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2016-05-25

『ベスト・ストーリーズ脅悗侶ぁ戞ー稘 正篇

ベスト・ストーリーズ2 蛇の靴 [ 若島正 ]

若島正氏編による、新『ニューヨーカー短篇集』、『ベスト・ストーリーズ』全三巻の第二巻。時代的には1960年から1989年までの三十年間をカバーしている。二代目編集長ウィリアム・ショーンが辣腕を振るった『ニュ−ヨーカー』がどんな雑誌だったかというと、短篇小説だけでなく長篇やノンフィクションにも発表の場が広げられ、歴史的な作品が数多くこの雑誌の紙面を飾った。一例をあげると、ミュリエル・スパークの『ブロディ先生の青春』や、ガブリエルガルシア=マルケス『族長の秋』も一挙掲載だったという。ちなみに、第二巻の収録作品と作家、訳者は以下の通り。

「幸先良い出だし」(シルヴィア・タウンゼント・ウォーナー 桃尾美佳訳)

「声はどこから」(ユードラ・ウェルティ 渡辺佐智江訳)

俺たちに明日はない』(ポーリーン・ケール 佐々木徹訳)

「手紙を書く人」(アイザック・バシェヴィス・シンガー 木原善彦訳)

「ホフステッドとジーン――および、他者たち」(ハロルド・ブロドキー 小林久美子訳)

「お静かに願いません、只今方向転換中!」(S・J・ペレルマン 喜志哲雄訳)

「蛇の靴」(アン・ビーティー 宮脇孝雄訳)

「大尉の御曹司」(ピーター・テイラー 若島 正訳)

「野球の織り糸」(ロジャー・エンジェル 森慎一郎訳)

「脅威」(ドナルド・バーセルミ 柴田元幸訳)

シュノーケリング」(ニコルソン・ベイカー 岸本佐知子訳)

「教授のおうち」(アーシュラ・K・ル・グィン 谷崎由依訳)

「列車に乗って」(ジーン・ウルフ 若島 正訳)

「マル・ヌエバ」(マーク・ヘルプリン 藤井 光訳)

錚々たる作家、お馴染みの訳者名を目にしただけで、これはちょっと読んでみたくなるではないか。邦題と原題、作者名と訳者名が書かれた中扉には掲載時の「ニューヨーカー」の表紙画(これが、いかにも「ニューヨーカー」という、いい味を出している)。その裏に、「訳者あとがき」ならぬ、作家紹介と作品紹介を兼ねた前書きが付され、もちろん巻末には、若島正氏の「編者あとがき」もついているという親切さ。

アンソロジーの問題点は、好みの作家がそろっているか、逆にそうでもない作家や作品の方が多いのか、ということ。編者が若島正氏。掲載雑誌が「ニューヨーカー」。年代が60年代から80年代と分かっているから外れはないだろうと思うものの、半数以上は名前も知らない作家が並んでいる。こういうときは、まず巻頭に置かれた一篇を読んでみることに決めている。短篇集だから、立ち読みでも好みかどうかくらいは判定できる。

「幸先良い出だし」は、骨董店で品定めをする上得意の若い紳氏とその妻が、年季の入った骨董商の鑑識眼によって値踏みされる様子を描いた一篇。夫のほうは非の打ち所のない良い趣味を持ち、金離れもいい上客だ。愛らしい若妻はハート型の中に猫の顔が描かれたロケットに目をとめるが、夫に否定され黙って従う。夫の目は確かで、妻の欲しがるロケットは妻には不似合いな品だ。良い趣味の持ち主である紳士は、愛らしい妻を夫ではなく鑑定家の目で見ているらしい。「非の打ち所のない趣味というものは――客にとっては立派な素質だろうが、美術商はこいつに翻弄されたが最後、完膚なきまでの身の破滅となる」というのが信条の骨董商は若妻を気の毒に思う。結局妻はロケットを手に入れるのだが、問題はその手段。良い趣味や倫理観より、欲望や愉楽の方を選んだ若妻の表情を骨董商は嘆賞する。シニカル視線が、「ニューヨーカー」らしい。

