Hatena::ブログ(Diary)

a_matsumotoの日々徒然

2016-07-06

ウェブコミュニティは「共創」と「競争」で物語を紡ぐ

1年以上ぶりの更新です。ブロガーへの道は険しいというか、無理かも。1個前のエントリーは、VAIOスマホ日本通信版)の蹉跌を取り上げましたが、VAIOさんはその後、Windowsフォンとして尖った端末を出してます。注目しております。

さて、今週末ウェブ小説やマンガに関するセミナー渋谷で開催します。comico中の人をお招きしての無料のものですので、お気軽にご参加ください。comicoの解説本も会場限定特別価格で販売します。

再入門も、これからの人も「Re:ゼロから始めるcomico生活

http://peatix.com/event/179130

[rakuten:book:17649303:detail]

このイベントは、僕も理事を務めるNPO法人日本独立作家同盟の主催によるものです。そこが発行している「群雛」という機関誌に寄稿したコラムの転載OK頂きましたので、僕がどんな風にウェブ小説・マンガを見ているか、という視点を先に提示しておきたいと思います。

ウェブ小説は文芸誌代替か?

 ウェブ小説は「出版不況」(この言葉も適切なのか議論はあるが)に対する「回答」のように語られることが多い。いわく、文芸誌の休刊が相次ぎ、作品発表の機会が失われた中、ウェブ小説が新たな作品発表の場となっており、既存の枠組みに安住していた出版社はこのムーブメントに乗れなかった、といったものだ。

 一見もっともらしい意見だ。既存の出版業界にいろいろ思うところがある向きには、「よくぞやってくれた」という風に見立てたくなるほど、ウェブ小説は魅力的で強力な輝きを放っている。

 だが、ウェブ小説の歴史を振り返りつつ、調査や取材を続けていると、どうもこういった主張は間違っているように思えてくる。少なくとも建設的ではないとわたしは確信している。では、わたしたちはどのようにウェブ小説をとらえ、作家すなわちクリエイターとして、もしくは編集者のようなビジネスプロデューサーとしてこれと向き合っていけば良いのだろうか? 順を追ってみていこう。

ウェブ小説原作アニメに共通する世界観

 深夜アニメのラインナップを見ていると、ここ数年ウェブ小説──「小説家になろう」などの投稿サイト出自の物語が原作となった作品がほんとうに目に付くようになった。その多くがいわゆる「異世界ファンタジー」や「学園異能力バトル」ものだ。

 ある日突然ファンタジー世界に飛ばされた主人公が、現代の知識や技術を用いながら現地の人々と様々な困難を解決していく。あるいは能力者たちの集う学園に、逆位相の能力を持つ主人公が現れ、偏見のまなざしや彼らからの様々な挑戦を受けながら、試練を克服し仲間を得て自らの立ち位置を確立していく……。

 ただでさえ、1クール(3ヶ月)ごとに大量のアニメが放送される中で、一見ほとんど世界観が同じに思える作品が複数あったりする。「あれ? このヒロインは主人公の妹だったっけ? 恋人だったっけ? 先週はデレてたはずなのに、なんで今週は主人公の命を狙っているの?」と話が追えなくなってしまうのは、おそらく筆者だけではないはずだ。

 そこで描かれる異文化との交流、異なる社会構造との衝突と融和──なにゆえ民族学文化人類学的にど真ん中なアプローチの作品が、これほどまでに支持を拡げたのか? それは、これらの物語がインターネットコミュニティで生まれ、「共創」と「競争」の中から生まれたこととおそらく無関係ではないはずだ。

巨大掲示板から生まれた物語

 ウェブ小説を「ネット空間で発表される物語」と広義に捉えると、それ自体はインターネット登場以前から、電子掲示板などでもその萌芽を見てとれる。「小説家になろう」(以下「なろう」)が開設されたのは2004年。今から10年以上も前にさかのぼる。同じ年、2ちゃんねるに「電車男」が投稿され、その後書籍化・映像化に至ったことも、ウェブ小説の源流の1つと数えることもできるはずだ。

 恋愛とは縁遠いオタク男子が、勇気を振り絞って年上のお嬢さんとのデートに臨む。それを「毒男板」と呼ばれたスレッドのユーザーたちがサポートし、ハッピーエンドへと導いていく。振り返れば「電車男」は、2ちゃんねるでの投稿者とスレ住民たちのポジティブなコメントのやり取りが、感動的な物語を紡ぎ出した希有な例であったかも知れない。

