VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2016/04/13

『自分にあわせてまちを変えてみる力』が刊行されましたね。

201604_machi_chikaraこういう本が出ています。

饗庭伸・秋田典子・内田奈芳美・後藤智香子・薬袋奈美子 編著『自分にあわせてまちを変えてみる力 ― 韓国・台湾のまちづくり』(萌文社、2016.03)

目次はこちらを参照。

日本の「まちづくり」、韓国の「マウル・マンドゥルギ」、台湾の「社区総体営造」の比較・交流史的な考察の本、というとちょっと堅苦しい紹介になっちゃうかもしれないが、この三つは互いに学んだり交流したりして育ってきたものであると同時に、ちょっとずつ違う。そのあたりを、活動の現場をフィールドワークを通してカタログ化するといったユルイ感じのアプローチと、各々の社会が辿ってきた政治史文脈で整理するちょっとイカメしいアプローチの、両面から捉えている。というわけで、かわいらしい装丁やタイトルに油断してはいけない。というか、アメリカなんかではまちづくりは実践家と政治学者社会学者が論じ合うものだろうし、台湾なんかでもそういう感じがある。ということからいえば、日本に案外その手の本がないということはたぶん日本の戦後史の「何か」を物語っているはずである。

唐突で恐縮だが、1930年代の日本では、昭和恐慌がもたらす経済的困窮と社会不安のなかで官僚たちが村や町の「協同組合化」というべき社会統治を組み立てようとした。つまり人々が共助的な経済事業体を形成するようにして、分裂しがちな共同体を安定させ、同時に彼らの経済的持続を彼ら自身で経営するようにした。もともと協同組合自由主義資本主義の社会という荒波の海に小さな自律的な島をつくる対抗的な運動だったと思うが、30年代には(自由主義経済の行き詰まりとともに)むしろ国家がそれを活用したのである。70年代だって50〜60年代反体制的な運動のエネルギーを政策的に社会にビルトインしていくことだったと思うし、そこでも共助的なコミュニティが強調されてきた。20→30年代も60→70年代も世界的にそういうことがあった。そんな脈絡を踏まえると、本書のタイトルが「みんな」ではなく「自分」を謳ってアジアを見なおそうと言っているのは、編者らの大事なメッセージである(本書前書きでは、これを民主主義がもたらす全体化という問題との関連で言っている)。つまりタイトルもじつはユルくなかったりするのであった。とにかく色々な意味で、まちづくりを批評的に捉え返し、そこから何かを取り出そうする本だし、読者もここから幾筋もの線を描き出すことができる。

ところで本書のまんなかには石川初、加藤文俊、青井哲人、山代悟へのインタビューがサンドイッチされていて、前半のカタログを、後半の政治論へとつなぐブリッジの役割ということのようだ。インタビューを受けたときはイマイチ分かっていなかった。ナルホド。

2015/11/26

辻原先生のブログより:台湾調査をご一緒したことなど

そうそう、熊本県立大学の辻原先生のブログに8月の台湾調査のことが書かれています。当方の研究室とご一緒した日のこと。

2015.08.18 青井研究室の皆さんの調査に合流させて頂きました_午前版
2015.08.18 青井研究室の皆さんの調査に合流させて頂きました_午後版
2015.08.20 台中から台北に日帰り

それと、ひとつ前の記事で紹介した11月の熊本講演+天草旅行についても。
20151106 明治大学の青井哲人先生の講演会
20151107 天草に
20151108 天草に(2日目)

2015/09/05

2015年度夏の台湾調査〜沿海キャラバン+渓州集中調査

情けないことに多忙でブログが書けない・・・のですが、踏ん切りをつけてとりあえず台湾の報告を。

まず、今年から新たに下記の科研費で研究プロジェクトを動かしていくことになりました。

科学研究費 基盤研究(B)「台湾都市史の再構築のための基盤的研究:都市の移植・土着化・産業化の視座から」(2015年4月〜2020年3月)

コア・メンバーは青井(代表)および辻原万規彦(環境工学/近代産業施設)、恩田重直(建築史/華南都市史)。さらに高村雅彦(建築史/アジア-中国都市建築史)、陳正哲(建築史/原生建築)、陳頴禎(建築史/台湾都市と植民地産業)そして張素玢(歴史学/濁水渓流域研究)、洪致文(地理学/気象学)、廖泫銘(地理学/アーカイブシステム)といった方々にご協力をお願いしている(現時点)。

 テーマは、下図のような濁水渓流域内の都市類型の展開を踏まえ、個別都市の詳細な社会=空間史的な解明をも重視しながら、それらのダイナミックな関係構造を全体として明らかにすることで、台湾の都市史的経験というべきものを書き直していこうというもの。とくに図中の C の都市群は水害や紛争による破壊・再生・分裂・移動を繰り返しており、その不安定性の具体的な描出は大きな主題である。

