走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

藤子・F・不二雄とアメコミと銃規制

 藤子・F・不二雄のヒーロー物に対するアンチテーゼって、好きになれないんですよ。『わが子・スーパーマン』とか『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』とか『中年スーパーマン左江内氏』とか。

 例えば『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』。ウルトラ・スーパー・デラックスマンもたいがいだが、彼に対する周囲の対応が原則ことなかれ主義による物なのがなあ。ウルトラ・スーパー・デラックスマンの力や行動を、世の中に役立てるよう動こうとは思わなかったのか?政府直属のヒーローに仕立て上げて、願望を満足させつつ力を暴走させないようにするとか。

 『中年スーパーマン左江内氏』は、誰も救えないと言うか、現状を何一つ変えられないヒーローってのが。そう言うのだと、池上遼一スパイダーマンも苦手。アメコミの『ウォッチメン』位突き抜けてたらそれはそれでと思わなくもないが、そこまで行ってないし。ラストに客演したパーやんの「百人いれば百の正義がある」と言う言葉も、何も言ってないのに等しいし。

 『わが子・スーパーマン』の、「自分の子どもがスーパーマンだったらどうする?」と言う主人公の問いかけに対する主人公の友人の返答も酷い。

「しめちゃうよ」
「相手は怪物だろ そんなの育てるなんて人類への裏切りだ」
「そんなのはどこまで行っても個人の正義に過ぎん」
「いつかどこかで社会と対立するもんさ」
「だから早いことしめちゃうしか手がないって事さ」

 おーい誰か磁界の王マグニートー呼んで来て、このバカしめちゃうように動かしてくれ。いや、『X−MEN』と比べたらあまりに酷い短絡的な答えだったんでつい。オレに超能力があったら、藤子Fの生きているうちにひっ捕まえて全裸にし、靴を舐めさせ、その光景をテレビ中継に……って、そりゃ2001年頃新潮社から発売されていた日本語版X−MENマグニートーアメリカ大統領にやった仕打ちだ!藤子Fが死んだのは1994年、知らん事を出来るわきゃない。

 話を戻して、藤子Fの上記3作品では、ヒーロー(あるいは強力な超能力者)を社会にとっての邪魔者として描いているようだ。アメコミのヒーローや超能力者のように、社会に居場所を求める活動をしたり社会がその力を利用しようともしない。マー、70年代の大人と書いてカタブツと読む層に向けて描いた作品の限界と言えばそれまでか。

 社会がヒーローの力を利用で思い出したのだけど、アメコミではヒーローや超能力者の活動を法で制限しようとする勢力や、実際に法規制されたらどうなるかをよく描いてますね。X−MENもそうだし、前述のウォッチメンとかマーベルコミックのクロスオーバー(複数のタイトルにまたがって展開するストーリー)『シビルウォー』とか、映画になるけど『Mr.インクレディブル』とか。

 これは私の独断だけど、アメリカの自警主義と、長年続いている銃規制の問題が反映されているのかも知れない。日本で似たような問題があまりないため、この辺の描写に差がついているのかも。日本で公僕以外にチャカ飲んでいると言ったら、ヤクザか極右だもんな。

 話を藤子F作品に戻して。『わが子・スーパーマン』は1972年に発表された作品で、劇中劇の怪人「ゾンビー」役の役者の訃報を告げる新聞に「ゾンビー死亡」と書いていたのだが、快傑ライオン丸タイガージョー役の戸野広浩司の訃報「タイガージョー死す」より前だったり。マー、役者の訃報を役名で書く習慣が新聞にあったかも知れないな。と、誰得な話をしつつ終わる。