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2017-10-17

『大いなる眠り』註解 第十四章(3)

《カーテンが横に引かれ、緑色の目をして太腿を揺らしたアッシュブロンドが部屋に仲間入りした。ガイガーの店にいた女だ。彼女は切り刻みたいほど憎んでいるとでもいうように私を見た。鼻孔は縮み上がり、暗さを増した眼は二つの陰になっていた。とても不幸そうだった。

「私はちゃんと気づいてた。あんたが厄介者だって」彼女はぴしゃりと言った。「私はジョーに言ってたの。足もとに気をつけるようにってね」

「足もとじゃない。気をつけなきゃならないのは尻の方だ」私は言った。

「それ、面白い」ブロンドは甲高い声で言った。

「今まではな」私は言った。「だが、おそらくもうちがうだろう」

「冗談もほどほどにしろ」ブロディは私に忠告した。「ジョーは自分の足もとくらいちゃんと見てるさ。灯りをつけてくれ。こいつを撃つようなことになればその方がうまくやれる」

 ブロンドは大きな角型のフロアスタンドの灯りをつけた。彼女はスタンド近くの椅子に沈み込んだ。まるでガードルがきつ過ぎるかのように体をこわばらせて座った。私は葉巻を口にくわえ、その橋を噛み切った。私がマッチで葉巻に火をつける間、ブロディのコルトは私から目をそらさなかった。私は煙を味わい、そして言った。

「私が話した顧客名簿は暗号になっている。まだ解けていないが、名前はおよそ五百ある。私の知るところでは君は二十箱分の本を持っている。少なく見積もっても五百冊だ。他にも貸出中の分があるからもっと増えるだろうが、ここは手堅く、まとめて五百冊と言っておこう。もし、これがまだ現役の名簿で、君がその半分を完全に働かせれば、十二万五千件の貸し出しになるだろう。その辺のことは君のガールフレンドが全部ご承知だ。私のはただの当て推量さ。平均貸出料金は君の考えで低くしていい。といっても一ドルは下らないだろう。商品には金がかかる。一冊につき一ドルで、君は十二万五千ドル稼いだ上に、君の資本はまだ君のものだ。つまり、ガイガーの資本はまだ君のものだ。人ひとり殺すには十分な理由だ」

ブロンドがまくし立てた。「あんたの頭はどうかしてる。何さインテリぶって」

 ブロディは彼女の方を向いてうなった。「静かにしろ。頼むから黙っててくれ」》

「足もとじゃない。気をつけなきゃならないのは尻の方だ」は<It's not his step, it’s the back of his lap he ought to watch.>。双葉氏は「気をつけるのは足もとじゃなくて手もとだ」と訳している。村上氏は「彼が気をつけなくちゃならないのは足もとじゃなくて、火のつきそうな尻じゃないかな」と訳している。<back of his lap>は直訳すれば「膝の裏」だが、ラップトップという使い方で分かるように、<lap>は、座ったときの膝から腰までの上面を意味している。つまり立った時にはなくなってしまう部位なのだ。

母親が幼児をあやすようにのせる場所というところから転じて、<lap>には「保護された場所」の意味がある。だから、そちらは安心でも、その裏側は保護されていない。気をつけるなら裏側、座っている時なら座面、つまり「尻」だ、というのが村上氏の解釈だろう。「尻に火がつく」という危機的状況を表す日本語表現を生かして上手に訳している。残念ながらこれを上回る訳は思いつかなかった。

実は<back of his lap>という文句が第二次世界大戦の戦意高揚ポスターに使われている。釘のついた板切れを握ったアメリカ人が、かがんで後ろを向いている日本人の尻を叩こうとしている絵柄にかぶせて<Whack the Jap on the back of his lap!>という標語が書かれている。時期的に考えて、マーロウはこのポスターのことを言っているのではないだろうか。ポスターの使用時期が1939年から1945年まで。『大いなる眠り』は同じ1939年に発表されている。雑誌「ブラックマスク」に発表されたのが1935年だから、その時にこの文句が出ていたとしたらこの説は成り立たないことになるが、今は調べる手立てがない。

マーロウがブロディに貸本屋商売の利益について講釈を垂れる場面。数字がたくさん出てくるが、ここで双葉氏は計算ミスを犯している。「十二万五千」は原文で<one hundred and twenty-five thousand>だが、これを「千二百五十」とやってしまっているのだ。500×250=125000。もう一度同じ数字が出てくる。一冊一ドルのレンタル料金なので、<one hundred and twenty-five grand>。<grand>は一千ドルを表すので「十二万五千ドル」。ここも「千二百五十ドル」と訳している。双葉氏ともあろう人が<grand>は一千ドル、という俗語を知らなかったはずはないと思うのだが、このミスの原因ばかりは見当がつかない。

