VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2018/03/23

2017年度 研究室の学生諸君の成果

研究室ウェブサイトこのページにも掲載しています。

修士論文

  • 芦谷龍征「自治会報誌『砧』にみる住宅地成城の戦後史」
  • 池田薫「多摩川流域における産業の空間編成に関する研究 ─ 日本最大の砂利産業の史的展開 ─ 」
  • 富山大樹「近世・近代における多賀神社境内環境の改変過程に関する研究 ─ 大江新太郎主導による昭和大造営の歴史的位置をめぐって ─ 」★建築史交流会発表
  • 中井希衣子「民間信仰組織の都市空間史 ─ 近代浅草における〈地域稲荷〉の変容 ─ 」★トウキョウ建築コレクション中島直人賞
  • 中村彩「東京港内港地区の埠頭形成史 ─ 品川埠頭の水際に着目して ─ 」
  • 西恭平「ドイツにおける国民国家形成と「表現主義建築家」 ─ シュプレーボーゲンをめぐる諸提案を通じて ─ 」★建築史交流会発表
  • 古谷優実「横浜戦後復興における防火建築の理想 ─ 官僚技術者内藤亮一と街区型建築群の面的開発に着目して ─ 」★トウキョウ建築コレクション川添善行賞

▷卒業設計
  • 相川敬介「大地を編む ─ 名も無きLandscapeと計画の結び目で ─ 小中学校+図書館提案
  • 生沼千里「Factory as a park ─ 自然・産業・人間の新しいネットワーク」★次点
  • 片山 美樹「Sense of wonder チャイルドスケール3つのオーダー:size, move, collective behevior」★次点
  • 櫻井 翔太「Patina for Antique Enthusiasts <調度品のオブジェクト解釈>」
  • 鈴木 俊希「アクティティが描く二枚の地図 ─ 歯抜け街の可能性 ─ 」★佳作(上位11)
  • 武田 峻哉「地域を醸す ─ 新しい酒蔵のかたち ─ 」
  • 棚橋 京平「高円寺南四丁目計画 ─ 都市の新たな平面における試論 ─ 」

2017/03/12

2016年度 研究室の学生諸君の成果

修士論文


卒業論文
  • 河野紗輝「戦前・戦後の横浜市本牧地区における私娼街の復元的研究」

卒業設計:

2016/11/20

明治大学 建築史・建築論(青井)研究室 今年もOB/OG会をやった。気づくと間もなく10周年。

IMG_2119

毎年やっているOB/OG会。間もなく青井研10周年ですよと誰かが教えてくれ、研究室のウェブサイトで数えてみたところすでに90人くらいのメンバーがいることに気づく。

今回(20161119)は忙しいなか十数人のOB/OGが駆けつけてくれ、5期生の滝沢さん(野村不動産)・野口さん(永山祐子建築設計)・笹さん(フジテレビ)の3人がそれぞれの仕事についてレクチャしてくれた。毎度このレクチャがめちゃ面白く、しかも勉強になる。

2次会は流れでメキシコ料理。

2016/04/19

研究室ウェブサイトが更新されました。

20160418_lab_web

新年度がはじまり、研究室ウェブサイトが更新された。
・2015年度修論・卒論・卒制(+アーカイブ) →http://www.meiji-aoilab.com/thesis
・2015年度学会発表(+アーカイブ) →http://www.meiji-aoilab.com/academics/
そして、
2016年度研究室メンバー(+OB・OG) →http://www.meiji-aoilab.com/members/
2016年度サブゼミ(読書ゼミ) →http://www.meiji-aoilab.com/subsemi
サブゼミは5月11日より発表+討議開始。今年も楽しみだ。

2016/03/09

2015年度 研究室の学生諸君の成果

今年度の研究室諸君の成果です。どれも立派でした。今後の奮闘にも期待してます。

修士論文

  • 神埼竜之介「関東大震災東京に建てられた銅板貼り建物に関する研究:看板建築の発生と災害・生産・制度・意匠」
  • 平場晶子「私・共・公のせめぎ合いから見る日本橋・銀座の路上空間の変遷:庇下と露店を中心に」
  • 吉田郁子「中山間集落・千葉県市原市月出の展開過程:〈中山間集落−中核都市−大都市〉にわたる戦後人口移動の構造的特質」
  • 吉永ほのみ「近世江戸内海猟師町の展開と近代における維持・変容:東京臨海部の形成過程の解明に向けて」

