Hatena::ブログ(Diary)

a_matsumotoの日々徒然

2015-03-13

ブランドとマーケティングの狭間で――VAIOスマホは何を間違えたのか?

ほぼ半年ぶりの更新です。ジャーナリストブロガーへの道は遠く険しいものがあります。

さて、昨日すっかり炎上してしまいましたが、当日の記者会見、その後行われたニコ生でも(司会を務められた石野さんはすごく頑張っておられましたが)その本質は明らかになってなかったと思いましたので、簡単に。

記者会見の時、「ど真ん中を狙った」として示された図がこれでした。(週アスPLUSさんのページから引用)

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出典:『VAIO Phone VA-10J』発表! 発売は3月20日 VAIOスマホ発表会 リアルタイム更新【更新終了】 - 週アスPLUS http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/313/313973/

この構図そのものに異論は少ないはずですし、MVNO事業者としての日本通信がこのカテゴリに製品が、それも日本メーカーの製品が欲しかったことは非常に良く分かります。しかし、果たして新生VAIOとしてはどうであったか?

ここでこの図を切り出して、横向きにしてみましょう。

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その上で、マーケティングの世界で頻繁に引き合いに出される例の有名なキャズム理論の図を見てください。(すみません、ちょっと及川さんのブログから孫引き

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出典:はてなFirefox濃度が高いという仮説 - Nothing ventured, nothing gained. http://takoratta.hatenablog.com/entry/20060619/1150676854

で、上の図と下の図を頭の中で重ねあわせてください。

いかがでしょう?日本通信さんが示した図はあくまでSIMフリー市場を示しているので、微妙にまた切り口が異なるのですが、彼らが考えるストライクゾーン=マジョリティを狙って放った球であることは良く分かります。

一方、VAIO社が「ジムからガンダムへ」と究極を目指して開発されたVAIO Zはまさに、イノベーターアーリーアダプターを狙い撃ったものでした。私自身もいまこの記事をZで書いていますが、キータッチの反応も、各種操作の応答速度も、筐体の剛性も何もかも素晴らしいと思います。

Appleマーケティングでもよく指摘されるように、イノベーターアーリーアダプター層が製品を熱心に支持して、あとに続くマジョリティ層に「布教」するからこそ、製品としてのヒットが生まれます。(もちろんマジョリティ層に対する「安心感」の演出は別途必要です=Apple CareやGenius Bar等)デジタル時代にあって、お店の前にあれだけ行列をさせるのも、その構図をよく理解しているからと言えるでしょう。

翻ってVAIOは、改めてこの層へのアピールの第一弾が(おそらく)成功したばかりです。そのことをもって、凡庸なスマホVAIOのロゴを冠したからといって、イノベーターアーリーアダプター層が熱心に布教するはずもありません。むしろ私も含めて彼らはそっぽを向き、マジョリティ層も、「なんだか良い評判があまり聞こえてこないな」という反応しかしようがなくなります。VAIOと名乗った途端に、比較対象はいわゆる格安エントリー機ではなく、販売単価が高いことでも注目*1を集めるハイエンドVAIO PCが比較対象になるのです。(この点には別の商機もあると思いますが、それは今は置いておきます)

このVAIOスマホ、1月にはこのような報道もありました。例の「箱だけ会見」のときですね。

参考:日本通信VAIOスマホのパッケージを初公開。2月の発売に向け準備は順調 - PC Watch http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20150130_686152.html

これ良く読むと、「設計変更を余儀なくされ」という話のあとに、日本通信としての業績見通しが示されています。おそらくこのあたりがターニングポイントであったのでしょう。

このディール、日本通信としてはあまり失うものがありません。日本の著名メーカーの名を冠したミッドレンジのスマホは、確かに彼らにとってのストライクゾーンど真ん中であったでしょう。「日本メーカー、あのVAIO日本通信と協業した。製品単価も十分に確保している、だから他のメーカーも参加して欲しい」といった趣旨の発言がニコ生でもありました。