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 今夏(2015年8月)の台湾調査は約2週間。

 前半(4日間:8月10〜13日)は、彰化県から雲林県・嘉義県まで、台湾海峡に面する西部海岸線をひたすら南下する調査。4日間で100Km強、30くらいの都市・集落を見た。鹿港のような対岸貿易港は、濁水渓の扇央部から大きく隔たった、水害リスクの小さな立地を選び、大局的には大陸サイドの泉州なんかと大きくは変わらない都市を建設し、富を蓄積した・・・と思っていた。いや、それは間違いではないが、やや安直に過ぎた。国家を前提とするマッシブな治水事業を行ってこなかった19世紀までの台湾では、河川の土砂堆積は船舶航行を困難にし、都市の存亡を左右した。今回、地名辞書や地方史の記述を読みながら沿海部をざーっと廻って理解したのは、鹿港のような都市にはその機能不全の程度に応じてそれを補う小さな外港や代替港が複数存在したということ。鹿港のような繁栄した都市も、そうした複数の港との連合(ネットワーク)として存在したのだと考える必要がおそらくある。リスクに関わる不安定性・不定形性といった問題はここにもあったのだ。

 もうひとつ。台湾は東海岸は断崖(侵蝕)、西海岸は砂浜(堆積)なのだが、一口に西海岸といっても、堆積の進み方が場所によってかなり異なることには驚いた。彰化県あたりでは陸地が海に向かって成長してきたため古い港町は今日ではかなり内陸側にあるのに対して、雲林県南部まで行くとたとえば台子という古い漁村がいまでも直接に海に面していたりする。

 これは(専門家に聞いてみないといけないが)おそらく河川の主流の変遷とかかわるのではないかと思われる。張素玢先生の著作によると、濁水渓流域の主流は18世紀初頭の段階では南の苯港(今日の北港)を通るような流路(苯港渓)であったが、扇状地の主流周辺には土砂が堆積して土地が高まるため、ひとたび洪水が決壊すればより低い土地へと主流が移る。こうして19世紀の主流はほぼ真西に向いた流れ(西螺渓)となるのだが、19世紀末の大洪水によって主流はさらに北側へ移り、北斗を通る東螺渓が大きくなった。もちろん、18世紀初頭が南流だったというのはたまたまで、太古から北から南、南から北へと主流は往復してきただろうし、それこそが沖積扇の形成過程である。植民地期の治水工事(1920年頃)がなければ、その後も手を離した散水ホースのような河川の首振りは続いたはずだ。

 これと海岸がどう関係するかといえば、大きな流路は大量の土砂を海に吐き出し、これが潮流によって海岸に堆積していくのだから、主流の河口周辺は海岸が成長しやすい。とすれば、上に述べた海に直面した漁村集落というのは、おそらく濁水渓の主流が2百年ほど前にその地域から離れたために位置を保っているのであって、その「位置」こそがこの集落それ自体だけでなく流域全体の歴史の証言者となっているわけだ。

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[彰化県伸港:窓の向こうに続く道が港町の旧街]

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[嘉義県東石:河口部の漁村。街-堤防-港の関係。台風15号の影響]

 後半(6日間:8月14〜19日)は、彰化県渓州郷の渓州市街地の集中的な調査を行った。北に中心廟を置き、そこから南に伸びる道(大街)、廟前を東西に走る道(横街)とに町屋が軒を連ねる、といった都市のレイアウトは、きわめて典型的な台湾都市のそれであり、北斗や田中などとも共通点がある・・・ように見える。けれど実際には、1910年時点ではさーっと水田が広がっていた。そこに林本源製糖工場が建設されたことを契機に、じわじわと、やがてはぐいぐいと、水田は市街地へと変貌していく。いかにも台湾都市らしさを感じさせる配置の廟などは、1960年代にようやく建設されたものであった。

 というわけで、今年の調査は、いかにして田んぼが都市に変貌するのか、という問いに挑んでみた。学生たちはものすごく頑張った。街の方々も信じられないほどよくしてくださった。にもかかわらず都市形成のシナリオづくりは意外に難しかった。町屋がぎっしり立ち並んでいるのに地籍図上は真っ白なんて街区がひとつならずあったりもした・・・が、最後には説得力ある仮説(の組合せ)はできたね。

 毎年そうだけど、一見すると過去の痕跡などほとんどなさそうな街でも、じっくり歩いて話を聞き、モノを見、寸法に当たり、議論をすれば、それらを一貫させうる論理というものが意外に早く浮かび上がる。その論理にしたがって街を見なおせば、次々に過去の痕跡が語り始め、昨日まで見えなかったモノが見えるようになり、薄っぺらに思えた時間の厚みがぬーっと広がっていく、そんな経験をする。最初の仮説はたいてい半分くらいは裏切られるが、半分が生き残って更新される。

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[最終日前夜のミーティングの様子]

 8月17日には彰化県文化局・田中地政事務所による(僕の)講演会が沙仔崙(今日、学会の大会で報告した調査の対象地)にて開かれ、県長(知事)、県文化局長、県の地政事務所長や各地区事務所主任・・といった錚々たる方々が会場に来られた。何だかすごかった。その日の夕刊に出て、TVに出て、ちょっと有名になった。ありがたや。

 8月20日には台北の中央研究院に招かれ、地理学の廖泫銘先生と互いの研究や活動を紹介しあった。辻原先生夫妻も同席。廖先生の歴史地図アーカイブには今まで知らなかった地図資料がわんさかあり、彼自身がシステムエンジニア的な面でも頑張っておられる。これまたありがたや。通わせていただきます。