卒業論文
  • 塩田航「英国紀行作家イザベラ・バードが見た明治初期の日本建築:日本嗜好の理解として」
  • 中村彩「豊洲の生活空間史的研究:戦後の埋立地に展開した工場・住宅のモザイクに注目して」

卒業設計:
  • 芦谷龍征「地域と使う学校:宇都宮市立中央小学校でのケース・スタディ」
  • 池田薫「層状都市を起こす/貫く:二子玉川における駅−都市の再編成」★次点
  • 大谷剛「かつて、そこに「」があった。」★堀口賞
  • 佐川芳孝「生きることの交差:多民族が暮らす地域社会の領域性と脱領域化」
  • 富山大樹「舞台に楽屋と袖を:Kiyomizu-dera Museum Project」★建築学科賞
  • 西恭平「国立国会公園:対話/余暇としての直接行動」★佳作(10選入選)

2015/10/01

壱岐勝本浦(長崎県)、神代研デザインサーヴェイ(1969)から46年後。

 2015年度夏の研究室合宿旅行は福岡県・長崎県・熊本県をまわったのだが、初日9月16日に福岡港から壱岐へわたり、勝本浦の集落を歩いた。ここ数年、伊根(京都府)、女木島(香川県)、十三(青森県)、沖の島(高知)と、明治大学神代雄一郎研究室が1967年に着手したデザインサーヴェイの初期の対象集落をひとつずつ廻っているのだが、今回の壱岐勝本浦(長崎県)で5つ目。(←各集落名のリンクからGoogleMapへどうぞ。いずれも魅力的な集落ばかり。)

 今回も、(もう46年前のことになるのだが)かつて神代先生と沢山の学生たちが集落調査に来ていたことを覚えておられる方がおられた。感慨深い。

R9284601

R9284596

サーヴェイ(1969年実施)当時と比べると・・・まず、GoogleMapで見られる集落全体の屋根伏図では一見するとほとんど何の変化もないように見える。屋並みの密度とうねりがすばらしい。だが、やはり色々な変化がある。

  • サーヴェイ当時すでにみられた本浦(湾の東側)サイドの護岸整備がその後に全域に完成しているだけでなく、集落の山側も擁壁ができ、要するに集落の前面・背面の両方がコンクリートの帯でがっちり固められている。
  • 湾の景観は、かつては海側の屋敷地の裏がそのまま湾に接し、そこに船がついていたのだが、護岸ができて船が屋敷地から切り離される。
  • 護岸と同時に海岸通ができ、モータリゼーションへの対応はこれが引き受けているため、本来は集落の軸をなしていた通りはかえって穏やかな生活環境を守っている。
  • 聞取りによると、1970年代、ちょうど神代研のサーヴェイの直後くらいから家屋の建て替えが一斉に起こった。だが、地割りはよく保存され、屋根伏では大幅な変化がないから、主屋を総二階建てにして水回りを組み込むなどの更新にとどまるのではないかと想像される。
  • しかし通りに面した主屋からみて裏手の景観を特徴づけていた、イカを干す竹の棚が完全になくなっているのは大きな変化だ。今でもイカは獲るが、鮮魚で出荷するようになったため、イカを干す作業は集落からほぼ消えたのである。
  • さらに、海岸通ができたために、湾に面して表構えをもつ家屋が増えてきている。短冊状地割の長手を割って、海側の土地利用が進んできているのだろう。

その他には以下の建物を見学。

  • 金光教福岡高宮教会(六角鬼丈、1980)
  • アクロス福岡(日本設計+エミリオ・アンバース、1995)
  • 福岡市赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店、辰野金吾+片岡安、1909)
  • ぐりんぐりん(伊藤豊雄、2005)
  • 熊本県立装飾古墳館(安藤忠雄、1992)
  • 保田窪第一団地(山本理顕、1991)
  • 熊本北警察署(篠原一男、1990)
  • 宇土市立網津小学校(坂本一成、2011)
  • 八代消防署(伊藤豊雄、1995)
  • 八代未来の森ミュージアム(伊藤豊雄、1991)

flikrの写真は下記画像リンクからアルバムへ。

20150916 20150917 20150918

R9285024

R9284874

2015/03/27

卒業おめでとう。

研究室からは修士4名、学部生8名が卒業・修了しました(9月卒業をあわせると、博士1、修士5、学部9名)。昨夜(03.26)はお祝いの会でした。いろいろと気を遣わせてしまいましたね。ありがとう。そしておめでとう。