『ボニーとクライド』のような映画評論、「お静かに願いません、只今方向転換中!」のような映画製作者のとんでもない内幕を大げさに脚色した抱腹絶倒の短篇も入っているが、心のひだに分け入るような佳品も多く収められている。失職した病身の独身男が死にかけている自分より、いつも餌をやっているネズミのことを心配する「手紙を書く人」は、ユダヤ民話風の幻想的な雰囲気が楽しい心あたたまる作品。離婚した弟夫婦のことを案じた兄がもう一度みんな一緒に週末を過ごそう、と提案する「蛇の靴」。サム伯父さんが二人の娘に話す作り話が可笑しい。夫婦仲は戻るのだろうか、と淡い希望が浮かぶ結末が心に残る。

その一方で、いつまでも忘れられないほどの苦味やいたみをもたらす作品もある。テネシー州ナッシュビルメンフィスを舞台に両都市に住む人々の人間性のちがいをモチーフに、姉の結婚を契機に一つの家族のかたちが変わってゆく有様を描いた「大尉の御曹司」も、その一つ。法律で酒を禁じることを愚かしいと笑ってばかりいられない気になった。

「覚えていたとおり、波は強かった。砂に打ちつけるときに色と音をほとばしらせ、引いていくときにはため息をつく。そうしていつも、波は青く冷たい海に身を隠そうとする。」

ロレンス・ダレルを思わせる優美な情景描写のなか、中南米と思われる独裁国家に暮らす一家が経験するひと夏の出来事が語られる」と訳者紹介にある「マル・ヌエバ」。弟の回想視点で語られる避暑地の夏の美しさがひときわ心に残る。小さい頃夏になると訪れていた別荘近くの砂浜に、ある年、高い壁が造られた。桟橋で釣りをしていた「私」は、一人の男に話しかけられる。独裁者だった。同じ男を見ても年端のいかない男の子と、読書好きの十七歳の娘とでは見方が異なる。半世紀を過ぎても忘れることのできない記憶。姉は、いつでも賢く、美しく、そして勇気があった。「私」の記憶に残る姉の姿が限りなく愛おしい。物心つかないうちに姉を亡くしたせいか、「姉」を美しく描いた作品に弱い。これはそのなかでもベストかもしれない。集中の白眉である。

2016-05-19

『エセー 7』 モンテーニュ

エセー 7

『エセー』の最終巻。晩年のモンテーニュが、肉体的にも精神的にも、意気盛んであったことがよく分かる。国は宗教戦争のさなかにあり、自身もそれにかかわりながら、塔屋の書斎にこもって『エセー』を書いている時は、いつものモンテーニュであり、それは最後まで変わらない。

自らの慣習に忠実に、食べ、飲んで、眠っている。抑制することもなければ、過激になることもない。悟りすましたりもしない。人間歳をとり、死が近づいてくると、何かに頼りたくなるものだが、モンテーニュは自身の経験をしか頼らない。しかも、頑迷ではなく、融通無碍に晩年に対処している。

見習いたいものだが、なかなかこうは生きられない。もはや達人の域である。長めの章立てが、ぱらぱらと読むには、ちと不都合だが、引用した部分などを時折りひもといて、拳拳服膺すると落ち着いた老後が送れるような気がする。たとえば、今の我が国のように、国家の政体が大きく変わろうとするとき、次のような文章はじっくり読むに価する。

各国の人々について、もっとも優れた最高の政体というのは、それに基づいて国家が持続してきた政体にほかならない。その本質をなすところの形態や長所は、慣習に依存している。われわれは、とかく現状に不満をいだきがちである。けれども、民主制のうちにあって寡頭制を希求したり、君主制のなかで、これとは別の政体を望むのは、まちがっているし、とてもおかしいと思う。

