VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2014/11/12

都市形態論をいかに教えるか[復刻:2008.05.17, 06.02]

忙しさにかまけて復刻シリーズで失礼します。前に勤めてた大学は建築の専門教育課程のない大学だったのですが、ということは学生さんたちも誰も建築専門家になるわけではなく・・・そういう学生たちに都市の型態について考えてもらう授業について偉そうに書いてます。書いたのは明治に移った後です。

都市形態論をいかに教えるか(復刻:2008.05.17/semi@aoao)

今年の講義は、建築素人の学生たちに、「都市をいかに読むか」を教えることがテーマ。都市論は社会学的なトピックとかの方が話しやすいのだけれど、そこはぐっとこらえて、都市形態論を初歩からやってゆく(社会とか経済とかは、形態を議論できるようにしてから、それとの関係で論じたいからだ)。けれど、都市形態論ってけっこう難しい。都市形態論の教科書なんてものもない。

で、どうするかというと、簡単そうでちょっと頭を使わなければならない練習問題(しかもちょっと突飛なものが多い)をやらせて、色んな答えを出させ、その謎解きをする。それを積み重ねていくうちに頭を柔軟にほぐしつつ構築してゆく感じ。とはいうものの、問題をつくることはとても難しい(失敗するときも結構ある)。

たとえばこんなのはどうでしょう(ていうか、もうやったんですけどね)。

建築学科で勉強した人なら、ミリューティンの「線形都市」って知ってるでしょう。あれは、社会主義国の宿命として、中心−周縁を持つ資本主義的都市を回避し、可能なかぎり理想的な均質都市をつくるという課題への答えだった。で、授業ではそれを紹介せずに、空間形態の求心性/均質性についてちょっとイントロしゃべった上で、理想的な均質都市モデルを提案せよ、とやる。

難しいかなと思ったけど、案外いろいろな提案が出て、これは面白かった。ポイントは、広い意味でのあらゆる資源(サービス)への人々のアクセシビリティが均等であるようにすること。ミリューティンの「線形都市」もこの条件を満たすべく設計されている。そして実は、見た目のかたちの均質性はそれほど(いや実際には決定的に?)無関係。「線形都市」も、グリッドを拡張していくというような普通の発想よりも、線の方がアクセシビリティの均質性の純度が高い、というところが面白い(グリッドでは、たとえばその外部へのアクセシビリティに大きな差異が生まれるが、線はどの部位も均等に外部に接続している)。学生たちの提案のなかで、理論的にはミリューティンよりいいんじゃないかというのがひとつあったが、そいつは球形をしていて、形態的にはむしろ求心的なのだった。

あと、割とよくやるのが、ある事例からひとつの考え方の範型に気づいたら、それが当てはまる他の事例を発見させるというもの。つまりその範型を別カテゴリーに敷衍して一般化できるかどうかを試すのだけれど、これは同時に抽象的・形式的思考の訓練でもある。抽象化・形式化とは、異なるカテゴリー間に同一性を発見する人間の基本的能力だからだ。

たとえば住宅地の空間構造を図式的に示せ、という問題をやらせて、次に、それに似たものをあげよ、という問題を出す。チェス盤とか板チョコとかをあげてしまった人は構造ではなくイメージを見ている。洗濯バサミをたくさんぶら下げたやつをあげた人は、単位要素とそれを支える基盤構造とを見ている。そして、駐車場とか、図書館の書架配置とかをあげた人は、単位要素に対して交通空間との関係を重視している。たとえば図書館の場合、本の背表紙側を、通路に接続するフロンテージとするのが効率を最大化するわけで、実は人間がからんだ都市空間ではすべからくこのアクセス問題と効率問題が働くのだと話を進める。

