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abekojiの日記

2009-02-06

アフガニスタンと周辺国

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お目ものーと

アフガニスタンと周辺国 鈴木均(編さん) アジア経済研究所(2008/04)

L.デュプリーはソ連軍侵攻以前のある論考でアフガニスタンアジアアフリカ世界に普遍的にみられる「農民・部族社会 Peasant-tribal Society」の典型として紹介した。ダーウード・ハーンによる1973年クーデターの直後に書かれたこの論考で、デュプリーはすでに「国家と個人の契約でなく国家と地域集団の契約を」として近代国家モデルのアフガニスタンに相応しい代替案を提示している [Dupree 1974:5]。

軍閥」勢力がアフガニスタン国家の統合にとって障害である最大の理由は、それが武力を保有しているということでもなく、また民主的な制度による正当性の裏づけをもたないということでもない。それは端的にいえば極めて容易に外国勢力(周辺国および大国)の代弁者となってアフガニスタン国家の利害に敵対しうる存在だからである。もちろんこの場合、現在のアフガニスタン政府自体が最強の外国勢力たる米国の後ろ盾によって存立しているという事実は公然たる前提条件としてある。

尾崎は1936年に自らの記録に「僧侶ノ権威洵ニ恐ルベキモノアリ」と記した[尾崎2003,224頁]。アダメクは同じことを以下のように表現している。「アミール(国王)は最も地位の低いムッラーの意見でも無視できない」[Adamec 1967:p.7]。

ロシア革命後の中央アジアボルシェビキが直面した課題は、プロレタリアートスラブ人を中心とする鉄道労働者に限られるなかで、いかに革命側に支持層を拡大するかであった。反ボルシェビキを掲げるバチマチ運動の展開は中央アジアソビエト権力に対する挑戦であり、その鎮圧はソビエト政権にとって大きな課題であった。また1920年代にはアフガニスタンイラントルコで欧化主義的側面の強い近代化運動が展開されたが、女性にヴェールを脱がせることも、ロシア革命の成果を示すシンボルのひとつとみなされた。ソ連中央アジアにおいてボルシェビキは、女性の間で新たな支持層を組織するために女性をプロレタリアートに相当する被抑圧階層とみなし、その解放運動を進め、革命と反革命を分けるシンボルは女性のヴェールを脱がせるかどうかであると主張した時期さえあった。アフガニスタンではアマヌッラー王が女性のヴェールを脱ぐことを含む近代化運動の先陣を切ったが、ナクシュバンディー教団などスーフィー教団をはじめ多くの反対勢力の抵抗により、1929年王位を奪われている。ボルシェビキは反ヴェール運動などを通じて国際的な進歩主義運動において影響力を与えようとしたが、その際同様な運動を展開していたアフガニスタンのアマヌッラーやトルコのケマル・アタチュルクは強力な競争者として映ったのである[Northrop:71]。中央アジアではヴェールを脱ぐか脱がないかが、ボルシェビキ革命を支持するかどうかの試金石として意識され、強引なキャンペーンが行われたが、農村地域はもちろん都市の多くの地域でも根強い反対に直面した。そのキャンペーンの効果が明確にあらわれたのは1941年に始まるドイツとの大祖国戦争期であり、女性の生産部門への進出が決定的に重要な意味をもつようになってからといわれる。この「成功」経験は1979年12月のソ連軍アフガニスタン侵攻において、ソ連指導部にアフガニスタン対策でひとつの自信を与えていたとみられる。ターリバーン政権を経た現在のアフガニスタンにおいて、一部で女性がヴェールをかぶっていることが「民主化」されていないシンボルにみられるる雰囲気があるが、1920年代30年代ソ連中央アジアの状況と類似している側面があるといえよう。

侵攻は1979年末にアミーン大統領に対する不信感を根拠に強行されたが、その際、中央アジアのウズベク、タジク、トルクメン人の予備役が動員された。これはアフガニスタンでの宗教的民族的反発を緩和しようとねらったものである。しかし、この政策は基本的に裏目に出た。第1に、パシュトゥーン人地域に参入したソ連中央アジア諸民族で構成されるソ連軍は、伝統的価値を重視するパシュトゥーン人の民族的反発を引き起こした。第2にアフガントルキスタンに住むタジク、ウズベク、トルクメンの多くは1920年代、30代にソ連に反発して逃げてきた者の末裔であり、反ソ感情をもつものも少なくなかったことである。第3に、赤軍内でのスラブ系と多数の中央アジア出身者の間で誤解と亀裂が生まれやすかったことである。前者はアフガニスタン現地の言葉を解さないのに対して、後者は意思疎通が可能であった。内部亀裂を避けるため、1980年3月にはソ連軍の構成をスラブ系主体に置き換えたのである[Tanner:244-245]。