しかしVAIO社にとってはどうでしょうか?会見後の囲みでは「これからの取り組みにも注目して欲しい」と苦しい回答が続きましたが、率直にいって、自らのブランド価値を理解していたのか、それをどうすれば育んで行くことができるのか、スマホの分野において本気で考え取り組んでいたのか、大きな疑問が残ります。

ELUGAと変わらない端末を選択せざるを得ないなら、VAIOのブランドは冠せない、ODMになるのはやむを得ないにしても、ブランドの名にふさわしい価値を備えた端末の選定や設計に時間を掛けるべきだ――そう主張できる立場にあったのは、VAIO社の他ありません。あるいは、VAIOのブランドを冠さず、他のブランドを日本通信と協力して仕立て衣装としてまとわせる、といった別の選択肢もあったはずです。

独立して、いろいろと厳しい局面があるのは重々想像ができるのですが、それでもイノベーターアーリーアダプター層とブランドとの信頼関係を大切にして欲しかった。がっかりされるうちが花です。次の一手で真価が問われると思います。

キャズム

キャズム

#2015/03/13 19:51 少し文章を直して自分のTweetを追加しました。

*1VAIO Z、13型ノートで断トツの平均単価に 〜量販店での販売開始も、数量を追わない姿勢は変わらず - PC Watch http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20150310_691995.html

2014-09-05

「意識高い」とはどういう状態か?なぜバカにされるのか?という話。

エヴァQ、実は初見だったのですが、評判通り訳が分からなかったです。20代から謎に付き合わされている身としては、そろそろ決着を見せて欲しいところだけれど、そもそも謎に対する答えや落としどころの用意されていない物語なんだろうな、と約20年を掛けて確認しているところです。というか、社会人経験を積めば積むほど、「え!?なんで、そこでちゃんと説明してあげないの?」というツッコミどころの方が気になってしまい・・・・・・。でも、この話、頭から終わりまで「ほうれんそう」が出来ていたら、多分成立しないんだろうな、とも。

そんな感じで、Twitterを眺めていたところ、津田さんが話題のマトリクスにツッコミを入れておられたので、その件について少々。

はい。仰ること、とてもよく分かります。と、同時にいわゆる「意識高い系」に自分も含めて多くの人が「イラッ」としていることも事実。さて、落としどころはどこに?

このマトリクス(※現在削除されているようです→#2014/09/07 図を再掲されたので、こちらもリンクを追加しました)、基本的な考え方は間違っていないと思うのですが、縦軸に「実力」と置いているのが、改善の余地があると言えそうです。実力ってなんだろう?誰がそれを測るんだろうか?本人は「ある」と信じているからこその意識高い系であり、周囲は「ない」と感じるからこその批判であり、同意も込めたRTがこれだけ積み上がるのでしょう。

ちょうど今、このテーマを正面から扱った(と僕は思う)ドラマが人気です。

アオイホノオ DVD BOX(5枚組)

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80年代を舞台に描かれるこの作品。主人公ホノオモユルくんは、物語序盤は「俺には実力がある」と信じて疑いません。その根拠が初期のあだち充作品などに価値を見出し、俺が評価している、という目利きの才能にある、というのも、どこか現代の「意識高い系」に通じるものがあります。(だからこそ、いまこの物語が取り上げられたのかも知れませんね)

ところが物語が進むにつれ、後にガイナックスを創業することになる同級生アンノヒデアキさんらの活躍にも刺激され、彼はマンガの持ち込みを決意します。作品の方向性に迷ったり、実際に作品を描く際に思いもよらない困難が立ちふさがったりと、七転八倒の末、作品が完成し・・・・・・。

ざっくりとした紹介となってしまいますが、このような流れで物語は進行します。物語のカタルシスの1つは、主人公が信じて疑わない「実力」が、実際に行動を起こすと、現実には全く通用しないものだと思い知らされること。そして、持ち込み〜プロマンガ家デビューへという「実績」を何とかつかみ取ろうとするその姿にあるのは間違いありません。

ということで、先ほどのマトリクス、縦軸を「実績」としてはどうかなと思いました。客観的な「実績」であれば少なくとも、主観的な「実力」よりも本人も周囲も測りやすい。実績がなければ相手にされないのは現実だし、逆もまた然り。そして、実績がなくても応援してくれる周囲の人々が、かけがえのない存在であることも物語では繰り返し描かれているようにも思えます。

原作のオカダトシオさんのセリフで思わず膝を打ちました。以下引用で締めくくります。

よく、『これは俺が先に考えてたんや!』って言うアホがおるけど・・・

一番みっともない言葉や。

自分が先に考えたのにやらんかったんや。

それをえばっとんねんからホンマのアホやで!