今週やったのは、「遊郭/花街」のコントラスト遊郭と花街、それぞれを説明する文章を用意しておいて、その空間形態の対比そのものを思考の範型とし、これと類似する対比のセット(○○と○○)を事例的にあげよ、という問題。学生たちは試行錯誤していたけれどポイントに気づいた人は少なそうだった。実は、遊郭とは(乱暴に言えば)遊興の街から純化された機能の単位要素を抽出してグループ化し、グループとして街に接続するようにしたもの。要するに「施設化」を考えさせるための例題。来週月曜日に謎解きして、次の問題へ。

都市形態論をいかに教えるか(復刻:2008.06.02/semi@aoao)

前回、施設化の導入のところまで書きましたが、ひきつづきビルディングタイプ論に入ります。7つほどの種別毎に(従来の)典型例とみなせる建物の外観写真と平面図をバラバラにして配り、それをマッチングさせて、その施設の種別名称を書く。するとほぼ9割方が正解になる。なぜだろう、と考えさせる。この場合、実は専門的な建築教育を受けていない人が多いという受講生の特性を逆手にとって進めているわけです(建築学科の2年生とかだったらもう図面が読めてしまうのでダメ)。

そのうえで、施設とは何だろうかと問うと、機能が特定されている、自らの内部にミチを持つ、アクセスがコントロールされている、記号的な表象が社会的に共有されている、などなどの特徴がみえてくる。こういうものが近代になってどんどん生み出されてきた。じゃ、昔はどうだったのかというと、みんなたぶん分からない。

でも答えは意外に簡単で、端的にいえば昔はすべて家だったのだ。役人も自分の家で執務したし、商人は自分の家で商売し、職人は自分の家でものをつくった。家はこういう業務機能を持ち、対面や儀礼といった社会的機能も持っていたし、それぞれの階層の人々がすることのだいたいは家でなされていた。これら機能がひとつひとつ切り出されて施設になった(実は切り出されたときにはじめて「機能」は見えるようになった)。ということは施設分化の歴史は、住居の貧困化の歴史でもあって、コインの表裏なのだよ、私たちはこういう機能タテ割的に切り分けられた都市にいやおうなく生きているのだよ、なんてまあ分かりやすすぎますかね。

そいで今日は都市型住宅論の1回目。まず前半で台湾町家についてざっと解説。都市を構成しうる住宅がいかなる型を形成するものなのか、またそうした住宅の集積たる都市空間はどのようなパタンを持つのか把握する。ついで京都町家街区の面的な平面図を配る。あとは練習問題。

どれが一個の宅地か、切れ目を読み取れ。個々の宅地がどのように構成されているか、参考図(模式)を用いて説明せよ(トオリニワに沿って床上空間が配列されること、ツボニワを挟むことなどを記述すればよい)。家ひとつの標準的な間口寸法をおよそ推定せよ(畳が敷いてあるので分かるはずなのだが学生たちは意外に分からない)。そこから敷地の奥行きも推定せよ。では、(1)上下水道の普及、(2)空調設備の普及、(3)自家用車の普及、以上3つの条件の変化によって町家はどのように変容しそうか、推論せよ。

こんなふうに、都市形態の捉え方(urban fabric あるいはurban tissue の捉まえ方)を段階的に立体化してゆくとともに、ちょっとずつ時間軸の想像力を交えていくようにしています。形態がなぜ論じるべき「問題」であるのかを示すのが意外に難しいんです。

2014/10/29

日本建築にはなぜこんなにも分類があるんだろう[復刻:2005.03.04]

前任地・人間環境大学時代のブログ(semi@aoao)、大半が消滅したのですが救出できるものもあるので、たまに気が向いたら復刻します。10年近く前の記事で、思考様式が変わってないことには呆れますが、でも面白いこと書いてるなと思いました。

日本建築にはなぜこんなにも分類があるんだろう(復刻:2005.03.04/semi@aoao)

honden_hinagata3月4日(金)、建築学会シンポジウム「日本建築様式を問う」に出席しました。僕は神社担当ということで、伊東忠太と角南隆を対照させ、「雛形的様式」と「統辞法的様式」の2つの様式理解を取り出して、これを軸にした議論をと意図しました。シンポジウム全体は、僕としてはとても面白かったし勉強になったのですが、なにせ時間が短く、じゅうぶんに議論が展開できたとはいえません。