「君の資本はまだ君のものだ。つまり、ガイガーの資本はまだ君のものだ」は、チャンドラーお得意の少し言葉を入れ替えた繰り返しになっている。原文は<you still have your capital. I mean, you still have Geiger’s capital>だ。双葉氏は「そのうえ資本はまるまる残る。つまり、ガイガーの資本だがね」。村上氏は「しかも元手は減らない。つまり君はまだガイガーの元手を手にしていることになる」と、訳している。こなれた訳だとは思うが、原文の工夫を何とか活かせないかと思い、こう訳してみた。

「あんたの頭はどうかしてる。何さインテリぶって」は<You’re crazy, you goddam eggheaded―!>。双葉氏は「この気ちがい!とんかち頭の――!」。村上氏は「ああ、何を言い出すの。偉そうにわかったようなことを――!」だ。何故か近頃では<crazy>を、文字通り双葉氏のようには訳せないことになっている。それはともかく、<egg>がなぜ「とんかち」になっているのかがよく分からない。<egghead>はアメリカでは「知識人、インテリ」を表す俗語なので、村上氏のような訳になる。

ただ、その金髪女の言い方を、双葉氏はあっさりと「金髪が叫んだ」としているところを、村上氏が「金髪女が息を呑んだ」と訳しているのは合点がいかない。原文は<The blonde yelped:>だ。<yelp>は、犬がキャンキャン吠えるような、甲高い声で叫ぶ様子を表す言葉で、村上氏は前の部分で金髪女の声を「甲高い声」と訳している。それなのに、なぜここを「息を呑んだ」と意訳したのだろう。たいしたことではないと思うのだが、気になる。

2017-10-16

『闇夜にさまよう女』セルジュ・ブリュソロ

闇夜にさまよう女

冒頭、銃弾が頭を貫通した女が痛みを感じずに車を走らせる場面が出てくる。前頭葉前部を撃ち抜かれていても、そういうことが可能だという。車を降りてハリウッドの看板まで歩いて行った女はそこで倒れ、翌朝日本人観光客に発見されて病院に送られる。半年後、リハビリの甲斐あって女は言葉も話せるようになるが、記憶がすっぽり抜け落ちている。一時的な記憶喪失とはちがう。弾丸と手術のメスによって脳の一部が摘出されたからだ。その結果、女は人格さえ以前とは別のものになっていると医者は言う。

厄介なことに身分を証明する免許証その他を何も所持しておらず、着ていた服はどこでも買える量販品で、テレビで放送されたにもかかわらず彼女を知っているという関係者は現れなかった。身元不明の女につけられる名前、ジェーン・ドーとして女は過去と決別し、新しい人生を生きることになる、はずだった。ところが深夜の病室で何者かに殺されそうになり、担当医の計らいで、ビヴァリー・ヒルズの豪邸で暮らすことに。

記憶をなくした女が、記憶を取り戻すのでなく、新しい人格のもとに出直そうというのがめずらしい。普通なら何としてでももとの自分に戻りたいと思うはずだ。しかし、リセットがきくものなら、そうありたいと考える人間の方が実際は多いにちがいない。人生をはじめからゼロにしてやり直せるチャンスなど誰にもないに等しい。ところが、ジェーンに異変が起こる。完全に防犯管理されたはずの豪邸に、見えるはずのないインディアンの姿が見えたり、眠っているうちに夢遊病状態で変装したりする奇行が現れる。

ジェーンの訴えで担当医のクルーグは女性のボディガードをつけることにする。射撃の名手のサラだ。サラにはデイヴィッドという息子がいた。彼は先天性免疫疾患に冒されていて、菌に耐性がなく、サラの経営する警備会社の地下にある部屋に作られた無菌室から一歩も出ることなく、あらゆる情報を処理していた。クルーグがサラの援助をしていた関係でサラはジェーンの庇護者になる。四六時中一緒にいるうちに二人は互いをよく知るようになる。ジェーンは夢で見たことを少しずつサラに話す。それは信じられない話だった。

前頭葉被切断者は、なくした記憶を補填するため、後づけの記憶から偽の記憶を作り出すことがあるという。ジェーンのそれは、殺し屋だった。それもCIAに類した組織の依頼を受け、長期間ターゲットをつけねらい、最後には死に至らしめるというものだ。ジェーンの話を裏付けようと現地に赴いたサラは、話が事実であったことに驚く。担当医のクルーグはそれは本で読んだことを自分の記憶と勘違いしているだけだとサラをいましめるが、ジェーンの話は詳細で事実に合致している。サラは次第にジェーンの話を信じるようになる。