先に考えてんやったら

先にやらな!!


#2014/09/06 追記

起きてホッテントリ入りしてびっくりしました。

加野瀬さんのコメントから読んで頂いた方が多いのかも知れないですね。

まつもとさんの親切な解説。自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?というのは難しい

「自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?」というのは、この問題への本質的な問いかけです。

ちょっと宣伝ぽくなってしまうのですが、実は堀正岳さんとの新著でその問いへの答えを「3極モデル」という形で整理していたりします。

これについても、いずれ詳しく(もしかすると堀さんのブログなどで、となるかも知れませんが)紹介することができればと思っています。

2014-08-07

Twitterでのコミュニケーションのこと、あるいはアイデンティティの拡散のこと。

思い出のマーニー、良かったです。

D

それに触発されたかも知れません。コミュニケーションについて個人的なメモも兼ねて。少々長文で以下マーニーとは(ほぼ)関係がありません。

今でこそ、インタビューや司会・講演のお仕事などもさせて頂くようになりましたが、大学生のころまでは人前で話すことが本当に苦手で、飲み会でも貝になっているクラスタでした。自分が話したことが、相手にどう受止められるのか、とても怖かったんだと思います。

それを変えるきっかけになったのが当時の先輩で、とにかく何か話せ、自分がフォローするからと言ってかなり強引に背中を押してくれたんですね。最初のころは、「僕つまり・・・思う・・・こういう風に」という具合に日本語としてもかなり危なげだったはずなのですが、その都度その先輩が「まつもと、面白い!」ってフォローしてくれて、だんだんと自信がついていったのを覚えています。

当時から文章を書くのは得意な方でした。でも、ブログどころかネットすら無かった当時は文章で自分を表現しても相手に伝えることはとても難しい時代だったと思います。「自分の文章を読んでください」とお願いするのも、まずはリアルな空間で会話を通じてフィジカルに行わざるを得ない、ということが多かったのではないかと。

その後ブログが登場し、いまやTwitterも存在するわけで、文章で自分を表現して相手にそれを伝えるということは格段にハードルが下がりました。たった140文字で自分を世界に表現できるなんて!

しかし、一方でふと違和感を覚えることも増えたのです。Twitterでのコミュニケーションって一体なんなんだろうかと。

TwitterはFacebookのようなSNSではなくメディアだと、Twitter社自身も定義しています。しかし昨年夏に世間を騒がしたバイト先でのイタズラ投稿などを追いかけると、身近な友だちとのやり取りに使っているケースが多いことに気づかされます。また、パソコン時代のフォーラムのように見知らぬ人とのコミュニケーションを楽しむ人もいます。

わたし自身もTwitterを使い始めた当初は、そんな使い方に面白さを感じていました。自分がフォローした人からメンションをもらったり、逆に自分をフォローしてくれている人からコメントをもらったりすると、「おお」と興奮することも多かったと記憶しています。(その経緯は、インプレスさんでの体当たり企画で記事としても纏まっています。フリーランスとして駆け出しだった自分にとって、Twitterはメディアである以上に、コミュニケーションのための道具であったということがよく分かります)

しかし、フォロワー数がある程度増えて、自分の活動領域も広がってくると、首を傾げたくなるようなコメントや、明らかな煽りや炎上狙いのメンションを受け取ることも増えていきました。例えばこれとか。当時、ここで絡んでいた人はTweetの合間に「バカ」など罵倒を含めていたのですが、Togetterにまとめる際にそのTweetは削除して「バカと言ってないのに、罵倒したと言いがかりをつけている」という具合に纏めていたりもします。「微妙なバランス」と言ったものを、タイトルでは「絶妙」と読み替えてあるなど、なるほどそうやって炎上演出するんだなと妙に感心した記憶があります。