2014/09/07

ミクロな実証とマクロな枠組がいよいよ立体的に結びつきつつある・・・台湾調査2014沙仔崙

 2014.08.09〜08.24 台湾。学生たちとみっちり調査をしたのは8月11日〜21日で、そのうち2日はエクスカージョンだったし、初日と最終日は半日だから、まあざっと1週間の調査だったことになる。今年のターゲットは彰化県田中鎮の沙仔崙Sua-a-lun という街だ。いや「街」だと思って調査に臨んだら「村」だったので腰が抜けた、というのが初日で、そこからモリモリと色々なことが分かっていくというちょっと今までにない経験をした。 (*以下、地名にアルファベットで読みを付しているが今回はすべてホーロー(ミンナン語)にしてみた。

 そんなお粗末な、と思われたであろう。はい、そうです。ぼくたち、周到な準備をして調査に臨むなんて滅多にない。でも研究の枠組みというものは当然ある。すぐ近くに田中Tian-tiong という街があって、これは20世紀初頭に新たに建設された都市。もとは地名が田中央であったことからも察しがつくように水田のただなかであった。昨年はこの田中という街の調査をして、漢人が何もないところからどうやって都市を立ち上げるのかのひとつの重要なドキュメントをつくる手がかりを得た。彼らの理念的な都市像と、実際の開発手法、土地所有=経営、社会=権力構造などが立体的に結合した都市概念が描き出せるだろう。さて、以前から知っていたことではあるが、この街には前身があって、それが1898-99年の両年にわたり激甚な水災・火災に見舞われたため田中に移動してきたのである。この前身の街こそが沙仔崙であり、今年はこの街を調べることで、旧街と新街との関係すなわち都市移動のダイナミクスへと視野を広げようと考えたのである。ところが・・・沙仔崙は街ではなかった。正確には、アーバンな類型のティシューを備えていなかったのである。

P8180549[fig.01] 沙仔崙は、この一本の道路を軸とし、これに沿った長さ三〜四百メートルのリニアな集落なのだが、この写真のごとき景観を見れば、まあ小さいながらもいちおう都市的なティシューだなと思うよね。昨年、車でざっと廻ってもらって下見したときは、僕もそう思った。けれどやっぱり自分の足で歩かないうちに判断しちゃいかんということを今年は痛感した。次の写真をご覧あれ。

P8200215[fig.02] うわ、マズイと思ったね。新しいRC町屋の間に挟まれるように、古そうな三合院のカケラが残っておるではないか。裏へ回り込んでみると・・・

P8120284[fig.03] はい、三合院。正身の左右から護龍という腕が伸びてコ字型平面をつくる三合院の、片方の肩から腕にかけての部分が残っている。つまりもともとは整った三合院が立地する、正方形に近いプロポーションの大きな屋敷地があって、それが比較的近年(過去30〜40年の間に)細分化されていった結果が、fig.01のような状態なのであろうことが直ちに理解される。

P8150259[fig.04] もうちょっとカケラの写真をどうぞ。写真の左に見える赤煉瓦が正身(の中央部)で、右に見える赤煉瓦は左護龍(の中央部)。うひゃ、ぶつ切りにされているではないか。こういうのがよく見ると集落のあちこちに転がっている。だんだん面白くなってくる。

というわけで、最初の思い込みを否定するのに30分も要しなかった。沙仔崙は紛れもなく農村的な集落だったのだ。次に立てた仮説は、20世紀初頭の遷街で住民が田中へ移ってしまったために沙仔崙は農村化したのだろう、というものだ。ここで「棄てられた都市」というキャッチフレーズをとりあえず立ててみたのだが、歩けど歩けど、百年ほど前には都市だった、とみなせる根拠は見つからない。アーバンなティシューとルーラルなティシューとは基本的に異質なものであって、かつてアーバンであったのなら僕らにも察知できる何かがあるはずだが、それが一向に見つからない。

P8120220[fig.05] 初日夜、宿の食堂にてミーティング。「棄てられた都市」というテーマはいちおう留保して、現在の公図(地籍図)をじーっと睨んでみた。アミダクジをみれば誰だって後に入れたのはタテ線じゃなくヨコ線だと分かるよね(線の勝ち負けという図的な理屈)。それと同じ要領で新しく短い線から順次間引いていけば、かなり蓋然性の高い地割の復原図が得られる(もちろん仮説)。それを皆でやってみると、多少の解釈のズレはあっても、大局的にはどう見てもこりゃ正方形に近い元来のロットが相続等のために分割されてきたと見るのが適切だなと判断できる。都市が棄てられたから農村化したのではなく、沙仔崙ははじめから農村だったとみてまず間違いない。

 ここで一気に視野を広げてみよう     この地域は、台湾西部平原の中央を流れる濁水渓Lo-chui-khoe(螺渓Le-khoe とも)の流域としてつかまえられる。中央山脈から丘陵部を走った河川は、平野部へ出ると土砂を大量に吐き出しながら流速を下げ、複雑な網状の流路をなし、複数の流れに分かれ、やがて蛇行し、最後に三角州やラグーンをつくって海に注ぐ。このうち、山から平野に出た後、15〜20Kmくらいの間は3本の主流を擁する見事な扇状地が形成された(20世紀の治水工事により今は1本の主流に集約されている)。台湾は台風の通り道だし、雨期の雨は凄まじい。ひとたび大雨になれば流れは暴れ狂い、溢れ出して流路を変える。これを繰り返して砂礫を均等にばらまいたから(水圧をあげるとホースが首を振るイメージ)、濁水渓の扇状地はとても美しいかたちをしている。

