、いよいよ(ようやく)新しいチャレンジがはじまる感じ。やっぱり歩くことを共有するのは大事だ。8月2〜21日、台湾調査(途中オープンキャンパスのため一時帰国)。今年は19世紀初期の建街事例(永靖)と20世紀鉄道町の事例(二水)を5日ずつインテンシブに掘る。前半は恩田重直さんに参加いただいたのが良かった。8月24-26日建築学会大会@福岡大。8月31-9月3日綾里調査。ついにスナゴハマオオヤの屋敷に入らせていただき、何から何までお世話になり、綾里の歴史的理解をうんと深めることができた。9月5-10日神山スタジオ(大学院設計スタジオ2)。伊藤暁・門脇耕三のお二人と。今年は神山の高橋成文さん、東工大の真田純子先生といった方々に大変お世話になり、民家にとどまらず環境全体の人間的・産業的な再編過程に唸る。

4(10-12月):神山スタジオは10月より設計編を進め、12月は4日に講評会(ゲストに福島加津也・馬場兼伸さん)、18日に合同成果発表会(慶応SFC石川初研究室と)、24日に現地報告会とジェットコースター。石川研との議論で視点書き換わった。10月23日、半田市の三軒長屋コンペ。藤原徹平さんと審査員。企画者の吉村真基さん(D.I.G Architects)のパワーに圧倒される。11月12日、tOR第3回練馬の街歩き。またまた参加者増える(鈴木明・吉良森子・フェリックスほか)。屋敷林のある散村の宅地化、江古田の同潤会分譲住宅等。少し遡るが、9月に南会津の建築家・芳賀沼整さん(はりゅうウッドスタジオ)から、福島原発事故避難者が生活再建を考えるための地図をつくりたいとの相談。NPO法人福島すまい・まちづくりネットワークが福島県の補助を得て実施するプロジェクト。青井は監修の立場で関わることになり、10月に方針を決め、ペラの地図ではなく複数の視座から作成した地図をバインドした64ページのアトラス(地図集)をつくることに。11月13-14日、12月11-13日、年明け1月6-10日と時間を見つけては取材・打合せに被災12市町村出張。インフォグラフィクスが大事なので中野豪雄さんにデザインをお願いし、編集実務をKさんに依頼。東大の井本佐保里さんらにも協力を要請。12月26日-1月4日は福建調査。恩田重直さんと。廈門大・華僑大の方々にもお世話になり、よいフィールドも見つけた。

 いま(2月末)は福島の案件(『福島アトラス:原発事故避難12市町村の復興を考えるための地図集(仮)』)がいよいよ佳境というところ。研究室の院生たちも十数ページのコンテンツをつくって、だいたい手が離れた。地図そのものが少々難航中だが何とかなりそう。3月末完成予定。10月スタートでよくここまで来たものだ(皆さんに感謝!)。しかし、原発被災地は思った以上に複雑に引き裂かれている。浜通りを何度も車で往復し、中通りの中山間地域にも行って、その分裂的な状況と構造を少しだけ理解できた。ただ公的なプラットフォームでの表現の限界というものはあり、そのあたりはまた完成したらこのブログでできる範囲で書いておきたいと思っている。

 つづいて4月に開催予定のある展覧会の準備にとりかかっている。これまた時間のないプロジェクトだが、何とか意義あるものにしたい。

 今年はもうほんんとに「カタチにする年」にしたい。本ですね。

2016/01/05

謹賀新年2016

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2015年を、 4半期に区切って振り返ってみる。リンクは基本的に当ブログ内記事。

1(1-3月):日埜直彦さん企画のシンポジウム「ヒストリー・オブ・ジャパン・アーキテクツ」(2月21日@金沢21世紀美術館)に、長谷川堯、中谷礼仁のお二人とともに参加(→その1その2その3)。「戦後」建築史のパースペクティブを描くことにつとめたが「建築」の歴史にはほど遠かったかもしれないし、肩に力が入り過ぎた感もあって思い出すとちょっと赤面する。ブログを読み返すと「建築家の社会政治的位置の変動と建築表現のフォルマリスティックな遷移とを、緊張ある関係で結びながら語ることができたら一番いい」と書いているが、もちろん形式(フォーム)と内容(サブスタンス)とは基本的には無関係である。それでも現実の歴史的コンテクストにおいては両者が抜き差しならない関係を結んでは切り離される。