蘇った記憶が真実なのか、それとも精神科医の言うようにすべて虚言なのか、読者はその結果を知りたいと思い読み進める。次々と現れる新たな事実が、それまでの読みをひっくり返し、新たな読みを浮かび上がらせる。探偵役のサラと一緒に読者も翻弄されてしまう。この間のミスディレクションはなかなかよくできている。再読してみたが、かなり、誠実に事実がほのめかされていることがよく分かる。問題はSF的な設定と極端なまでに過酷な幼少期の記憶が事実を見抜くのを妨害しているのだ。

記憶に中のジェーンもサラも共に保護者の強権に屈し、従順にその保護者の望む通りの人生を送ってきている。見ようによっては完全に虐待されているのだ。そういう過去を共有する二人がともに行動するうちに、精神的に共振するようになってゆくのは理の必然と言っていい。サラの視点を通して、ジェーンの過去を判断していくしかない読者はそれに引きずられて事態を読んでゆくことを要求される。ある意味で、信頼できない語り手による話を聞かされているようなものだ。

話自体は非常に興味深く、若干強引なところや、SF的なギミックが気になるところもあるが、ヒッチコック映画を見ているようなサスペンスは鮮烈だ。誰が本当のことを言っているのか、ジェーンは本当は誰なのか、彼女の記憶は真正なものなのか、最後まで明らかにされないまま事態はどんどん悪化してゆく。最後の最後に明らかにされた真実にはあっと驚く仕掛けが用意されている。ミステリエスピオナージ、それにほんの少しばかりSF的なスパイスを効かせた本作はアメリカを舞台にしているが書いたのはフランスの作家だ。

最近読んだ新聞の書評欄に「フランスでは1日2人が虐待で命を落とすが、「家庭内のしつけ」とタブー視され、社会的関心は低い」と書かれていて驚いた(『父の逸脱/ピアノレッスンという拷問』セリーヌラファエル著)。「犬の虐待の方が関心が高いぐらい」だと著者は言う。そうした社会背景の上に成り立ってこの作品は書かれている。作家自身が精神障害を持つ母のせいで不遇な幼年時代を送ったらしい。皮肉なことだが、それが作品をリアルなものにしているのはまちがいない。何者にもなることなく老いを迎えた身には、しつけの名を借りて自分の願望を子に押しつけようとしなかった両親に感謝したくなった。

2017-10-13

『パリに終わりはこない』エンリーケ・ビラ=マタス

パリに終わりはこない

エンリーケ・ビラ=マタスは邦訳された全作を読んでいるが、今のところではこれがベストだと思う。前二作も意表を突く話題に驚かされつつ楽しく読めたが、知的な部分が前に立ちすぎ、小説としての魅力が今一つ出ていない憾みがあった。本作も一応、著者本人と思しき作家が行う、アイロニーについての三日間の講演のメモがもとになっているという体裁をとる。短い断章形式で構成されるその中身は、中年となった作家の現在の思いと、パリでの二年間の修業時代の回想、それに聴衆を前にして講演している部分とが断章形式で代わるがわる提示される。しかし、視点は常に「私」に置かれており、話題はパリと作家修業、小説の書き方、人との出会い、等に限られていて、大きな逸脱はない。 

作家の自伝的小説でパリにおける修業時代を描いたものといえば、誰だってヘミングウェイの『移動祝祭日』を思い出す。だいたい、タイトルにしたところが、そこから採られている(『移動祝祭日』の最終章の題が「パリに終わりはない」)。ヘミングウェイが、パリ時代、カフェに腰を据え、鉛筆で原稿を書いたことや、スコット・フィッツジェラルドガートルード・スタインエズラ・パウンドとのつきあいの日々を描いたのが、『移動祝祭日』。そこには後のノーベル賞作家の、貧しくも幸福なパリ時代の暮らしが息づいている。つまり、これが元ネタになっているのだ。

「私」は若い頃、ヘミングウェイに憧れていて、中年となった近頃では大酒を飲んで太り、見かけも似てきたと本人は思っている。冒頭にキー・ウェストで行われたヘミングウェイそっくりさんコンテストに出場し、似てないといわれて撥ねられたエピソード披露している。この作品がヘミングウェイの『移動祝祭日』のパロディ、それもちっとも似てないパロディであることをほのめかしているのだ。講演の主題が「アイロニーについて」であることも、このエピソードが冒頭に置かれた意味を表している。アイロニーとは「表面的な立ち居振る舞いによって本質を隠すこと、無知の状態を演じること」の意である。