また、少し長くなるが次のような文章もそうだ。

革新ほど、国家を苦しめるものはない。変化だけでも、不正や専制に形を与えてしまう。どこか一部分が外れてしまっても、つっかい棒をすることが可能ではないか。すべてのものごとにつきものの変質や腐敗のせいで、最初の原理から遠ざかりすぎないように、対抗策を講じることはできるのだ。けれども、これほど巨大なかたまりを鋳造し直して、これほど巨大な建造物の土台を交換するようなことに手を付けるのは、汚れを落とそうとして、壁画などを全部消してしまう人々、個別の欠点を直そうとして、全体の混乱を招いてしまう人々、病気を治そうとして、病人を殺してしまう人々、《ものごとを改革するよりも、破壊したがる人々》がすることなのである。

国家や政治についてばかりではない。人が仕事に一生懸命になっている姿を見て、「ある種の人間たちにとっては、仕事で忙しいのが、能力と偉さのしるしなのです」と、言い放ち、続けてこう記す。

わたしの行動は、これとはまったく異なっている。わたしは自分にくっついている。そして、なにかを欲望するとしても、たいていは弱く、少ししか望まない。なにかを引き受けて、そのことに本腰を入れることもあまりないし、あったとしても、静かに働くだけだ。人々は自分で望んで、ものごとを進めていこうとして、なんでも実に熱心に、猛烈にやろうとする。けれども、そこには多くの難所が待ち受けているから、安全確実を期すためには、この世の中を、いくらか軽やかに、表面をすべるようにして渡っていく必要がある。ずぶっとはまり込むのではなくて、あくまでもすべらなければいけない。快楽だって、深入りすると苦痛が待っている。

引用箇所は、わが身に引き比べ、強く心に残る箇所である。人によってはまったく異なる文章が胸に響くこともあるだろう。何かと思い悩む日には、つまらぬハウツー本より、よほど頼りになるのが『エセー』である。だまされたと思って一度手にとってみることをお勧めする。

2016-05-14

『独りでいるより優しくて』 イーユン・リー

独りでいるより優しくて

物語は小艾(シャオアイ)の葬儀のシーンからはじまる。この章の視点人物は三十七歳の泊陽(ボーヤン)で、彼は小艾の母の代わりに火葬場に来ている。小艾は伯陽より六歳上だったが、誤って或は故意に毒物を飲んだせいで、二十一年間というもの病いの床にあった。その毒物は、泊陽の母が勤務する大学の薬品室から盗み出されたものだった。その日、彼と共に大学を訪問していた同級生の黙然(モーラン)と如玉(ルーユイ)の関与が疑われたが、はっきりした証拠といえるものがなく、解毒剤の投与で命はとりとめたこともあり、事件は有耶無耶のままに終わった。

年齢の近い四人の若者とその家族は、中庭を囲んで四棟が方形を描く北京の昔ながらの住宅、四合院に住む隣人同士だった。小艾が、掲示板に天安門広場の事件についての政府批判を書いたことで大学を追われかけていたそんな折、如玉が大学進学のため北京に出ることになり、育ての親である大叔母の遠縁に当たる小艾の母親の家を下宿先に決めたのだ。一つの寝床を共有することになった二人だが、根は優しいが自負心の強い小艾と、養い親から厳格な宗教教育を受け、容易に他者に心を開かない如玉とは相容れなかった。

泊陽と黙然は大人になったら結婚するものと周りは勝手に決めていた。大学教授の母を持ち富裕層に属す泊陽は何故か祖父母の家から通学していた。根っからの善人だが特にこれといって目立つところのない黙然は、ひそかに泊陽に恋していた。そこへ突然舞い込んできたのが、怜悧で頑ななまでに自分の世界を守ろうとする如玉だった。何をするにも一緒の三人組だったが、泊陽は次第に如玉に惹かれていき、三人の関係は微妙なものとなる。この関係が崩壊するきっかけが小艾の薬物中毒事件だった。

