VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2017/06/08

布野修司連続インタビュー第2回「1968-69年 補遺/1970-72 雛芥子の胎動」公開

第2回の記録「1968-69年 補遺/1970-72 雛芥子の胎動」を公開しました。続々アップしていく予定でしたが私がサボっておりました。ご期待の皆様すみません。今回は、前回(「1968年」の入学の年とその翌年)の補遺と、建築学科に進んでからM1の頃までの、いわば「雛芥子」活動胎動期のあたりについて聞き取っています。レアな図版も加えてよいまとめができたように思います。皆様ぜひお読みください。

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2011/10/18

分断された小宇宙としての漁港漁村

10月17日(月)10:00〜建築雑誌1月号特集のため富田宏氏(株・漁村計画 代表)へのインタビュー。ランドスケープの近藤卓さんと。本当は1ヶ月前に予定されていたのだが先月のあの台風のために延期になっていた。いやはや充実の2時間半だった。三陸海岸漁港漁村の戦後史がきわめて立体的に描き出される記事になると思うのでご期待を。

最後の方で富田氏が言っておられたのだが、世の中のさまざまな「計画」のなかで、漁村計画ほど完結した宇宙のデザインたりうる可能性をもった領域は他にないだろうと。とりわけ三陸はそうだろう。けれどもそれが省庁だとか権利関係だとかによって分断されていて、ひとつの環境的なセット(アレグザンダー)として考えていくことは難しい。学界ですら、地理学経済学法学民俗学・・・と互いに交渉がない。だから富田氏はどこに呼ばれても「つるもうぜ」と呼びかける。

午後は日本建築学会理事会に出席。終了後、5月号担当者の皆さんに合流して飲む。U氏、F氏も合流して気がつけば朝。あー。

2010/04/02

「動く住まい」の世界にふれる

新年度初日の昨日は昼過ぎに市ケ谷へ。御堀端の桜もほぼ満開。某書籍関係の打合せを終えた後、5時より研究室の院生I君と取材。お話をうかがったのは株式会社恩田組の会長・恩田忠彌氏。同社は創業明治24(1891)年、曵家(ひきや)を中心に高い技術力で幅広い仕事をこなす業界屈指の会社だ。日本曵家協会も同社ビル内にある。曵家をめぐる歴史、技術、経済、そして集団などのお話に我々はもう興奮の坩堝であった。継続的な取材の依頼も快諾くださった。恩田さん、どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

さて標題の「動く住まい」だが、我々が関心を持っているのは、いわゆるポータビリティ、デマウンタビリティetcを持った構造物のデザインや技術開発の話ではなく、通常は土地に固定されているごく普通の建物(住宅にせよビルにせよ)こそが必要とあらば「動く」ということである。このことに注目することで、都市の動的恒常性(dynamic homeostasis)みたいなものの一端に迫れるはずだと思っているわけだが、昨日の取材ですでに予想を超えて多くの意味深い文脈が浮かび上がってしまった。

最後にさりげなく(わざとらしく)予告。この「動く住まい」のタイトルで雑誌『すまいろん』の2010年夏号特集を責任編集担当しています。多くの専門家の方々にご協力いただき、住まいと都市がちょっと従来とは違う意味でざわざわと動き出すような、そんな記事が並ぶはずです。どうぞお楽しみに。

2010/02/17

今日はこの方を訪ねた。

研究室のI君と2人で1930年生まれのこの方をご自宅に訪ね貴重なお話をうかがいました。

少し前に大病をされたとは思えない、実にかくしゃくとした姿勢と明晰さが印象的でした。ありがとうございました。以下お仕事の一部。

      • 松平誠『経営情報の未来図 : MIS時代 : 変わる電子計算機とシステム』(日本経営出版会、1968)
      • テオ・クロスビィ著(松平誠訳)『環境ゲーム』(SD選書101、鹿島出版会、1976)
      • 松平誠『祭の社会学』(講談社現代新書582、講談社、1980)
      • イヴ=マリ・ベルセ著(井上幸治監訳・松平誠他訳)『祭りと叛乱 : 16-18世紀の民衆意識』(新評論、1980)
      • 松平誠『ヤミ市 : 東京池袋』(生活学選書、ドメス出版、1985)
      • イヴ=マリ・ベルセ著(松平誠・小井高志監訳)『鍋とランセット : 民間信仰と予防医学 1798-1830』(新評論、1988)
      • 松平誠・中嶌邦編著『生活史』(講座生活学3、光生館、1993)
      • 松平誠『プラハの浮世酒場』(岩波書店、1994)
      • 松平誠『現代ニッポン祭り考 : 都市祭りの伝統を創る人びと』(小学館、1994)
      • ヤミ市調査団他企画・執筆、東京都江戸東京博物館編『ヤミ市模型の調査と展示』(東京都江戸東京博物館、1994)
      • 松平誠『ヤミ市幻のガイドブック』(ちくま新書040、筑摩書房、1995)
      • 松平誠『入浴の解体新書 : 浮世風呂文化のストラクチャー』(小学館、1997)
      • 松平誠『駄菓子屋横丁の昭和史』(小学館、2005)
      • 松平誠『祭りのゆくえ : 都市祝祭新論』(中央公論新社、2008)