2(4-6月):新国立競技場問題をめぐるゴタゴタ(その1その2)。あの頃はまだ「ちゃぶ台返し」だけはせずに押し切るものと疑わなかったが、結局7月に白紙撤回(その3)。選定やり直しで、年末に例の「A案」が選ばれた。コンペとその後のゴタゴタも、白紙化後の成り行きも、その間のすべての言論状況も、ぜんぶ歴史的な問題だろう。白紙化までを検証する10+1 website の10月号特集にも書かせてもらった(こちら)。

3(7-9月):台湾調査、綾里調査、神山スタジオの3つを中心としていくつかの遠征。台湾は2015-2020の5年間の科研費プロジェクト(代表=青井)が採択されてその1年目。熊本県立大の辻原万規彦さんが現地合流。辻原さんには11月に熊本へ呼んでいただき天草をご案内いただくなど早くも色々な展開あり嬉しい(こちら)。綾里は首都大の饗庭伸さんを中心とする幅広いメンバーの共同作業だが、目的であった博物館(津波災害の記憶を次なる計画につなげるための小さな地域博物館)がやはり多くの皆さんの力で実現してひとつの節目に(当日は僕は行けずとても残念。→饗庭さんのグッとくるまとめを参照)。「津波と綾里博物館展」という展覧会の名称も皆で議論して決めた。面白いでしょ。神山は伊藤暁さんを講師に招いての大学院の設計スタジオ。プレゼミ、合宿、設計編、11月の講評会(ゲストクリティク=福島加津也さん)、そして12月の現地発表会と、なかなかタフなスタジオだったが得るものは多かった。もう1年やるが、次は環境に取り付き、環境を書き換えて生きる人間の姿を見据えるスタジオにしたい。

4(10-12月):2月に刊行した藤田・青井・畔上・今泉編『明治神宮以前・以後』の批判的展開に向けたシンポジウムを10月に実施(こちら)。登壇者の皆さんのおかげでぐいぐいと視界を開かれた。東京藝術大学大学院の「建築論II」の講義も10月に開始(こちら)。これは自分にとっては明大に来た頃から考えてきたこと(建築論)をまとめる絶好の機会になっていて、最近はこの授業が日常の思索と作業の柱になっている感もある。受講している皆さんも熱心に聞いてくれているし、しんどいが楽しい。それから11月は歴史的空間再編コンペの審査のため昨年2度目の金沢。学生たちの提案をじっくり議論する濃密なコンペで、その主題は建築-都市史の近年の展開とも完全にシンクロしている。


こうして振り返ってみるとけっこう色々なことをやっているが、ここで触れなかった書きものやイベントや当然ながら膨大な日常業務もあるわけで、じっくりものを考える余裕がないのと、自分の頭(=身体)でショートを起こすにはインプットが全然足りないということが悩みの種。とはいえやりたいことはあるので、また2016年も新しいことをはじめる。インプットとアウトプットの方法論みたいなことを練って動かないとダメだ。

2015/07/20

新国立競技場「白紙」化。重要なのはこれからです。

個人的には(よほどのことがないかぎり)たぶんないだろうと思っていた新国立競技場の設計の「白紙」化が、安保法制がらみの政治的意向によって(と思われるのだが)、ついに現実になった。

ひとつ前の記事で少し書いたように、新国立競技場の事業では、問われぬままの「公共」という空虚な器に、過剰な要求が突っ込まれてスタートしました。そのあたりの具体的な思惑と論理は、たぶんこんな感じだったのではないでしょうか。