永世中立国家」は「緩衝国家」よりは強い主体性を主張しているようにみえるが、しかし実態的にみると「緩衝国家」という地位と類似している側面もある。

中央アジア諸国は、イスラーム過激派テロと米国の「民主革命」という2つの挑戦を同時に受けているという認識をもつようになった。注目されるのは、ウズベキスタンなど中央アジア諸国が最も警戒し非合法化しているイスラーム解放党に対して、米国務省は「国際テロ組織」と認定することを拒否してきたことである。米国の判断はイスラーム解放党がテロによる政権奪取を明言していないというものであったが、中央アジア、とりわけウズベキスタンからみると「民主化」の名のもとに中央アジア諸国の政権を揺さぶるカードとしてイスラーム解放党を使っているのではないかとい疑いをもつことになった。

「パシュトゥーニスターン」の領域は現在のバローチスターン州を含んでいる。同州の州都クエッタを含むバローチスターン北部人口の大半はパシュトゥーン民族であると推計されているが、同州人口約760万の過半数を占めるといわれるのはバローチ民族であり、彼らは一般的にパシュトゥーン民族に友好的ではないといわれる。そのほか、数々の州内少数民族が「パシュトゥーニスターン」構想に容易に同調するとは考えられない。

パキスタンにとってこの通過貿易の第1の問題として、アフガニスタン輸入品の6割から8割がパキスタンに「逆流」してくるという現象(密貿易)がある。これらの密輸入品と競合するパキスタン国内企業の倒産が目立ち、とくに北西辺境州の地域産業の発達が厳しく阻害されてきた。また例年、パキスタン政府全歳入の30%前後、税収の40%以上を占めていた関税収入がやはりこの密輸入のために長い間徴収困難な状況にあった。もっとも、過去14〜15年の間にIMF国際通貨基金)の圧力による歴代政府の構造調整努力もあって全歳入に占める関税収入の比率は1990/91年度の29.4%から2002/03年度には9.9%に縮小され、2003/04年度予算では10.7%とされている。また、政府税収に占める関税収入の比率は1990/91年度に40.4%、2002/03年度には15.2%、03/04年度予算では15.3%となっている。このようなことから、この分野における密貿易被害は当該地域経済は別として、国民経済全体に対しては相対的に減少しているといえよう。

ターリバーンが密貿易業者などから徴収する「通行税」、またアヘン栽培・加工業者から「保護」の見返りに取り立てる一種の「上納金」はターリバーン政権の最大の財源であった。彼らはまた時として盗賊にさえ成り下がったという。このような経済状況はアフガニスタンおよび周辺諸国(とくにパキスタン)の経済だけでなく国家体制をも非合理なものに弱体化させていった。パキスタンは国内産業保護と政府財源確保のために建国以来高い関税を課してきたのであったが、それは皮肉なことに逆効果えおもたらしたのである。またイランから直接に密輸入する闇のビジネスマンたちも少なくないという。なお、グローバリゼーションの影響で2007年現在、パキスタンには高関税に重きを置く経済政策はもはやみられない。

パキスタン政府は、アフガニスタンパキスタン領土経由でインドへの輸出することを許可しているが、アフガニスタンパキスタン経由でインドから輸入することは(換言すればインドパキスタン領土経由での対アフガニスタン輸出を)禁じている。そこで2003年1月、インドアフガニスタンおよびイランとの間で3国間覚書に調印した。それによるとインドアフガニスタンイランのチャーバハール(Chabahar)港経由で無関税の恩恵を受けつつ貿易を行えることになった。

これでアフガニスタンパキスタン港湾への依存度が軽減され、アフガニスタンの対パキスタン発言力が強化されることになったことは否定できない。インドはまた、チャーバハール港からアフガニスタンニームルーズ(Nimruz)州までの通過貿易用道路の建設に投資している。チャーバハール港の拡張とセットになっているこのプロジェクトが完了したとき、アフガニスタンにとってパキスタンカラチ港の利用価値がさらに低落するであろう。

モスク宗教学生のほとんどは北西辺境州からFATA(連邦直轄部族地域)にかけての地域の出身者であるという。今やわが国でも、アフガニスタンおよびパキスタンに関する従来の研究だけではなく、「ネオ・ターリバーン」、宗教心理などに関する真剣かつ冷静で先入観にまどわされない研究が必要となっている。

アフガニスタンのターリバーン政権パキスタン側から支えたのは、デーオバンド系宗教政党イスラームウラマー協会(JUI)である[Maley 1998:14-15];[Rashid 1998:75-76]。