 ざっくり言うと、濁水渓流域では18世紀を通じて大陸からの漢人移民・開拓が進み、大陸の泉州Choan-ciu や厦門E-mng などとの交易を担う沿海部の港市(鹿港Lok-kang)、平野部穀倉地帯の集散拠点(多数)、山地資源の集散拠点(林圯埔 or 林杞埔 Lim-ki-poo)、これら全体を統治する行政拠点(彰化Tsiong-hua)といった諸カテゴリーの都市も育っていった。思い切って要約すると、この世界は(1)地理学的には濁水渓流域、(2)行政的には彰化縣城管下、(3)経済的には鹿港経済圏として規定できる。

 経済的支配力は対岸貿易港たる鹿港が握ったが、しかし、その「鹿港経済」ともいうべきものが内陸部にまで浸透するには中流域=扇状地内に立地する小規模都市群の存在が不可欠だったことも事実である。最近ぼくらが注目しているのはこれらの都市群である。言い換えれば、繁栄する対岸貿易港(鹿港)と、山地エンポリアム(林圯埔)との間に立地して内陸部に物流の血液を行き渡らせる、内陸中流域の河港都市群である。これらは荒ぶる扇状地の水害リスクに悩まされつつ、しかし扇状地に立地し鹿港経済圏のサブセンターたることによって経済的に存立するというアンビバレンツに規定された都市群だと見ることができる。鹿港が景観的にも社会的にもほとんど泉州や厦門とそっくりの街だったとすれば、むしろこれら内陸河港都市群こそ、地理学的に厳しい環境に適応し、何度も破壊と再生を繰り返し、入植者たちの貧困や闘争を体現した台湾的な都市だったということもできるのではないか。

 18世紀中に姿を見せるこれら内陸河港都市群のひとつに東螺Tang-le という街がある。やはり細かい話は省くが、沙仔崙はこの東螺から19世紀の初頭に分裂し移転してきたある集団の流れ着いた先である。東螺ものちに移動して寶斗Po-tao (のちの北斗)になるのだが、それはさておき、沙仔崙は再び19世紀末に壊滅的被害を受けて田中に移った、というのがそれなりに知られている歴史の筋書きだ。だから沙仔崙もまた、歴史のなかで変転めまぐるしい小さな内陸河港都市のひとつだったのだろうと思い込んでいた。

 ところが、それがルーラルな集落だったことが分かったのである。ただし一方で、屋敷地が一本の道路に沿って整然と並べられており、かつ、地割のサイズに計画性がうかがえることも特徴。ここから立ち上がる仮説は、次のとおり。

(1)19世紀初頭に東螺街から分裂した集団は、おそらく他集団との闘争(いわゆる「械闘」)に敗れて水運の権利を失い、商業を放棄し、沙仔崙に土地を取得して計画的にルーラルな集落を営んだのではないか。

(2)沙仔崙とは直訳すれば“砂の山”の意味で、台湾には同様の地名が多数ある。おそらく河川敷(増水時には冠水する)のすぐ外側にできた自然堤防的な砂礫の微高地がそう呼ばれており、彼らはその微かな線状の高まりを選んで移転先を決めたのだろう。

(3)その後ようやく安定した沙仔崙の集落も、19世紀末に再び大洪水で流され、応急的に再建された集落も火災で焼失してしまう。これを機に、沙仔崙に隣接する田中央に土地を入手して集住地を移転させる事業を決断したのだろう。

(4)新街建設を主導したのは沙仔崙の有力者で、彼らは移住同胞を率いたのみならず、濁水渓河系のネットワーク内から移住者を募って、最初から都市的集住地を創出する開発計画を練った(このときの市街計画のプランがきわめて興味深いのだがそれはあらためてどこかで発表するつもり)。このとき主導者らが植民地権力による鉄道駅開設の情報を得てそれに近い立地を選んだとの説もある(実際、田中は植民地期を通じて鉄道街として発展)。

(5)いま沙仔崙に残る三合院のカケラは、田中への遷街後も沙仔崙に残った者たちと、空になった地所を購入して周辺から移住してきた者たちとが20世紀前半から中盤にかけて建築したものであろう。

 およそこうした仮説が調査1〜2日で立った。いつもそうだが、ここまでは速い。しかしこれを検証・修正するには馬鹿馬鹿しいほどの労力と時間が要るし、たくさんの方々を巻き込み、面倒をお願いすることになる。

 今回の調査期間中には、まずカケラの実測調査と詳細な聞き取り調査によって、20世紀中盤の集落景観を復原することができた。予想通り、三合院だけが並ぶ完全にルーラルな集落景観の復原図が得られた。この経験は重要だった。類型性(タイポロジカルな性質)を分有する建物のカケラ(オブジェクトレベルの断片の残存)と、それに対する介入のパタン性(メタレベルの変化の論理)がつかめれば、論理的な類推によって数十年遡る程度の復原はかなりの精度を持たせうることをあらためて実感。

 20世紀前半については植民地期の行政書類ならびに主要家族の族譜(家系図)を付き合わせることによって概況をつかみつつある。植民地行政は遷街直後の沙仔崙の土地・建物の状況を記録しているが、それはぼくらがまったく予想しなかった集落の実態を指し示している。

 19世紀の地域史に関する仮説は、調査期間中に専門的研究者の方々に色々ご教示いただいて修正することができたし、またより大きな視野で展開すべきテーマも見えつつある。

 たったの1週間ほどであったが、意義深い調査だった。

 地域の皆さん、とくに沙仔崙の住人の皆さんにはほんとによくしていただいた。謝謝。成果は法政大高村雅彦先生代表の科研研究会でまず報告し、来年の建築学会大会で発表しますので、それを持ってまた来年うかがいます。