1) 世界一のスタジアムをもつ世界一の首都東京でありたい(あの日韓共催FIFAワールドカップのように、国立競技場が一度も使われないなどという屈辱は繰り返したくない)。

2) ターゲットとして意識すべき最大の国際スポーツイベントは、オリンピックとFIFAワールドカップである。しかるに後者のメインスタジアムに採用されるためには8万人の客席を持つ必要がある。

3) そんな規模のスタジアムをつくるとスポーツイベントは滅多に開催できなくなるので、維持のためには音楽イベントを頻繁に開催して収益性を担保しなければならない。そのためには開閉式屋根が必要だ。

4) 見た目には海外オーディエンスにも受けるTV映りのよいアイコンが必要だが、一方では高度な技術力も誇示したいものだ。いや、そういう考え方でいけば無謀なスペックもかえって乗り越えたハードルの高さとして誇れるじゃないか。

5) それでは、以上のことをしっかり実行すべく、有識者会議の委員構成や、コンペの要項などの建付けを決めようではないか。

だいたいこういうことだったのではないかということは多くの人が推察しているところではないかと思われます。有識者会議がなぜスポーツと音楽の関係者で構成され建築専門家は一人だったのか、コンペではなぜデザイン監修者なる曖昧な役割をパースだけで選ぶことにしたのか、そのパースはなぜサッカーと音楽イベントを描かせたのか・・・。しかし結局は、政治的な意向によってセットされた出発点の無謀さが、施主のマネジメント能力の低さゆえに一連の混乱となって露呈してきたのがこの間の経緯であり、最終的には支持率低下を気にした政権の意向によって「白紙」化という顛末。要するに、狭義の政治にはじまり、狭義の政治に終わった。そのあいだの実行機関のすべてはきわめて技術的にのみ扱われ、専門性の起源たる公共性への矜持も、本来の政治プロセスもなかった。

さて、ここから先が重要です。下村大臣の言によれば文科省はコンペ再実施の方針らしい。最初のコンペを否定するのだから、当然ながらコンペやり直ししかないですが、その思想と方法が大事。以下、提案です。

(a) 上記 2) のFIFAワールドカップのメインスタジアム基準は、当ブログでも再三とりあげてきたように、他ならぬFIFAによって緩和の方向で議論されているはずで、2026年大会では6万人程度になる可能性もある(→The New Age 開くのに時間かかるが待たれよ)。ここはよく調べてほしい。さらに、一部を仮設スタンドとする可能性もある。これらによって規模はひとまわり小さくできる。

(b) 次に、ザハ・ハディドのコンペ応募案にあったような、都市的な提案を積極的に求めること。とりわけ、歩行者・ランナー・自転車などの視点から良好な環境を整備し、スポーツを日常的なアクティビティのレベルでこそ活性化させること。そして、イベント時の観客が四方の色々な駅を目指して効率よく散ってゆくことができ、その人々が酒を酌み交わして余韻を楽しんでから帰路につくといった、防災性と都市生活の豊かなイメージをしっかり持つこと。

(c) 設計体制については、監修+設計という二階建ては責任の所在を曖昧にすることがはっきりした。フルオープンのコンペとすべきだが、海外の建築家や若手建築家が採用された場合をはじめとして、技術的・制度的な面で万全を期すため組織設計やゼネコンのスタッフと組み合わせたアドホックな組織構築などの工夫が必要だろうが、どんなかたちであろうと権限と責任を明確にすること。

主旨は、(a)で規模を絞り、プログラムをできるだけ抑え、同時に(b)のような都市的提案の余地をつくり、(c)そうした公共的問題ついて提案能力をもつ建築家に明確な責任を与えよ、ということです。上記1)や4)のごときナショナル・プライドは、都市的成熟という方向において、今日のツーリズムの自律分散化の傾向もよく踏まえて、世界にアピールすればよいのではないでしょうか。