ちょっと長文になりますが、今回のシンポジウムの個人的なまとめをしておきます。

いったい、なぜ日本建築は、こんなにもたくさんのタイポロジーを持っているのでしょうか。

建築史で神社の勉強というと、本殿形式の一覧表をまずアタマにたたきこんでナンボ、という世界があります。何だかよく分からないうちに「春日造は春日造だ」と、けっこう頭ごなしなところも。

でも本殿だって、目を凝らせばたくさんの部分から成り立っています。雛形的理解とは、その成り立ちへの問いが失われた状態です。名前がつけられ、固定されたカタチを雛形というのです。だから逆に、本殿形式の成立過程をあらためて問うときは、こんどは統辞法的に様式を捉えることになります。たとえば、非常に単純な例でいえば、住吉造みたいな古い単純な切妻屋根の、妻側に庇をつければ春日造、平側なら流造になる、と説明するときがそうです。でも、これに「春日造」とか名前をつけて、それを構成する部分要素でもあった「住吉造」と並列されるとき、ある意味でロジカルタイプの混同みたいなことがおこります。あるいは、時間的な順序が無視されるということでもある。こうして雛形は生まれます。

この種の物神化は、建築ではもっと細部におこることが多いように思うのですが、神社の場合はひとつの単体建築物のレベルでおこっているのが妙です。カタチを凝固させる力が一個の建物のレベルで働くというのは、強い政治的背景を感じずにはおれません。雛形というからには、たくさん模倣されるわけですが、実際、本殿形式は大きな力をもったローカルな神の表徴であり、同じ神を祀る全国の神社に、古殿の譲渡とか、形式のコピーといったかたちで移動・伝播していく。具体的にはこれが雛形的様式理解を強固なものにしているはずです。

ところで、ロジカルタイプの混同だとか、時間的順序の無視だとか、大げさなことを言わなくても、と思われるかもしれません。でも、今回藤井恵介先生が主旨説明で言われたように、たとえば中国にも韓国にも、建築史学のなかに「○○造」のような雛形的な形式分類のための用語はないのです。基本的には、時代区分に沿って(種別毎の、あるいは種別をこえた)建築の発展(とくに構造上の)が記述されていくだけです。ところが日本では、おそらく近世大工の世界で雛形的理解が発達し、近代の建築史学もそれに引きずられ、その隙間を埋め、要するに精緻化することに努力してきたように思われてなりません。

今回のシンポジウムで、光井渉先生の報告はきわめて明晰でした。近世大工たちが用いる「唐様」「和様」といった言葉は、中世までの支配から解き放たれて職能集団を形成した大工たちが、それまで支配の範囲に閉じられていたために疑われることのなかった前提としての様式的な併存・折衷状況をはじめて意識化し、いわば施主が選べるオプションとして分離・並列化していったものだと光井さんはいいます。近世建築規制はまた、大工集団が互いに自らを差異化しうる部位を柱上の組物に限定したため、「唐様」「和様」もほぼ組物に限定されて捉えられ、しかも、いつでも交換可能なパーツになったのだとも。この場合、「唐様」は(神社本殿のように一個の建物のレベルではなく)組物のレベルにおいて雛形になったわけです。組物のかたちは本来的には構造的(すなわち軸組と小屋組とをつなぐ統辞法的)工夫として成立してきたものです。しかし、ここへきて組物はその内にあるこうした統辞法的意義を失なって、その全体において一個の部品になる。分解不能な部品となることで、建築全体からは分解されてしまった。これも、突き詰めていくと面白いことが色々出てきそうですが、この辺でやめときます。

ところで、建築史学史的にいうと、神社と寺院とはずいぶん軌跡が違います。仏教寺院の研究は、比較的はやい段階で学術研究として自律して、「つくるために研究する」という回路はほとんど見えないのに対して、神社の研究は、(少なくとも戦前は)「つくる」人しか行ってこなかったのですから。神社を「つくる」ことに注目するとき、その態度は明治中期〜大正期と、昭和期以降とで、まったく異なります。代表選手をひとりだけあげるなら、前者は伊東忠太、後者は角南隆です。