電車男 DVD-BOX

電車男 DVD-BOX

 当時から「これは虚構ではないのか」という指摘もあったが、当事者たちにとってはそれが真実か否かはさほど重要ではなかったはずだ。インターネットコミュニティでの投稿を通じて、自分たちが物語に介入し、えもいわれぬ没入感を味わうという新しいエンターテインメントの原型がそこにはあった。

 一方で、電子掲示板でのコミュニケーションには困難もつきまとう。無粋な煽りや無関係なコメントに対する、コミュニティによる自浄作業にも限界がある。「電車男」以降、2ちゃんねるでこのような「大ヒット」に至る物語は結局生まれていない。

 掲示板で面白い物語を紡ぎ出すには、取り上げる主題の面白さや新鮮さ・リアリティの高さという偶発性に、最後まで一定のクオリティを保って投稿を続けるという投稿者の誠実さ、そしてスレッドの住民の自助努力が組み合わされなければならない。あまりにもコストが高すぎた、ということなのだろう。

著者と読者の「共創」環境

 掲示板での物語の創作と消費に入れ替わるような形で支持を拡げていったのが「なろう」に代表される小説投稿サイトだ。そこでは、物語の流れを妨げるような読者による直接的な介入は行われないが、感想・レビューという形でフィードバックを行うことができる。作者は1エピソードごとにそれらのフィードバックを参照しながら、次のエピソードで読者の期待に応えたり、逆に裏切って驚きを与え、またそれに読者が反応を返していく──という電車男でも見られた一種の共犯関係を構築していくことになる。その仕組みはとてもシンプルだが、従来の小説創作にはなかった「共創」環境が生まれた、と見立てることもできるだろう。

 そこで繰り広げられる「共創」の作業は、文化人類学におけるフィールドワークにも通じるものがある。フィールドワークでは異なる文化圏を訪れた研究者が、現地の自然、人々の生活ヒエラルキー経済の在り方などありとあらゆることを記録していく。その記録を研究者同士で評価し合い、彼我との比較も通じてその民族、文化圏に対する理解を深めていく。異世界ファンタジーが異世界という世界観を提示し、そこを訪れた読者とのバーチャルな「対話」を通じて物語を紡いでいく作業は、まさにフィールドワークそのものだ。結果、異世界モノとウェブ小説はとても相性が良い、という状況がこれほどまでに蓄積されたのではないか、と筆者は考えている。

文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)

物語に影響を与える「競争」環境

 さらにそこでは「競争」も繰り広げられる。言うまでもなくランキングの存在がそれだ。ランキングについては賛否両論あるだろう。異世界モノがこれほどまでに量産される背景には、投稿サイトで人気を獲得できるジャンルがそれだから、という指摘もある。先日はじまったKADOKAWAが運営する小説投稿サイト「カクヨム」では、こうなることを避けるため予め投稿ジャンルをわけ、それぞれにランキングを生成するという工夫を加えている(が、果たして前述のような「共創」との相性の良さがある中でジャンルの多様性が拡がるかは未知数だ)。

 いずれにせよ、読者によるダイレクトかつリアルタイムな選考が行われているのがウェブ小説の世界だ。この「競争」という側面は物語にも影響を与えていると考えるのはいきすぎだろうか? ジャンプでは読者アンケートによるランキングの善し悪しで掲載継続か否かが決まる。投稿サイトではランキング上位に入らないと、なかなか作品を読んでもらうことはできない。そんな緊張感の中で、異能力バトルものが多い、というのはどこか書き手の心象風景と重なる部分があるのではないか。

 結果、たしかに一見似ている作品が増える。しかし、エピソードを重ねると、作者が描きたかった主題と、読者との対話に応じて、物語は多様な姿を見せるようになる。最初はわたしも物語を追うことの難しさに苦労したが、最近ではどのあたりにそれぞれの差異が生じてくるのか、まさに作者の主題が姿を現すその瞬間を心待ちにしながら作品を楽しめるようにはなりつつある。

 さて、このように見ていくと、冒頭で紹介したような「文芸誌の休刊が相次ぎ、発表の機会を失った物語がウェブにその場を得た」──といったような見立てにはどうにも無理があることがわかる。ウェブ小説は、「小説」とは名付けられているものの、実にウェブ的であり、しかも投稿サイトというプラットフォームの機能にその内容も大きく規定されていると考えられるからだ(裏を返せば純粋な創作の自由度という意味ではウェブ小説を選択しない方がその幅は拡がるといえるかも知れない)。