章が変わるたびに、時間も場所も視点人物も交替する。事件の後、それぞれがたどった人生が三者三様に描き出される。如玉は米兵と結婚してアメリカに渡り、離婚。今は知人の紹介でいくつかの仕事を掛け持ちする毎日だ。黙然は中国の大学を出た後、やはり渡米し、中西部で出会った年の離れたジョゼフと結婚したが、離婚。化学薬品の研究所に勤めながら独り暮らしの日々。泊陽も結婚したが妻の不倫で離婚。気軽な独身暮らしを謳歌しながら若い女の子を誘惑することに楽しみを見出している。三人はその後一度も会っていない。

泊陽も黙然も誰から見ても明るく快活な若者だった。如玉もエキセントリックではあったが賢く有能で前途は明るかった。事件後、北京を去った二人に代わり、泊陽は小艾を看取ることを自分に強いた。黙然は、他者から自分を隔離するように孤独な生活を送り続けた。如玉もまた能力に見合わぬ賃仕事で自分を放擲していた。小艾の死を契機に、三人のその後の人生が動き始める。二十一年の長きにわたって人生から彼らを疎外していたものは何だったのか。小艾の中毒事件の真相が今明らかにされる。

主題は贖罪、或は自罰。黙然が薬品を持ち出したのは如玉であると証言したのを、嫉妬のためだろうと決めつけた泊陽は、小艾の緩慢な死に関しても、黙然の心を傷つけたことについても自分を許せなかっただろう。小艾が毒を飲んだ真相を知ることなしに、その罪の意識から免れることはまずあるまい。

如玉が薬品を持ち出したことを誰にも教えなかった黙然もまた、如玉がとめるのも聞かず薬品のことを当局に知らせることで、解毒剤を与える結果になり、即時の死ではなく生殺しという残酷な生を小艾に与えた、という負い目から逃れられなかった。せっかくジョゼフという伴侶を得ながら、五年でそのもとを去らねばならなかったのは、自分にはその資格がないと思ったからだろう。

幼い頃から、大叔母に神の存在を教えられ、自分を選ばれた一人と思い込み他者との関係を顧みることのなかった如玉はそれを認めることはないだろうが、神などいないことを知った後でも、他者との関わりを持つことを自分に禁じていた如玉もまた自身を罰していた。如玉のアメリカ生活は流謫の生そのものである。

ウィリアム・トレヴァーに「ふたりの秘密」という短篇がある。少年の日に犯した秘密の罪が大人になっても自分を縛って放さない、自らを裁くのは自分しかいないという主題がよく似ている。訳者あとがきを読んで、この作家がウィリアム・トレヴァーの物語に語りかけることがよくある、と語っていることを知り、なるほどと思った。この作品自体は、エリザベス・ボウエンの未邦訳の一篇を念頭に置いたというが、どこかでトレヴァーの短篇が影を落としているのかもしれない。

強大な国家権力を相手に息を殺して生きる年長者に対し、正面から批判弾圧された天安門事件世代である小艾。それより六歳下の世代は、アメリカ人と結婚することで永住権を手に入れたり、不動産IT関係の仕事で能力を発揮したり、と一見したたかな生き方をしているように見えるが、泊陽たちの生き方にも中国という国家の歴史は陰に陽に影響を与えている。中国現代史を背景に、運命に操られるようにして生きざるを得なかった三人の人生とその心理を鋭い視線で抉ってみせるイーユン・リーの人間観察力に舌を巻いた。

最後に、英語で書いているはずの小説の人名に何故、小艾、泊陽、黙然、如玉、という「名は体を現す」という言葉そのままの漢字名がついているのかと疑問に思ったが、訳者によれば作者の指定によるものという。表意文字である漢字を人名に使う民族の持つ強みといえるのではないか。キラキラネームで育った子どもたちが主人公になる時代、日本の作家は頭をかかえることにならねばよいが。