P8190010[fig.06] 後日、沙仔崙在住の方から提供いただいた約40年前の写真。正身がRC町屋型に建て変わっているが、護龍(腕)は残っている。これが竹造であることに注意されたい。聞き取りによると50年前までほとんどの家屋は竹造・平屋建・茅葺だったという。

 一昨年に調査した北斗には竹造町屋がたくさん残るので、濁水渓河系は20世紀初頭まではほぼ全面的に竹造家屋に埋め尽くされていたとみて間違いない。南部はその割合がもっと高かったことを示す総督府調査がある。これも従来の台湾建築史・都市史で看過されてきた重要問題。

P8190066[fig.07] こんなこともやらせていただいた。廟での聞き取りシンポジウム。

P8150318[fig.08] 皆、疲れてきたみたい。沙仔崙の大廟(天受宮)前にて。

 この場所にはもともと沙仔崙の中心となる媽祖廟「乾徳宮」があった(媽祖=天上聖母は台湾でもきわめてポピュラーな航海の女神)。それが遷街によって田中に移され、以後半世紀ほど空地になっていた。現在の天受宮は1950年代の創建で、玄天上帝を祀る。

P8200222[fig.09] 調査最終日の一枚。通い詰めていた食堂「大象」(象さんの意)のオヤジ夫妻と。学生の皆もお疲れさん。

2014/04/17

備忘録:台湾の太陽花学運(ひまわり学生運動)(立法院占拠)について

TaiwanSunflowerMovement

 3月末から4月初にかけて台湾におり(当ブログのひとつ前のエントリ参照)、帰国前日の4月5日の夜、台北の立法院周辺を歩いて参りましたが、立法院(国会議事堂)の学生らによる占拠とその周囲で展開された連日の運動には多くのことを学ばせてもらった。運動の担い手は、コアとなる学生たちだけでなく、近年の多様な社会問題に対する運動を展開してきたいくつかのグループが母体となり合流した複合的な様相を示していた。そのことからも分かるように、彼らが闘っていた問題は、直接には中国との間で結ばれるサービス貿易協定が台湾人の生活にもたらす深刻な影響と、にもかかわらず国民に情報をほとんど提供することなく「黒箱(ブラックボックス)」のなかでほぼ無審議のまま関係委員会と本会を通そうとした政権与党のやり口であったが、問題は台湾-中国の二国間問題であるだけでなく、経済のグローバル化、新自由主義的な政策の問題であり、部分的には都市問題や環境問題にもつながっている(つまりこの運動は“都市反乱”の側面をもつ)。そういう広範な一般的問題系の拡がりをきちんと見たうえで、それが同時にいわゆる台湾問題(台中関係)に重ねられてしまう事情を理解しなければならないだろう。

 私自身はもちろん立法院の議事堂内部は見ていないが、その建物の外周がみごとに無政府的に装飾されており、しかし周辺の一定エリア内の路上各所で連日連夜展開された数々の演説会や勉強会や映画上映会や・・・も、それを支える物資調達ステーション、医療チームやカウンセリングチームのテント、スマホやPC端末の充電ステーションなどのいわば兵站作戦も、また最初から最後まで密着して報道・記録するメディア一社との提携も、実によく組織化され、きちんと生態系が作動していることに驚いた。大学の試験対策のための互助的な学習サポートデスク(!)もあり、大学教員の講義や演説もあり、デモ参加による欠席は単位修得に影響しない旨を発表した大学さえある。何人かの学生に話しかけたが、みな落ち着いており、ひとりひとりが生態系の一部を担っていることをよく理解していた。とても大人だった。(師匠のF先生に報告したところ、68年の東京もだいたい同じようなものだったと言っていた)

 彼らは政権与党から一定の理解を引き出して4月10日に立法院から退去した。占拠開始は3月18日だったから、24日間か。去り際も素晴らしく、隅々まで丁寧に掃除し、建物や什器の修理費用をきちんと建築専門家に見積もらせていた(与党サイドが過大な見積りを出すことが分かっていたからだ)。その後もまだ立法院周辺で活動を続ける一部のグループもあり、運動は終わったわけではない。また問題そのものは、おそらくそうよい方向に転換するわけではないだろうと思う。与党は圧倒的多数を持っている。それでも、この運動とその経験の意義は、やはり大きい。

 以下、いくつか記録・記憶すべき情報がまとまっているサイトを紹介しておく。

  • 佔領立法院 on GoogleMap(上にざっと紹介したような運動全体の空間的布置をまとめている。アイコンの凡例を参照しながら地図を読むと大変面白い。地図中のアイコンをクリックしても情報が出る。拡大して見てほしい。) → こちら
  • 蘋果日報のまとめ記事(運動の全貌をタイムライン形式でまとめた秀逸なアーカイブ) → こちら
  • 台湾学生による立法院占拠 on Wikipedia(中国語、英語記事もあり) → こちら
  • 太陽花学運(ひまわり学生運動)日本語サイト → こちら
  • 原來 短時間我們如此強悍:太陽花運動科技應用創新總整理(この運動で活用された情報技術などを紹介) → こちら