考える自由を忘れず、状況に振り回されず、フットワーク軽く動きつつ、じっくりと大切なものを育てていかれることを祈念しています。ときどき研究室や我が家に遊びにきてください。

P3260122

2015/03/21

2014年度研究室の学生諸君の成果

研究室HPのthesisのページを更新しました。今年も立派でしたねー。俺もがんばろ。

[博士論文]

  • 石榑督和 「闇市の形成と土地所有から見る戦後東京の副都心ターミナル近傍の形成過程に関する研究」(2014年9月修了)博士(工学)取得

[修士論文]
  • 肥後伯子「第二次世界大戦後のフランスにおける都市復興と「ユルバニスム」:中央・地方の関係と職能像の転換」(2014年9月修了)
  • 青木寛子「神代雄一郎のデザイン・サーヴェイ展開過程に関する研究ーコミュニティ論の形成と発展に着目してー」
  • 倉石雄太「東京都心部における土地所有構造からみた戦後の都市組織変容課程ー神田地区(錦町・美土代町・司町)を事例としてー」★トウキョウ建築コレクション千葉学賞
  • 佐藤あやな「旧東京市緑辺部における不良住宅地区の発生/分布/変容ー近代日本における大都市膨張の一端としてー」
  • 吉野歩「武蔵野段丘上の短冊状新田村落にみる大都市近郊の郊外住宅地形成ー先行する短冊状地割と土地利用形態の継承・再編ー」★トウキョウ建築コレクション ★建築史交流会優秀賞

[卒業論文]
  • 丸橋優希「 千葉県習志野市・大久保学園商店街の変容過程 −軍郷から大学街への転換とその後ー」
  • 竹内詩帆「梨農業の観点から見た稲城市の景観変容に関する研究 ー土地利用と直売所に着目してー」★菊池賞
  • JO HYUNMOOK「SOHOの動向と生態 上野5丁目を事例とした研究 ―貴金属関連企業に着目して―」

[卒業設計]
  • 門間翔大「集落のしつらえー風景に編みこまれた都市と地方の新しい関係ー」
  • 関根薫「「現在」への重層ー<都市の駅>としての村野藤吾横浜市庁舎再生計画ー」★次点
  • 小見山滉平「ファブリックとしてのキャンパス〜大宮東口の10本の通り〜」★佳作
  • 祐川牧子「モノとヒトの集積・交換・移動ーグローバル・ツーリズムの拠点としての築地市場の再生ー」
  • 弓削多宏貴「街をつくるのは誰か。〜六角橋の生存戦略〜」★建築学科賞

2014/10/04

新国立競技場関連記事データベース

ArticleTimeLine_新国立競技場関連データ

 研究室(http://www.meiji-aoilab.com)の学生有志チームが精魂傾けてつくったデータベース新国立競技場関連データベース New National Stadium Project: Related Article Databaseを9月7日より公開しています。その一部を整理したものを、日本建築学会建築文化週間2014第一夜の資料冊子にも掲載していただきました。また、同企画の展覧会(建築会館ギャラリー)にも、この記事データベースを年表形式にしたものに関連資料を合わせてヴィジュアルにまとめたパネルを展示しています。

 記事データベースは全体として建築分野に偏っている点、新聞記事を網羅的に拾うなどの作業が困難であったためネット上の記事を優先している点など限界がありますが、是非皆様にもお知恵をいただいて、出来る範囲で継続していきたいと思います。どこから依頼されたわけでもなく有志でやっている作業ですので暖かい目で活用ください。

 また関連資料として掲載しているもののなかには、国内の主要スタジアムから我々の依頼に対して快くご提供いただいた営業利益・収支、イベント利用日数、芝管理などのデータを比較しています。ご協力いただいた機関各位に御礼申し上げます。

わたしが学生たちに言ったのは、厖大な資料群へのアクセスをいくばくか容易にするために関連記事の索引サイトのようなものをつくろうという、ただそれだけでした。ところが彼らは自分たちでどんどん判断して作業をこなし、視野を拡げ、いつの間にか冊子に寄稿とか、展覧会に出典とか・・・驚きました。褒めてやりたいです。昨夜は彼らの慰労会+わたしの反省会をしました。