やっぱり「編集者」は必要

 ラノベ最有力レーベル電撃文庫」で数多くのウェブ小説を再構成のうえ文庫化し、数多くヒット作を生みだしてきた三木一馬氏に行ったインタビューでも、「その才能は文芸というよりもPCゲームなどのデジタルコンテンツをもともと志向している全く別のところから出てきたものではないか」と指摘されている。既存の出版社がウェブ小説を無視・軽視していたというよりも、そもそも「商材」としても似て非なるもので、出版社の「商流」にはそのままでは乗らないものだったのだ。

 同様の事象は今、マンガでも起こっている。1000万ダウンロードを突破し注目を集めるcomicoでは、作品を投稿するクリエイターのことを「マンガ家」ではなく「comico作家」と呼んでいる。掲載作品をそのまま出版することはなく、いったん従来の編集のフローに乗せて再構成し刊行するというのも、ウェブ小説からラノベへのパッケージの転換に通じるものがある。

 「ウェブコンテンツ」のままでは、キャズムを超えマス(一般層)に訴求できない、というのも「電車男」の頃から状況は変わってない。アニメ化されるような人気ウェブ小説も、そのほとんどはまずラノベレーベルによる出版を経ている点には注意が必要だ。「編集者が不要になった」といった、筆者を含めたメディア人がやりがちな短絡的な評価も、この2ステップを踏んでのマスへの訴求というプロセスを冷静に眺めれば誤りであることがわかる。作品が広く世に出る2段階目で編集者のスキルが存分に発揮されていることが見えてくるからだ。

求められるプロデューサースキル

 ただ本稿を読んで頂いている作家(クリエイター)の方々にとっては、いずれにせよ最初の段階──作品を投稿し、できるだけ多くの人に読んでもらい、フィードバックを受けながらランキング上位を目指す段階──では、作品を書く以外の作業をこなしていかなければならない。編集者、言い換えるならば昨今指摘されるように彼らも身につけるべきプロデューサー的なスキルの一部も、使いこなさなければならなくなった、というのも事実だ。創作の技術を磨くと同時に、たとえばソーシャルメディアを通じた作品のPRを行い、まずは作品を知ってもらわなければ、階段の一段目を上がることもできないからだ。

 独立作家同盟で定期的にセミナーを開催し、創作に加えてこういったPRのノウハウも共有しているのはとてもユニークで、意味のあることだと考えている。ウェブを通じた作品の発表の機会と、コミュニティによって作品を錬成する機能はこれからますます進化していくことになるだろう。その新しい環境に適応した才能がここ独立作家同盟から生まれることにわたしは期待しているし、微力ながら協力していきたいと思う。つまりはいつか、「このアニメ、群雛に載っていたあの作品が原作だ。スゲー!」とテレビにかじりつく日が来ることをわたしは夢見ているのだ。

再入門も、これからの人も「Re:ゼロから始めるcomico生活

http://peatix.com/event/179130

2014-09-05

「意識高い」とはどういう状態か?なぜバカにされるのか?という話。

エヴァQ、実は初見だったのですが、評判通り訳が分からなかったです。20代から謎に付き合わされている身としては、そろそろ決着を見せて欲しいところだけれど、そもそも謎に対する答えや落としどころの用意されていない物語なんだろうな、と約20年を掛けて確認しているところです。というか、社会人経験を積めば積むほど、「え!?なんで、そこでちゃんと説明してあげないの?」というツッコミどころの方が気になってしまい・・・・・・。でも、この話、頭から終わりまで「ほうれんそう」が出来ていたら、多分成立しないんだろうな、とも。

そんな感じで、Twitterを眺めていたところ、津田さんが話題のマトリクスにツッコミを入れておられたので、その件について少々。

はい。仰ること、とてもよく分かります。と、同時にいわゆる「意識高い系」に自分も含めて多くの人が「イラッ」としていることも事実。さて、落としどころはどこに?

