2009-02-13
疫病と世界史 上
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お目ものーと
疫病と世界史 上 ウィリアム・H・マクニール(著) 佐々木昭夫(翻訳) 中央公論新社(2007/12)
その上、インディオは倒すが、スペイン人には痛くも痒くもない病気なるものの与える、心理的効果も考えてみる必要があろう。このような不公平は超自然の力によってしか説明できない。そして、相争う二者のどちらの側が神の恩寵に浴しているかは、ここで一目瞭然である。古来のインディオの神々を中心としてでき上がった宗教体系、聖職者の組織、生活様式などは、スペイン人が信心する神の優越性の、これほどはっきりした証拠の前にひとたまりもなかった。インディオがあれほど唯々諾々とキリスト教を受け入れれスペインの支配に服したのも、だからそれほど不思議でない。
人類最初の諸文明は、服属させた共同体から収穫物の一部を奪取し、その共同体が一年また一年と不定期間生存を続けるに足るだけのものは残しておくというやり方が可能になったとき、成立したのである。
感染性の生物体が一種以上の宿主に自分を適応させなければならないという点で、マラリアに似たものがいくつかあるある。そしてもしももう一方の宿主の方が、何らかの理由で寄生体にとってより重要だったりすると、安定した生物学的バランスということは、このヒト以外の宿主との適応に集中することになる。そこでこうした感染がヒトに移行した場合には、いつまでもヒトの生命にとって破壊的な猛威を振るい続けるのである。
アフリカのサバンナ地帯に棲む有蹄類の群れが今日まで生存し得た主な理由は、まさにこの睡眠病が、遠い過去から今日に到るまで、人類に対してあれほど破壊的な暴威を振るい続けたからなのである。近代的な予防手段を講じない限り、人間はツェツェ蠅が群れなすこうした地域に住むことはまず不可能である。
他の生物の側から見れば、人類は一種悪性の疫病とも言うべき存在で、一時的にその行動型が沈静して力が弱まったとしても、それは真に安定した慢性の相互関係が確立されたことに決してならない。
逆の見方をすれば、アフリカでヒトに寄生する生物が非常に多様性に富んでいるという事実は、アフリカが人類の主な揺籃の地だったことを示しているということになる。
自然環境へのこの文化適応ということがまず決定的だったことは否定し得ないが、実はもうひとつ無視できない要因がある。われわれの先祖たちが熱帯に住む人類が曝されている寄生生物や病原体から逃れることができたのである。そこで健康と活力が改善され、人口の増加はこれまでに例のない規模で繰り広げられることになった。
だが水分不足が植物の生育上の問題点となっているわけでもない地域では、休閑の最大の効用は、農夫が休閑地に犁を入れることで雑草の自然の生育サイクルを攪乱し、雑草を制圧するのに役立つということなのである。
その土地特有の極相を示す植生が破壊されると、そこをニッチェとして急速に繁茂することができる。そうした機会を利用できる種の数はそう多くはないから、結果は限られた種類の雑草による不毛な自然環境の過剰汚染ということになる。だが自然界にあってはこれら雑草が永く栄えることはない。複雑な代償的適応が間もなく作用し始め、外的な力による大きな混乱があらためて繰り返されない限り、幾分なりとも安定し多様性に富んだ植物相がやがて成立するが、その様相は破壊される以前の景観と非常によく似ているのが普通である。
病気をひき起こすミクロの生物体に対しては、何千年もの間ほとんど手探りといったありさまだった。その結果、作物と家畜、それにヒトそのものに対する病気の暴威は全歴史時代を通じ人類にきわめて深刻な影響を与え続けたのである。そして、近代の医学上の書発見が疾病伝播の重要なパターンをいくつか明らかにする以前、なす術を知らぬ人類に何が起こったかを理解しようという努力こそ、ほかならぬ本書も存在理由だった。
ヒトの耕作者が沼地での農作業に長時間を過ごす灌漑農耕の自然環境にあっては、現在この寄生症がきわめてすみやかに根をおろしてしまうことから判断すると、旧世界の全域で、古代の水利灌漑と住血吸虫症がごく早いうちから密接に結びついていた可能性が強い。