「私」は、ヘミングウェイのようなハンター、ボクサーといった陽性のタイプではなく、母に言わせれば根暗なタイプで、パリ時代も幸福な時代だとは感じていない。金は父親からの仕送りで不自由はなかったし、下宿だって小さな屋根裏部屋ながら、家主はなんとあのマルグリット・デュラスだというから恵まれている。ただ、処女作『教養のある女暗殺者』を書きあぐねている作家志望の若者としては、将来というものの見えない絶望的な生活のように当人には思われていたようだ。

もちろん、アイロニーだとはじめから明かされているので、その辺は割り引いて読まなければいけないのだろう。事実、デュラスをはじめ、登場する人物の顔ぶれの豪華さたるや本家の『移動祝祭日』をはるかにしのいでいる。ロラン・バルトが入りびたるカフェで通りを行く人物評にうつつを抜かし、ジョージ・オーウェルの二人目の妻と話をし、ジョルジュ・ぺレックの顔も間近で見ることができたのだ。自分の下宿の部屋に逗留した人物の中には、レジスタン運動時代のミッテラン元大統領もいたというから世間は狭い。

へミングウェイにとってガートルード・スタイン文学上の庇護者であったように、「私」にとってデュラスがそうだった。ズボンの尻ポケットには、彼女が書いてくれた小説の書き方を箇条書きにしたメモがいつも入っていて、折に触れてはそれを開き、そこに書かれた内容について友だちに尋ねたり、自問したりするのが習慣になっていた。その部分だけを抜き出して読めば、小説家志望の青年にとっていかに有意義な解説が書かれているか驚かされる。パロディめかした書きぶりに騙されぬように読まねばならない。これは純粋な魂の告白など、恥ずかしくてできない作家が正体を隠すために被った仮面の蔭から真剣な声で語りかける小説なのだ。

とはいえ、サルトルの写真に影響されて眼鏡をかけ、パイプをいつもくわえた「私」のパリ時代の生活は、口で言うほど絶望的なものではなく、服装倒錯者に囲まれ、映画を撮るだけでなく出演もし、有名人が出入りするパーティーではデビュー直前の女優イザベル・アジャーニに凍りつくような視線で見つめられるなど、パリに暮らす亡命者の中でも恵まれた生活を送っている。この手の話は枚挙に暇がない。絶望的な顔の仮面でもつけておかなければ単なる自慢話と読まれてしまうにちがいない。

それでいて、読後の印象は悪くない。冷たく陰気な冬が明け、パリに春が来る場面などには本家の『移動祝祭日』にも似た抒情的な詩情を漂わせ、他のどこでもないパリに生きる喜びを堪能している若者の姿が浮かび上がる。そのたびに、現在中年となった作家が表面に出てきて、アイロニーを知る者の持つ強みと、それを知った者が未だそれを知らなかった当時をうらやましさの混じった気持で哀惜する心情を訴える。この構成の妙が本作の味わいを深いものにしている。『移動祝祭日』の愛読者なら何をおいても一読をお勧めする。また、小説家を夢見る若い読者にも。

『大いなる眠り』註解 第十四章(2)

《数は多くないが趣味のいい家具が置かれた快適な部屋だった。壁の奥に開けられた石敷きのポーチに通じるフレンチ・ウィンドウからは山麓の夕暮れが見渡せた。西壁の窓の近くに閉じられたドアが、玄関ドアの近くには同じ壁にもう一つドアがあった。最後の一つには楣(まぐさ)の下に通した細い真鍮の棒にフラシ天のカーテンが架かっていた。

 残る東壁にはドアがなく、壁の中央を背にしてダヴェンポートがあった。私はそれに腰を下ろした。ブロディはドアを閉めると蟹歩きをし、角釘で飾り鋲が打たれた樫材の丈長の机まで行った。下ろした天板の上に鍍金の蝶番がついた杉材の箱があった。彼は箱を持ち、二枚のドアの中央にある安楽椅子に座った。私はダヴェンポートの上に帽子を置いて待った。

「いいだろう。話を聞こう」ブロディが言った。彼は葉巻の入った箱を開け、煙草の吸殻を横にあった皿の中に落とした。彼は長細い葉巻を口にくわえた。「葉巻は?」彼は一本を投げてよこした。