写真はすべて4月5日夜22〜23時頃に撮影。

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2014/04/08

ゆえあって、こんなことをして参りました。

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行程データ:
台北→大園→後龍→西螺→台南→枋寮→台東→瑞穂→礁渓→台北 (花蓮→蘇澳:鉄道)
9日間(03.28-04.05) 896Km
標高0〜546m(図中のグラフは高度の推移を示す)

台湾の地形を学びました。

2013/11/03

青井哲人著・張亭菲訳(中国語)『彰化一九〇六年:一座城市被烙傷,而後自體再生的故事』ようやく手もとに届く。

changhua1906_2013s彰化 一九〇六年:一座城市被烙傷,而後自體再生的故事
青井哲人著・張亭菲訳
中国語
大家出版(台北
2013年10月

自分の怠惰のためにずいぶん長い時間をかけてしまったのだが、『彰化一九〇六年:市区改正が都市を動かす』(アセテート、2006)を大幅に増補し(2倍近くなっている)、それを中国語に訳した本が台湾で刊行された。実は、すでに10月初から台湾の書店に並んでいるが、なぜか出版社が我々に送る分を船便にしたのでようやく今現物を手にとった次第。この間、自分は見ていない自分たちの仕事について、台湾の先生や友人や多方面の皆さんからすでに嬉しい感想を頂いたり、台湾に行った知人から本見たよと言われたりするということが1ヶ月弱も続いたせいか、現物を手にした新鮮な喜びが薄い!(これホント)だけど、今まで講演等で紹介することはあったが、やはり活字になって台湾の読者に直接広く読んでいただけるというのはまるで意味が違うし、最近の若い世代にはきっと響くと思う。出版社の皆さん、また今回の増補にあたり資料・写真等を提供いただいた友人の皆様にはこの場を借りて感謝したい。訳者の亭菲さん、あなたが一番苦労したね、お疲れさま。

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表紙の黒い写真は、1945年4月18日に米軍爆撃機から撮られたもの(甘記豪氏のコレクションよりお借りした写真)。その上に、半透明の特殊な紙のカバーがかけられており、2003年8月に僕がチャリンコで彰化を隈なく廻ったときの野帳が印刷されている。

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カバーの見返しに、原広司『集落の教え100』の中国語版の案内が!この本も同じ出版社だったのね。何か嬉しいね。

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最初は本のコンセプトを編集者が理解しているとはとても思えなかったが、このかっこいい文は、最後に担当編集者が書いてくれたもので、僕らは手を出していない。訳文の調整のために相当のやりとりをしたからね、もうすっかり分かったみたい。「『彰化一九〇六年』は都市計画史ではなく、また市民生活史でもない。それは都市そのもの、つまり彰化自身を主語とした物語なのである。」

2013/09/07

台湾調査2013夏 記録[後半]

台湾調査の後半は、8月16〜21日、彰化県田中鎮の中心部(旧田中街)を10名で調査した。この街は1898-99年にかけて甚大な水害(2度)と火災(1度)に遭い、1900年以降に新街を建設した、という経緯があり、街の特徴は以下のとおり。(1) 廟を北に置き、南へ大街を伸ばして都市軸とする。(2) 大街に沿って間口4〜5m奥行き50m弱の狭長ロットを両側に約50ずつ割り付けて町屋を並べている。(3) 町屋列の背後に正方形に近い邸宅用のロットがやはりかなり整然と区画されて、当初は大型の三合院が12ほど並んでいたらしいことが推測できる     非常に美しいプランであり、合理的かつ理念的な体系の所在を感じずにはおれない。

 さて災害を契機とする市街移転が20世紀初頭に行われているという、このタイミングは非常に重要である。というのは、この時期ならまだ19世紀までの新街開発の伝統がほぼそのまま発動したと考えられ、かつ、植民地期に入っているため一定の行政史料があり具体的な様相がそれなりに復元できるからだ。今後展開すべき主題を色々蔵している街だということは今回の調査を通じて次第に明らかになったのだが、最初から確信していたのは、要するに台湾で「漢人が街をつくるということ」について歴史的かつ理念的に遡って考えるための貴重なケーススタディになる、ということだった。こういう街に出会うためには広く各地を訪ねることも必要である。

 今回の調査では、わたしはほとんど奥さんと二人で役所を廻って地籍図・土地台帳・土地登記簿などの入手可能性を協議したり、有力者層の子孫に族譜(系図)なぞ見せてもらいながら聞き取りをしたり、というような動き方をして、町屋そのものの調査は白さん、ジョージと学生たちに任せることになった。2010年からの台湾都市サーヴェイ・シリーズのテーマについては彼らの調査で今年も成果が上がっているが、わたしは今後また数年間かけて展開すべき研究計画を練りつつある。

 もちろんここ数年の成果(少なくとも4つほど大テーマがある)を吐き出す仕事もしないとダメ(今年は日本建築学会大会で10本発表したのでようやく少し出したわけだが)。

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2013/08/26

台湾調査2013夏 記録[前半]その2 動画+写真編

まずは大丘園という山間の村での竹造三合院の調査風景(表示に少々時間がかかるかもしれません)。

実測は、D3陳頴禎さんの指導の下、B4の3名が行った(3名とも初めての経験でしたが、わりと最初から上手でした)。

あとは前半調査で出会った人々や風景など適当にみつくろって。

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竹造の家屋って、何だかユーモラスで、ちょっとだけ悲しい美しさを湛えてる。それって民家のユニヴァーサルな特徴なのかもしれない。