2016-05-10

『64』上・下 横山秀夫

64(ロクヨン) 上 (文春文庫) 64(ロクヨン) 下 (文春文庫)

三上義信はD県警察本部警務部秘書課調査官<広報官>。肩書きは警視。去年までは捜査二課、つまりは刑事部に所属していた根っからの刑事である。強面と刑事部出身という本籍効果を買われて警務畑に来たが、本心は二年で刑事部に戻ると決めていた。捜査一課、二課を経験し実績も挙げてきた。それだけに今回の人事が腑に落ちない。同期で同じ剣道部で確執のある警務課の二渡(ふたわたり)の人事なのかという疑念を払拭しきれない。

強硬にマスコミ支配を命じる警務部長の赤間に対し、言うべきことは言う新広報官は記者クラブとも良好な関係を築きつつあったが、娘の家出が事態を変えた。捜索の便宜を図ることで赤間は露骨に服従を求め、三上は屈した。三上の変節は記者クラブとの関係を拗れさせる。そんなとき、D県に警察庁長官の視察が入ることになる。昭和64年に発生した未解決の誘拐事件、通称64(ロクヨン)の被害者宅を訪問し、警察の意欲のほどを見せるというのだが、その裏には県警刑事部長ポストを巡る本庁の思惑があった。

三上は、態度を硬化させる記者クラブ対策を講じながら、長官視察に対する対応もしなければならない。記者をなだめるネタ探しに刑事部詣でをするうち、三上は64には何か秘密があることに気づく。誘拐事件担当で今は退任した幸田という刑事が残したメモについて、二渡が嗅ぎ回っていたのだ。何故警務の二渡が刑事の真似事をするのか。未解決の誘拐事件の裏には長年にわたって刑事部が隠し続けてきた事実があるらしい。三上は当時の関係者に聞き込みを開始する。

解決の誘拐事件とその裏に潜む警察内部の不祥事という二つの謎を追う刑事の活躍を描く警察小説。『クライマーズ・ハイ』の時も感じたが、この作家は組織内部の人間関係の軋轢という主題を得意とするようだ。主人公だけでなく、その周りに上司や部下、敵対勢力に協力者、それに何よりも強力な競争相手、といった大勢の人員を配することで、人間関係に幅が出てダイナミックな動きが生まれる。また、それを効果的に見せるため、ワイド画面で映画化したくなるような場面を用意する。

刑事部と警務部、本庁と県警、エリートと叩き上げ東京と地方(警察も新聞社も)。いくつもの対立軸を用意して、対立を煽る手法はあざといともいえるほど。警察内部はほんとうにこんなに対立しているのだろうか。「県警も本庁もない。警察は一つの生き物だ」という二渡の言葉の方にくみしたい気がするが。刑事でいたいのに、人事の都合で二度にわたり、広報という警務の仕事を命じられる三上に内心の屈折があるように、周りも三上の帰属意識を疑う。

警察小説もミステリの一種なのだから、謎解きは大事なはずだが、話者の視点は一貫して三上にあり、読者は三上の迷いや焦り、葛藤、疑心暗鬼といった、どうにもすっきりしない心理状態に延々とつき合わされる。それを読者に理解させるため警察という組織の複雑な構造の説明が頻繁に挿入される。仕事だけではない。「鬼瓦」と仇名される顔を持つ三上のところに何故美人で有名な美那子が嫁いできたのか、という疑問も残る。仕事にかまけて妻子を顧みなかったことへの悔いもある。短い文で刻んでゆく文体ハードボイルド調だが、主人公はあまり颯爽としていない。

三上のディレンマは人事のせいであるかのように思われているが、ほんとうは自分によるものだ。多くの名探偵とちがって、三上は自分を確立していない。まだ発展途上なのだ。自分が分からないから、事態が紛糾すると熱くなり、前後の見境なく突っ走ってしまう。まあ、すぐに反省できるのだから馬鹿ではないのだが、全然クールじゃない。人情家でもあるが、女性は弱い者、守るべき者としか見えておらず、妻や部下の美雲の気持ちも分からない。なぜこんな男が美那子や美雲に愛されるのだろう。個人的には二渡調査官の方が好みだ。