2009/11/06

世界的にみて特異な駅空間=都市空間をつくってきた会社をたずねる。

今日は東京駅八重洲口にある株式会社鉄道会館をたずね、お話をうかがった。毎週非常勤講師として通っている前任地(人間環境大学)のS君が卒論で「民衆駅」を調べていて、彼と2人での取材だった。

(↓写真『大林グラフ』1954年12月号。手前が鉄道会館。まず高さ制限31mまで建築。のち認可が下り47m・11層で完成。)

大林グラフ5412_鉄道会館特集2みなさんは「民衆駅」という言葉をご存知だろうか。戦後、全国の駅舎を復興しなければならなかった国鉄が、苦肉の策としてひねり出した駅施設およびその建設の方式を指す言葉だ。民間資本による会社を立ち上げ、この会社が駅舎機能だけでなく商業・娯楽機能を組み込んだビルを建設する。駅舎部分(通常は1F)は国鉄に寄付するが、他の部分はこの民間会社が所有・経営する(テナントを入れて賃料をとったり、直営で事業を行う)。この方式の実施第一号は豊橋駅で、1950年竣工。同年に池袋西口も完成している。

民営化以前の国鉄は出資先に制限があり、ディベロッパーとしての自由な事業展開はできなかったのである。だから民間資本でつくられた会社に建物をつくってもらうことを考え、そうして特異な複合施設が生まれたわけだ。1970年代になるとこの制限が取り払われ、国鉄が自ら出資してビルを建設できるようになる。これが「駅ビル」と呼ばれる。「民衆駅」はその直接の原型なのである。

民衆駅方式の駅舎復興、さらにはより積極的な駅空間の開発を推し進めていくためのディベロッパー+コンサルタント会社として1952年に設立されたのが株式会社鉄道会館。同社は自ら民衆駅のひとつとしての東京駅八重洲口の鉄道会館(ビルの名前)を建設し(1954年竣工)、そのビル経営(テナントは大丸や名店街等)を展開するだけでなく、全国の民衆駅をプロデュースしていったのである。全盛期には80〜90人を擁したという設計部門(会社組織)も持っていた。当初は国鉄から多くの技術スタッフが移って来たのだが、そのなかで中心的役割を担った太田和夫は、東大建築学科で前川國男の同級生だった。

今日お話をうかがってあらためて確認できたのだが、戦後日本の駅空間はやはり世界的にみてきわめて特異だ。鉄道は都市において例外的に大きな土地を要するのだが、その上空や地下は残る。これを可能なかぎり開発して複合的な商業・娯楽機能を突っ込んできたのが日本の駅空間であり、それを核としながら駅中心の(駅名で呼ばれる)都市的エリアを形成してきたのが戦後日本の都市だ。海外にはそういう例はまずない。東アジアの隣国にも。駅ビル・地下街・ガード下といった日本型駅空間の開発を推進してきたのが「鉄道会館」という会社なのである。

いま、丸の内も含めて東京駅とその周辺が生まれ変わろうとしており、大きな注目を集めている。鉄道会館の建物は、建設後半世紀を経て解体工事が進んでおり、跡地には2013年春に「グランルーフ」が竣工する予定。辰野金吾設計の丸の内駅舎の復元工事や駅ナカ「グランスタ」などとともに新しい東京駅の都市的空間をつくる。株式会社鉄道会館も大きな役割を担い続けている。

駅は戦後日本都市史の大きなテーマだと僕は確信しているが、今日はその意味できわめて興味深いお話をたくさんうかがった。ご多忙中にもかかわらず丁寧に対応いただき、また楽しい議論をさせていただいた鉄道会館の方々にお礼申し上げたい。

2009/09/07

建築系ラジオにインタビュー公開。ちょっと(?)舌がもつれてますが。

10+1 website建築系ラジオ r4にて公開されました。7月25日南洋堂N+スクールでお話をした後の懇親会の流れで収録することになったものですから、一仕事終わった後のビールをおいしくいただいた後、さらに赤ワインのグラスをもって南洋堂屋上テラスに移動したんですね、だから徐々にろれつがまわらなくなります。先日デモを聞かせていただきましたが、ただちに赤面+冷や汗、というかいや〜な脂汗が出てきました。何だか喋り方が偉そうに聞こえるのは舌がもつれてるせいだと思って大目に見て下さい。とくに僕のことをよくご存知の方はくれぐれも聞かないようにお願いします(とくに布野研究室OBの方)。

