一月歌舞伎・雀右衛門休場。

インフルエンザの高熱を押しての苦しい観劇はついこの間のことなのに、今月はもう歌舞伎座

Sheevaplugと同時にこれも年末に衝動買いした無線LAN内蔵モバイルWiMAXルータAterm WM3300Rが前日に届いた。さすがにSheevaplugはセットアップに最低でも丸一日はかかるので、少し仕事をしてからのご褒美にとっておくことにし、簡単なAterm WM3300Rのセットアップだけしようと思ったらはまった。

VmwareのうえでWindows XPを動かすほうが悪いといえば悪いのだが、まず、アップデートしたらVmware Toolsもアップデートされるらしく、時間がやたらにかかる。しかも、アップデートのあいだはほとんど他の作業はできない(これは非力なMacbookで動かしているせい)。

ようやく普通に動かせるようになったと思ったら、なんとAterm WM3300Rが電波を掴まない。やられた。これも年末、トライWimaxでOKIのUD01OK/UG01OKを借りたときには、自宅のどこでもつながったのだが、このAterm WM3300Rは全くつながらない。真夜中自宅の外に出てみるとわずかに微弱電波をつかまえるが、サインアップできるほど強くはならない。そうこうしているうちに3時近くなったのであきらめる。2ちゃん情報ではAterm WM3300Rのアンテナは貧弱だそうだが、これではあまりにもひどい。不良品なのか、自宅外で試してみる必要がある。

そんなわけで翌日の歌舞伎座はお約束通り寝坊。今月と来月は一等席なんと二万円なのに、一時間半遅れる。「石切梶原」最後の五分だけ見て幕間。なんという愚かなことを毎回しているのだろう。そのあと「勧進帳」は久しぶりの団十郎。昨年二月に吉右衛門菊五郎梅玉でやったのは、九月の幸四郎吉右衛門染五郎をやるための布石と考えられるだろうが、さらに四ヶ月後に団十郎梅玉勘三郎でやるとは。建前的には歌舞伎座さよなら公演だから、ということなのだろうが、ほんとうは団十郎危ないから今のうちにやっておこうということではないか。海老蔵が結婚するのも、団十郎が死ぬ前に子供を作っておきたいからかもしれないし。

そんなふうに見ているせいか、団十郎の弁慶なんだか覇気がない。最後の飛び六法はなんとかこなしていたが。梅玉の富樫もニンがあってない。私は大の梅玉ファンで、この人の義経は大好きなのだが、残念ながらいい人過ぎて、迫力に欠ける。勘三郎義経は十八年ぶりだそうだが、予想通りよくない。義経はたしかに取り澄ましていなければならないのだが、それはニンとして出てくるべきであって、「取り澄ましている」という演技で片付けてはいけないのだ。いつものように、自分の演技力を過信するよくないくせが出ている。

「松浦の太鼓」、吉右衛門の松浦、歌六の其角、梅玉の大高源吾。この話は参照枠となっている「忠臣蔵」と一緒に上演されるか、少なくとも観客が「忠臣蔵」を強く意識していないと面白くない。ヘンリー・ジェイムズの小説にも通じる、複雑怪奇な人間関係の中で生きていく難しさが描かれる「忠臣蔵」の外の世界には、はるかに単純な生を送る松浦鎮信のような(つまり観客の私たちのような)脳天気な人間もいることが示される。運命に挑戦し、運命を出し抜くために命を削ってきた男たちに自分の身分も忘れて無邪気に喝采を送る松浦の人生が、赤穂浪士の一人として紆余曲折を経てきた大高源吾の人生と一瞬交錯する、その瞬間を描くというのは、つまり観客と劇中の登場人物による会話を描くことと同義であり、ピランデルロ的なメタシアターがそこに出現する。だが今回の上演はもちろんそこまで掘り下げて演じているわけではなく、わずかにその可能性を垣間見せただけに過ぎない。

夜の部は雀右衛門のための新作舞踊「春の寿」。二年ぶりの雀右衛門で、おそらく今回が最後の出演だろうと思っていた見ていたら、せり上がってきたのは魁春。最初はずいぶん雀右衛門魁春に似ているなあ、と思っていたらかけ声屋さんが「加賀屋!」とかけ声をかけたのでようやく理解する。雀右衛門が休演するというニュースは二日に新聞に載っていたらしいが、知らなかった。だがそれにしても、雀右衛門が演じる予定だったのは女帝で、議論かまびすしい天皇の継嗣問題に松竹が立ち入った見解を示したようにも見える。

「車引」吉右衛門の梅王丸、幸四郎の松王丸、芝翫の桜丸、富十郎の時平。これは久しぶりによいものを見た。芝翫の初役桜丸はさすがに疑問符がつくが(荒事の格好をしていると芝翫の背の低さが目につくこともある)。他の三人が圧倒的に素晴らしい。とくに富十郎の時平は、この人しゃべらないでにらむだけだと本当にすごいのだなということがよくわかる。

道成寺」は勘三郎白拍子勘三郎女形もだめだ。女形に必要なナルシシズムがこの人にはない。良くも悪くも醒めている人だから、「私を見て、綺麗でしょう」という女形が必ず発するメッセージが勘三郎からは聞こえてこないのだ。自分が自分に酔えなければ観客も酔えない。「女形の演技」を巧くなぞるだけでは女形にはなれないのだ。

「切られ与三」、染五郎の与三郎は数年前の海老蔵よりはずっとましだが、まだ台詞が浮ついている、粋じゃない。彌十郎の蝙蝠安は初見だが、左団次や三津五郎よりはずっと頭を使って演技をしているのが印象に残る。マナリズムに流れずに型を演じることは難しい。そういう意味では、福助のお富がいちばんよくできていたか。しかしこの作品はこれぞというメンバーで見たことがない。羽左衛門のテープって国立劇場かなんかに行くと見られるのかなあ。