VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2012/12/05

Victor Horta, La Maison du Peuple, Bruxelles, 1896-1898

Maison_du_Peuple_Horta_1898_planヴィクトール・オルタ設計の「人民の家」(ブリュッセル、1896-1898)の平面図。施主は Parti Ouvrier Belge という政党で、英語にすると Belgian Socialist Party つまりベルギー社会党。オルタ、あるいはアール・ヌーヴォーといえば19世紀末ブルジョアの(ある種の狂気の)表現というイメージがあるんだけど、ブルジョア出身知識人のある部分が左翼進歩主義の傾向をもち、彼らがアール・ヌーヴォーの理解者でもあった、というのはどれくらい奇妙なことなのかも分からないが、何か捩じれている気がして面白い。「peuple 人民」のための家という名前の建物が、近代建築のひとつの先駆的結実ともされるのは分かりやすくてありがたいが、それがオルタの代表的傑作であり、なおかつそのプランは敷地の不整形を見事に都市の一部たる建築へと整合させる手さばきは、(近代的エンジニアリングのおかげで「ポシェ」を極限まで切り詰めているとはいっても)きわめて正当に伝統に接続していることが、とても面白い。

Maison_du_Peuple_Horta_1898_facade Maison_de_Peuple_Horta_1898_auditorium

2011/08/23

台湾調査後半戦は馬祖列島と台湾東部でした。

昨日(8/22)台湾より帰国し、今朝からは早稲田大学にて建築学会大会に参加しております。

今夏の台湾調査は、前半(澎湖群島・吉貝島の集落)は宿を定めて11名でひとつの集落をインテンシブに調査しましたが、後半は学生メンバーが入れ替わり、数名でキャラバン的に馬祖列島と台湾東部を巡る調査を行いました。調査の目的は、ここ数年コツコツと台湾および周辺地域を廻りながら進めている、台湾漢人の「寝ること」の変容の解明。途中で兄貴・陳正哲先生も参加して充実した議論もできました。

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写真は台湾東部・花蓮縣の鳳林でみた客家人の家屋。三つの板張りの揚床が見えていますが、そもそも漢人は土間に眠床(家具としての寝台)を置いて寝るはずなのに、台湾ではこの種の揚床状の設えが広く普及し、興味深い定着のプロセスを示しています。もちろん半世紀(50年)にわたる日本の植民地支配のインパクトが大きいのですが、話はそれほど簡単ではありません。家屋にアジャストされフィクスされた、家具と建築の中間に位置する独特なスリーピング・プラットフォームの起源・波及・変容・定着の過程を解明しようとするのが私たちの研究です。

花蓮縣南端の富里という集落でも同様のプラットフォームの実例をいくつか確認してきましたが、そこはアミ族ドミナントな地域。インタビューしたある家の住人はアミ族AmiもしくはAmis)とブヌン族(Bunun)の夫婦でした。漢化された彼らが、さらに日本化されるというプロセスがあるわけです。彼ら夫婦は二人ともごく普通の農民ですが、「自分の言葉(アミ語・ブヌン語)、ホーロー(台湾語)、ハッカ(客家語)、国語(北京語)、日本語」の5つの言葉を話します。

花蓮や台東は植民地期以降の開拓が顕著な地方なので、台湾西部の各地あるいは日本の九州などからの農業移民が入ってきてモザイクを形成してきました。そのため村から村へ移動するたびに少しずつ技術や文化が異なります。そういう難しさと面白さを発見したのも今回の成果でした。

2011/08/06

研究室復興・家具プロジェクトもいよいよ施工段階に/台湾入り

 3.11で壊滅(といっても什器・備品・書籍などの倒壊・破壊・散乱です)した私たちの研究室(B4〜D1、約20名の居場所)の復興を新入りB4の共同プロジェクトとして4月から設計・積算・材料発注などを進めてきましたが、ようやく7月29日に材料が届き、7月31日より施工がはじまりました(→研究室ブログ)。完成したら、折にふれて度々助言くださった建築家の光本直人さん・濱名直子さん(ミハデザイン mihadesign )をお招きしてお披露目打ち上げ会しましょう。

