ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

ジョージ・オーウェル「一九八四年」(新訳版)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

去年村上春樹の「1Q84」ブームにまるで便乗するかのように出てた一冊。手に取ってみてSF文庫でないことに軽いショックを受ける。

ところで1990年の一年間その年に読んだ本のタイトルをすべて日記帳に書いてたことがあって、それによると同年4月13日の金曜日には「一九八四年」、一度旧訳で読み終えている*1。幸いにしてこの記憶が権力の魔の手wによって塗り替えられることはなかったなww当時ですら既に終わったモノ、の話として読んだはずなのだけれど、あらためて読み返してみると初読時にはまるで印象の薄かった「ニュースピーク」つまり新造言語のくだりが今になって重く感じられる、ような。

「麗しいことなんだよ、単語を破壊するというのは。言うまでもなく最大の無駄が見られるのは動詞と形容詞だが、名詞にも抹消すべきものが何百かはあるね。無駄なのは同義語ばかりじゃない。反義語だって無駄だ。つまるところ、ある単語の反対の意味を持つだけの単語にどんな存在意義があるというんだ。一つの単語にはそれ自体に反対概念が含まれているのさ。良い例が<良い>だ。<良い>という単語がありさえすれば、<悪い>という単語の必要がどこにある?<非良い>で十分間に合う――いや、かえってこの方がましだ。

(笑)にwに(´・ω・`)とあとはなんだ矢印やgifアニメや、ともかく僕らは誰に強制されるわけでもなんでもなく、楽しさと親しみでもって言語を変質させていくんだなぁと現在進行形で思わされる。確かにかえってこの方がましだ。

冷戦構造も共産主義も無くなった現代でオーウェルとその作品を考えるとき「グローバル」や「インターネット」や「ケータイ文化」なんなら皆さんが大好きな「マスコミ」「最近の若者」でもなんでも良いのだけれど、そういうなにか仮託するべき拡大存在の話なのではなくて、極めて個人的に収斂する、これは


愛について


の物語なんだなーと、思ったわけです。オゥイッツストレンジラヴ。私は心配するのを止めましたよ?「1Q84」はどうやったんだろうと、それは興味がわきました。*2

巻末にトマス・ピンチョンによる解説が載っていて、そこで本文末尾に「附録」として掲載される「ニュースピークの諸原理」の文体ではなぜ客観的な文章が過去形で記されているのか。それはつまり作中年代よりも遙かな未来に於いて自由な思考の勝利とヒューマニズムな道徳秩序が回復したことのあらわれだと、メタ視点的な意味合いからオーウェルがこの作品に希望を込めたみたいなことを言っているのだけれども、それは流石に虫が良すぎる解釈だと思う。

いやまったく、2足す2は5だなんてわざわざ言われなくともいまさらそんなの常識じゃないですかねえあなた。


まー今になって読んじゃうと単に中年の危機wとドロップアウト願望の顛末を描いた物語だと言えないことはないんだけどなww。栗本薫の「ゲルニカ1984年」asin:4150302529復刊しないかなあ。

僕たちはもう死んでいるのだ。

*1:ハックスリィ「すばらしい新世界」と合本になった「世界SF全集 10」として

*2:どーでもいいがしばらくの間タイトルを「IQ84」だと勘違いしてて、てっきりチャーリィ・ゴードンみたいなのが出てくる話だと思ってたw