VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

2011/01/11

ベトナムより帰国しました。

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ハノイでは旧市街(中部のホイアン、フエとも、計画性の南部の強いサイゴンとも異なる、まさに管建築 tube house と言うべき狭く深い町屋が個別に更新してきたプロセスの堆積としての都市組織)のあらゆる意味での密度・濃度の高さに驚き、また、フランス極東学院を前身とする歴史博物館ベトナム史をとくに中国史との関係で整理し直し、さらにベトナム社会を構成する数十の民族文化を展示する民族学博物館の充実振りに唸る。とくに民族学博物館の屋外に再現された実物大の家屋はなかなかのもので、その構法的・意匠的な力強さとともに床レベルや間仕切りに繊細な処理を読み取るのに躍起になっていたら丸一日過ぎてしまった。コートを着て凍えながら鍋をつついていたハノイから、再びTシャツとビールサイゴンホーチミン)に戻り、最終日(1月8日)はせっかくなので予定外だがメコンデルタへ日帰り。川沿いに並ぶ杭上住居群 stilt houses および川面に浮かぶ筏上建物群 floating houses を眼におさめる。上の写真はココナツの皮を削ぐ作業場から対岸の半杭上住居群を見たもの。ミルクキャラメルのような色をした川のうえを、砂利・煉瓦木材などの建設資材のほか、米や果物などが行き交っていた。夜はサイゴンに戻ってベンタイン市場脇の夜市でベトナム最後の食事とビールを楽しみ、同日深夜の飛行機で9日早朝に帰国。

初めてのベトナムだったが各都市あるいはその近郊の住宅を不動産・都市組織のレベルから生活・身体のレベルにいたるまでそれなりに実感することができ、色々と眼を開かされることの多い旅になった。調査の主目的に関してとくに印象深かったのは、周辺的・重層的文化における、身体とモノ(床や壁、棚や台や敷物など)との諸関係を決める形式の多様さ・繊細さで、それが儀礼や社会のヒエラルキーに関係していそうな点では王朝の存在も当然ながら気になった。もちろんまだ断片的で直感的にすぎないし、ベトナム史は相当に錯綜していてとても僕には掴める気がしないが、ともかく朝鮮半島や日本とも共通する感覚だ。いま台湾で進めている研究にもひとつの参照軸になるだろう。

2010/12/31

ホーチミン・シティの華人たち

12月24〜28日の短い滞在だったが、ホーチミン市で華人たちの住まいをぶっつけでかなり見せてもらった。出会った華人たちのなかから3人ほど紹介してみる。

Mさん。本籍は中国広東省鶴山。1940年代前半、国共内線の激化にともない曾祖父が祖父たちに避難を指示。祖父家族はフランス統治下のサイゴン華人街チョロンに住みつく。Mさんは1965年にチョロンで生まれた。米軍の北爆がはじまった年だ。1975年、10才のときベトナムの解放=統一が成り、サイゴンホーチミンと改称されて社会主義国家に飲み込まれた。曾祖父は共産主義を恐れて家族を国外へ出したはずだったのに、あろうことか移住先もまた共産主義国になったわけだが、曾祖父はそれを知ることはなかった。彼自身は故郷に残り、文革のとき自分の邸宅を追い出され付属の柴小屋に寝るようになったが耐えきれずに自害していたからである。チョロンではフランス人が所有していた里弄型住宅地の一戸に住んでいたが、統一とともにすべてが国有化された。3年後のある夜、同じ住宅地に軍人が押し掛けて来て比較的裕福な家の戸を叩き、その家族は農村の開拓に従事させられた。北米大陸その他に逃げていった人々、途中で死んだ人も多い。空き家になった部屋にはベトナム人、とくに革命に貢献したと讃えられる家族が移住してきた。華人ばかりの街区だったが、いまや30%ほどになってしまった。

Sさん。本籍は中国福建省泉州1943年生。1989年にチョロンに移住。そこに住んでいた男性に嫁いできたのである。夫の姉夫妻がもともとその家の持ち主だったのだが、共産主義体制を嫌ってカナダに移住したその後におさまったかたちである。彼女はもともと普通語(北京語)と福建語(閩南語)を話せたが、この20年のうちに広東語ベトナム語を覚えた。もともと福建系の資本で開発された里弄型住宅地だが、統一後の混乱のなかで広東人(潮州人)、ベトナム人が増えたのである。Sさんによると、この6〜7年でこの街区はずいぶん変わったという。政府不動産の払い下げをはじめてから、この街区はほぼ全員が土地建物を所有しており、経済状況もよくなって次々に更新しているのだ。Sさんは何も言っていなかったが、この街区は5年ほど前に日本人が実測調査をしたことがある。東大(大田省一さんら)と法政大(高村雅彦さんら)の合同調査だ。おそらくその調査の後も路地裏の景観はかなり変化しているのだろう。

Hさん。彼は父親のパスポートを見せてくれた。1954年に発行された「中華民国護照」(護照はパスポートの意)である。本籍は福建省安南。現住所は「Rue Foukien, Cholon」(チョロン福建通)。自分は1962年生まれ。親父の家は共産主義ベトナム政府に奪われた、というと語弊があるから「接管」と正確に言うべきだなと彼。Hさんは福建語と北京語の他に、習った英語を流暢に話す。姉がイギリスでビジネスに成功しており、その送金で建て替えた家が2年前のクリスマス竣工した。その前はフランス植民地時代に建てられた平屋の里弄型住宅だったが、新しい家は鉄筋コンクリート造の4層。奥深い敷地の中央に階段室があり、前後に寝室が振り分けられる。ロンドンにいる姉のためにリザーブされた寝室は一番よいところにあり、この部屋にだけ空調がついているが、姉はいないから皆この部屋で過ごすことが多いという。