最後に「白紙」化について。この決定が招く様々な問題も大きい。しかし、ズルズルのままで進まなかったことは、一応よしとしたい。その地点からみれば、槇文彦氏の指摘にはじまる一連の反対運動も、その他の言論活動の果たした役割も、評価すべきだと思う。たとえ「白紙」化が政治的判断だとしても、世論は国民のものだし、そこに少なくとも様々な参照すべき情報や考え方を提供する役割は持っていたはずだからです。そして、ここから先でこそ、これまでの議論が真面目に参照されるべきでしょう。

2015/05/18

新国立競技場問題、捻れた修正、みたび。

今日(2015.05.18)新国立競技場の整備問題に関して、下村博文文部科学相が東京都庁を訪ねて舛添要一都知事と対談、そのなかで建設コストの抑制や工期短縮を目的に整備計画を見直すことを明らかにした、という速報が流れた(たとえばこれ)。要するに東京都に金を出してくれと頼みに行くに際して、実現可能性についてかなり不透明な部分が多いとも言われる新国立競技場の建設について、予算・工期についての現実的な見通しに沿った修正をすることを伝えた、ということのようだ。

速報記事では、「(1) 屋根は設けない」、「(2) 五輪後に5万人規模に縮小できるよう8万席の一部を仮設スタンドに」といった内容だったが、夕方、某新聞記者から大学を通じて取材申込があり、都庁にいるというその記者の話では、(1)は「観客席部分の屋根はむろんつくるがアリーナ上部の開閉式屋根を五輪実施まではつくらない」、(2)は「五輪後に常設6.5万人になるようにアリーナ寄りの1.5万席を仮設スタンドとする」ということらしい。

(1)は工期問題が大きい模様。要するに間に合わない。

(2)はまだよく分からないが、いずれにせよ条件として確認しておくべきは、オリンピックもラグビー・ワールドカップも、8万人とか屋根付きとかを要求してはいないということ。(以前に何度か書いたが)「8万・常設・屋根」の3点セットはFIFAがワールドカップのオープニングおよびファイナルに使うスタジムの基準としているもので、つまりJSC周辺(文科省の官僚や族議員たち)はいずれFIFAワールドカップを招致したい、少なくとも招致できるスタジアムを首都東京に国立施設として持ちたい、と考えているに違いなかろう。だが、FIFAは昨年9月の時点で2026年以降のワールドカップでは施設基準を6万人程度まで緩和する方針を発表しており、6.5万という数字はその辺も参照した上での決断のように思える(これは憶測だけど、でもその辺の裏なしには変更の決断はできないだろう)。

いずれにせよ、こうなることはある程度は予想されていたことで、ならば全体規模を縮小し、開閉式屋根をやめ、ザハのコンペ案にあった外部の流動的なペデストリアン・ウェイを回復すべきであった(と考えるのが筋でしょう?)。逆にいえば、とにかく「8万・常設・屋根」に拘泥した前提的枠組みのなかで案の魅力を決定的に損なう修正が行われ、最後にその前提そのものをぐっと緩めてしまっているわけで、それがデザインのクオリティや著作権をないがしろにしながら(個別的契約として問題じゃなくても、一般的・理念的には大問題である)、また公共財のあり方の決定に伴うありうべき政治的振る舞いを欠如したまま、進められてきていることが今回の修正でいっそうくっきりしてしまったかたちだ。

*何か進展があったら追記します。

[追記2015.05.18]最初5万という数字が複数の速報にみられたが、その後のニュースによるとやはり6.5万のようだ。たとえばこれ。ただ、このニュースでも屋根はまったく無し、流線型の特徴もなし、みたいな報道になっているけど本当か? この辺、まだ具体性を伴った記事が出ていないので何ともいえない気がする。いずれにせよ下村さんが情報を出したってことは、ザハも含めて関係各方面の協議(根回し)はむろん済ませた上での話だろう。

[追記2015.05.19]ここ(産経)に昨日の電話取材時の僕のコメントが出ている。「予想された修正。これまでも指摘されてきたことだし、現実的な方向への修正だと思う」、とこれだけ。実際、たんに現実的な対処を泥縄でしているだけだが、それこそが問題。電話口では批判的なコメントもしたけど採用されていない。新聞だからまあしょうがない。あと、どうもまだ屋根の変更の詳細がわからない。新聞買おう。