2013/08/25

台湾調査2013夏 記録[前半]

taiwan_map.032[前半調査]竹造家屋の分布と成立背景をめぐる領域論的調査。台湾は九州ほどの島で、やや東に寄った位置に南北に連なる中央山脈があり、東はそこから一気に太平洋の海溝まで落ちるのであまり平地がないのだが、西には台湾海峡に向かって平野が広がって穀倉地帯を形成する。私たちが注目する竹造家屋(竹管厝などと呼ばれる竹造穿斗式建物)は、台湾中南部では1930年に至ってもなお一般家屋の過半数を占めていた。とりわけ西部の中山間部と、西海岸の沿岸部はその集中的な分布域で、戦争を挟む時期まではおそらく100%に近かったのではないかと思われる。その間の平野部にも竹造家屋はあるが、もうひとつのドミナントな構法である土确造(日干煉瓦造)と混じる。木造(杉材の穿斗式)、煉瓦造(焼成煉瓦)など他の構法ももちろん古くからあるが、比較的裕福な層でなければ採用できなかったのでごく少数にとどまった。今回の調査は、このうちとくに竹造家屋に注目し、その材料である竹材の生産・流通・市場とそれを支えた人々を復元的に把握することが目的。

 地図に明らかなように、中央山脈に発した幾筋もの河川は、東から西へと流れ、台湾海峡へ注ぐ。竹林は中山間部に集中しており、1960年頃までは、そこから河川を使って沿海部まで竹が流されていた。これを「放竹仔」、あるいは排(=筏)に組んで流したので「放排仔」とも言った。今回は、中部から南部にかけていくつかの主要河川を実際に上流から下流に向けて車で下り、各所で聞き取りや実測をしつつ、約半世紀前までに存在していた竹の流通と市場を復元してみようという趣向。

 簡単にまとめると、今回の調査では、1) 二仁渓、2) 曾文渓、3) 烏山頭ダム周辺、4) 濁水渓の、4系統の「放竹仔」を確認できた。現在聞き取りで確認できるのは、おおむね植民地末期から1950年代までで、それ以前は定かでない。この範囲では八掌渓には「放竹仔」はまとまったかたちでは存在しなかったと見てよさそうだ。

 竹の産出地は同程度の標高にある南北の帯状のエリアに限定される。このエリアより高いところはかえって台地(河岸段丘)が発達して農地に適すし、もちろん低いところには水田が広がる。その間の標高数十〜百メートルあたりのエリア、とりわけ南部のそれは白堊鹽土(塩分を含む白い粘土)からなる比較的急峻な丘陵部で、竹の栽培くらいしかできない。一方、沿海部では、砂地のため農地に適さないだけでなく、竹も育たず、零細漁業の貧困地域となるため、竹のような安価な材(建築だけでなく、あらゆる生産用・生活用の道具の材料となる)への需要が大きい。この二つの地域が、適当な河川によって結びつく場合に、「放竹仔」が生じる。また、こうした河川流域にまとまった都市が存在する場合、その商人が竹の流通販売を担うが、都市自体にも大きな竹需要がある。とくに、河川の氾濫を含む災害頻発地の場合はとくに都市全体の再建が度々必要で、安価な竹材の需要があった。彰化県の北斗などはその例で、清代にも「放竹仔」があったらしい。いずれにせよ、こうした諸条件が、竹造家屋の分布の背後にあったのだと考えられる。

 しかし一方で、かつては平野部にも豊富な竹薮が存在し、沿海地域の村落もわざわざ丘陵部にまで竹を求める必要はなかったのではないかと思われる(北斗の場合、災害復興という大量需要のため丘陵部からの河川流通が必要だったと考えられる)。この平野の竹林が植民地期に一掃されていくことに注目しなければならならい。他方で、竹は果樹等の商品作物に比べて単価が小さく、産業として編成するためには大量に生産・販売する必要があったと考えられる。こうして、竹林の集中的造成と竹材の河川流通が形を整えていくのは植民地後期なのではないかとも考えられるのである。烏山頭ダムのケースのように、むしろダム建設によって竹の生産流通が派生することもある。もしそうなら、植民地支配下の官製もしくは大資本が支配するのとは別の、「もうひとつの産業・流通体系」が近代化のなかで発達していたことを、具体的にイメージできる。それがごく一握りの限られた世界の外側に広がる、建築生産と生活風景に対応するシステムなのだろう。

以下、調査日誌。

◉8月6日(火):JL099 東京羽田→台北松山

◉8月7日(水):新店市の出版社グループ「読書共和国 Book Republic」内の「大家出版」にて、『彰化一九〇六年』(大幅増補改訂・中文)の最終打合せ。双方の都合で伸びに伸びたが、ようやく10月出版が確定。あとは校正を丁寧にやるのみ。表紙デザインはどんなのができるかな。出版社の総編集長、編集担当、その旦那さんでもあり我々の友人でもある黄恩宇さん(文化大学建築系)、そして本書の訳者である妻の亭菲、私の5人で食事。