さて我々は12月28日夜の寝台列車にのり、16時間ほどかけて29日夕方にホアインに到着。今日(29日)はホイアンの町屋をじっくり観察した。昭和女子大チームの報告書がすばらしい。僕らは僕らの関心に基づいて実測+インタビュー。衝撃の事実を知りうろたえています。

2010/12/26

ホーチミン市・華人街チョロンの里弄型住宅地

R0019526ホーチミン市は、古くは漁村集落を起源とするが、クメール人が進出してカンボジアが優越した時代もあったものの17世紀初期からベトナム人移住が進行し、1698年には阮朝がベトナム人の統治機構を樹立。1790年にボーヴァン式城塞を築き「嘉定城」と称した(フエの城塞は1805年からの建設で形態は異なる)。これがサイゴンで、その西に運河で接続されて形成された華人主体の街はチョロンと呼ばれる。1859年にはフランスに占領され、以後計画的な都市開発が進められた。

フランス時代以前にすでにチョロンの華人集落はあったが、植民地期以降のグリッド状の街路網整備とそこに充填される里弄型住宅地の開発によってたぶんすっかりつくりかえられたのだろう。大田省一さんによるとかつての都市組織は大幅に再編されてしまったようで、住宅開発は民間によるものであったようだ。写真は昨日訪ねた里弄型パッケージがよく残る例。

R0019145里弄型宅地の正面、ショップハウスのファサード。9間の中央間地上階が巷(路地)となっており、ここから入って階段を道路側へ向かってのぼると二階面路部のベランダ・ウェイへ出て各戸へアクセスできる。1層の階高が4mほどあるので初層・上層とも、造作によって内部を二分するもうひとつの床をつくり、二層にして使っている。ただし入口を入ったところのホール(客庁)は吹き抜けとし、神卓を置き、左右いずれかの壁に寄せて階段をつくる。寝室は、元来の床レベルにもあるが、主として造作による床のレベルが用いられ、ベッドを使うこともあるが、床上にそのままごろ寝する人も多いようだ。

R0019155上記の巷(路地)をそのまま奥へ入ってゆくと平屋もしくは二層の背割型の住宅が高密にひしめく。ほとんど皆さん嫌がらずに家にも入れてくださいました。普通語(北京語)、泉州語(閩南語)、英語を地区や住人によって使い分けながらある程度の聞き取りも行うことができ、ホーチミンの都市型住宅の一般的な形式と生活が(あくまで概要ですが)分かったように思います。

(追記)翌日は旧サイゴン側の地上げに悲鳴を上げるショップハウス群の一部を見てきました。チョロンよりも開発圧力が高く、生活水準も厳しいようです。

2010/12/24

ベトナム ホーチミンに到着しました。

R0019134 一昨日だか『新建築住宅特集』新年号が届きました。ご存知の方もいると思いますが、5月号から毎月登場してます(コラム=近作訪問とエッセイ=前号感想)。今回は前号の感想を書く番で、コーリン・ロウの「性格と構成 character and composition」(『マニエリスムと近代建築』所収。邦訳は「固有性と構成」ですけど美術史等を見ても「性格」と訳すのが通例です)を読み直して、18世紀末から19世紀にかけてのピクチャレスクと同じように、近年の日本の住宅設計では、建物ごとに固有の「性格 character」を求める趨勢が強まり、建主や目的や敷地環境の一見取るに足らない特徴を手がかりとして前面に持ち出すことでデザイン・マナーの開発が行われ、建物(あるいは設計者)としてはいくぶんか分裂的であっても厭わず、独自の「佇まい」(ピクチャ)をつくり出そうとする傾向が当然になってきた、その結果、従来の規範的形式が粉砕され粒子化しつつあるのだろうと書きました。同号に『住宅10年』をめぐる北山恒・篠原聡子・長谷川豪の鼎談が掲載されていて興味深く読んだのですが、やっぱり、ロウの言葉でいう「粒子化の時代」ですね、いまは。

 さて、もう昨日ということになりますが、23日(木)午前中は大学院の講義「都市史特論」で帝都復興(震災復興)にみる生成原理と計画との抜き差しならぬ関係について話し、それから成田へ向かい、23時半頃(日本の1時半)にホーチミンに到着しました。飛行機のなかではマイク・デイヴィス『スラムの惑星』(明石書店、2010)を読みましたが、いやいや評判通り強烈な本です。都市・建築の物的なあり方(つまりわれわれの建築的ディシプリン)に深く抵触してくるので興奮しつつ読んでます。

 ところで実はベトナムは初です。今回はメンバー4人。さきほど華人街=チョロン地区に面してたつ宿に入り、シャワーしてビール飲みながら、いま窓から撮った写真がこれ(↑)です。こういう街のおよその空間的ファブリック(組成)とその時間的な形成の順序みたいなものはフィールドの感覚でだいたいすぐ分かるわけですけど(ほんとは時間的順序を入れたかたちで理解された組織を「ファブリック」と呼びたい僕は)、明日からは可能なかぎり普通の町屋の中に入らせてもらうことがミッションです。楽しみで寝られん(ウソ、ここんとこあんまり寝てないから爆睡ですたぶん)。