そこに原発が必要だったかどうかだなんて誰にもわからない

福島には原発が必要だった - あ

違う、そうじゃない。

この記事をよんでまず浮かんできたのはその感情。
わかる。言いたいことは分かる。
このタイトルが、結びの言葉を強くするために付けられたものだということも理解できるしその思惑通り最後の訴えは強く生きていると思う。

平時ならば、みんなが冷静に日常を歩んでいるときならば、
あるいはこんな感情は抱かなかったかもしれない。

とにかく様々なことを考えさせられ、自分の考えを生ませる記事だった。そしてこの浮かんできた違和感をどうにかするために、私も同じ土俵にたたなければと思い、ブログを開設した。



前述の通り、内容は理解できるのだ。
それでも違和感を感じてしょうがないのは、タイトル。

「福島には原子力が必要だった」

『過疎地域。貧しい県。県庁所在地の若者でさえ、隣の仙台市へ遊びに行ってしまうような土地。知事も町長も原発を歓迎し、原発があったことで多くの雇用が生まれ、周辺地域の双葉郡の財政は潤っていた。その上安心安全なエネルギーと聞いていたし信じていた。だから原発に賛成してきた。
だけどそれはすでに過去のことで、そうやって推進してきた人たちも、原発に反対していいんだよ。原発はいらないと主張していいんだよ。』

そう訴えている内容。

分かるよ。
理解できる。
でもどうしても、このタイトルをみるたびに、違和感、そして怒りを覚えてしまう。

私が生まれた町は福島第一原子力発電所から10kmの範囲に入る町。
高校卒業後上京し、数年前から都内の会社に勤めている。
故郷では地震のすぐ後に避難指示が出され、家族や友達が今も避難生活を続けている。

地震後、やっと繋がった電話で聞いた避難時の家族の様子。
おにぎり一個で一日生活し、毛布にくるまって固い床の上では眠ることもできなかったと言っていた。
そして90代後半の、認知症のため私の顔すらあやふやな祖母が、避難所で言ったという言葉。

「出来たときからこうなるかもしれないことは分かってたんだ」

原発の水素爆発の事故後に言った言葉だという。

私はそれを聞いて、そうか、分かっていたのか、と小さな衝撃を受けた。
それからしばらく、その言葉は頭の中でぐるぐると巡っていた。

大人になった今はもちろん、生まれたときからすでに、この福島第一原子力発電所はそこにあった。

第一原子力発電所ができたのが約40年前。(営業運転開始が1971年3月26日だからほんとうに丁度40年)
Wikipediaに記載されている通りだと、福島県東京電力に敷地を提供すると表明したのは50年前。
そこで発電された電力は全て他県(首都圏1都7県(群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県、東京都、千葉県、神奈川県、山梨県)、静岡県富士川以東)へと供給されていた。

これらは祖母の言葉を受けWikipediaで調べてはじめてわかったことで、生まれてから今まで、原発のことなんて気にしたこともなかったのだ。
実際にこの事業を進めたのは当時のお偉方だったと考えると、若く見積もっても、当時40、50代だった方だと思う。
つまり現在は90歳〜100歳の方々。
そんな立派な高齢者。きっとすでに、うちの祖母と同じようにもうろくしている。もしくは亡くなっているだろう。

他県の方々が「自分たちが好き好んで福島県発電所を押し付けたのではない」というように、今現在この問題に関わっているほとんどの人達が、自分がそうしたくてこの事業を押し進めてきたわけではないと思う。実際に現在復旧活動に勤しんでいる作業員の方々も、責められている東京電力役員の方々も。(もちろん企業としての責任は重いと思う)

私自身の家族に東電関係者はいないが、友人の家族や友人など、多くの知人が、東京電力、またはその下請けで働いている。
だから双葉郡の人間の雇用元として大きな位置をしめていたのも事実。
だけどただ、たったそれだけのことだと思う。
原発誘致により、双葉郡は潤ったといったって、実際それを実感し、喜んでいた人がどれほどいたというのだろうか。
少なくとも、私達若者が実感したことはないだろう。電車は1時間に一本。終電は10時前。買いものは福島市の方と同じように仙台へ、2時間かけて行くか、1時間かけていわきのイトーヨーカドーやサティへ行くか、だ。
雇用?そんなのあるものに応募するだけだ。希望した全員が東電に就職できるわけでもなく、東電がなかった場合はなかったなりに、どうにでもなる。

自分の生まれる土地も、国も親も時代も選ぶことはできない。
原発はすでにそこにあったのだ。

「福島には原発が必要だった?」

もし仮にそうだったとしても、私達はそれを認めなければならないのだろうか。
福島に生まれてしまったから、原発について考えなければならないのだろうか。
福島に生まれてしまったから原発を反対/推進しなければならなかったのだろうか。
福島に生まれたことを運が悪かったと思い、福島で起こってしまった原発事故を、雇用のために、お金のために、原発は自分たちが必要としていたものだったと、恩恵も受けていたと、そう認めなくてはいけないのだろうか。
強大な壁で囲われているわけでもない、地図上の見えない線で囲われているだけのこの小さな国の中で、ただその県というくくりが、いったい何になるのだろう。
しかし実際にその名称の重圧は、重くのしかかる。
差別は避けられない。私達はそれに耐えなくてはならない。
自分一人なら、覚悟するのはとても簡単だけれど、自分以外の他人、生まれたばかりの子供たちや、家族のことを考えると、自分だけで守りきるのはとても無理だと思う。
守るためにはどうしても、たくさんの人の理解と応援が必要だ。

福島に生まれたことが、不幸なことだったとは思わない。そして誰にも、そう思わせたくない。

だからこそ、このタイトルに違和感を覚えて、このブログを作り文章をかいた。
原発が必要か不必要か、そこに福島をもちだす必要はないのではないか。
福島だから、考えなくてはいけないことなのではなく、資源の乏しいこの国で、豊かな生活を送っている、一人一人全員が考えなくてはいけないことだと思う。

20数年前日本の福島県に人間として生まれた。そこに意味なんてないと思う。

揃って故郷へ帰れるのがいつになるのか、今は検討もつきません。誰を責めても、もう何も元には戻らない。
ただひたすら一人一人が、自分のために、子供のために、家族のために、なんでもいいからとにかく、繋げていかなくてはいけないのだと思う。

誰も責めない。誰かのせいにするのは楽だけど、誰の人生も等しく一度きりなのだから。
いつか揃って故郷へ帰る時には、きっと盛大な同窓会になるだろう。
盛大に、大騒ぎして、お酒を飲みたいと思う。


補足年表(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80から抜粋)
1960年(昭和35年)11月29日:福島県から東京電力に対し、双葉郡への原子力発電所誘致の敷地提供をする旨を表明する。
1970年(昭和45年)11月17日:1号機の試運転を開始する(翌年5月11日に記念式典を実施する)。
1971年(昭和46年)3月26日:1号機の営業運転を開始する。