住血吸虫症とそれに類した寄生虫症の古代における分布状況如何の問題はさておき、確実なことは、どこであろうとこれが蔓延したが最後、その地の農民層は無気力で衰弱しきった存在に化してしまいがちだったという事実である。
エジプトの疫病は、古代のヘブライ人には想像もできず、現代の歴史家が考えてみようともしない形で、ファラオの権力と結びついていたかもしれないだ。
それでも人びとは時折、感染の危険を減少させるような食物規定や衛生上の掟を作り出すことがあった。よく知られているのは、ユダヤ教とイスラム教で豚肉の食用を禁じていることである。これは、西アジアの村落で豚どもが汚物処理の役を務めていて、人糞その他「不浄な」物質を平気で食っている事実を知れば納得がいく。豚肉を食べる時は完全に熱を通さないと、無数の寄生生物を容易に人体に感染させ得る。それは現在の旋毛虫症の研究からも明らかである。けれども古代に豚肉の食用が禁じられたということは、決して、なんらかの試行錯誤を経て判断を下したのではなく、豚の行動に対する本能的な嫌悪感から来たものであろう。それにこのタブーを守ったために人びとの健康になにほどかのプラスがあったかどうかも、現存する資料から探り当てることはまったく不可能である。
水あるいは砂でもって体を洗うことも、イスラム教とヒンズー教の祭祀で重要な項目を占めている。これも時には疫病の蔓延を防ぐ効果があったであろう。
一方、なんらかの聖なる祭典を祝うために集まった数千の巡礼が一斉に行う儀式としての沐浴は、人体寄生生物に対して新しい宿主を見出すまたとない好機を提供するものだった。例えばイエメンにおいて、回教寺院に付属する沐浴場で住血吸虫に侵された巻貝の生息が確認されている。インドでもコレラの伝播は過去においてのみならず現在でも、もっぱら巡礼隊の旅によるものと言ってよい。だから伝統的な規則は、たとえそれが宗教によって定められ大昔から遵守されてきたものであっても、常に流行病の拡大を阻止する効果があったとは限らない。実際に病気を広げる結果を伴う積極的な健康増進の機能を果たす規則も、ともに犯すべかららざる宗教上の掟として課せられていたということがいくらでもあり得るのだ。
中央アフリカと東アフリカで、十九、二十世紀にヨーロッパ人の植民地行政官の浅慮が、牧畜と耕作の伝統的な型を短兵急に改革しようと意図したために生じた事態も、新しい土地に農耕文化を広げようとする場合には、予想もしなかった結果に陥りがちだという事実を示す好例である。こうした企画は、ウガンダ、旧ベルギー領コンゴ、タンガニーカ、ローデシア、ナイジェリアの諸地方に、悪疫たる睡眠病の異常な流行を頻発させたのであった。つまり、一見よき農地と見える土地のよりいっそう効果的な利用を目指す政策が実施されたために、死をまき散らすツェツェ蠅に以前よりもずっと濃厚に汚染されてしまった土地こそ、植民地体制が終わった時あとに残していった遺産におかならなかった。
中間宿主なしに直接ヒトからヒトへ移動する、感染性のバクテリアないしウイルス疾患は、とりわけ文明特有の病気なのである。それこそ都市と近郊農村のまぎれもないしるしであり、
文明特有と見なされる感染症は、大部分、いや恐らくそのすべてが、動物の群れからヒトのポピュレーションに移行したものである。飼育する動物との接触は特に密接この上なかったから、今日われわれが知っているるありふれた感染症は、その多くがそれぞれ家畜の病気の一、二種との間に明確な類縁性を持っている。
この余剰生産物は、ヒトによるマクロ寄生に抵抗するための抗体と見なすことができる。成功した政治権力とは、租税、年貢を納める者に、外敵の侵入と破滅的な略奪に対する免疫性を与えることのできる存在である。それは、軽度の感染がその宿主に免疫による抵抗力をつけさせ、死をもたらす悪性の病気の侵入から守ってくれるのと等しい。病気に対する抵抗力は、抗体の形成を促進することと、それ以外の生理的な防衛手段の活動力を高めることによって得られる。
例えば近代以降、感受性のある若者が集まる最も代表的な二つの場所は学校と兵営である。子供を持っている人なら誰でも、今日の西欧化された社会で、小学校なるものが小児病を広める上でどんなに大きな役割を果たしているのかよく知っている。また十九世紀、予防接種が制度化する以前、田舎からフランス陸軍に召集された壮丁は、すでに感染を経験してほとんど免疫を得ている都会生まれの同輩に比べ、種々の感染症にひどく罹りやすく、時には重症に陥ることもあった。その結果、軍隊では、身体強健な農夫のせがれどもの方が、都会の貧民街から徴集された栄養不良の虚弱青年連中よりも、死亡率がずっと高かったのである。