そんな出来事があってから、うん、やはりTwitterはSNSじゃなくてメディアだなと腑に落ちたのでした。よく「匿名なのは卑怯だ」という批判があったりしますが、そういうことではなく、実名であろうが顕名であろうが、この空間でのコミュニケーションはリアル空間でのフィジカルな濃密さには及ぶべくもなく、あくまでも道具であり、そこになんらかの「目的」(ゴールや理想と言い換えても良いかも知れません)を求めても虚しいことになるな、ということです。

かつてのフォーラムは閉鎖された空間であったために、その場の暗黙のルールや管理者による交通整理が期待出来たわけですが、原則としてオープンな場であるTwitterは、そういった空気や文脈と切り離された形でコミュニケーションの一部が、場合によってはグロテスクに紹介されることもある。そして、それによって受けたダメージというのはなかなか直ぐには回復が難しいわけです。

そこまで大げさな事例でなくても、例えば「いま悩んでいる」というTweetに対して、フォロワーが「よしよし大丈夫だよ」と慰めてくれても、次の瞬間にはまったく別のトピックスに彼・彼女は楽しそうに反応していたりする。フィジカルな空間では窘(とが)められるような行為が、スマホでのアプリの切替え、テレビのザッピングのように普通に(本人には悪気無く)行われている空間でもあります。

あるいは「ブロック」がまた特徴的です。気に入らなければその人の投稿を即座に目に入らないようにすることができる。村上春樹の「風の歌を聴け」に「パチン・・・・・・OFFさ」という印象的なセリフがありますが、まさにそんな感じ。

そんな風に考えていた時に、ある人からこんな記事を教えてもらったのでした。

やる気がわいてくるたった1つの方法:ツイッターじゃ消せないむなしさ - 誠 Biz.ID

ここで紹介されている「アイデンティティの拡散」は、エリクソンの自我同一性拡散と言った方がその筋の人には分かりやすいかも知れません。

ちなみに記事では4つの兆候が紹介されていますが、専門的にはこちらの6つの分類がより詳しいです。

自我同一拡散

例えば、ここに挙げられている「対人的距離の失調=暫定的な形での遊技的な親密さや一時的可逆的なかかわりあいが、本人の対人的融合になってしまう」などは身近な人でも苦労されている例がしばしば見受けられます。

確かにTwitterでのコミュニケーションはアイデンティティがある程度確立されていないと、難しいものがあると感じます。自分自身のスタンスが定まらないままに押し寄せるメンションに応じ、何らかのきっかけでうっかり問題発言を行ってしまい、それがRTされたりした日には、まさに悪い意味での拡散となってしまいます。

いかにも米国発のサービスらしいとも言えそうですが、自由であり、オープンであるということは、応分の責任を負うだけの自我が求められるということかも知れません。(余談でありますが、従って鬱病など精神的に厳しい状況にある人はTwitterからはしばらく距離を置いた方が良く、周囲もそのつもりで対応した方が良いというのが持論です)

さて、この記事で目を引くのは、ここからニーチェを引き合いに「現代人は神話を奪われている」という主張を紹介している点です。神話=物語と自我の形成は密接な関係にあることはフロイトも指摘しているところですが、アイデンティティの拡散と神話の喪失という流れで「Twitterでは消せない虚しさ」を説明するというのは上手いと思いました。(本のタイトルのように「やる気がわいてくる」話かどうかはともかくとして)

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

僕は以前から、「ネット依存」という言葉には強い反感を持っています。病気と認められた訳では無いのに「ネット依存症」と「症」を付けるのはもってのほかであるというのはもちろんなのですが、「いつもTwitterやLINEをやっていてけしからん」という意味でその利用を制限する、その際にこの言葉が用いられるのはヘンです。端的に言えば雑な議論だと思っています。インターネットがこれだけ普及し、多様なサービスが存在する中、「ネット=悪」と十把一絡げにした議論をするのは不毛であるばかりか、有害とすら思います。