伊東忠太は、日本の建築史学の開拓者で、神社についても、現在までつづく雛形的分類とその発展の説明を100年前にパッと出してしまった人ですが、雛形は大工書、発展説は国学から来ているのでしょう。一方の角南隆は昭和期に内務省神社局(1940より神祇院)のトップにいて支配的な指導力をもっていた人です。伊東も角南も、過去から現在までの神社のあり方をぐいと動かして、新しい様式を導こうとした人ですが、そのやり方が全然違うのです。

たとえば明治神宮の時に、各界を代表する学者や政治家たちが本殿形式=雛形の選択で争いましたが、その中心にいたのが伊東忠太です。なにしろ明治という時代を開いたカリスマ天皇を国民をあげて祀る神社なのですから、伊東忠太も最初はやる気満々で、過去様式を踏まえながら明治あるいは大正の新様式の創出を目指そうとしましたし、鉄筋コンクリートの採用すら考えていた。神社といえども、国会議事堂様式論争なんかと同じなわけです。実際には、この新様式創出の方向性は挫折してしまうのですが、忠太としては、雛形の一覧表に、いずれ「明治造」みたいな新しい雛形が追加されることを目指していたと考えられます。

鈴木博之先生は今回、単純化していえばタイプ一般とスタイルを区別されました。瞬間的に誰かがつくったカタチは、他とは区別できる傾向性を持っていても、様式という言い方はしない(これをたとえばタイプと呼ぶ)。様式=スタイルというのは本来は時間をかけて生成・変化していくプロセスを含む概念である。その意味では、忠太もやはり様式(スタイル)をこそ考えていた。なぜなら忠太は、神社本殿形式を、あらためて時間的に前へ押し出せるはずだと考えたからです。ただ、様式というのは、それができあがった後に、この社会が時間をかけてコレをつくり出したのだと振り返って語ることしかできないわけで、自分の作品がそのまま「様式」になる必然はなく、したがって自分の作業はそこに向かう投企であればよい。だから忠太の設計する神社は、基本的にはどれもカタチが違うのです。ただ、面白いことに、社殿群の配列の形式という視点でみると、どれもまったく同じで、彼は神社という環境を構成することにはあまり関心がなかった。

角南隆はこれと全く逆です。角南にとって本殿形式は大した問題ではありませんでした。古い神社の改築なら現存本殿を保存すればよいし、新規につくるなら一般性のある流造を採用しておけばよいと思っていたからです。彼が追求したのは、神を祀るとはどういうことか、祭を行うとはどういうことか、神社を経営するとはどういうことか・・・、その包括的なプログラムを、いわば建築によって新しく組織しなおしてしまうことでした。だから、個々の社殿の造形よりも、それらをつなぐ仕方が問題で、社殿を接続したり、廻廊を多用することで、人の移動(の可能性)の束を設計した。僕が見るところでは、単語をつなぐ統辞法を彼は開発して、あとは必要にあわせて、その統辞法にしたがった文章を書けばよいというところまでいきます。だから、短く簡素な文章も、長く豊かな文章も、同じ統辞法で書かれていて、要するに角南を中心とする昭和期内務省系のデザインだなということは、実物か図面を見れば分かります。

神社建築群や庭や森による環境構成だと考えれば、忠太はその部品のひとつである本殿形式を、角南は全体の統辞法を、それぞれ創出すべきものと考えていました。だから忠太は雛形的様式理解を、角南は統辞法的様式理解を、それぞれ代表するわけです。ただ、角南らが、統辞法のレベルで確立した一種の様式を、その個別の現れのタイプにおいて名付け、固定してしまえば、それはまたひとつの雛形です。帝国全体で、数年の間に一挙に数十社が造営された「護国神社」などの場合は、境内全体が雛形として成立してしまったと考えてもよい。雛形的様式と統辞法的様式は、どんなレベルにも見いだせるし、また互いに反転しうるのです。本殿だけの「住吉造」と、人の拝礼空間がくっついた「春日造」や、ひどい場合は「権現造」までが並列されうるのですから、境内全体レベルの「護国造」も並列されうると考えるのが道理でしょう。