 私はそれをつかんだ。ブロディは葉巻の箱から銃を取り出し、私の鼻に狙いを定めた。私は銃を見た。警察用の黒い三八口径だった。今のところ私に反論の余地はなかった。

「手際がいい、だろう?」ブロディは言った。「ちょっと立ってもらおうか。二メートルほど進み出るんだ。その間、手は挙げておいてもらえるかな」彼の声は映画に出てくるタフガイのように作りこまれた何気ない声だった。映画ではいつもそんな風にやらせている。

「チッ、チッ」私は少しも動かずに言った。「街中に銃は溢れていても、脳みそが足りない。銃を手にしたら世界が意のままになると思う男に会うのはここ数時間で君が二人目だ。馬鹿な真似はやめて銃を下ろすんだ、ジョー

 彼は眉根にしわを寄せ、顎を突き出した。眼が卑しくなった。

「もう一人の男というのがエディ・マーズさ」私は言った。「彼のことは聞いたことがあるだろう?」

「いいや」ブロディは銃でねらいをつけたままだった。

「もし彼が昨夜雨の中で君がどこにいたかを知ったら、用済みのポーカー・チップのように君はその場から消されてしまうだろう」

「私がエディ・マーズに何をしたって言うんだ?」ブロディは冷ややかに尋ねたが、銃は膝に下ろした。

「覚えてさえいない」私は言った。

我々はにらみ合った。私は左手の出入り口にかかったフラシ天のカーテンの下からのぞいている尖った黒いスリッパを見ないようにした。

 ブロディは静かに言った。「誤解するな。俺はタフガイじゃない。慎重なだけだ。お前に会うのは初めてだ。ひょっとすると命取りになるかもしれない」

「君は慎重さが足りない」私は言った。「ガイガーの本の扱いはまずかった」

 彼は長くゆっくり息を吸い、そして静かに吐き出した。それから椅子の背にもたれ、長い脚を組んで膝の上のコルトをつかんだ。

「これを使う気はないなんて思うなよ。いざとなればな」彼は言った。「で、何が言いたいんだ?」

「尖ったスリッパをはいた君のお友達を拝ましてもらおう。彼女は息を詰めているのに疲れた頃だ」

 ブロディは私の腹から目をそらさず呼びかけた。「入って来いよ、アグネス」》

「その間、手は挙げておいてもらえるかな」と訳した部分、原文は<You might grab a little air while you’re doing that.>だ。双葉氏は「そのまに多少は気も静まるさ」と訳している。村上氏も「そうするあいだに少しは頭が冷えるかもしれない」と訳す。<grab a little air>は、直訳すれば「少し空気をつかめ」。空中に手を伸ばし空気をつかもうとすれば、ちょうど手を上げた格好になるところから「手を挙げろ」という意味の俗語表現である。これが頭を冷やせ、の意味になるのはなぜか。さっぱり分からない。

「銃を手にしたら世界が意のままになると思う男に会うのはここ数時間で君が二人目だ」は<You’re the second guy I’ve met within hours who seems to think a gat in the hand means a world by the tale.>。双葉氏は「一時間たたないうちに、パチンコを持てば天下がとれると思っているお方に二人もぶつかるとはあきれかえりのでんぐりかえりだ」と、伝法な訳を披露してくれている。村上氏は「ひとたび拳銃を手にすれば、世界の尻尾を捕まえたみたいな気分になるのかい。そういう人間に会ったのは、この一時間ほどで君が二人目だよ」だ。

<within hours>と複数形になっているのに、両氏とも「一時間」という訳語を使っているのが気になる。エディ・マーズとの会見後、ブロディの家まで車でやって来たのだ。一時間以上の時間は経過していると考える方がふつうではないか。もう一つ。<world by the tail>は村上氏のように「世界の尻尾を捕まえ(る)」のではなく、双葉氏の「天下がとれる」と同じ、「世界を支配する」という意味のイディオムだ。

まだある。「用済みのポーカー・チップのように君はその場から消されてしまうだろう」の原文は< he’ll wipe you off the way a check raiser wipes a check.>。この部分を双葉氏は「君なんかあっさり消されちまうぜ。偽造の名人の手にかかった小切手の数字みたいにな」と訳す。村上氏も「偽造犯がインチキ小切手を始末するよりも素速く、君はこの世からおさらばすることになるぜ」と訳している。

両氏とも、というより双葉氏の訳に引きずられて村上氏もそう解釈したのだろうが、<check>を「小切手」と取っている。どうして唐突にここで小切手の偽造犯が登場するのかさっぱり分からない。<check raise>というのは、ポーカー用語で、相手がチェックした後で掛け金をレイズ(上げる)する方法だ。ここで、エディ・マーズの稼業を思い出してほしい。彼は賭博場を取り仕切るのが仕事だ。その関連でポーカーテーブルが連想されていると考えた方がより自然だろう。