「お風呂中は使いません」宣言用紙をスマホ契約時に配布、都がネット依存対策 -INTERNET Watch

だから、Twitterへの「依存」が問題であるという主張はしないつもりでいます。そうではなく、先の記事で説明されていた神話、物語の喪失というのが問題の本質だと考えています。「こうありたい、こうあるべき自分」という自我を支える物語が現実空間で得にくいところに、仮想空間で社会を形成しているMMORPG(オンラインRPG)はある種の生きがいを提供し支持を拡げた側面は否定できないはずです。「ネット依存」という言葉を普及させた久里浜医療センターの樋口進院長自らも、ネットの進化によって他のサービスがその原因になり得るかも知れないと前置きした上で「現在までにセンターに寄せられた相談はオンラインゲームが圧倒的に多い」とコメント*1しています。個人的にはそうであれば「ネット依存」という言葉ではなく「オンラインゲーム依存」とした方が、少なくとも現状を表すには適切では無かったのではないかと感じてもいます。

おそらくこの問題は、その当事者がいま置かれている状態――つまり「物語」を喪失して生きづらい状況にあるのか、現実社会の延長線上にある場でのコミュニケーションツール(既にある物語を補完する)としてネットと向き合っているのか、はたまたスティグマを抱えたもの同士が互いを理解し、良くも悪くも慰め合う(新しい物語を紡ぎ出す)場となっているのか――といった場合ごとに事情や、注意すべき点などが異なってくるはずです。

そういった辺りを気に留めながら、ネットをコミュニケーションの「経路」として利用しながら、本質的には現実空間で向き合い、時にはぶつかり合うことで互いの、あるいは社会の物語を共有していく他ないのだろうなと、改めて思う次第です。マーニーにはネットは登場しませんが(スマホすら出てこなかった?)、バーチャルな空間での交流の背景にあるものが、やがて現実世界との関係で解き明かされていく終盤の展開は見事だと思いました。

#2014/08/08 14:50 自我同一性拡散についてのリンクと例を追記しました。

*1:記者の眼 - 子供のネット依存、治療に当たる久里浜医療センター院長が「生易しい問題ではない」と警告:ITpro http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20130720/492762/

2010-11-25

「ソーシャル」を巡る論点の整理

さて、ここ数日「ソーシャル」という言葉を巡る議論が、(一部で)熱くなっています。

きっかけはこの記事。

蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】 : TechWave

ここで大学4年生の水谷さんは、

ソーシャルとは「リアルな友人との関わり合い」のことを指します。

と断定して、はてなブックマーク、Togetterで多くの人による違和感が表明されました。

その急先鋒はやはり佐々木俊尚さんのこのコメントでしょう。

この記事は100%間違っている。そもそもバーチャルの人間関係とリアルの人間関係が融解しつつあるのであって、リアルに固執するのは変。

論点1:ソーシャルとはリアルなものだけを指すのかバーチャルなものも内包するのか?

まず一旦整理しなければならないのが、英語でのVirtualは、リアルの反対語では無いという点です。

ヴァーチャルリアリティの研究者は、Virtualに「仮想」という訳を当てるのを嫌う傾向があります。

Wikipediaの「ヴァーチャルリアリティ」の項目冒頭にもあるように、「実際の形はしていないか、形は異なるかも知れないが、機能としての本質は同じである」という意味で本来的には使われるべき言葉です。

SNSに置き換えると、「実際に顔見知りでは無いが、ネット上で繋がっていることが、実際に顔見知りであることと本質的には同じように機能する」、という風に理解できます。佐々木さんのいう「融解」とは、高機能になっていくSNSがあればこそですが、間違った指摘ではなさそうです。