P8161420 昨日(2011.08.05 Fri.)台北に入りました。科研費の大混乱(7割に減額+大学に未入金)は困ったものです。夏〜秋の間にちゃんとあるべき姿に戻すか明瞭な説明をするかの対応をとってもらいたいと思います。というわけで財政的な不安を抱えつつ、すでに学生たち7名が吉貝島(澎湖島)に入って調査をはじめていますが(→研究室ブログ)、本日(08.06)、私を含む4名が合流します。1週間後の08.12 までにこの島の、都市化しつつある漁村集落を事例としてティポロジアを構築する予定。宿題は極力残さないようにしたい(帰国したら下北沢調査、三陸調査といろいろ大事なことが続きますし)ので、今晩・明日のミーティングが決定的に重要です。ところでティポロジアというのは都市組織を建築類型の進化と堆積によって理解しようとする方法的概念であり、異なる時間の刻印を帯びた事物(建物やその断片)の現前(現在において同時的に存在していること)が基本的には必要となります。その点、この島では、珊瑚石と杉材でできた平屋の三合院から、鉄筋コンクリートの「チューブハウス」や「塔の家」まで(いずれも我々がつけたニックネームです)、つまり、地型(ロットの形態)、そこにかかる経済的圧力、材料・技術、空間の立体的な構成形式といったものが、互いの条件を付き合わせることで一定の建築の類型(tipo)を絞り込むように析出するのだということが手に取るように分かるのです。この絞り込みはおそらく暗黙知の領域で瞬時になされる側面と、集落内で伝播しつつ微修正(洗練)される側面との両方があるでしょう。随時報告します。

写真は伝統的三合院とその重層化、更新などが織りなす吉貝集落の風景(20090816撮影)。

2011/08/02

家具はなぜ論じにくいかを皆で考えてみた

 先週のことだが(20110727 wed.)、研究室のサブゼミで家具と建築の違いについて議論してみた。一昨年から家具やインテリアの理論や歴史ができないだろうかと考えはじめて、最近はその方面に興味のある学生も結構いるのでやらせてみているのだが、どうもうまく議論できない。建築の理論や歴史のような厚い先行成果が、家具・インテリアにないことは調べてみればすぐ分かる。それにも必ず理由はあるはずだが・・・、いずれにせよ建築論と同じように家具を論じることは難しい。

 いつもは都市、都市と言っている僕がなぜ家具なぞに興味を持つようになったかというと、最近の建築家が家具的特性を建築に取り込むようなデザインをかなり広範に試みているからで、それはきっと建築になくて家具・インテリアにはある何らかの特性によって建築にある質的な変化がおこせることが発見されたからなのである。塚本由晴のいう治具 jig(『空間の響き/響きの空間』INAX出版)という概念を使えば、家具とは人の身体的振る舞いと建築との関係性を安定させる jig とみなせる(つまり何らかの動的な補完機能を担う中間的な道具)。その jig 的な働きを建築の側に回収してしまえば、半ば建築「外」的でちょっと鬱陶しかった家具を消せるだけでなく、建築もまた自身に欠けていた、ちょうど動物の皮膚を顕微鏡で拡大したときの襞々や凹凸みたいなものを手に入れられるようなのだ(塚本さんは jig の独自のポジションを消すようなことはたぶんしない)。だけど、寝殿造から書院造への展開ってまさにこれだよね(面白いね)。そんなわけで、建築と家具とのそもそもの特質の差異を考えてみないと、家具論の難しさも、建築家による家具取り込みの意義もよく分からなんだろなと思ったのである。

 でまあ愚鈍に家具/建築の違いについて学生たちとディスカッションしてみた。家具は小さい、建築は大きい、みたいな中学生でも言えることからはじめて、家具は身体の振る舞いの形姿を直接的に形態で写しとるが、建築は身体(身体群)を収容したり流したりするように形態を決める、といったぐあいに、差異の束をいろいろ書き出してみた。で、こういった基本的差異が、生産・流通・消費のフレームにまで大きく反映されている。

