2012-01-22
『持ち重りする薔薇の花』 丸谷才一
いやあ、さすがに手なれたものです。こういうのを風俗小説というのでしょう。
財界や会社の人事にまつわる裏事情に始まり、企業買収のために関係者の趣味を徹底的にリサーチするやり口まで、知らなくても困らないが知っていてもいっこうに困らない、いやむしろ愉快か、といった話が、主筋の話に入る合いの手のように、次から次へと繰り出される。そこは丸谷才一のことだから、その手の読者を飽きさせないように艶っぽい話も用意して、これでもかという具合に供される。巻擱くを能わず。一気に読み終えてしまいました。ああもったいない。
かねてから懇意にしている二人。一人は財界の大物で元経団連会長の梶井。もう一人の野原は梶井とは雑誌の編集長時代からのつきあい。野原は取材で、ブルー・フジ・クヮルテットという日本人弦楽四重奏団の話を聞きに梶井のもとを訪れたところ。
クヮルテットというのは難しいもので、どんなにすぐれた演奏を聴かせる楽団であっても二年で喧嘩別れをするのが常という。少人数の集団が四六時中顔をつき合わせていれば、それも無理あるまい。それが、この四人組は、一度抜けたメンバーが再加入して続いているめずらしい例。ひょんなことから後見の役回りをしている梶井は、世間の知らない面白い裏話を知っているらしい。関係者の死後に公開するという条件で野原は話を聞くことに同意する。
とはいっても、そこは初めに紹介した通り風俗小説です。ミステリのような展開を期待されても困る。メンバーの間に起きるトラブルの原因は、男と女の問題に端を発する。それは、どんな社会でも同じ。ただ、精妙なアンサンブルを期待されるクヮルテットだからこそ、感情のもつれが軋轢となって構成員の調和が乱れる。ヴィオラの別れた奥さんにチェロが手を出し、それを吹聴して回るので、ヴィオラが退団をほのめかしたり、チェロの奥さんとヴィオラが駆け落ちしたりという、よくありがちないざこざ。
まだ若い音楽家たちの稚気あふれる逸話の間に、華やかな実業家人生の陰に隠された家庭内の不幸や、雑誌編集長の社内人事での挫折話が絡み、人生の有為転変が、酸いも甘いもかみわけた人の口を借りてしんみりと語り出される。まるで名人の語る人情話を聞いているような、いいあんばいの語り口です。
英国の小説にくわしい人らしく、階級差というものをうまく使っています。中流の上程度に属する階級の暮らしぶりが醸し出すスノビッシュな味わい。ニューヨークですき焼きを食べて、アメリカの卵にはサルモネラ菌が入っていて危ないが、この店は大丈夫と言わせたり、二人が会話の間に手にするシェリーがアモンティァードだったりと、読み手の気を惹く小道具の使い方がうまい。
クヮルテットの話だから、音楽談義が中心になるのは当然のこと。音楽史では一時代前の人のようにみなされているボッケリーニがハイドンと同時代人だったという事実や、ハイドンのセレナーデは二楽章がいいけれど、実は本人の作ではないという説が持ち出されたりと音楽好きには愉しい。スラブ的旋律が耳に残るチャイコフスキーのアンダンテカンタービレが、むしろモーツァルトに代表される西欧的音楽に近いのだという第一ヴァイオリンの話には我が意を得た思いがした。
圧巻は、ニューヨークの日本料理店で梶井にご馳走になったクヮルテットの面々が余興にやってみせる「忠臣蔵七段目 祇園一力茶屋の場」。チェロの義太夫に第二ヴァイオリンの口三味線、ヴィオラがお軽と平右衛門を早変わりでやってのける。第一ヴァイオリンが「成駒屋!」と大向うを務める。歌舞伎、中でも「仮名手本忠臣蔵」は丸谷才一自家薬籠中の演目。このあたりはお遊びでしょう。
抜けた第一ヴァイオリンに代わって加入したアイリッシュ系の奏者が、あまりにベートーヴェンばかりを持ち上げるので、チェロがかねて用意の難しい単語を繰り出して、自慢の鼻を折ってみせるくだりでは、英語原文をそのまま数行引いてみせる。『ユリシーズ』の訳者の一人でもある丸谷ならではの華麗なペダントリーだが、これもまた読者サービスの一環か。丸谷ファンの中には、音楽だけでなく英語に堪能な読者も多いにちがいない。
蘊蓄満載のエッセイ集はコンスタントに発表するが、長篇小説は寡作という、この人の久々の書き下ろし。弦楽四重奏など聴きながら、シェリーとまではいかずとも、グラス片手に読まれるなら至福のひとときをお約束しよう。
2012-01-21
『悪い娘の悪戯』 マリオ・バルガス=リョサ