現在の都市ではしかが存続できる最低限の住民数は約五十万人ということになる。
専門家による細菌学的分析によらない限り、単なる症状だけでは、病気の正体をまるで見誤ってしまう可能性があるのだ。
セム語を話す民衆が大量にシュメールの諸都市に流れ込んだので、古い言語を話す住民を圧倒してしまったのだ。
十九世紀によく似た事例があるので理解を助けてくれる。およそ一八三〇年代以降そして特に一八五〇年以後、都市の急速な膨張と新種の疫病であるコレラの蔓延という二つの要因が相まって、ハプスブルグ帝国に永年の間確立していた文化的構造が崩壊するに到った。ボヘミアとハンガリーの町々に移り住んだ農民は改めてドイツ語を習得しようとするのが長い間の慣習だった。彼らの子孫は、二、三世代後には、言語においても意識においてもドイツ人になりきってしまう。十九世紀に入るとこのプロセスが崩れ始める。帝国内の諸都市に移住したスラブ語とハンガリー語を話す住民の数がある線を越えたとき、新米者が日常用語としてドイツ語を習得する必要はなくなった。やがて、民族主義的理念が根を下ろし、ドイツ的であることは非愛国的と見なされるに到る。その結果、わずか半世紀のうちに、プラハはチェコ語、ブダペストはハンガリー語が使用される都市に変わったのである。
一八三一年のコレラによるハンガリー国民の死者数を二十五万人と見積もっている。そのすべてではないにせよ、大部分が都市の住民だった。このような突然の大量死は、町中の至る所に空きを作ったから、何十万人という農民がそこに入り込んでくることができた。彼らは自分らの使っている言語を持ってやってきたのである。
そうした記録を書いた人びとが、文明−もちろん彼らの文明−の拡大していくこは当然至極と考えたのは、いかにも自然であろう。彼らにとって自分の文明の魅力と価値は自明のことだったからである。ところが、現代の歴史家もしばしば無意識裡に同じ態度を取る。
南と東で、様々な「森の種族」が占拠する地帯と境を接していた。この人びとは通常、自給自足の小さな共同体を作ってほとんどその中だけで生活していたが、そうした小集落は、温帯にあっては、文明に伴う様々な病気による疫学的被害に対して極度に脆いのが普通である。そして、文明特有の病気が、インドにあってはユーラシアのもっと北の地方におけるほどには破壊的でなかったと考えるべき理由は何もない。ところが意外にも、インドの森の種族は、決して崩壊し消滅してしまうことはなかった。実は、彼ら自身も、都市文明の生物学兵器に対抗すべき疫学的な反撃手段を有していたのである。高温多湿の環境下で勢いを増す様々な熱帯特有の病気と寄生症が、温帯地方に見られるような文明の侵蝕作用から彼らを保護してくれたというわけである。後代のアフリカにおけると同様、多様な形の死と衰弱が待ち構えていたため、インド北西部の乾燥地帯から発進する文明を備えた侵略軍も、広範かつ迅速にこうした地方に侵入することは到底できなかった。そこで、一種疫学的均衡とも言うべき状態が生じる。森林生活者は、文明圏の住民との接触から生じる感染症のため成員の多くを失うことがあったかもしれないが、文明を備えた侵入者の方も、森林生活者が馴れ親しんでいる熱帯病寄生虫症と接することで、同じような損害をうけたのであった。
結果は御承知の通りである。インド文明は、インドの東部と南部を占めている様々な原始的共同体に対しては、ヒマラヤの北で普通だったように消化吸収してしまうことをせず、森の種族の子孫を下層のカストと規定し、彼らを半ば自立した機能を備える構成分子としてヒンズー教の同盟体に組み込むことによって拡大していった。だから地方の文化と社会的伝統は、破壊されることなくそのままインドの社会構造に編入されたのである。
山地に遮られた揚子江流域では事情がまったく異なる。だから、華北の疾病状況に馴れてしまったヒトのポピュレーションが、南方を支配するはっきり違った寄生パターンに適応するためには、恐るべき困難に立ち向かわなければならなかったのである。