 生産のなかのデザインという局面を取り出してみると、家具は身体の形姿を直接支えなければならないが、その目的さえ踏み外さなければ実は案外多様な形が許容されてきた。形態導出時に誤ってはならない中心的命題がはっきりしていて、周辺は緩いわけだ。たとえばイスの場合、座面の高さはかなり厳密だが、それが階段のようなカタチであってもよい。逆に建築では、形態導出への決定的根拠は実はほとんどなく(あるいは複合的なために曖昧にされており)、因習が決める範囲(無意識の領域)が大きい(壁は垂直でなくてもよいがそうするとか)。だから建築は家具を取り込むことができるし、それが建築の無意識を浮き彫りにして揺さぶることになるが、その逆はない。

 デザイナーの職能はどうか。家具の場合、産業化以後の生産・流通・消費にほぼ完全に乗っかるし、一般にはそうでなければ生き残れない。形態導出の中心的命題は決まっているのだから、デザイナーは周辺的なデザインに独自性を狙いつつ、しかもそれが材料工学や生産性の観点からも導かれているようにしなければいけない。たとえばイスの座面高さで独自性は出せない以上、形態の生産性はやはり周辺にあり、そうである以上は嗜好によって相対化されやすく、消費のスピードは速い。そして、誰に何処で使われるか分からず、キッチュな風景をつくるのに参加してしまうことだってある。というわけで古典的な芸術の一回生は担保されず、署名はデザインの型(図面)になされ、報酬はその使用料として支払われる。

 建築は(部品はほとんど産業化されたのに、建物としては)いまだに産業的ラインに乗り切らないので、建物そのものに署名がなされ、デザインの使用権などというもの(「窓の開いた壁」とか「列柱」とかは大昔から誰でも使ってきた)はほとんど成立しない。建築は産業化だけでなく、社会構造とか、環境条件とか、歴史性とか、任意のいかなる体系にも回収しきれないありようをしている。つまり色々な説明体系に対して埋めきれないギャップがつねに残るということであって、いずれかのギャップを埋めようとする運動こそがある時代状況のなかで際立った建築論を構築してきたのである。家具的特性の取り込みもまた同様の回路によって建築を活性化させようとする試みだといえる。そうした契機が家具的特性に求められているとすれば、それも今日の時代性の兆候なのだろう。

 ちょっと戻るけど、後半に書いた家具/建築の違いのほとんどは産業化以降の属性。というようなことから近代デザイン史と、それ以前のものづくりのありようとを考え直すこともできそう。そして、1950年代にあのプロダクト・デザイナーがなぜあの建築家に対して従属的な立場にならざるをえなかったのかとかも、丁寧に考えれば答えられそう。

2011/04/15

春の集中プロジェクト2件動いてます。

昨日4/14(木)は新年度初回のゼミということで院生3名の発表と、昨年夏の台南サーヴェイの紹介報告の後、研究室の家具設計制作プロジェクトのミーティング。地震で一部の家具が壊れてしまったため研究室の約1/3のブースを新たに設計制作しようという新入り4年生の活動です。U字型カウンター形式のデスクと書架とロフトを一体化したものをつくるイメージ。で、こんな面白いお仕事(かなり問い合わせ多いとのこと)もされている建築家の光本直人さん・濱名直子さん(ミハデザイン mihadesign )に助言をお願いしたところご快諾いただき、昨日生田キャンパスにお呼び立てした次第。恥を忍んで無知もいいところの質問を連発する私どもに懇切丁寧なご助言をくださったお二人にはもう深謝です! 雰囲気は学生たちのブログで紹介されてますのでご覧下さい。夜の飲み会には光本さんにもご参加いただき色々と刺激をいただいた。これに懲りず引き続きご指導のほどお願いいたします+末永くお付き合いくださいませ。

もう1件の短期集中プロジェクトは略称サンリクゼミ。三陸地域の過去の地震津波災害(1896, 1933, 1960)とその再生プロセス(とくに集落移動)を一挙に集成一覧化するべく私と院生4名にて作業中。今回の再生では大量の小さな実践が必要とされるが、その背後に必ず歴史観が問われると同時に、発災からの時間のデザインが問われる。その基礎資料となるものを目指している。私たちの都市論にとっても重要な試金石です。(実際の再生プロセスもできるだけフォローしていくべし。>研究室メンバーへ)