三上の視点で見るからか、上司の赤間や辻内、といったキャリア官僚がおしなべて人間味に欠けているのに対し、三上が敬愛する刑事部捜査一課張松岡や元刑事部長尾坂部といった刑事部上がりの人物は刑事として腕利きというだけでなく人間的にもよくできた人物に描かれる。一方、同じ刑事部でもマル暴上がりの刑事部長荒木田などは終始いやな人物に描かれているところなど、視点の関係上仕方のないこととはいえ、図式的過ぎるように思う。まあ、三上の成長につれ、広報の部下たちは人物像を変化させるから、そのうちキャリア官僚の中にも人物が出てくるかもしれない。

肝心のミステリとしての出来だが、昭和の終わりから現在に至る電話や録音機器の機能の進歩という点に目をつけ、うまく使っていると思う。最初から伏線が何本も張られているのだが、人間心理を把握し、慎重に使用しているので、あれにはそういう意味があったのか、と驚かされた。ぐいぐいと先を読ませる筆力がある。上下二巻に分かれているが、次を読みたさにつられて一気に読んでしまった。

蛇足ながら、よく「読んでから見るか、見てから読むか」という。イメージが固定されてしまう是非をいうのだろうが、すでにテレビで先行放送がされているし、映画化の宣伝で以前の横山作品もテレビ放送されている。二渡や赤間など俳優の顔が先に思い浮かんできてしまった。キャスティングの妙味というものだろう。逆に映画のキャスティングには首を捻る人選もある。どうでもいいことだが、個人的にはテレビ版の三上夫妻の方が原作に近い感じを受けた。好きな顔を当てはめて楽しめばいいのではないか。

2016-05-05

『黒い本』 オルハン・パムク

黒い本

弁護士のガーリップは突然家を出た妻リュヤーの行方を捜してイスタンブールの街をさまよう。妻の行きそうな場所に電話をかけるがどこにもいない。前夫の家にまで押しかけるも相手はすでに再婚していた。別件で妻の義理の兄であり、自分にとって従兄にあたるコラムニストのジェラールに電話をするがジェラールも電話に出ない。妻はジェラールの隠れ家にいるにちがいない。ガーリップの探索行がはじまる。

『黒い本』といえばロレンス・ダレルのそれが有名だが、オルハン・パムクの本作もそれに負けない強度を持つ。ストーリーの主筋は姿を隠した妻の行方を探偵役の夫が追う、というミステリの常道を行くものだが、これがなかなかそんな簡単なものではない。全体は二部に分かれ、第一部が19章、第二部が17章という章立て。その奇数章がガーリップを探偵役とするミステリ仕立ての本編。それでは偶数章はというと、これがジェラールが執筆したコラムになっているという仕掛けだ。

ジェラールの書くコラムというのが凄いの一語に尽きる。コラムというのは、新聞に載るニュース以外の記事全般を指すそうだが、人生相談から占いまで、何でもこなしてきた海千山千のコラムニストであるジェラールの書くそれは、コラムという概念を超えている。なるほど、初めの頃のそれは、身近な家族や近所の店の紹介といった軽い内容のものだが、人気が出てきてからはイスラム神秘主義メヴラーナ教の奥義にはじまるオカルティスムの知識、『千夜一夜物語』からプルーストの『失われた時を求めて』に至る過去の文学本歌取りした物語群、クーデターを企図する一派に潜入しての訪問記事といった、読者の興味をそそるだけでなく、ある種の思想や主義主張を醸成する働きを持つものとなっていた。