2014/09/07

ミクロな実証とマクロな枠組がいよいよ立体的に結びつきつつある・・・台湾調査2014沙仔崙

 2014.08.09〜08.24 台湾。学生たちとみっちり調査をしたのは8月11日〜21日で、そのうち2日はエクスカージョンだったし、初日と最終日は半日だから、まあざっと1週間の調査だったことになる。今年のターゲットは彰化県田中鎮の沙仔崙Sua-a-lun という街だ。いや「街」だと思って調査に臨んだら「村」だったので腰が抜けた、というのが初日で、そこからモリモリと色々なことが分かっていくというちょっと今までにない経験をした。 (*以下、地名にアルファベットで読みを付しているが今回はすべてホーロー(ミンナン語)にしてみた。

 そんなお粗末な、と思われたであろう。はい、そうです。ぼくたち、周到な準備をして調査に臨むなんて滅多にない。でも研究の枠組みというものは当然ある。すぐ近くに田中Tian-tiong という街があって、これは20世紀初頭に新たに建設された都市。もとは地名が田中央であったことからも察しがつくように水田のただなかであった。昨年はこの田中という街の調査をして、漢人が何もないところからどうやって都市を立ち上げるのかのひとつの重要なドキュメントをつくる手がかりを得た。彼らの理念的な都市像と、実際の開発手法、土地所有=経営、社会=権力構造などが立体的に結合した都市概念が描き出せるだろう。さて、以前から知っていたことではあるが、この街には前身があって、それが1898-99年の両年にわたり激甚な水災・火災に見舞われたため田中に移動してきたのである。この前身の街こそが沙仔崙であり、今年はこの街を調べることで、旧街と新街との関係すなわち都市移動のダイナミクスへと視野を広げようと考えたのである。ところが・・・沙仔崙は街ではなかった。正確には、アーバンな類型のティシューを備えていなかったのである。

P8180549[fig.01] 沙仔崙は、この一本の道路を軸とし、これに沿った長さ三〜四百メートルのリニアな集落なのだが、この写真のごとき景観を見れば、まあ小さいながらもいちおう都市的なティシューだなと思うよね。昨年、車でざっと廻ってもらって下見したときは、僕もそう思った。けれどやっぱり自分の足で歩かないうちに判断しちゃいかんということを今年は痛感した。次の写真をご覧あれ。

P8200215[fig.02] うわ、マズイと思ったね。新しいRC町屋の間に挟まれるように、古そうな三合院のカケラが残っておるではないか。裏へ回り込んでみると・・・

P8120284[fig.03] はい、三合院。正身の左右から護龍という腕が伸びてコ字型平面をつくる三合院の、片方の肩から腕にかけての部分が残っている。つまりもともとは整った三合院が立地する、正方形に近いプロポーションの大きな屋敷地があって、それが比較的近年(過去30〜40年の間に)細分化されていった結果が、fig.01のような状態なのであろうことが直ちに理解される。

P8150259[fig.04] もうちょっとカケラの写真をどうぞ。写真の左に見える赤煉瓦が正身(の中央部)で、右に見える赤煉瓦は左護龍(の中央部)。うひゃ、ぶつ切りにされているではないか。こういうのがよく見ると集落のあちこちに転がっている。だんだん面白くなってくる。

というわけで、最初の思い込みを否定するのに30分も要しなかった。沙仔崙は紛れもなく農村的な集落だったのだ。次に立てた仮説は、20世紀初頭の遷街で住民が田中へ移ってしまったために沙仔崙は農村化したのだろう、というものだ。ここで「棄てられた都市」というキャッチフレーズをとりあえず立ててみたのだが、歩けど歩けど、百年ほど前には都市だった、とみなせる根拠は見つからない。アーバンなティシューとルーラルなティシューとは基本的に異質なものであって、かつてアーバンであったのなら僕らにも察知できる何かがあるはずだが、それが一向に見つからない。