一例を挙げると私は4千人を超える方にフォローされてますが、実際の顔見知りはもちろんもっと少ない数字です。けれども、Twitterの機能によって、例えばメール取材しかしたことが無い人ともリアルの顔見知りに近い感覚でコミュニケーションが取れます。逆に、毎日のようにTwitter上では激しい口論も起こりますが、実にリアルな社会を投射したヴァーチャルな空間であるとも言えるでしょう。

Twitterをソーシャルにカウントするべきでは無いという意見もあります。けれども、純粋にFacebookを例にとっても、「実際の友人」が「いいね!」ボタンで紹介しているコンテンツが、自分自身が顔見知りではない「友達の友達」によるものだったとします。それに対して自分も「いいね!」ボタンを押すことで、ここでいうヴァーチャルに一歩近づくことになるわけです。

つまり、SNSの機能や人々を惹き付ける魅力から考えても、ヴァーチャルなものも内包する、と捉えるのがごく自然であると言えるでしょう。

水谷さんの記事を掲載したTechwaveの湯川鶴章さんは、記事への「蛇足」として次のように述べています。

インターネットは「巨大な図書館」から「巨大な公民館」になる。巨大な公民館ではリアルな人間関係が核になっていく

個人的には、現実世界でそうであるように、図書館もあれば公民館もあるというのが自然な未来像であると考えますが、それよりも重要なのは、「巨大な公民館」で果たして「リアルな人間関係が核に」なり得るのか、という点です。

「ウィキノミクス」で紹介されている事例などを振り返っても、ネット上で国境や現実世界での社会的関係を越えて、協働が生じています。それこそが「巨大な公民館」化するネットならでの大きな特徴であると理解した方が、湯川さんがおそらく理想と考えるゴールに近づくのではないでしょうか?

ウィキノミクス

ウィキノミクス

湯川さん自身も「蛇足」の中で「バーチャルな人間関係もリアルな人間関係も自分にとっては感覚的にはリアルなものに近づく」としていますが、結論では「リアルな人間関係が核となっていく」とまたいわば「リアル固執」と読めてしまう結びになってしまっているのが残念です。

まずはヴァーチャル=仮想という誤訳から離れて、言葉の定義から確認していくことが(枝葉末節ではなく)この議論では重要です。また、言葉を大切にするというのは、旧来メディアであれ、ソーシャルメディアであれ、著者と編集者にとっての変えては行けない矜持では無いかと考えます。

論点2:実名か匿名か

ところで、このリアルかバーチャルかという議論に、実名・匿名の話が混じるとややこしくなります。

水谷さんの、「SNSとは、『実際の友人・知人との関係をネット上に移したもの』」と断定しているのも、多分に「煽っている」表現にはなっていますが、以下のように整理すれば実は間違ってはいません。

自分のSNS上での友人を仮に、「リアルな友人」で固めたとしても、その先にいる「友達の友達」は顔見知りとは限りません。ただ、人間関係(ソーシャルグラフ)を俯瞰して見たときに、仮にその中に匿名や顕名のユーザー(ペンネームのように書き手が特定できる形で情報発信する人)が混じっていても、その後ろ側には実在の「人間」が居るわけです。それらを「ネット上の移したもの」という定義は、ごく自然なものです。ソーシャルグラフとはそういうものなはずです。

改めて確認しておくと「匿名=ヴァーチャル」という関係ではありません。SNSの様々な機能がヴァーチャルな人間関係の本質性を強化しつづけている、というのが正しい現状認識であると考えます。

ただ、そこに「実名で交流すべき」とか「(2ちゃんねるを念頭に置きながら)匿名だから日本のインターネットは残念」といった「有るべき論」が加わると、どうも議論にフィルターが掛かるようです。

【日本の議論】ネット上は匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏の“議論”より (1/5ページ) - MSN産経ニュース

海外のFacebookユーザーが実名・顔出しでコミュニケーションが取れる理由はなぜでしょう?私は実名であることで生じうるトラブルに対して、本人と周辺が適切に反応できる経験値を社会的に積んでいるから、と考えています。従って実名コミュニケーションによるメリットも享受できている訳であって、SNSに登録するIDを日本でも皆が実名にすれば、自動的に「巨大な公民館」としてのネットが、理想型に近づく訳ではありません。