<wipe>という単語が二重の意味で使用されている。初めの<wipe>は「殺す」という意味だ。次の<wipe>は、「チェック・レイズをした者がチップを浚うようなやり方で」の意味で使われている。自動車のワイパーのようにカード・テーブル上のチップを一掃する手つきを意味していると取ればわかってもらえるのではないだろうか。ポーカーのルールをいちいち説明するのも煩雑なので「用済みのポーカー・チップのように」と訳しておいた。出所不明の偽造小切手より、よほど分かりやすいと思う。

今回のことで思ったのだが、村上氏は双葉氏の訳を参考に、新訳を作ったのではないだろうか。まったく新しくなっているところもあるが、多くのところで、双葉訳を改変した訳になっている。ある意味では改訳のようなものだ。新訳が登場して以来、否定的な見解が多いのが不思議だったが、二つを並べて読んでみると、あらためて旧訳の値打ちが分かってくる。旧訳を参考に新訳をつくったのなら、旧訳の不都合な部分は新訳で改まっていなければ意味がない。日本語で読む読者の、文体が冗長という不満だけではなく、原文が読める読者からの、そういう意味での不満があったのではないか。

2017-10-06

『大いなる眠り』註解 第十四章(1)

《ランドール・プレイスにあるアパートメント・ハウスの玄関ロビー近くに車を停めたのが五時十分前だった。幾つかの窓には明かりがともり、夕闇にラジオが哀れっぽく鳴っていた。自動エレベーターに乗り、四階まで上がり、グリーンのカーペットにアイヴォリーの羽目板張りの広い廊下を進んでいった。涼しい風が開いた網戸から避難階段に廊下を吹き抜けた。

 405号室を示すドアの傍にアイヴォリーの小さな押しボタンがあった。それを押して待った。長い時間のように感じた。その時、音もたてずにドアが三十センチばかり開いた。その用心深い開け方には、外聞をはばかる雰囲気があった。男は脚と胴が長く、いかり肩だった。褐色の無表情な顔に暗褐色の目をしていた。ずっと昔、表情を制御することを身につけた顔だ。スチールウールのような髪が頭のかなり後ろに生え、褐色のドーム状の額はちょっと見には脳の居場所のようにも見えた。くすんだ眼は感情を交えず私を値踏みした。細長い褐色の指がドアの端をつかんでいた。彼は無言だった。

 私は言った。「ガイガー?」

男の顔には何の変化も認められなかった。彼はドアの後ろから煙草を取り出して唇の間にはさむと、煙を少し吸った。煙は気だるげにこちらに向かってきた。人を馬鹿にしたような煙の後に素っ気ない言葉が続いた。急ぐことのない、トランプ博打のディーラーと同じ抑揚を欠いた声だ。

「何と言ったんだ?」

「ガイガー。アーサー・グウィン・ガイガー。本の所有者だ」

 男は特に急ぐふうもなく考えた。彼は煙草の先をちらっと見た。もう一方の手、さっきドアを支えていた手が消えていた。肩を見ると、隠れた手が何やら動いているようだった。

「そんな名前の男は知らないな」彼は言った。「この近くに住んでいるのか?」

私は微笑んだ。その笑い方が彼の気に触った。彼の目つきが険悪になった。

私は言った。「君がジョー・ブロディか?」

褐色の顔が固まった。「それがどうした?ペテンにでもかけようってのか、あんた――それともふざけてるのか?」

「なるほど、君がジョー・ブロディか」私は言った。「そして、君はガイガーなどという名の男は知らないときた。そいつは大いに笑わせるね」

「おやおや、奇妙なユーモア感覚をお持ちのようだ。どこか別のところでそれを発揮したらどうだ」

私はドアに身をもたせ、夢見るように微笑んで見せた。

「あんたは本を持っている、ジョー。私は上客の名簿を持っている。我々はこれについて話し合うべきじゃないか」

 彼は私の顔から眼をそらさなかった。彼の背後の部屋の中で、金属のカーテン・リングが金属棒にあたる微かな音がした。彼は横目で部屋を一瞥し、ドアを大きめに開けた。

「いいだろう――あんたが何か持っているというのならな」彼は冷ややかに言った。彼はドアの脇によけた。私は彼の傍を抜けて部屋に入った。》

ジョー・ブロディの登場シーン。いつもながら人物の外見を長々と描写するチャンドラーである。双葉氏は、こういうのが気質的に好きでないのか、よくカットする。ここでは、「ちょっと見には脳の居場所のようにも見えた」を訳していない。原文は<that might a careless glance have seemed a dwelling place for brains>。村上氏は「一見、それは頭脳の居住する場所と見えたかもしれない」だ。こうした直訳になる時は、訳者にも作者の意図がよく分からない時だ。おそらく「根っからのバカではなさそうだ」くらいの意味で書いているのだろう。双葉氏がカットしたくなる気持ちも分かる。