[追記2015.05.19]夜になったが依然として設計変更の具体的な内容がほとんど判明しない(新聞も読んだけど)。今日もTVやラジオから取材・出演の申込があり、電話口で言えることは言ったけれど出演は断った。JSCの公式発表を待つしかないのかな。

[追記2015.06.06]その後も情報小出しどころか言い訳じみた言葉がポツポツ出る程度で、やっぱり「屋根なし」なんていういい加減な言葉の、実際のところの詳細が分からない。

2015/04/09

たんなるメモ書きだけど、建築史家たちの世代的整理はたとえばこんな感じかなと。

 生年だけで一絡げにするのは乱暴だけど、まあ意味がないわけでもないだろうということで、4〜5つの世代グループに分けて、生没年と国をメモってみた。大事な人の漏れや、事実関係の間違いもあると思うのでご注意を。

       

[第1グループ/19世紀中盤生まれ]オーギュスト・ショワジイ(仏・1841-1909)。アロイス・リーグル(澳・1858-1905)。それからハインリッヒ・ヴェルフリン(スイス・1864-1945)、アビ・ヴァールブルク(独・1866-1929)。伊東忠太(日・1867〜1954)は彼らと近い。伊東がムッとしたバニスター・フレッチャー(1866-1953)も同世代。

 ちょっと時間の幅が広くていい加減なんだけどご容赦を。19世紀後半はドイツ・オーストリアを中心に美術史の基礎概念(知覚の形式の弁別)が組み立てられた時代。フランスのショワジイはフォルムを「技術の論理的帰結」と捉える視点を定式化。

       

[第2グループ/1900年前後生まれ]ジークフリード・ギーディオン(チェコ→スイス・1888-1968)、エミール・カウフマン(澳・1891-1953)、エルヴィン・パノフスキー(独→米・1892-1968)、ルドルフ・ウィットカウワー(独→米・1901-71)、ニコラウス・ペブスナー(独→英・1902-1983)、ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック(米・1903-1987)、ジョン・サマーソン(英・1904-92)。堀口捨巳(1895-1984)はルイス・マンフォード(米・1895-1990)と同年で、足立康(日・1898-1941)、関野克(日・1909-)、太田博太郎(日・1912-)ら日本のモダニスト世代はその下。ちなみにバーナード・ルドフスキー(澳→米・1905-1988、エルンスト・ゴンブリッチ(1909-2001)、サヴェリオ・ムラトーリ(伊・1910-1973)が近い。

 ウィットカウアー、ゴンブリッチらはヴァールブルク研究所、ペブスナーもドイツ。ギーディオン(ヴェルフリンの弟子)やカウフマンはオーストリア。今更ながらやっぱりあの辺は震源として大きい。アメリカのヒッチコックとか次のスカリーなんかも概念枠組はやっぱりあっちから持ってきたんだろう。

 ありていにいえば近代建築確立→普及期に活躍する世代で、19世紀的基礎概念をモダン・ムーブメントに応用して権威づけたイデオローグとしての建築史家、というのがこの世代グループの特徴。だから次の第3グループの批判の標的になるのだけど、カウフマンやウィットカウアーはちょっと違う。

       

[第3グループ/1920年代生まれ]ブルーノ・ゼヴィ(伊・1918-2000)。ヴィンセント・スカリー(米・1920-)とコーリン・ロウ(英・1920-99)は同い年でライバル。レイナー・バンハム(英・1922-88)も同世代で、神代雄一郎(日・1922-2000)や稲垣栄三(日・1922-2001)はバンハムと同い年。レオナルド・ベネヴォロ(伊・1923-)、ロバート・ヴェンチューリ(米・1925-)、ジョセフ・リクワート(ポーランド→英・1926-)、あるいは村松貞次郎(1924-97)、桐敷真次郎(1926-)も近い。逆に浜口隆一(1916-95)や井上充夫(1918-2002)はちょっと先輩。