P8120220[fig.05] 初日夜、宿の食堂にてミーティング。「棄てられた都市」というテーマはいちおう留保して、現在の公図(地籍図)をじーっと睨んでみた。アミダクジをみれば誰だって後に入れたのはタテ線じゃなくヨコ線だと分かるよね(線の勝ち負けという図的な理屈)。それと同じ要領で新しく短い線から順次間引いていけば、かなり蓋然性の高い地割の復原図が得られる(もちろん仮説)。それを皆でやってみると、多少の解釈のズレはあっても、大局的にはどう見てもこりゃ正方形に近い元来のロットが相続等のために分割されてきたと見るのが適切だなと判断できる。都市が棄てられたから農村化したのではなく、沙仔崙ははじめから農村だったとみてまず間違いない。

 ここで一気に視野を広げてみよう     この地域は、台湾西部平原の中央を流れる濁水渓Lo-chui-khoe(螺渓Le-khoe とも)の流域としてつかまえられる。中央山脈から丘陵部を走った河川は、平野部へ出ると土砂を大量に吐き出しながら流速を下げ、複雑な網状の流路をなし、複数の流れに分かれ、やがて蛇行し、最後に三角州やラグーンをつくって海に注ぐ。このうち、山から平野に出た後、15〜20Kmくらいの間は3本の主流を擁する見事な扇状地が形成された(20世紀の治水工事により今は1本の主流に集約されている)。台湾は台風の通り道だし、雨期の雨は凄まじい。ひとたび大雨になれば流れは暴れ狂い、溢れ出して流路を変える。これを繰り返して砂礫を均等にばらまいたから(水圧をあげるとホースが首を振るイメージ)、濁水渓の扇状地はとても美しいかたちをしている。

 ざっくり言うと、濁水渓流域では18世紀を通じて大陸からの漢人移民・開拓が進み、大陸の泉州Choan-ciu や厦門E-mng などとの交易を担う沿海部の港市(鹿港Lok-kang)、平野部穀倉地帯の集散拠点(多数)、山地資源の集散拠点(林圯埔 or 林杞埔 Lim-ki-poo)、これら全体を統治する行政拠点(彰化Tsiong-hua)といった諸カテゴリーの都市も育っていった。思い切って要約すると、この世界は(1)地理学的には濁水渓流域、(2)行政的には彰化縣城管下、(3)経済的には鹿港経済圏として規定できる。

 経済的支配力は対岸貿易港たる鹿港が握ったが、しかし、その「鹿港経済」ともいうべきものが内陸部にまで浸透するには中流域=扇状地内に立地する小規模都市群の存在が不可欠だったことも事実である。最近ぼくらが注目しているのはこれらの都市群である。言い換えれば、繁栄する対岸貿易港(鹿港)と、山地エンポリアム(林圯埔)との間に立地して内陸部に物流の血液を行き渡らせる、内陸中流域の河港都市群である。これらは荒ぶる扇状地の水害リスクに悩まされつつ、しかし扇状地に立地し鹿港経済圏のサブセンターたることによって経済的に存立するというアンビバレンツに規定された都市群だと見ることができる。鹿港が景観的にも社会的にもほとんど泉州や厦門とそっくりの街だったとすれば、むしろこれら内陸河港都市群こそ、地理学的に厳しい環境に適応し、何度も破壊と再生を繰り返し、入植者たちの貧困や闘争を体現した台湾的な都市だったということもできるのではないか。

 18世紀中に姿を見せるこれら内陸河港都市群のひとつに東螺Tang-le という街がある。やはり細かい話は省くが、沙仔崙はこの東螺から19世紀の初頭に分裂し移転してきたある集団の流れ着いた先である。東螺ものちに移動して寶斗Po-tao (のちの北斗)になるのだが、それはさておき、沙仔崙は再び19世紀末に壊滅的被害を受けて田中に移った、というのがそれなりに知られている歴史の筋書きだ。だから沙仔崙もまた、歴史のなかで変転めまぐるしい小さな内陸河港都市のひとつだったのだろうと思い込んでいた。

 ところが、それがルーラルな集落だったことが分かったのである。ただし一方で、屋敷地が一本の道路に沿って整然と並べられており、かつ、地割のサイズに計画性がうかがえることも特徴。ここから立ち上がる仮説は、次のとおり。

(1)19世紀初頭に東螺街から分裂した集団は、おそらく他集団との闘争(いわゆる「械闘」)に敗れて水運の権利を失い、商業を放棄し、沙仔崙に土地を取得して計画的にルーラルな集落を営んだのではないか。