1950年代初頭、ミラフローレスはペレス・プラード楽団の演奏するマンボが人々を熱狂させていた。そんな時代、「僕」はチリからやってきた少女に恋をしてしまう。蜂蜜色の瞳にくびれた腰、マンボを踊らせたら誰にも負けないリリー。しかし、三度にわたる求愛も見事にはねつけられ、あえなく失恋。その後、チリから来たというのは嘘で裕福なミラフローレスには不似合いな貧民街の生まれであることが発覚し、少女は姿を消してしまう。
60年代初頭、今はパリで暮らす「僕」の目の前に大人になったリリーが現れる。今度は女ゲリラ兵となってキューバに向かうという。再び夢中になる僕をしり目に、この悪い娘(ニーニャ・マラ)は、またもや姿を消す。もうお分かりだと思うが、この後、60年代後半のロンドン、70年代終盤の東京、再びパリ、そして最後のマドリッドと、忘れたかと思うと別の女性になって姿を現し僕を眩惑して虜にしては姿を消す。
「僕」にとってニーニャ・マラは生涯たった一人の恋人である。何度裏切られても、「僕」は彼女を思いきることができない。一方、貧しい家に生まれた女は、いくら愛されようが、ユネスコで働くしがない通訳と一生添い遂げる気などない。金と力のある男を見つけると鞍替えすることを何とも思っていない。裏切り続ける悪女とそれでも愛し続ける人のいい男の一風変わった恋愛を、60年代パリを皮切りに時代の風俗をからませて描くという洒落た趣向の物語である。
リョサといえば、『緑の家』や『世界終末戦争』に代表されるような、いくつもの時間や場所を緻密に組み立てた構成や、複数の話者を配した多視点による語りといった一筋縄ではいかない作風で描かれた重厚でスケールの大きい作品群が知られている。しかし、最近では『フリアとシナリオライター』に見られるようなユーモアを配した作品も発表しており、この『悪い娘の悪戯』も、その流れの作品である。
一人の女に対しては情熱を抱けるのに、同時代の世界に対して傍観者的態度をとり続ける主人公と対称的に、60年代初頭のパリではカストロの革命を奉じて帰国しゲリラとして殺される友人、ヒッピー・ムーブメント真っ最中のロンドンではフリー・セックスでエイズに感染死する友人と、それぞれの時代を反映する男友達の活躍と悲劇的な最期が物語に陰影をつけている。
注目に値するのは、舞台となる諸都市の中で唯一リョサが住んだことのない東京に対する作家の視線である。シャト−・メグル(目黒エンペラーのことか)というラブホテルが象徴する当時の東京は、セックスのためにかくまでも精緻を極め、贅を凝らした場所があろうかという驚異的な都市として描かれている。ヒロインを徹底的にいたぶる愛人フクダのサディストぶりといい、日本人の性意識に対する独特の思い入れが感じられ複雑な気持ちになる。
「ロマンチック小説を書くなんて、老いた証拠かもしれないな」と作家自身が自嘲気味に語るほど、主人公リカルドの一途な愛が謳い上げられる恋愛小説である。その一方で作家リョサが自分の生きてきた20世紀後半に秘かに捧げるオマージュでもあり、あれほど愛しながらも結局は異邦人につれなかったパリという街への嘆き節でもあろう。アポリネールの『ミラボー橋』の引用が泣かせる。
報われぬ愛に悩んだことのある人、それとは逆に、心底人を愛することができない人、どちらの人にも読んでほしい。衒いをかなぐり捨てたマリオ・バルガス=リョサ畢生の純愛小説である。
2012-01-06
第13章
午前11時のリッツ・ビヴァリー・ホテルのバー。マーロウは、人と会う約束でここに来ている。壁一面のガラス窓からプールが見えている。マーロウは飛び込みをする娘を欲望を感じながら眺めている。それまでとは明らかにちがう展開への予感を感じさせる。
「私から三つ目のブースにはでな服装の男が二人いて、はでな身ぶりをしながら、二十世紀フォックスの動きについて論じ合っていた。間にはさんだテーブルに電話がおいてあって、二、三分おきに受話器をとりあげていた。」
バーで話し合ういかにもやり手風の二人の男たち。電話をひっきりなしにかけているこの二人が何をしているのかが、清水訳ではよく分からない。原文を次に示す。
“Three booths down a couple of sharpies were selling each other pieces of Twentieth Century-Fox, using double-arm jestures instead of money.They had a telephone on the table between them and every two or three minutes they would play the match game to see who called Zanuck with e a hot idea.”