さて、鈴木先生の指摘によれば、様式概念は時間的生成・変化を含む概念として登場してくるが、19世紀の西洋では(そしておそらく日本の大工の世界でも)古今東西様式が時間を失ったタイプとして並列化されてしまう。おそらく、それにもう一度時間軸を持ち込もうとするイデオロギーが、進化論とか、発展段階説みたいなものでしょう。ファーガソンフレッチャーもそうで、ヨーロッパ様式は並列されつつも時間的発達を強調したものだけど、アジアははじめから地理だけで、時間がない。忠太は日本についても時間的な様式概念をなんとか構築しようとして、時代区分は設定するのだけど、内実はビルディングタイプや地域、神や宗派によって異なる無数のタイプが出てくる一方で、そういうタイポロジーを横断して共通にとりだされる傾向が、時間的に変化していくという物語を書けなかった。今も、誰も書けていません。もっとも忠太は、将来にむかっては(つまり近代の日本建築を「つくる」という方向では)その物語を実現しうると考えていたでしょうし、その後のモダニストたちもそれは同じだったと思いますが。

いったい、なぜ日本建築は、こんなにもたくさんのタイポロジーを持っているのでしょうか。

別の日の記事(2005.02.15)によればシンポジウムプログラムはこんな感じでした。

●タイトル 日本建築の“様式”を問う

[内容主旨]

 建築が多くの人に見られるもの、すなわち外観が重要な要素である、ということが確かならば、それの形がもつ「様式」は、常に新しい問題を提供する。

 日本建築史において「様式」は決着がついているのだろうか? 和様、大仏様、禅宗様、という三つの様式が存在した、という定型の語り口があるが、それでは、住宅の「様式」はあるのだろうか? さらに神社では? はたまた和様、大仏様、禅宗様における「様」とは「様式」のことなのか? 

 「様」を「様式」と説明するのは、西欧の概念を深く検討せずにそのまま言い換えただけではないのか? そして、日本においては「様式」という概念はあり得るのか、はたして有効なのだろうか? などなど。少し考えるとちゃんと議論されていないことが次々と出てくる。このような問題を、西欧建築研究者の参加を得て、自由議論してみよう。

プログラム

[主旨説明]‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥藤井恵介(東京大学

1.「住宅と寺院の様式対立」‥‥‥‥‥‥‥‥‥川本重雄(京都女子大学

2.「神社建築様式はあるか」‥‥‥‥‥‥‥‥青井哲人人間環境大学

3.「近世における和様と唐様」‥‥‥‥‥‥‥‥光井渉(東京芸術大学

4.「西欧建築史からみた日本建築様式」‥‥‥鈴木博之東京大学

討論・質疑(30分)

●日時  2005年3月4日(金)18:00〜20:00

●会場  日本建築学会会議室

●定員  60名(先着順)

●会費  会員1000円、登録メンバー1200円、会員外1500円、学生500円(資料代込み:当日徴収)

2013/05/18

旧ブログ復刻:2007年1月31日「モノが残ること、モノを残すこと・・・広島にて。」

失われた人間環境大学勤務時代(2002年4月-2008年3月)のブログ「semi@aoao」からの救出記事(2007年1月31日付)。僕にとってはけっこう印象深い出来事です、これ。関連して、『建築雑誌』2012年8月号特集「広島[ヒロシマ]・長崎[ナガサキ]」(編集担当=砂本文彦・初田香成)は等身大の広島・長崎、およびこれら両都市の再生に携わった人々の証言が盛り込まれたいい特集ですので是非ご一読ください。