 戦後派世代(戦争中に勉強して、戦後に活動開始っていう世代)。欧米では、先行する第2グループを批判し今日の近代建築史理解の基盤と拡がりをつくったグループ。日本だと五期会世代だけど、日本が欧米とくらべて特殊なのは、この世代が近代建築史を事実上初めてまとめたわけで、ギーディオンやペブスナーを消化してモダニスト・イデオロギーを史観として定着させつつ、一方ではその批判をも同時に、あるいは直後に、自己批判的にやらなければならなかった面がある。ある種の「圧縮された近代」か。

 浜口や井上は第1・2グループのドイツ・オーストリア系の美術史を日本に導入した点で重要。

       

 ケネス・フランプトン(米・1930-)、ジャンフランコ・カニッジャ(伊・1933-87)、マンフレッド・タフーリ(伊・1935-94)はその下で、ロッシ(1931-)、磯崎(1931-)アイゼンマン(1932-)らが同世代。彼らが戦後派と68年派のあいだをつなぐ位置にいるので、第3’グループとしてみる。[20170519付記:佐々木宏・小能林宏城といった重要人物もこのグループですね。長谷川堯は第4グループに入れてみたけど、その兄貴分格という意味ではむしろ第3'としてもよいかも。]

       

[第4グループ/1940年代生まれ]アンソニー・ヴィドラー(米・1941-)、鈴木博之(日・1945-)・藤森照信(1946-)・陣内秀信(1947-)。ビアトリス・コロミーナは生年不詳だけど多分ここ。長谷川堯(日・1937-)は少し兄貴分だけどこのグループ。ウィリアム・カーティス(英・1948-)とかも。

 日本だと建築史プロパーだけじゃなく周辺の人々も含めて建築史・建築論的な爆発が70年頃に起きる。彼らが参照したのは、欧米でいえば第3もしくは3’グループの理論だろう。

       

 ちなみにヴィドラーの『20世紀建築の発明』(原題:Histories of the Immediate Present)は、2→カウフマン、3→ロウ、バンハム、3’→タフーリ、を取り上げている。さて、次に来るのは?

2015/01/02

2014年を振り返りつつ、今後の継続的課題なども書き付けてみる。

せっかく家にいるので箱根駅伝でも見ながら書くことにした次第。個人的備忘録。

(1) 『新建築』の月評(2014年1〜12月号掲載分)を担当。同誌を毎号読んでなにごとかを書くという経験は得るものが多かったし、言及した建物の設計者の方々から連絡いただくことも多々あり、月評を書くってのはこういうことかと。建築設計というのは所詮は物的要素の編成の技術なのだが、しかし、それがプロジェクトの成立条件を可視化したり、あるいは意思決定のクリティカルなパスを示したりする論理たりうるところにこそ、建築の建築 architecture たる所以があるはずで、「建築家 architect とは何か」っていう議論も、リレーショナルとかソーシャルとかの冠はともかく、そういう論理を組み立てうる者を建築家と呼ぶ、ということが基本のはず。最近の同誌はプロジェクトのプロセスを解説するページが増えているのが特徴的だが、むしろあれはある種の美事としての「社会性」が建築に求められる空気を反映したものか。むしろ必要なのはインテンシブな取材から組み上げる署名入りのジャーナリズムなんじゃないか、そういうものを強引にでもつくっていかないと、そこでの建築家の存在意義を取り出す批評が成り立たないんじゃないか    それが月評書きながらいつも感じていたこと。政治経済的なものを論じる土台をつくる方法。そんな考えを巡らせては月評の端々でつぶやいた気がする。