◉8月8日(木):9時に学生たちも集合して台北を出発。これから一週間、車の運転手は昨年もお願いした呉佳承さん。調査メンバーは陳頴禎、城将、吉田郁子、平場晶子(以上明治大)、白佐立(東京大)、そして私と妻の計7名。14時30分、台南市左鎮着(以前の台南県全域を合併して大台南市が成立)。まず台南市自然史博物館を訪ね、穆さんに5年振りに再会。学生たちは平埔族と漢人の歴史的関係を学ぶ。ついで7年前から何度か調査でお世話になっている茅さんを訪ね、今回の調査について地図を広げて座談の後、車で草山の集落へ。ここは台湾南部のいわゆる月世界の最頂部であり、このあたりから南と北の二方向に発した河川が台湾海峡へ注ぐ。ひとつは高雄市と台南市を分ける二仁渓であり、もうひとつは台南市の北部を流れる曾文渓だ。この両方で「放竹仔」が行われていた(その形態がかなり対照的であることはこれまでの調査で把握済み)。

◉8月9日(金):曾文渓の本格的調査初日。まず、楠西と玉井へ。これ以上遡ると阿里山の領域に入る。河川流通が可能な臨界だ。古老への聞き取りによれば、半世紀遡ればほぼすべての家屋が竹造であったことは明らかだが、「放竹仔」については記憶のある人がいない。続けて、川に沿った集落や街の主なものをひとつずつ狙っては訪ねる。豊里、二渓、頭社・・・、どうも芳しくない。しかし、夕方17:00頃に大内にまで下ったところでビンゴ。天后宮の廟前広場にいたおじさんが詳細を克明に語り出す。これ以上下るともう竹林が集中する世界は終わるが、ここからいくらか上流にいくともうコストが合わなくなるのだという。道理で今朝から芳しい情報が得られないわけだ。そして、大内という地点はちょうど、左鎮に発した菜寮渓が曾文渓に注ぐあたりでもあり、ここで「放竹仔」も合流していたのである。

◉8月10日(土):前日、楠西で出会ったJ氏が、台南市内の我々のホテルを訪ねて下さり、2時間ほどお話を伺う。楠西や玉井あたりの地理学的位置づけについて貴重な示唆を頂いた。「放竹仔」の竹の産出地にはどうやら共通の地質的特徴がありそうだ。午後は曾文渓の下流(沿海部)へ。鹿耳門あたりのいくつかのポイント、そして安定で竹を引き上げて売る「竹市」がかつて存在したことを知る。以前の調査で、西港に大きな竹市があったことをつかんでいたので、その周辺のいくつかの小さな取引の場を把握できたことになる。

◉8月11日(日):再び楠西へ。鹿陶洋の江家集落を再訪。数少ない土确厝の一軒に、竹製の紅眠床(伝統的な八脚の寝台)を学生たちが実測。博物館以外で出会うのは初めて。昼食後は曾文水庫(曾文ダム、建設1967-73年)の西口へ。東口は曾文渓に注ぐが、西口は人口の地下水路を通って、植民地期に八田與一が建設した烏山頭ダムに注ぎ、そこから嘉南平野を潤す灌漑用水路のネットワークへと広がっていく。曾文ダムと烏山頭ダムの中間に位置する大丘園に今まで見たなかで最も保存状態のよい、つい先頃まで丁寧に使われていた美しい竹造家屋を発見。蚊に悩まされつつ学生たちが丁寧に実測。ところで、烏山頭ダムが1920-30年に建設されると、周辺に竹林が(おそらく砂防上の目的で)造成され、この竹を切り出して湖上を運び、大崎から荷揚げして陸上を運ぶ、というひとつの産業が派生したらしいことを聞き取りで確かめる。実際、ダム周辺の地形を観察すると、ダム側の斜面はすべて竹林であり、稜線を境に反対側の斜面はすべて果樹園となって別の生産体系に属すことが明瞭に見て取れる。そのあまりの明快な景観の転換にしばらく呆然とするとともに、領域論(テッリトーリオ)はマクロからミクロにわたる階層的秩序を丁寧に見る必要があることを実感する。

◉8月12日(月):今日は北漸して、八掌渓の流域をチェック。まずは下流域から怪しそうな地名、義竹。兄貴こと陳正哲先生が合流。でも結果は空振り。近くの鹽水も、そこで知り合った某氏の話も。こういう日もある。

◉8月13日(火):昨日の続きで、八掌渓の上流へ。中埔、なし。その支流のひとつ、石弄渓や澐水渓の沿岸集落もつぶしていくが、なし。結論としては八掌渓は急流すぎて「放竹仔」は不可能というのが妥当だろう。今日訪ねた村々も昔は竹造家屋ばかりだったとの証言は得られる。つまりここでは竹の世界は自給的であって、それ以上の産業には発展する余地がなかったことになる。「空振り」の2日間は、河川があれば「放竹仔」があるという予断を否定し、それが成立する要因を問い直す重要な契機を与えてくれた。また、いくつかの民家と竹を用いた製紙産業の存在なども取材。

◉8月14日(水):再び陳正哲さんが合流して、今度は濁水渓の調査。昨年都市調査を行った北斗は、この河川での竹の流通に支えられて、都市全体を竹造で建設し、災害のたびに再建してきた街だった。だが、濁水渓の平野部での流路は植民地期の土木事業で大きく変更される。だから今回の調査では上流部をチェックしていくことに目的を限定。まず西螺にて詳細な情報を得る。林内でも話が聞けるが、次第に大雨のため調査続行は難しくなり、瑞竹にてよい聞き取りが出来た後は断念。ただ、竹山周辺地域の「放竹仔」については南華大学の60才の学生さんがまとめた修士論文が地理的に細かく把握しており参考になる。

* 以下、後半調査についてはまた別にしたためます。