このマトリクス(※現在削除されているようです→#2014/09/07 図を再掲されたので、こちらもリンクを追加しました)、基本的な考え方は間違っていないと思うのですが、縦軸に「実力」と置いているのが、改善の余地があると言えそうです。実力ってなんだろう?誰がそれを測るんだろうか?本人は「ある」と信じているからこその意識高い系であり、周囲は「ない」と感じるからこその批判であり、同意も込めたRTがこれだけ積み上がるのでしょう。

ちょうど今、このテーマを正面から扱った(と僕は思う)ドラマが人気です。

アオイホノオ DVD BOX(5枚組)

アオイホノオ DVD BOX(5枚組)

80年代を舞台に描かれるこの作品。主人公ホノオモユルくんは、物語序盤は「俺には実力がある」と信じて疑いません。その根拠が初期のあだち充作品などに価値を見出し、俺が評価している、という目利きの才能にある、というのも、どこか現代の「意識高い系」に通じるものがあります。(だからこそ、いまこの物語が取り上げられたのかも知れませんね)

ところが物語が進むにつれ、後にガイナックス創業することになる同級生アンノヒデアキさんらの活躍にも刺激され、彼はマンガの持ち込みを決意します。作品の方向性に迷ったり、実際に作品を描く際に思いもよらない困難が立ちふさがったりと、七転八倒の末、作品が完成し・・・・・・。

ざっくりとした紹介となってしまいますが、このような流れで物語は進行します。物語のカタルシスの1つは、主人公が信じて疑わない「実力」が、実際に行動を起こすと、現実には全く通用しないものだと思い知らされること。そして、持ち込み〜プロマンガ家デビューへという「実績」を何とかつかみ取ろうとするその姿にあるのは間違いありません。

ということで、先ほどのマトリクス、縦軸を「実績」としてはどうかなと思いました。客観的な「実績」であれば少なくとも、主観的な「実力」よりも本人も周囲も測りやすい。実績がなければ相手にされないのは現実だし、逆もまた然り。そして、実績がなくても応援してくれる周囲の人々が、かけがえのない存在であることも物語では繰り返し描かれているようにも思えます。

原作のオカダトシオさんのセリフで思わず膝を打ちました。以下引用で締めくくります。

よく、『これは俺が先に考えてたんや!』って言うアホがおるけど・・・

一番みっともない言葉や。

自分が先に考えたのにやらんかったんや。

それをえばっとんねんからホンマのアホやで!

先に考えてんやったら

先にやらな!!


#2014/09/06 追記

起きてホッテントリ入りしてびっくりしました。

加野瀬さんのコメントから読んで頂いた方が多いのかも知れないですね。

まつもとさんの親切な解説。自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?というのは難しい

「自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?」というのは、この問題への本質的な問いかけです。

ちょっと宣伝ぽくなってしまうのですが、実は堀正岳さんとの新著でその問いへの答えを「3極モデル」という形で整理していたりします。

これについても、いずれ詳しく(もしかすると堀さんのブログなどで、となるかも知れませんが)紹介することができればと思っています。

2013-08-06

Twitterへのバカ写真投稿と意識高い人に共通する病

冷蔵庫に入ったり、食材の上に寝っ転がったりする様子を写真に撮り、Twitterに投稿するのが流行っているようです。

朝日新聞デジタル:(ニュースQ3)モラルなきアルバイト店員の悪ふざけ、対策は? - ニュース

一部には、これを安いメニューを安い人件費で提供するいわゆる「マックジョブ」(個人的にはとても嫌いな表現です)に、その理由を求める人も居るようですが、それは違うと思います。高級ホテルや会員制のクラブなどでも、同様の事件が起こっているからです。また、コンビニはそもそもディスカウントじゃなくて定価販売してるよね、という指摘もありました。

フランチャイズ契約を即刻解除されたコンビニ店もありましたが、気の毒なのはオーナーです。

もちろん監督責任は免れませんが、バイトの心ない行為で積み上げてきた物が一瞬で失われるわけですから。

では、なぜこんな事が流行っているのか?

実際に当事者に理由を尋ねてみたいところですが、いわゆる「意識の高い人」にも共通する一種の病がそこにはあるのではないかと考えています。

  • (非常に観測範囲の狭い)周囲に迷惑を掛けていないのだから良いではないか、という判断。
  • 日常的に近くにいる「大人」が適切なフィードバックを与えていない。そういう人を遠ざけている。
  • RTなどソーシャルメディアでの反応をポジティブな「評価」と勘違いしている。

仮に、このように共通する背景がそこにあるとすると、アクセス向上のためにはいわゆる「炎上」を良しとするブロガーさんが、こういった事件の理由を職場環境に求めるのは、滑稽だし彼らが言うところの「上から目線」な話だなと思った次第です。

(2013/08/073:16追記)