「ガイガー?」としたところは、<Geiger?>。双葉氏は「ガイガーか?」。村上氏は「ガイガーは?」だ。訳としたら、助詞の一つくらいはつけたいところだが、マーロウはガイガーを見知っていて、彼が死んだことも知っている。ブロディが事件にからんでいるとしたら、そんなつまらない手にひっかかりはしないことは百も承知だ。ここは、暗号か合言葉の一つのように考えてみた。ガイガーの名を出すことで、相手がどのような反応を見せるのかを知ろうというのだ。

「煙を少し吸った」は<drew a little smoke from it.>ここを双葉氏は「わずかに煙を吐いた」と逆にしている。村上氏は「煙を少し吸い込んだ」としている。<draw>は「引く」という意味なので、「そこから煙をこちらに引き寄せた」のなら「吸う」としか訳せない。煙草をくわえても吸わなければ吐けないのは道理だ。双葉氏は次の文に引きずられて少し急ぎすぎたようだ。

「煙は気だるげにこちらに向かってきた。人を馬鹿にしたような煙の後に素っ気ない言葉が続いた。焦ることのない、トランプ博打のディーラーと同じ抑揚を欠いた声だ」も、少々厄介だ。原文は<The smoke came towards me in a lazy, contemptuous puff and behind it words in a cool, unhurried voice that had no more inflection than the voice of a faro dealer.>。

双葉氏はここを「煙はゆるゆると私のほうへ流れ、そのあとから冷たいゆっくりした声がきこえてきた。銀行ゲームのトランプの配り手より抑揚のない声だった」と、あっさり訳している。村上氏は「男がそろそろと、小馬鹿にしたように煙を吐くと、それは私の方に漂ってきた。彼は煙の奥から、カード・ゲームの胴元のような抑制された単調な声で言った」だ。

双葉氏は<contemptuous puff>をスルー。村上氏は語順を入れ替えて「男がそろそろと、小馬鹿にしたように煙を吐くと」と主語を補った説明的な語句を入れて分かりよく訳している。ただ、そのために原文が煙の後ろに隠している男の姿が目立ってしまうことになった。その辺は双葉氏の訳の方がニュアンスをよく残している。問題は<faro>を「銀行ゲーム」と、遊びのように訳していることで、賭博師の雰囲気が薄れてしまっていることだ。村上氏は「カード・ゲーム」がトランプ遊びのようにとられないために、ディーラーを胴元と訳すことで賭け事の雰囲気を残している。

2017-09-29

『湖畔荘』上・下 ケイト・モートン

湖畔荘〈上〉 湖畔荘〈下〉

<上下巻併せての評です>

とにかく再読すること。一度目は語り手の語るまま素直に読めばいい。二度目は、事件の真相を知った上で、語り手がいかにフェアに叙述していたかに驚嘆しつつ読む。ある意味で詐術的な書き方ではあるのだが、両義性を帯びた書き方で書かれているため、初読時はミスディレクションが効果的に働き、よほどひねくれた心根の持ち主でなければ、正解にはたどり着けないように仕組まてれいる。しかし再読すれば、いくつもの目配せがあり、伏線が敷かれていて、読もうと思えば正しく読めたことをことごとく確認できる。ここまで、フェアに読者を欺く書き手にあったことがない。

ウェルメイド・ミステリという呼び名があったら是非進呈したい。最初から最後までしっかり考え抜かれ、最後にあっと驚かせるしかけが凝らされている。上下二巻という長丁場だが、二つの大戦をはさむ1930年代と2003年、ロンドンコーンウォールという二つの時間と空間に魅力的な人物を配置し、失意の恋もあれば道ならぬ恋もあって、最後まで飽きさせない。特に上巻末尾には、絶対に下巻を読まさずにおくものかという気迫に満ちた告白の予告が待ち受けており、これを読まずにすますことのできる読者はいないだろう。

主たる舞台となるのは、コーンウォールの谷間に広がる森に囲まれた土地に建つ、土地の方言で「湖の家」という意味の<ローアンネス>と呼ばれる館。もとはジェントリーが所有する広壮なマナーハウスの一部であったが、本館が火事に遭い、残った庭師頭の住居を修復して子孫が住むようになったものだ。1933年当時そこに住んでいたのは、アンソニーとエリナ夫妻に、デボラ、アリス、クレメンタインの三人姉妹、末っ子のセオドア、エリナの母であるコンスタンスというエダヴェイン一族。夏の間は祖父の旧友でルウェリンという物語作家が滞在している。