インドの支配階級と都市が利用できたエネルギーの剰余は、それだけ乏しかったわけである。
そして、おそらくこの事実こそ、インドの諸王国がいずれも構造的に脆弱で短命だったことの最大の理由である。
インドにはびこる種種の病気こそ、組織された人的自衛力にもまして、何よりも確実な防衛装置だった。
個々人の社会的立場を決定する規準が常にカストの原理だということになると、それが国力を低下させる方向に働くのは言うまでも名イ。政治的忠誠心がカストへの帰属意識を超えることはほとんどなく、君主なるものも単にもうひとつのカストというに過ぎず、しかも特に扱いの難しいカストで、他のカストに属する人びとは用心してできるだけ彼らから遠ざかろうとするだけなのだ。
孔子は、権力の濫用の抑制につながる行動規範を定めて、上層の諸階級によるマクロ寄生を規制しようとした。それに反してインドの僧侶たちは、政治と社会に背を向け−ある意味はそれに絶望してとも言えるが−、弟子たちに窮乏生活を説き、解脱の聖なるヴィジョンが得やすくなるように、周囲に対する物質的要求を最小限にとどめるように命じた。そして、現世を超越した至福に達するために、感覚と肉体的な生理作用を規則的に抑制しようとして断食を続ける聖者たちは、食物を生産しない連中を支えるために抑圧された農民が生産する能力が貧弱であるという現実と、まことにうまく適合する教養あるエリートだったのである。
ブッタが説いたような、生存の苦しみから逃れようとする理念、彼が勧めた世俗の財貨ともろもろの執着心の放棄、これは明らかに政治的連帯感を弱め、政治なるものの価値と影響力を大きく低下させる機能を果たしたのであった。
ローマの帝国型の支配構造が固まるまでには長い時間を要した。この事実は、戦場においても交易市場においても自己の利益を守るべく地方ごとに独立した組織を備えている多数の交易の当事者を、ひとつの支配の傘の下にもとめるのがいかに困難だったかを物語る。
近代に入って、はしかのようなありふれた病気が、まだそれに侵されたことのない共同体に侵入したとき、最初の死亡率は二五パーセントにのぼる事実が観察されているが、これは基本的な看護活動の低下によるところが大きい。
キリスト教の発展と確立が、旧来のもろもろの世界観を根底から一変させることになる。キリスト教徒が同時代の異教徒に対して持っていたひとつの大きな強みは、悪疫の荒れ狂っている最中であろうとも、病人の看護という仕事が彼らにとって自明の宗教的義務だったことである。通常の奉仕活動がすべて絶たれてしまった場合には、ごく基本的な看護行為でも致死率を大きく引き下げるのに寄与するものである。例えば食べ物と飲み水を与えてやるだけでも、体が衰弱していて自力ではそれを手にいれることができず、空しく死を待つほかなかった病人を、快方に向わせることが大いにありうるのだ。そして、こうした看護によって一命を取り留めた者は、以後、自分の命を救ってくれた人びとに対する感謝の思いと温かい連帯感を抱き続けるであろう。だから、災厄的な疫病は、ほとんどすべての既存の諸制度が信用を失墜したまさにその時代にあって、キリスト教の教会を強化する結果をもたらした。キリスト教徒の著述家たちはこの力の源泉をよく意識していて、異教徒が病人を避け無情にも見捨てて逃げる悪疫流行の日々に、キリスト教徒がいかにお互い同士助け合ったかを誇らしげに記している。
彼らの信仰の教義では、思いもかけぬ急激な死のさなかにあってさえ、生が意味あるものとされたことである。
ストア派その他異教の哲学体系は、非人格的な諸力による生成消滅と自然法則を説きはするものの、死が突然、老人と若者、富める者と貧しき者、善人と悪人の別なく振りかかってくるこのどうしようもない不合理に、納得のいく説明を加えることなどとてもできなかった。いずれにせよ、帝国各地の住民において紀元一六五年を境に一変したミクロ寄生の発生状況が、ローマ帝国の宗教と文化の歴史に、社会的変化に劣らぬ大きな影響を与えたことは間違えない。
だが、このような推論は、いかに本質的な正しさが直感されるとしても、やはりあくまでも推論に留まり、それを立証することは不可能である。
聖書の疫病を腺ペストと見なすこの通念を打倒しようとする学問的努力が続けられてきたのもかかわらず、腺ペストが非常に古くから存在する考えは、今でも根強く残ってる。