これを書いてから、店長さんの以下のエントリーを知る。

「うちら」の世界 - 24時間残念営業

そう、彼ら(バイト)がバカだ、という一言では片付けられないんですよね。

とはいえ、明らかに損害を与えている訳で、まず責められるは彼らだし、社会的な責任を認識してもらう必要がある。(本当は一線を越える前に、周囲の大人が諫めないといけないのだけれど)

2012-06-19

「上から目線」は評価の証

フリーランス、ノマド、ソーシャルメディア評価経済

最近よく目にする、これらのキーワード。

その関係はよく以下のように解説されます。

ソーシャルメディア一般化によって、フリーランスであっても、スキルのPRが行えるようになり、そこで仕事の依頼を受けることができるようになった。働く上でも、場所に縛られないノマドワーキングが可能に。そこではまずフォロワー数やKloutで数値化されるような影響力が評価のレバレッジを効かせるための重要な要素となる。したがって、貨幣経済の手前に評価を指標とするような経済圏が誕生した」

うん、まあそうなんだと思います。日経ビジネスが定期的に発表しているような企業ブランド力ランキングと同様、個人ブランドの価値がTwitterによって可視化しやすくなったことは間違いない。

会社や国による社会保障に期待が持てない中、個人で生きていくために、ソーシャルメディアを活用しよう!というかけ声は前向きで、就職難の中、学生にとっても魅力に溢れるものにも映るようです。

でも、どうも違和感が否めない。ネット上でも、いわゆるソーシャル・ノマド礼賛に対する反発が散見されます。その理由はなんなのでしょうか?

▼残念ながら脇が甘い

そんな疑問を持っていたのですが、ネットを介してだけでは分からないこともあるのかなと思い、イケダハヤトさんが登壇するワークショップとイベントに2回連続して参加しました。自分が登壇するイベントとか、議員会館での取材を縫って……もはやファンの域に達しています(笑)

最初に参加させて頂いたのは、ガ島通信の藤代裕之さんが代表運営委員をつとめるJCEJ(日本ジャーナリスト教育センター)主催のこちらのイベントです。

それで見えてきたことは、やっぱりイケダさんはまだまだ経験が浅い、ということでした。厳しいようですが、これは自分が実地で感じたことなので、敢えて指摘します。

イベント前半は「分かりやすいデザイン」についての講演でした。そこでイケダさんはAJAX等をフル活用したインタラクティブな奨学金募集サイト と、名前は出しませんが、よく楽天市場にありそうな縦長・情報一杯のページを比較されました。

その上で「言わずもがな前者の方が分かりやすいですよね」として、イケダさんは後半のワークショップにつなげて行かれました。けれども(これは後半に入る前に思わず質問しちゃったんですが)そこに根拠はありませんでした。

「楽天市場のページはなぜああいうデザインなのか」という一連の議論をみてもわかりますが、実際コンバージョンが高くなるという根拠があるから、ああいったデザインになるわけで、見た目の美しさやデザインとしての洗練だけでは測れないものがそこにはあります。

つまり、コンバージョンレートのような数字とデザインはセットで語られるべき、という当たり前の話であります。イケダさんは、トライバルメディアハウスにおられたマーケターなので、その点は抑えていると思っていただけに残念でした。

「善し悪し」の基準が明確かつ適切でなければ、後半のワークショップの価値(アウトプット)は曖昧なものになるのでは……という不安は後半現実のものに。*1

後半は、イケダさんが支援しているというNPO法人が、助成金を得るために用意したプレゼン資料を見ながら、参加者でそれを「わかりやすい」ものにするという内容。詳細は開示しない方が良いと思いますが、プレゼンの概要は「鬱、あるいはその兆候のある人を、周囲の人々が傾聴のスキルを磨くことで支える」というもの。(どことなく「うつっぽ」に似る・・・)

改善に向けた題材に選ばれるだけあって、さすがに資料のデザインにも問題があるのですが、そもそもコンセプトとか発想のスタートラインが、相当脇が甘いわけです。

  • 鬱病患者の悩みを聞く、会話をするというのは医療行為にあたらないか?
  • 鬱病患者への接触に問題があり、かえって症状が進行してしまったり、あるいは関与者が悪い影響を受けた場合に誰が責任を取るのか?
  • 資料を見る限り、そのあたりのリスクをヘッジする専門家のアドバイスや監修を受けていない。