(2) 『ja』96号の山梨知彦・伊藤暁の両氏との鼎談は、そうしたつぶやきをもう少し一般化するつもりで建築の「クラス化(階層化)」について書いた10月号掲載の月評がきっかけになって組まれた(→当ブログ内の記事)。年鑑全体の編集形式は編集部によるものだが、これも鼎談の議論に呼応して一風変わった組み方が試みられている。僕が言いたかったのは、社会的な文脈への接続に積極的であれ、というようなことではなく、むしろ社会性を叫びながらプロジェクトの政治=経済的力学に無自覚に順応しすぎているのではないか、だからこそ、建築(そして建築家)が「クラス化」される状況を(身も蓋もないかもしれないが)議論の前景に出してみることが、逆説的に、建築が組み立てうるものを問い直す道なのでは、ということだった。

(3) 2013年秋からの「新国立競技場問題」について2014年も引き続き発言したが、これも僕の問題関心は同じ。研究室の学生たちも頑張って関連記事アーカイブをつくってくれた(以下、当ブログ内の記事)。

「再論:新国立競技場コンペ問題について」
「建築夜学校第一夜:新国立競技場をめぐる議論を終えて(ノート)」
「新国立競技場関連記事データベース」
「10月1日開催の新国立競技場シンポの内容が10+1 website にて公開 + 磯崎新氏のコメント、ザハ・ハディドによる批判」

この建物の立地やスペックを決めたのは過去の怨念も引きずった政治意志であって、槍玉にあがっている有識者会議やらコンペ審査委員会やら・・・はすべて(あえていえば)その政治意志の具現化を担う機関であるにすぎない。プロジェクトと設計者との関係についていえば何故か規制緩和のもとで大手民間デベが進める巨大再開発プロジェクトの場合にとても似ていて(ナショナル・プロジェクトなのに/ゆえに?)、なおかつ、意思決定の責任がどこにあるのかという観点でみれば「究極のアノニマス」ともいうべき状況(ナショナル・プロジェクトなのに/ゆえに?)なわけで、設計(の内容)の問題を指摘する正論をいくら投げ込んでも空回りになるのは構造的必然なのだ。「建築家」をプロジェクトの政治経済的構造のなかに置いて見る眼(批評)がやはり必要だ。

 90年ほど前の、明治神宮創建というナショナル・プロジェクトを思い出してみたい。明治天皇死去後、亡き天皇を記念せよという国民的熱狂を明治神宮創建というプロジェクトへと整流したのは渋沢栄一・中野武営・阪谷芳郎ら首都東京を動かす政財界の顔役たちだった。彼らと政府・官僚機構との擦り合わせを経た政治意志は、国会両院の決議および大正天皇の裁可によってオーソライズされ、これを神社奉祀調査会(有識者会議)と明治神宮造営局(設計組織)が具現化していった。(当然かもしれないが)新国立競技場ととてもよく似ている。政財界の特定の集団が主導し、官僚機構との調整やら国会決議やらで政治意志が固められ、有識者会議が作成した与件を設計組織が具体化する    違うのは、「天皇裁可」がなく、「設計組織」が官の機構でなくコンペで選ばれた民間設計者の組織体である、という点である。この違いは戦前・戦後の公共事業のガンバナンスの違いに由来するが、その形式上の違いが、しかし、ほとんど実質的な意義を伴っていないように思われることに注意したい。

(4) 明治神宮創建の日本近代史における意義を問い直すために、2009年頃から宗教社会学・神道史・社会史・都市計画・造園などの分野を横断する共同研究を進めてきたが、その成果をまとめた書籍(藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子編『明治神宮以前・以後:近代神社をめぐる環境形成の構造転換』鹿島出版会)を2月末に刊行予定である(amazonで予約開始、書影はまだですが →出ました)。1920年代に起こった環境形成をめぐる技術的かつ政治的な「構造転換」という普遍的問題を、明治神宮というナショナル・プロジェクトを通してつかまえようとした論集。一方、10+1 website 2014年3月号特集「伊勢/式年遷宮:古代建築と反復の神学」で井上章一・安藤礼二のお二方と議論する機会があって(→ブログ内記事)、あらためて近代だけでは見えてこない歴史の重さと粘りについても考えさせられた。