子供とくに幼児は比較的補充がきくから、年少者だけが罹る感染症がその共同体に与える人口動態上の影響は、病気が未経験の共同体を襲い老若を問わずその成員を倒す場合と比べて、はるかに軽い。ヨーロッパ全体として、いわゆる中世の暗黒時代を通じ、このような疫学的適応は強力に進められていったのである。その結果、未知の感染症に接することに起因する急激な人口の変化は、何世紀も経たないうちにみられなくなった。
大昔から伝わった書物はそれだけ権威があるというので、中国の学者が自分の書いた文章を古人の筆とするのはごく普通の習慣であることを考えれば、本当に葛洪自身がこの箇所を書いたのかということも、ひいては四世紀に天然痘が中国に到来したという事実そのものも、怪しいということになる。だがそれでも、その可能性はかなり高いのだ。
七五五年の軍の反乱に端を発する中央政府の権威の失墜は、ペスト発生の時期とほぼ時を同じくしている。腺ペストが普通そうであるような、侵した地域の住民をひどく損ねてしまうたぐいの病気は、皇帝政府当局が反乱の影響の少ない沿岸諸州から乱を鎮圧するための充分な資金を徴収するのを困難としたに違いない。やむ得ず皇帝は、遊牧民ウイグル族の兵力を借りる羽目となり、勝ちを収めたトルコ語を話すウイグル族は、内政に干渉して我が物顔に指令を発し、間もなく国庫収入の大きな割合を吸い上げて自分たちの用に供する始末となった。
ミクロ寄生とマクロ寄生の諸状況が変化したとき中国が示した適応の成功は、この国の宗教と文化の歴史にも反映している。八四五年以後、仏教はその国教としての地位を失い、新しく練り直され面目を一新した儒教がやがて取って代わった。これは、いわばシャルルマーニュがローマ皇帝の称号を復活させると同時に、宮廷宗教としての異教を再興させたようなものである。もちろん仏教はその後も中国に存続し、主として農民層その他、教育程度の低い階層に受け入れられた。だが勝ちを収めた儒教も、仏教が最初、宮廷で多くの人をひきつけるもととなった、形而上学的な教養の或るものを取り入れて我が物とした。だから、外来の病気が中国人の血液中に生ぜしめた抗体は、国教たる儒教に接合された仏教の教理と類似の構造を持ったわけである。儒教のうちに取り入れられた新しい新しい教理は、仏教あるいはその他同じような異国生まれの宗教の救済への道が持つ強い牽引力に抵抗すべき、心理的知的抗体だったからである。そして無教育の低い階層にあっては、その牽引力が以後永く生き続けたのだ。
以上の記録からすると、日本列島は十三世紀になって、中国のそしてその他文明世界の疾病パターンに、ほぼ追いついたことがわかる。だがそれに先立つ六百もの間、繰り返される疫病流行のために日本は、世界のもっと人口密度が高くまたあまり孤絶していない場所に比較して、恐らくずっとひどい被害を受けた。
恐らく塩害その他の技術的困難がすでに灌漑のシステムを弱体化していたところへペストが繰り返し襲った、という風に考えるのが、七世紀のアラブによる征服と同時に生じたメソポタミアの人口急減を説明するのに一番無理がないように思われる。
貿易商とイスラム教の伝道者はアフリカに深く入り込んでいったが、その様子は別のイスラム教徒の商人や伝道者たちがユーラシアの草原地帯をうろついたのと全く同じであり、また恐らく同じような疫学的影響を及ぼしたことであろう。ただ、ほとんどのアフリカの自然環境にあっては、この大陸特有の多くの病気が、外部からの闖入者に対して地球上の他の場所には見られない強力な障壁を成していた。だから文明の浸透には限度があり、恐らくアフリカが文明に伴う病気に曝されたのはアジアの草原におけるほど全面的ではなかった。だが一方、一五〇〇年以降アフリカ人の奴隷が新大陸に連れてこられるようになったとき、彼らはヨーロッパの様々な病気との接触によって特にすさまじいほど高い死亡率を呈するようなこともなかった。この事実が証明するのは、彼らがまだアフリカに住んでいたころに文明特有の普通の小児病との遭遇をすでに経験済みだったことであり、その時期は、一二〇〇年より以前ではなく、恐らく一二〇〇年のすぐあとだった。
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