うーん微妙と思いながら、そもそもこのピッチって幾らの助成金の獲得を目指しているんだろう?と思い検索したところ、(これも名前を出しませんが)総額100万円で、5プロジェクトが採択されているということが分かりました。

つまり、1プロジェクト20万円程度。採択実績を見ると、子供と野外で遊ぶとか、映画を上映するとかそんな感じ。「鬱病をなんとかしたい」という心意気やよし。でも、20万円では継続的・包括的な取り組みは期待できない。事業計画も、リスクとの向き合い方も全く脇があまい。社会的包摂云々以前の問題です。

イケダさんの言う「問題意識を重視する」には大いに共感しますが、残念ながら、ワークショップに供してデザインを議論する前に、お互いのためにも黙って突き返す(べき)レベル。

イケダさん、ワークショップ参加者の方々の発表を聞いて「すごく助かりました」とコメント。たしかに、これだけダメが出れば、無償のアドバイス業務としては十二分過ぎる成果だと思います。

▼脇の甘さをどう受け止めるか?

さて、イベントが終わってから、主催者の藤代さんと立ち話をしていたのですが、そこでの藤代さんのコメントがとても印象的でした。ご本人のご了承得てご紹介します。

「色々批判があることは知っているけれど、直接話を聞いてみないと分からないこともある。不十分な点はあるだろうけど、若いけれど考えていることは分かったし、JCEJはチャレンジを応援する場でもあるから」

僕はこれを聞いて、なるほど!と思いました。この文章の前半で書いたように、プロジェクトを評価するという観点でいえば、もう全然ダメ、お帰りください、というレベル。けれども、一人の若者としてみると、真面目だし、悪いことを考えているわけではないし、よく事例を研究しているし、地頭も良い、何よりも物腰が柔らかい(←ここ重要)。

ところが、仮に対等なビジネスパートナーとしてみると落第点で、高広伯彦さんが色々仰る批判に僕もまったく同感です。でも、藤代さんは、JCEJに集う若者たちを見るのと同じ視座にたっている。そういう目線だと「がんばれよ」となる。

つまり、イケダさんの嫌う「上から目線」とは、実は彼を「応援」している年長者の視線=暖かく見守る視線、なんですね。逆に、イケダさんを対等な立場に置くと「評価」して、彼が表明する「社会を変えてやる」という思いを「正面」から受け止めると、その脇の甘さ、結果を伴わない言動を指摘・批判をせざるを得なくなる。立ち位置を評価しているからこその厳しさになるわけです。

こんな具合に、ご本人の認識とおそらく180度異なる構図が見えた、というだけでもこのイベントに参加した価値があったなあ、と思いました。

▼結局は世代間の話に

そして月曜日、衆議院議員会館で著作隣接権に関する勉強会に出たあとで、こちらのイベントへ。

リアル経済と知財をどう結びつけようかという地上戦を目の当たりにしたあとに、ふわふわした話を聞くことになるんじゃないかなと心配したのですが、東さんがそこは的確な指摘をされていました。そのコメント(お話しを伺いながらのTwitter投稿の引用につき、一字一句このとおりではありません)をご紹介してこのエントリーを締めたいと思います。

東「個人についてこうなった方がいい、というのと社会についてのことを混ぜてはいけない。自己啓発と同じで全員が勝ってしまったら勝者はいなくなる。カリスマは希少財。個人の価値で生き残っていけない人をどうするか、が重要。評価経済で社会保障の破綻を乗り切る、というのは言語矛盾に等しい」

このコメントがイベント冒頭すぐ出て、もう結論が出てしまった感がありました。東さんはさらに続けます。

東「例えば(津田くんのように)政治メディアを作って、政策に影響を与えるために人を雇う、人を育てるためにはおカネが必要。自由人が集ってフラットな関係で物事にあたっても、そこにはコミットメントはない。月収20万とかじゃ無理。ハチロク世代の主張は『若いから』としか言いようがない」

この2つめの指摘は、東さんも15年前はそうだった(一人で出来る範囲でやればいいし、フラットな仲間で集まって取り組めばなんとかなると思っていた)ということを受けての発言でしたが、僕はそれを聞いてこう思い、呟きました。

まあ、しかし東さん世代と違って、皮肉にもイケダさんが仰るように社会保障に余裕がないなかで、フリーハンドで社会に放り出されて、「残酷な」評価経済に身を投じる若者、という構図。俯瞰すると笑えない話だなあと。自殺者増えている、という記事をみると尚更。