(5) ところで研究室の学生諸君は相変わらず毎年すごい。2014年は、研究室としては第1号となる博士学位を石榑督和君が取得した。彼はこれからは自立した研究者として、自分の責任において自分のなすべきことを立て、世に問うていけばよいが、毎年4〜5本出る修士論文は僕が何とかしないと埋もれてしまう。どこに出しても恥ずかしくない水準で未解決の問題群に取り組んでいる学生らの成果の蓄積をどうにかして社会化しなければならないと焦りつつある。

(6) 毎年8月に学生たちと1週間程度で行う台湾都市調査は、いよいよ台湾の地理学的条件と漢人の移民開拓史とを結びつけながら、地域システムとしての環境から家屋の材料・構法にいたるまでを、ダイナミックな歴史過程として全体史的に描く段階に突入してしまった(その一部はこれに書いた)。ところで今、都市史分野がアカデミックには活気づいていて、2013年には「都市史」というフィールドにあらゆる分野の研究者が参加するプラットフォームとしての都市史学会が設立されてもいるのだが、そこでも、地形学・地質学・人文地理学・歴史地理学などの(これまでの都市史研究からみれば相対的に)外在的な根拠を導入することで、研究方法論にたしかな根拠と質的な転位をもたらしつつ、やはり全体史的な方向を志向する傾向が顕著である。建築史学会の2014年度大会は「保存」という切り口から実はこの問題が問われていたし(当ブログ「景観のアーキテクチャ:建築史学会2014年度大会シンポジウム」)、建築学会の都市史小委員会シンポジウムはむしろこの潮流を強力にプロモートしていくようなものだったが(当ブログ「大地/地面/土地の三位相の複合としての「地」」)、2014年はこうしたいくつかのイヴェントにコメンテータとして参加。本当の意味で「問い」を組み立てる緊張感を持とうとしている人は少ない、というのはいつでも同じだが、これだけ全体史的な方向が強くなってくると、新しい視点を導入しても際立った運動性につなげるのは難しい気がする。僕自身にとっても研究室にとっても課題である。

(7) とにもかくにも、近現代史の問い直しが広範に求められているのをヒシヒシと感じるものの、それには都市や政治・経済にまで視野を広げないとだめだし、同時に前近代を含むより大きな歴史を組み立てる運動性の再構築を伴わなければならない。時間の不足に焦りつつ付け焼刃で乗り切るみたいな仕事の仕方に嫌気がさすが、まあ愚鈍だけれどやれるだけのことをやるしかない。元旦は、『建築雑誌』2013年11月号特集「「建築家」が問われるとき:自己規定の軌跡と現在」(日埜直彦さんに協力いただいて竹内泰さんと一緒につくった特集)を読み直している。僕はこのところ(2013年4月にやった堀口・神代シンポジウム以降)、19世紀後半、1920-30年代、1960-70年代、そして現在、の4つの時代を重ねつつ、建築論・都市論をめぐるパースペクティブを描くイメージを反芻していて、色々なフィールドで同じことを考えているのだが、同号で土居義岳さんは「第1の近代=1830-1930/第2の近代=1930-2030」という見取図を示していて興味深い。前者が先進国の基幹都市群を中心とした自由主義経済とその破綻、後者は国家制御・介入による強制的成長の普遍化とその破綻ということになろうか。これと、40〜50年を周期とする遠近法とを重ねることはたぶんできるだろう。そこに建築家(批評家や運動家も含む)を位置づけてみようと思う。

(8) 最後にプライベートなイヴェントだが、昨年は3月末〜4月初に息子と2人で自転車台湾1周なんてことをした(→ ブログ内記事)。毎朝7時頃には出発し、80〜130Kmくらい走り、夕方辿り着いた街で民宿を探して転がり込み、洗濯をして、飯を食って寝る    街並みや民家に目もくれず、ただ地形と自分に向き合う9日間(冗談抜き)。不思議な高揚感があった。