ミッド・サマー・パーティーの夜、皆に愛されていた弟のセオがいなくなる。まだ歩きはじめたばかりの赤ん坊が一人でいなくなるはずがない。事故か誘拐か、地元警察はもとより、スコットランド・ヤードの刑事も加わって捜査されたにもかかわらず、セオは見つからずじまい。以後悲劇の舞台となった<ローアンネス>は封印され、一家ロンドンに引っ越す。もともと森の中にあった敷地は訪れる者とてないまま、繁り放題の樹々に囲まれて静かに眠り込んでいた。

その眠りを妨げたのがロンドンから来た女性刑事セイディ。個人的事情から担当中の事件に感情的移入してルールを犯し、ほとぼりがさめるまで祖父バーティの住むコーンウォールに長期休暇中だった。日課となった犬とのランニングの途中、敷地内に残る古い桟橋に足を取られて身動きとれなくなった犬を助け出した時、館を見つけた。敏腕刑事であるセイディには、当時のまま時を止めたかのように息をひそめた館には何か隠された秘密のあることが感じとれた。調べてみると過去の事件が明らかになる。

館を相続しているのは次女のアリス。今ではA・C・エダヴェインという有名なミステリー作家だ。未解決事件の捜査のため家を調べる許可を求める手紙を書いたセイディに許可が与えられたのはしばらくしてからだった。アリスは、この年になって姉のデボラからとんでもない事実を知らされ、長年自分が思い込んでいたのとは全く異なる家族の秘密を知り、あらためて事件の真相を知りたくなったのだ。助手のピーターの勧めもあり、自身もコーンウォールに足を運んだアリスを待ち受けていたのは、思いもよらぬ結末だった。

冒頭、ケンブリッジ出の学者肌の父、てきぱきと家事を取り仕切る美しい母、結婚が決まり社交界デビューも近い長女、物語作者を目指す次女、飛行機に夢中なお転婆の三女、愛らしい弟で構成される裕福な家族が、自然に囲まれた美しい湖畔の家で楽しく暮らす様子が英国風俗小説そのままにたっぷりと描かれる。十五歳になったアリスは、庭師募集の広告に応じて現れたジプシー風の若者ベンに夢中。完成したばかりの処女作をベンに捧げ、愛を告白する予定だった。ふだんは余人を避け、ひっそりと暮らす夫妻が年に一度、三百人の客を招いて行う夏至の前夜祭のパーティーの夜、事件は起きた。

ミステリの要素は濃いが、読後感じるのはむしろ普遍的主題である。これは母と子の物語であり、戦争の災禍の物語である。主人公の女性は十代で娘を産み、養子に出した過去を持つ。それについての罪悪感が災いして、幼児遺棄の事件に関して過度に反応し失職の危機に遭う。意志に反して子どもと別れなければならなくなった母親のあり方について深い考察がめぐらされている。また、人類が初めて遭遇した大量殺戮である第一次世界大戦時における兵士のPTSD、当時はシェルショックと呼ばれた戦争後遺症についても、その非人間性が静かに告発されている。

ミステリ作家であるアリスの口を通じて、今は懐かしい「ノックスの十戒」が引き合いに出されているのも忘れ難い。犯人は最初から登場していなければならない、とか秘密の通路は一つに限る、とか作家としての自戒が、いちいち本作に用いられているのが律儀と言える。フーダニットからハウダニットに移行したあたりから小説が味わい深くなったとか、自作を語るアリスに作者その人を重ねたくなるのも無理はない。しかも、そのアリスの読みが肝心なところで外れていたのも皮肉と言えば皮肉で、このあたりのシニカルさはアメリカミステリにはないものだ。

家の相続、良家との縁組といった上流階級ならではの慣行が、母と子の間に確執を生み、物事が単純に進んでいくことを邪魔する。そんな階級にあって、エダヴェインの娘たちは自由奔放に生きようとする。エリナがそうであり、アリスもクレメンタインもまた同じだ。思春期の揺れる心をクレメンタインが、女ざかりの時代を母エリナが、そして独身の老人女性をアリスが代表している。生来奔放な女性が、戦争の時代に翻弄されながら、それでも自分らしく最後まで正直に生き抜いた姿が読後胸に迫る。すべてが明らかにされた場面、ミステリではおよそ覚えたことのない感情に支配される。至福の読書体験である。

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