15年前の我彼は「若さ」と「技術(=当時はネット、いまはソーシャルメディア)に後押しされた感覚」では共通するものの、社会の厳しさは現実問題として深刻さを増しています。突き詰めていくと世代間に共通するものもありつつ、そこには乗り越えがたい断絶があるわけです。

東さんからの問いかけに対して、家入さん・イケダさんからは明確な反論はありませんでした。個人にフォーカスを当てている(?)家入さんはそれでも良いかもしれませんが、社会貢献、社会変革に取り組むというイケダさんにとっては行動原理の根幹に関わる問題です。東さんからの指摘を受けて「いずれは100人規模の会社をつくりたい」とイケダさんは応じていましたが、それはBLOGで雇われない生き方を推奨されることと矛盾しませんか、というのが率直な感想です。

ぜひイケダさんには諸々咀嚼した上での感想や思いを聞きたいと思いました。僕自身も苦い経験がありますが、このあたりのボタンの掛け違いは、やがて自己欺瞞に変わって、しんどくなりますので。

以上、上から目線というよりも、イベントへの一参加者という下からの目線でまとめてみました。

*1:ここで念のためJCEJさんの企画や運営は素晴らしいものでした。また、個人的にはなぜイケダハヤトさんに象徴されるフリーランス・評価経済論に批判が集まるのか、実際に確認できたという意味で大変貴重な機会を得られたことを感謝しています。

2011-03-10

魔法少女まどか☆マギカ―それは「ぼくたちの」決断と選択の物語

※以下第9話放送後に書いており多少ネタバレをふくみます。

さて、大変な話題を呼んでいるまどか☆マギカについて、雑感を。

問題となった3話をきっかけに、様々な考察・謎解きが行われていますが、個人的には鏡の国のアリスをモチーフにしている云々はあまり関心がありません。謎で主題をカモフラージュしている、エヴァンゲリオンでも使われた手法だと思ってます。

ただし、エヴァではその主題が結局、少なくともテレビ版では描ききられることはなかったのですが、まどか☆マギカについては、すでに表出していて、それが視聴者の琴線に触れ、どうにも気になって仕方が無い作品になり得ているのではないかと考えています。

それは、決断と選択について、です。

決断も行動もしない主人公

「魔法少女」という伝統的なモチーフによって、それは表面的には少女たちの物語として描かれていますが、やはり、視聴者が自らを投影できる作りになっていると見るのが妥当です。あとで述べるように、男性キャラクターに自己投影が難しくなった以上、魔法少女をもってくるしかなかったのだと思われます。(喪男が魔法使いになる話だとあんまり視聴率稼げないわけで)

そして物語のなかで、主人公まどかは少なくとも9話までは変身を遂げていません。マミさん→ほむら→さやか→杏子、とその時々のパートナーの後ろに控えて、最悪の状況を前に狼狽えるばかり。見ていてイライラするという反応さえあります。

しかし、まどかこそ、多くの視聴者の姿そのものである、というのがこの物語が突きつけているテーマでは無いでしょうか。

劇場映画「機動警察パトレイバー2」にこんなセリフがありました。

戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか

その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると

機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]

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1993年(森田童子の「ぼくたちの失敗」がヒットした年でもあります)にこの作品が上映されたころは、まだ日本は世界に経済大国として認められており、これから失われることになる20年を予想していた人はまだ少数派でした。しかし、漠然とした先行きへの不安が世間を覆っていたのも事実で、東京を舞台に架空のテロ・クーデターを描いたこの作品は、当時の不安感をアニメで表現しきったことで支持されたと考えています。

さて、そこから18年が経ち、東京を舞台にした争乱が、もはやカタルシスを持ち得ないほど不安が日常化する中で、アニメは現実との交点を失っていきました。主人公に男性を置かなくなるどころか、登場人物から排除されていったというのはよく指摘されるところです。課題を解決し成長する物語に自己投影の手段を失っていったというのが現状でしょう。

その姿は、まどか☆マギカにおいて、決断しない主人公に重なります。大きな課題の掲出、友・メンターの喪失からの自己革新、そして課題の解決、というのがいわゆるハリウッドメソッドと呼ばれるストーリーの定番ですが、徹底してその逆を行く。そこには語り手の意図があるとみるのが自然です。

インキュベータは邪悪な存在なのか?