2009/12/07

日比谷の日生劇場。RCラーメンを見ることにした。

PC06624512月6日(日)、日比谷の日生劇場(村野藤吾・1963)を、係の方に丁寧に御案内いただきながら学生たちと見学した。19世紀末アール・ヌーヴォー、セセッションから20世紀初の表現主義の雰囲気が濃厚で、かつ戦後の工業的な材料が使いこなされている。竣工当時は隣にライトの帝国ホテルが並び立っていた(1967年に解体発表)。七十にさし掛かろうという村野が持てるものすべてを投入しようとした気迫が伝わってくる。できるだけそのすべてを読もうと思うけれど、完全に眼の負け。ホワイエ階段周辺の壁面のうねりやら、ツタのような細くしなやかな手摺やら、柔らかい丸穴を開けた天井の石膏整形版やら・・・に喚声をあげたり溜め息を漏らしたり・・・という完敗状態。世紀末から表現主義までの主題が「表層」にあったとすれば、眼はまさに表層の線や面を追わされてしまい、それらがつくる内的世界(長谷川堯のいう獄舎)に身体ごとからめとられてしまう。

このままではいかん、と頭を叩き起こして、そうだこれはビルだ、構造はRCラーメンだと思い直して鉄筋コンクリートのゴツイ(はずの)梁の扱いに眼を集中させることにした。

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ホワイエの天井は穴あき石膏版で全面覆われているようだが、冷静にみれば格子状に梁形が出ていることに気づく。ただし柱に取付くところで梁形に丸みをつけて直交方向の梁形に連続させているので、天井は角の取れた格間となり、これが石膏版の丸穴(穴の断面も角がとれている)とグラフィカルな調和をみせ、かつ格間の内に照明を(グループ化して)仕込んでいるので、天井全体の光の分布が実に曖昧なラーメンの表現(隠匿)ともなっているようなのだ。

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窓際へ寄ってみると、柱がファサードより一歩引いたところに立っている。この柱列では、窓側の天井は梁下端と面一(つらいち)になって張り出し、空中で終わる。ここで間接照明をとり、天井を折り上げて、柱芯上にとられた開口部を高くする。この処理のために、ファサードに平行の梁はまったく意識されず、かわりに直交方向の梁がぬうっと(虹梁のように)生え出てきて、窓から突き出た瞬間に銅版を巻かれて外部では異様な装飾になる。

このほかにもいろいろ観察したが、圧倒的な表層の世界にあって、構造はおおむね隠されるが、ときに表層の一部として顕れ、またときにそれを突き破るように顔を出したかと思えば次の瞬間にはまた装飾に転ずるといった風なのだ。構造と表層とが相互に入れ替わるようにして互いの可能性を言い当てようとする、そういうデザインのあり方と言えばよいだろうか。

ブルータルな構造表現主義が隆盛する60年代の初頭にあって、これだけの柔軟(自由)な総合を担保した村野が際立たないはずはない。その根のところに、「様式の上にあれ」(1919)の意義を読み込むべきなのだということがようやくちょっと分かった。言説と作品とをどう結び合わせるかという問いに対しても村野は特異だ。

2009/11/17

日本の家は、素晴らしい家具に似ている。

昨年「家具道具室内史学会」という学会が設立されていて、この方面にも少なからず関心を寄せる身として遅ればせながらその会誌創刊号(2009年5月刊)を読んだ。家具や室内はこれまで建築史も民族学も考古学もうまく扱えずに来ている、新しい問題領域になりうる、という意識が共有されている。10+1 web でも建築学会誌でも室内特集が組まれたし、この方面はどうやらすでに広範な潜在的関心を集めているらしい。で、会誌『家具道具室内史』創刊号だが、面白かったのは日本建築史の川本重雄先生が紹介しているデンマークの建築史家ラスムッセンの言葉(S・E・ラスムッセン著・佐々木宏訳『経験としての建築』美術出版社、1966))。