青井哲人インタヴュー

台湾〜東京 都市論の新しい展開へ向けて

青井哲人+川尻大介+たかぎみ江+南泰裕+松田達

2009年7月25日 南洋堂ルーフラウンジ MP3 21MB 30'35''

上記の皆様ならびに編集の労をおとりいただいたeditorK様ありがとうございました。

2009/01/25

竹村真一郎氏インタビュー

 本日(0125.Sun)、元坂倉建築研究所員の竹村氏にお話をきくことができた。まともな評価の与えられていない、いや記録さえ少ない坂倉の都市的なプロジェクト、とくに大都市ターミナル関連のプロジェクト群について、そのかなり客観的な位置づけが見えてきた。

 およそ1970年頃を境に都市再開発事業の諸制度が整うと、これに則った大規模開発はそのほとんどが大手の組織設計事務所やゼネコン、あるいはディベロッパーの手に委ねられていき、仮に背後ではどのような混乱があろうとも見かけ上は整然たる基盤の上に計画どおりにビルが立ち並び、空中の広場や通路で接続される、といった風景が思い浮かべられるのだが、渋谷、難波、新宿などの駅まわりの実質的な形成は1950〜60年代であって、これを物的・空間的な計画の面で担ったのが坂倉であったと言えそうだ。出来上がった風景もそのプロセスも、70年以後とはまったく異質である。これがマクロな時間的コンテクスト。

 一方、空間的なコンテクストも大きく掴まえられそうだ。すなわち、戦後、建築家が都市形成に直接的に関わりうるポジションは、郊外住宅地と都心部再開発の両方があったが、都市的な指向性を持つ多くの建築家たちが住宅団地に携わったのに対して、坂倉にはそれがまったく欠けており、かわりにターミナル開発などでは坂倉以外の活躍はほぼ見られなかった。

 この構図に、建築家たちの社会的バックグラウンドが明瞭あるいは微妙に重なっており、坂倉の特異性はその面でも際立つ。そして以上のことは、個別的営みの集積であるところの都市への建築家の関わり方の様式(設計手法)として受肉化するだろう。

 以上はお話をうかがった上での私の整理だが、そもそも竹村氏のお話の客観性が驚異的だった。我々としてもそれなりの仮説があり、それをぶつけながらの理想的インタビューとなったと思うのだが、それに対して竹村氏も、あるいは即座に端的な言葉で、あるいはゆっくりエピソードを噛み締めながら答えてくださり、我々もかなり追求させていただいた。その結果として、歴史的な位置づけをずいぶん追い込むことができたわけである。

 おそらく、このようなやりとりが可能だったのは、竹村氏ご自身が坂倉事務所のなかで外在的な枠組みを持ち得た特異な立場にあったことから来るように思う。ご自身が芸大卒でありながら、建築家の都市的プロジェクトをクールに見ることができる、文字通りの都市計画行政を含む「都市計画」の眼をお持ちだったのである。

 竹村さん、長時間にわたり本当にありがとうございました。

 そして北村さん、今回もありがとうございました。きちんとやりますヨ。

2008/10/18

「違和感はなかったですね」〜北村氏インタビュー〜

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1018 午後、西荻窪のご自宅に元・坂倉建築研究所の北村修一さんを訪ねた。渋谷の東急会館(1954竣工)・東急文化会館(1956)、難波の南海会館(1957)を担当された方(そして例の東名高速のトールゲートも!)。何と3時間半にわたって、人なつこい笑みとともに豊かな断片の散りばめられたお話を披瀝してくださった。横ではやはり最近まで坂倉に勤務されていた紀史さんが資料を繰ってサポートしてくださったが、そのご子息をも驚かすあるプロジェクトの話題も飛び出し・・・(要追跡!)。あと東急文化会館の設計時には駒田知彦さんら事務所のオールスターが、営団(地下鉄)のガード下に設営された臨時事務所(つまり小屋)に製図板を並べておられたという逸話にも仰天。五島慶太(言わずと知れた東急の五島)は何を建てるかは決まらなくてもここには何月何日に何かの建物を竣工させると言い、そしてともかく現場に穴を掘らせ、その目の前で設計をさせたのだとか。

しかし、やはり最も興味を引くのは既存の建物に横へ上へと建物を付加し、接合し、ネットワーク化し、部分的に新しいファサードでラッピングしてしまうといったアドホックなアーバニズム感覚が、渋谷に限らず、またターミナルプロジェクトに限らず、坂倉事務所の仕事にはいくつも見いだせるということだ。それについて、建築家はあまりそういう仕事はしないように思うんですがと尋ねると、北村さんはキョトンとされて、「ああ、そういう仕事けっこうありましたね。ただちっとも違和感はなかったですね」と。この感覚をうまく掴まえてみたいと思うのであった。