奇数章と偶数章が絶妙に絡まり、秘密や暗号隠喩、暗示といったさだかではないものの何かを告げようとしている徴を手がかりに、ガーリップはジェラールに迫る。ジェラールは大衆扇動者なのか、クーデターの首謀者なのか、およそ胡散臭い連中と起居を共にしていたこともあれば、ベイオウルの無法者たちの中に深く入り込んでいたこともある。やっと見つけた潜伏先の一つ、昔のアパルトマンは三十年前の姿をそのまま復元しており、過去のコラムや大量の写真が保存されていた。ガーリップは、ジェラールのパジャマを着て彼のベッドで眠ることをくり返すうちに、次第にジェラールに自分を重ねるようになる。

そう、これはミイラ採りがミイラになるアイデンティティの不確かさを衝いた小説でもある。オブザーバー紙の「驚異的な小説だ。エーコカルヴィーノボルヘスマルケスの作品に匹敵する」という評もあながち過褒だとはいえないほどの出来映えである。博覧強記とも思える引用はエーコに、自国の政治や形而上学的命題を寓意的に描くところはカルヴィーノに、『千夜一夜物語』を換骨奪胎し、一篇の幻想小説に仕立てる筆使いの鮮やかさはボルヘスに、奔出する奇想をまことしやかに語る語り口はマルケスに、かなりの程度肉薄しているといっていいだろう。

巨匠たちと異なるのは、これが東洋と西洋の中継地点であるトルコの物語というところにある。ジェラールの父でガーリップの伯父にあたる人物がなかなかの食わせ者で、菓子の製法を学ぶためにフランスに渡ったはいいが、その後家に戻らず、ムハンマドの子孫の絶世の美女と結婚し、キリスト教に宗旨変えし、アフリカで両宗教を融合した宗教施設を設立したなどという噂の主でもある。ジェラールは、トルコ人を西洋に憧れ、西洋人になりたいと模倣して止まない東洋人と位置づけ、その風潮に対する批判マネキン作りの挿話に託して書いている。人ばかりではない。トルコという国家のナショナル・アイデンティもまた複雑にして微妙なのだ。

自分とは何か、という根源的な問いを愚直なまでに追求しながら、『千夜一夜物語』よろしく、入れ子状に配された挿話群の戯れに身を任せ、迷路のように入り組んだイスタンブールの市街を、旧市街から新市街へと何度もガラタ橋やアタチュルク橋を渡り、ヨーロッパ・サイドからアジア・サイドへとフェリーに乗って移動するガーリップの足跡をたどれば、ニュー・ヨークを舞台にして、オースターが『ガラスの街』で描いたような奇妙な図に似た何かが見えてくるのではないだろうか。

ミステリ仕立てであるからには、最後にタネ証しが待っているのだが、夢の中で夢を見ているような小説から強引に引きずり出されるのはあまり楽しい経験ではない。いつまでも夢から覚めないで眠りの中にいたかった、と思わされるような結末が待っている。話者もそれを意識してか、途中でここから先は黒く塗りつぶすようにそそのかす。そこから先を読まずに何度でも第一部第1章に戻るのがいちばん理にかなった選択といえるかもしれない。

トルコ語に不案内なので、この訳文がどこまで原文を意識したものか分からないが、近ごろ珍しい漢語を多用した訳文になっている。はじめはてこずるかも知れないが、読み続けるうちに気にならなくなるばかりではなく、独特の語調に漢語に振られた馴染みの薄いトルコ語のルビが相俟って異国情緒溢れる物語世界に誘い込まれる気になる。そこここに散りばめられたピスタチオ・グリーンの色彩や緑色のボールペンがコラムと本編の間を取り持ち、物語の世界と現実の世界を通低する。文学的詐術に淫した確信犯的作品である。

失踪事件は合理的な解決を見るが、ジェラールの創作のどの部分が誰の何という作品を盗作したものなのか再読三読しても解けない謎が残る。澁澤龍彦小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』の注釈本の書かれることを夢想していたが、本国には『黒い本の秘密』なる完全読本まであるという。どこかから邦訳が出ないものだろうか。

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