ITシステムとしてやるべき事は、実名あるいは顕名によるトラブルを予防・救済できる仕組み作りですし(実際mixiはそこにかなりの投資をしている点がこれまで広く支持されている理由であると捉えています)、もっと長い目で社会として見たときには、ICTリテラシー教育というところに立ち戻るしかないでしょう。

そして最後、

論点3:オープンかクローズドか

Facebookは排他的だ  - Market Hack(外国株ひろば Version 2.0) - ライブドアブログ

mixi副社長の原田明典さんが、「やっと日本でもこんな記事が・・・」とTweetされたのは、ちょっと驚いたのですが、競争相手に対するポジションを考えると、コメントをされたかったというところなのかなと推察しています。

冒頭こちらの記事では映画『ソーシャル・ネットワーク』の冒頭部分、ザッカーバーグの"Because it’s exclusive and fun."というセリフを取り上げて、彼自身がFacebookが「排他的だ」と言及しているじゃないか、と指摘します。

しかし、どうも変です。日本語的に考えても「排他的」だし「楽しい」ってなんだか意味が通らなくはありませんか?

WikionaryによるとExclusiveの形容詞の項には以下のようにあります。

  1. exclusive (comparative more exclusive, superlative most exclusive)
  2. (literally) Excluding items or members that do not meet certain conditions.
  3. (figuratively) Referring to a membership organisation, service or product: of high quality and/or reknown, for superior members only. A snobbish usage, suggesting that members who do not meet requirements, which may be financial, of celebrity, religion, skin colour etc., are excluded.
  4. Exclusive clubs tend to serve exclusive brands of food and drinks, in the same exorbitant price range, such as the 'finest' French châteaux
  5. exclusionary
  6. whole, undivided, entire
  7. The teacher's pet commands the teacher's exclusive attention

id:satohhide さんが、この記事にコメントしているように「この場合のexclusiveって「粋な」という意味だろうから字幕は間違っていない」、つまり上記の3番の意味に近いというのが正しい理解であるように思えます。仮に会員制であることを持って、「閉鎖的」と断じるのもやや強引と言えるでしょう。仮にそうなら当初招待制のみだったmixiの方がよほど「閉鎖的」です。

最初に例を挙げた水谷さんの記事同様、少々「煽りが過ぎた」というところかも知れません。

もちろん、(本来この記事ではこの例を引くべきだと思いますが)Gmailへのアドレスのインポートを許さないといった施策を持って「閉鎖的」という批判は成立すると思います。

GoogleがFacebookによるGmailデータの自動インポートをブロック、対立激化 | ネット | マイコミジャーナル

ただし、この問題は(Facebookの出自が学内交流を目的としていたから未だ現在もクローズドだという零点答案はともかく)プラットフォーム・リーダシップと大いに関わる論点です。mixiにしても、先日のオープン化の前は、アプリにしかソーシャルグラフの外部利用を認めていませんでしたし、その前は全くクローズドだったわけです。

クローズドの是非そのものよりも、ソーシャルプラットフォーム間の競争で、各社パラメータを随時調整しているというのが実情で、Facebookだけを批判してもまた似たような問題が別のプラットフォームで起こるはずです。投資顧問会社に勤める広瀬さんが、仮に何らかの理由でmixiを応援するという立場であればこの方法ではうまくいかないでしょう。

ASCII.jp:mixiはFacebookの日本侵攻を食い止められるか?|まつもとあつしの「メディア維新を行く」

という具合に3つの論点から見てきましたが、冒頭触れたように共通するのは「言葉の定義を大事にしましょうよ」ということかも知れません。湯川さんが「蛇足」で指摘しているような「議論の価値」を抽出するには、まずは発信者・受信者双方に言葉を大事にしないことには、残念ながら議論そのものが成立しないということを確認した一連の記事でもありました。これ、ソーシャルネットワークにおけるヴァーチャルな関係性を突き詰めるときにも現れる課題の一つとも言えそうです。