その主人公に決断(=契約)を迫るのがQBことインキュベータです。ネット上では悪者として叩かれまくっていますが、果たして邪悪と呼ぶべき存在なのでしょうか。

第9話で、少女達に契約を迫る理由が「宇宙から失われつつあるエネルギーを補完するため」であることが明かされました。その犠牲について事前に十分に説明されなかったことが、ずるい、として批判を集めている訳ですが、仮にインキュベータ氏の語ることが本当であれば、宇宙そのものの存続と数名の犠牲を天秤にかける話となります。

先ほど戦争をモチーフにしたセリフを挙げましたが、例えば現実世界でも軍隊における勧誘で、死ぬというリスクが最初に語られることはまずありません。そして、その説明をせざるを得ないとき、国家のための「尊い犠牲」であることが強調されるのです。インキュベータ氏はその範疇を越えた行為を行っているようには到底思えないのです。

私たち視聴者がインキュベータ氏に得も言われぬ不快感を感じるのは、契約という決断を迫る存在だからであり、一方それを阻止しようと献身的なほむらの人気が高いのは、モラトリアムを守ってくれる存在として映っているからに他有りません。

どこでどのような決断と選択を行えばグッドエンドにたどり着けるのか?

この物語がループするであろうことは、かなり早い段階から指摘されていました。ほむらは、繰り返されるこの物語の中で様々な選択を行っては失敗=バッドエンドに行き着いてしまい、何度もそれをやり直していることは想像に難くありません。

私たちがいま見守っている物語のルートでは、ほむらは徹底的に「まどかにインキュベータとの契約をさせない」という方針のもと行動をとっていると考えられます。しかし、9話までを見る限り、結果的にバッドエンドに突き進んでしまっているようです。

決断と選択の物語として、まどか☆マギカを捉えた際、やはり重要なのは、まどかの母親の「間違えればいい」というセリフでしょう。本来であれば、主人公まどかよりも、理知的な選択を繰り返してグッドエンドにたどり着けないほむらにこそ聞かせたいセリフです。

このセリフを聞いたあと、まどかはさやかのソウルジェムを投げ捨てるという行動に出て、結果大変なことになるわけですが、杏子が事の本質に気づくきっかけになったという意味では評価されるべき(=よいフラグが立った)ということなのかも知れません。

さて、ゲームならば、これは悩むところです。どこで誰がどのような選択を取れば良かったのだろうか?

この選択を重層的に行う事でしかグッドエンドに迎えられないことを思い知らされたゲームがあります。2009年に発売されたアドベンチャーゲーム「428 〜封鎖された渋谷で〜」です。複数の登場人物に、ゲーム上の異なる時間帯で正しい選択を取らせなければ、グッドエンディングやその先に隠された真のエンディングにはたどり着けない仕組みに非常に悩まされました。

Spike The Best 428 ~封鎖された渋谷で~ - PS3

Spike The Best 428 ~封鎖された渋谷で~ - PS3

428で真のエンディングを見るには、登場人物たちに徹底的に憎悪から距離をおく――つまりそれは登場人物を危険に晒す――選択を取らせる必要があります。果たして、まどか☆マギカではどのような選択を取ればよいのか?時間を操作できるほむら自身がループさせている物語であることが明かされた後は、「鏡の世界」といった道具立ての考察から、決断と選択について視聴者の関心が移っていくのは間違いありません。

避けては通れない「犠牲」

人知を越えた存在であるインキュベータの目的を遂げさせないためには、登場人物の誰かが犠牲を払うことは避けられそうにもありません。ほむらが通常兵器で攻撃してもインキュベータは消滅しなかったことからも、誰かが(おそらく最強・最凶とされるまどか自身が)それ以上に人知を越えた力で、彼を打ち負かすしかないからです。つまり、それは契約をして魔女への化身が運命づけられた魔法少女になることでしか叶えられません。

このエントリーではその考察には踏み込みませんが、それを考えさせること自体に語り手の意図があるように思えます。

物語で徹底的な破局を描くことは、現実にその危機があることを私たちに思い起こさせ、そうならないための知恵を授けたり、行動を促すものです。劇場版エヴァンゲリオン「まごころを、君に」では、スクリーンに劇場に座る「わたしたち」を投影するという手法で「現実に帰れ」という強烈なメッセージを残した(このあたりの考察は小黒さんのこの記事にきちんとまとめられている)わけですが、果たしてまどか☆マギカはどのような宿題をわたしたちに残してくれるのでしょうか?残り3話から目が離せません。