昨日(1月30日)、ある仕事で広島に来ていたのだが、思いがけず時間ができ、街を歩いた。

市が無償貸与をうけたという旧・日銀広島支店は、いわゆる「被爆建物」のひとつだ。ここでも多くの人々が亡くなった。

正面玄関にはただ「公開時間は5時まで」とあるだけで、中は薄暗い。躊躇しながらしのび込むと、驚いたことに、ただのがらんどうだった。何もない建物のなかを、ほとんど自由に歩き回ってよいのだということが次第に分かる。何か具体的な活用法が決まる前の過渡的な状態なのかもしれないが、主を失って投げ出されたかのようなそのがらんどうの状態そのものが何かを教えているように思えた。その答えは、2Fで見たヴィデオの中にあった(デッキが置いてあって、自分で操作するようになっている)。

ここの警備員をつとめる男性がそのドキュメンタリー(NHK制作)の主人公だった。男性は警備員なのだが、この建物に通うようになった被爆者や遺族の問いかけに答えるために休みの日には原爆をめぐる無数の記録を渉猟している。彼は人々の失われた過去を再構成する歴史家になりつつあり、その営みが人の縁をつなげていく。ヴィデオのなかの彼は、しかし、この建物が人々を引き寄せるのだと言った。資料館やらカフェやらにキレイにコンバージョンしないことも、時には有力な選択肢なのだということが切実に感じられた。この日、残念ながら彼は非番のようだった。

すぐ近くの袋町小学校には、平和資料館と称する小さな建物があった。フラフラ彷徨い込むと、外見からは分かりにくいのだが、被爆した鉄筋コンクリート造の西校舎(1937年竣工)を、玄関・階段室・教室を含むように4スパン分だけ切り取って保存したものだった。

ここにも語り部がいた。自らも被爆者だという男性だった。

その日、8時15分に校舎をおそった爆風と熱線はコンクリート驅体以外のすべてを吹き飛ばし、床板や階段などの木部を一瞬にして燃やし、そのススで内部の壁は真っ黒になった。木材と同じように跡形もなく消え去ったこどもたちもいた。2日後に校舎を訪れたある教師が、その真っ黒なコンクリートの壁に、白いチョークで覚え書きを記しはじめる。やがて、児童の親たちがここを訪ねては、こどもの消息や、その手掛かりを求めるメモを書き、文字は壁という壁に連なっていった。どの文字にも記した人の名前と日付があった。

1947年、昭和天皇を迎えるために壁はほとんど漆喰で塗り込められた。しかし、白い文字の這う黒い壁は、何枚かの写真におさめられていた。また、後で取り付けた黒板の裏からは、塗り込めを免れた覚え書きの数々が現れた。この壁は保存部分以外の教室から見つかったので、その壁自体を切り取って残してある。

他の箇所でも漆喰の一部を剥いでみると、奇妙なことに白黒反転した文字が現れた。理由は簡単である。漆喰が「地」としてのススを吸着して取り去り、文字=「図」のところでは逆に白いチョークを取り去ったために、今度はススが「図」となって浮かび上がったのである。そうして、建物は、あちこち試みに漆喰を剥いだ箇所を露呈したまま公開されている。

この建物は、モノがなぜ残るのか、また残ることに伴ってどのような変化が必要なのかを、ほとんど余すところなく伝えているように思われた。男性と建物にていねいに御礼を言って別れた。

20070130_hiroshima

(袋町小学校平和資料館。あちこちの漆喰壁が剥がされている。黒地に白い文字の部分は、残された写真を拡大したもの。)

(20070201付記:帰宅して、山下和也・井手三千男・叶真幹『ヒロシマをさがそう − 原爆を見た建物』(西田書店、2006)をチェックした。旧・袋町国民学校は広島市営繕課設計。チョークの「伝言板」も簡潔に紹介されている。旧日銀広島支店は、1936年竣工。設計者は銀行建築の名手・長野宇平治。)

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(写真追加。旧日銀広島支店。四本の独立柱にあったコリント式の柱頭は、復興の際に省略されている。)