(2)沙仔崙とは直訳すれば“砂の山”の意味で、台湾には同様の地名が多数ある。おそらく河川敷(増水時には冠水する)のすぐ外側にできた自然堤防的な砂礫の微高地がそう呼ばれており、彼らはその微かな線状の高まりを選んで移転先を決めたのだろう。

(3)その後ようやく安定した沙仔崙の集落も、19世紀末に再び大洪水で流され、応急的に再建された集落も火災で焼失してしまう。これを機に、沙仔崙に隣接する田中央に土地を入手して集住地を移転させる事業を決断したのだろう。

(4)新街建設を主導したのは沙仔崙の有力者で、彼らは移住同胞を率いたのみならず、濁水渓河系のネットワーク内から移住者を募って、最初から都市的集住地を創出する開発計画を練った(このときの市街計画のプランがきわめて興味深いのだがそれはあらためてどこかで発表するつもり)。このとき主導者らが植民地権力による鉄道駅開設の情報を得てそれに近い立地を選んだとの説もある(実際、田中は植民地期を通じて鉄道街として発展)。

(5)いま沙仔崙に残る三合院のカケラは、田中への遷街後も沙仔崙に残った者たちと、空になった地所を購入して周辺から移住してきた者たちとが20世紀前半から中盤にかけて建築したものであろう。

 およそこうした仮説が調査1〜2日で立った。いつもそうだが、ここまでは速い。しかしこれを検証・修正するには馬鹿馬鹿しいほどの労力と時間が要るし、たくさんの方々を巻き込み、面倒をお願いすることになる。

 今回の調査期間中には、まずカケラの実測調査と詳細な聞き取り調査によって、20世紀中盤の集落景観を復原することができた。予想通り、三合院だけが並ぶ完全にルーラルな集落景観の復原図が得られた。この経験は重要だった。類型性(タイポロジカルな性質)を分有する建物のカケラ(オブジェクトレベルの断片の残存)と、それに対する介入のパタン性(メタレベルの変化の論理)がつかめれば、論理的な類推によって数十年遡る程度の復原はかなりの精度を持たせうることをあらためて実感。

 20世紀前半については植民地期の行政書類ならびに主要家族の族譜(家系図)を付き合わせることによって概況をつかみつつある。植民地行政は遷街直後の沙仔崙の土地・建物の状況を記録しているが、それはぼくらがまったく予想しなかった集落の実態を指し示している。

 19世紀の地域史に関する仮説は、調査期間中に専門的研究者の方々に色々ご教示いただいて修正することができたし、またより大きな視野で展開すべきテーマも見えつつある。

 たったの1週間ほどであったが、意義深い調査だった。

 地域の皆さん、とくに沙仔崙の住人の皆さんにはほんとによくしていただいた。謝謝。成果は法政大高村雅彦先生代表の科研研究会でまず報告し、来年の建築学会大会で発表しますので、それを持ってまた来年うかがいます。

P8190010[fig.06] 後日、沙仔崙在住の方から提供いただいた約40年前の写真。正身がRC町屋型に建て変わっているが、護龍(腕)は残っている。これが竹造であることに注意されたい。聞き取りによると50年前までほとんどの家屋は竹造・平屋建・茅葺だったという。

 一昨年に調査した北斗には竹造町屋がたくさん残るので、濁水渓河系は20世紀初頭まではほぼ全面的に竹造家屋に埋め尽くされていたとみて間違いない。南部はその割合がもっと高かったことを示す総督府調査がある。これも従来の台湾建築史・都市史で看過されてきた重要問題。

P8190066[fig.07] こんなこともやらせていただいた。廟での聞き取りシンポジウム。

P8150318[fig.08] 皆、疲れてきたみたい。沙仔崙の大廟(天受宮)前にて。

 この場所にはもともと沙仔崙の中心となる媽祖廟「乾徳宮」があった(媽祖=天上聖母は台湾でもきわめてポピュラーな航海の女神)。それが遷街によって田中に移され、以後半世紀ほど空地になっていた。現在の天受宮は1950年代の創建で、玄天上帝を祀る。

P8200222[fig.09] 調査最終日の一枚。通い詰めていた食堂「大象」(象さんの意)のオヤジ夫妻と。学生の皆もお疲れさん。