日本の家は、庭の中に家具のように建っている。長い木製の脚で畳を敷いた床を地面の上に上げている。畳を敷き、縁側を巡らし、障子で仕切る日本の家は、我々のいうところの家というよりも、素晴らしい家具に似ている。

これを枕に川本先生は日本住宅における家具と建築の史的関係を摘出するのだが、それは日本住宅史を学んだ者にとっては常識に属すこと。いや常識なのだが、ちょっと発見的なのだ。寝殿造は柱が並ぶだけの空間で、ゆえに家具調度を並べることで生活や儀式のプログラムをリアライズしていた。一方、書院造はほとんど家具のない室内をつくりあげるのだが、それは置押板(卓の一種)、棚、御張(寝台)といった家具を建築にビルト・インすることで得られたものだ。つまりファンズワース邸や丹下自邸ほどでないとしても寝殿造はユニヴァーサル・スペースに近く、そこに並べられていた装置を、書院造では格式ヒエラルキーに沿って建築に埋め込んだ、というわけだ。家具の建築化。これを逆からみれば建築が家具化したのだともみなせよう。最近の建築家の住宅作品にも、この建築の家具化ともいうべき傾向がみられる。家具のような室内の可動装置は、生活を組み立てる上で融通無碍ではあるが、それとひきかえに猥雑な文脈を建築に招き入れてしまう。そういう家具を建築の側に吸収し、そして建築それ自体を家具にしてしまいたいというのは権力者や建築家の欲望か、それとも・・・。

ところでラスムッセンが言っているのはたぶんこの脈絡とは少し違うだろう。もっと面白いというか可笑しいというか、軽快な日本建築像を、彼は思い描いているのではないか。それはそれでなかなか射程の広い直感だと思いますよ。

2009/10/30

10+1 website Oct.2009/特集:インテリアデザイン史を遡る

本日公開されました。10+1 website Oct.2009/青井哲人「建築・都市への「インテリア」的眼差し:「建築家・坂倉準三展」を通して」戸田穣「家具、この動くもの──ペリアン/ル・コルビュジエ《住宅のインテリア設備》(1928-29)」

追記:柏木博「強靱かつ官能的に生きた建築家──『シャルロット・ペリアン自伝』レヴュー」がアップされました。

編集部からの依頼は、「建築家・坂倉準三展」(神奈川県立近代美術館鎌倉・パナソニック電工汐留ミュージアム)をレビューしつつ、彼のインテリアや家具のデザインの仕事を位置づけてほしいというもの。しかしこれはなかなか難しい。

僕自身、建築を都市(urban fabric, urban tissue)から考えることに加えて、身体とインテリアの側から考えていくことに2〜3年前から興味を持ちはじめた(実は台湾調査でも最近は室内からのアプローチを試みている)。坂倉準三展には、坂倉の都市的なプロジェクトの戦後都市史・都市計画史における特異な位置をきちんと解き明かしたいと思って関わらせていただいたのだが、一方、汐留会場の制作に当たられた方々が掘り起こしていった家具やインテリアデザインの領域の面白さにも次第に引き込まれた。ただ、それを言葉にするのは易しくないし、それは坂倉ひとりの問題ではたぶんない。近代建築史・建築評論は一般に家具やインテリアを正当に扱えていないのである。

それはともかく、坂倉準三という建築家には、流れ連なってゆく内部空間の連続体をつくろうとする強い欲求のようなものがあり、それを支える流動的な曲面や曲線が、家具デザインから都市デザインまでに共通に見いだされるということを、今回の記事では書いてみた。つまり建築も都市もインテリアと捉える眼差し(インテリア化しようとする指向性)。汐留会場で映写されたある映像作品(記事参照)も大いにヒントにさせていただいた。坂倉の柔らかく流れる曲面・曲線は、前川國男にも丹下健三にもない性質のもので、ときおりアール・ヌーヴォーから表現主義にいたる系譜をも想起させるようなところがある。長谷川堯のメス=獄舎の思想にもつながるだろう。

いずれにせよ家具やインテリアの議論はまだまだ開拓の余地ありだと思います。