このFATAは、パキスタンのなかでも特別な地域である。パキスタン政府司法権や警察権は及んでおらず、大幅な自治が部族民に認められている半独立の地域である。すなわち、部族指導者が日常生活を支配する間接統治体制が採用されてきており、犯罪に対しては国内法と異なる辺境地域犯罪コードが適用されている。これは旧宗主国である英国の統治体制を世襲したものである。パキスタンの分離独立後、FATA内にはパキスタン正規軍は駐屯せず、地元部族民から編成された警備隊(非正規軍)しか存在しない時代続いていた。このFATAは居住する同一部族を基本単位として7つの管区から構成されており、1998年の人口動態調査によれば、その人口は320万人程度とされている[村岡2002:12]。

パキスタンのムシャッラフ大統領は米国の「テロ撲滅」への協力の証として、2002年以降にFATA内へのパキスタン正規軍の展開を決定した。しかし、アフガニスタン側に布陣する米軍主導同盟軍によるFATA内への越境作戦実施については頑なに拒否するとともに、積極的なFATA内での掃討作戦も実施しようとはしてこなかった。すなわちFATA内でのイスラーム過激主義勢力の掃討については、地元の部族民が前面に立ち、パキスタン正規軍は後方に控える状態が続いていたのである。また、その主要な掃討対象は、アラブ、ウズベクおよびチェチェン等から構成される外国人勢力に向けられていた。

1997年からの第二次ナワーズ・シャリーフ文民政権時代に、FATAでの連邦議会議員の選出方法が、伝統的なジルガから一般選挙に切り換えられた。その結果として2002年10月の総選挙では、イスラーム宗教指導者が部族指導者に代わって選出されるようになった[AKI 2006];[Shahzad 2006c]。その結果FATAでの権力構造の頂点であった部族指導者の権威と影響力が、大きく低下する結果になった。それを象徴するかのように、ワズィーリスターンでは2006年4月末までに150人の親政府系の部族指導者が殺害されている[Dawn 2006c]。

外交に関する政策判断および行動基準から当初存在した宗教的、宗派的要件が次第に薄れていくのも、ラフサンジャーニーの時代に進行した変化である。これはナゴルノカラバフ紛争におけるアルメニア寄りの姿勢に始まり、アフガニスタンにおけるシーア派ハザーラ人支援への専心に代えて反ターリバーン連合勢力支援への転換に至るまで、隣接する地域で発生した安全保障上の直接的な脅威への対応に表出している。

1998年夏、イラン外交官殺害事件に対するターリバーンへの軍事報復を自制し、極度に高じた緊張のなかでも危機管理と対話による問題解決に努めたことは、とくにターリバーン征伐を主張する国内強硬論を抑え込んだ点において、イランが包括的な国益の追求をめぐる政策論議の導入に成功したことを物語っている。ここでは外務省に新たに設置された「アフガン本部」(Setad-e Afghanestan)が対アフガニスタン外交を通じてイラン現実主義(real politics)が浸透し、定着に向ったのである。

イランは、対テロ戦争では湾岸戦争時と同様に中立を宣言しつつも、実態のうえでは多国籍軍の中心を成す米軍に対して有形無形の支援を行った。これは外交関係者の間では公然の秘密になっている。

グワーダル港建設と同港からアフガニスタン北上ルートは、2001年5月に中国パキスタンの間で検討が開始されて以来、中国中央アジア支配に対して警戒感をもつ米国の圧力が続いてきた。中国パキスタン両国がこのプロジェクトにかけるねらいは、中国新疆ウイグルアフガニスタン経由でグワーダル港と結ぶことで、地元に経済的利益を呼び込み、同時に新疆とバルーチスターンでの反政府勢力を封じ込めることにあるとされる[Association for Asian Research February 28,2005]。

一方の公用語であるペルシア語に比べて、より古形を保ち、複雑な文法体系を有する。このことは、母語話者集団(パシュトゥーン)が民族勢力的には圧倒的優位に立ちながら、言語のうえでは第2位に甘んじる一大要因ともなっている。語彙面ではインド・アーリア系の借用語を大量に内包するのが特徴である。

伝統的ペルシア語優位の状況に対し、アフガニスタンでは、パシュトゥーン国家意識の高揚と共に、1920年代よりパシュトー語奨励の気運が見え始めた。1936年には、勅令によりパシュトー語が国語(または公用語か未詳)となり、1937年には、従来の文学協会とパシュトー協会を統合してパシュトー語アカデミーが設立され、同語の普及にかかわる、研究・教育・出版等の活動が行われた。また1938年には政府役人にパシュトー語の使用が求められるなど、地域のコイネーとして君臨してきたペルシア語に対し、パシュトー語にもその起源的正統性を求め、国の主要言語として普及させようとする動きがみられるようになった。1964年憲法では、パシュトー語とダリー語公用語であることを明らかにする初の条項が設けられ、この条文は2003年憲法まで継承されている。

KanatoKanato 2009/02/06 10:15 ソヴィエトポスター −−−> www.ussrposters.narod.ru

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