二人は、どうやらホットアイデアを手みやげに一人の男に会うためにマッチゲームをしているらしい。「ザナックと呼ばれる男」とは、ダリル・F・ザナック。いわずとしれた二十世紀フォックスの大立て者である。とすれば、二人が金の代わりに腕を振り回して宣伝しているのは映画の企画ということになる。村上訳ではこうだ。
「三つ先のブース席では、いかにもやり手風の二人の男が、二十世紀フォックスの企画をぶっつけあっていた。そこで交わされているのは金ではなく、承認の仕草だった。テーブルの上には電話が置かれ、二、三分ごとに受話器が取られた。どちらが先にホットなアイデアを思いつき、ザナック御大に採用されるかを競っている。」
「ザナック」は、ルイ・ロペスとはちがって超大物である。ハリウッドで仕事をしていたチャンドラーでなくともだれもが知っているビッグ・ネームをなぜ省略したのか。話の本筋と関係がないと思うとあっさりカットしてすませてしまう。このあたりが清水訳の問題点である。
『さらば愛しき女よ』当時と比べ、本作品ではマーロウは歳をとっている。二人のいかにもやり手風の若者の精力的な売り込みの様子は、少しくたびれかけたマーロウとの対比を意図している。マーロウは仕事にも女にも飢えていない。素晴らしい体つきをした水着の美女であっても、大口を開けて笑うような女は願い下げなのだ。
そんなマーロウでも一目でぐらっとさせられてしまうのが、この章で登場するアイリーン・ウェイド。作家ロジャー・ウェイドの妻である。この矢車草の色をした瞳を持つ絶世の美女の登場シーンは往年のハリウッド映画の一場面を想い出させる。言い換えれば少々大げさ過ぎる。それだけ、魅力的であることを読者に印象づけたいということだろう。
アイリーンの依頼を断ったことで、むしゃくしゃしていたマーロウは、コメディアンと口論をする。軽口の応酬になるのだが、ヤンキースのセンターを守ってホームランをかっ飛ばす“breadstick”が、清水訳では「パンのし棒」、村上訳では「棒パン」になっている。無理なことの喩えなのだからパンでできた棒のほうが面白かろう。ここは、やはり「棒パン」か。
それともう一つ。アイリーンがくれた名刺のことだ。“a formal calling card”を村上氏は「社交用のしるしだけの名刺」と否定的な意味合いに訳しているが、清水氏は逆に「訪問用の正式のもの」と肯定的な意味合いに訳している。その前に“not ”がついているので、否定の否定が肯定になる。つまり、村上訳が構文上適切であろう。住所と電話番号を記した名刺を渡すだけで、相手に対する信頼の意を表すことができるというわけだ。
第12章
第12章は、マーロウが自宅の郵便受けに手紙を見つける場面からはじまる。原文は次の通りだ。
“The letter was in the red and white birdhouse mailebox at the foot of my steps.A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised and even at that I might not have looked inside because I never got mail at the house.”
村上訳ではこうなっている。
「階段の登り口にある、鳥の巣箱のかたちをした赤と白の郵便受けにその手紙は入っていた。箱の上にはキツツキがついていて、郵便物が入っているしるしに、その翼が上に向けられていた。でも、そんなしるしが見えても、郵便受けをのぞかないこともある。自宅に郵便物が来ることはまずないからだ。」
参考に清水訳も引用しておこう。
「その手紙は階段の上がり口の小鳥の巣の形をしている赤と白で塗った郵便箱の中に入っていた。箱の上のきつつきがひっくりかえっていて蓋があいていた。私はそれでも、ふつうなら箱の中をのぞかなかったかもしれない。自宅に手紙がとどくことはほとんどないのだった。」
清水訳の小鳥の巣の形をした赤と白で塗った郵便箱というのは、想像することすら難しい。これは、巣箱と訳すのが自然だ。では、村上訳が正しいのだろうか。ひとつ疑問なのは、スィング・アームの訳し方である。
我が家にも東急ハンズで買ったmaid in USAのmailboxがあるのだが、それにも赤いスィング・アームがついている。郵便物が入っていますよ、というしるしに、それを上げておく腕木である。アメリカの郵便事情に詳しいわけではないが、何でも彼の地では郵便局が日本のように近くにあることはまれで、そのため、自分が出したい手紙も自宅ポストに入れておき、郵便物が入っているというしるしに腕木を上げておくと配達夫が、それを回収していくのだと聞いたことがある。
ここでいう “swing arm”は、その腕木を指すのではないだろうか。箱の上についたキツツキの翼と訳すのは少し無理があるように思う。それとも、アメリカ暮らしの長い村上氏のことだ。どこかで、そんな郵便受けを見たことがあるのだろうか。もし、そうなら、とんだ言いがかりということになるのだが。
12章の終わりに、これは清水氏訳のほうだが、あきらかに誤訳と思われる箇所がある。原文はこうだ。
“When I got home again I set out a very dull Ruy Lopez and that didn't mean anything either.”
清水氏はこう訳している。
「家へ帰ると、ルイ・ロペスのものういメロディのレコードをかけたが、やはりなんの感興もおぼえなかった。」
ルイ・ロペスという名前に聞き覚えがなければ、ラテンか何かの楽団と思いこんでしまうこともあるかもしれない。“set out”が、レコードをターン・テーブルに載せるという意味に思えてきて、“dull”がものういメロディを引き寄せたにちがいない。
しかし、少しばかり不注意のそしりは免れない。マーロウは、これまでにもたびたびチェスについて言及している。過去の有名なプレイヤーの棋譜相手にヴァーチャルな対戦をおこなっているのだ。ルイ・ロペスというのは、よく知られたチェスの定跡の創始者にして、その定跡の名前でもある。ちなみに村上訳ではさすがに正しく訳されている。
「再び帰宅し、ひどくだらだらしたルイ・ロペス(チェスの古典的な開始法)にとりかかったのだが、こちらにも集中できなかった。」
家でテリーのためにコーヒーを淹れ、煙草に火をつけるという別れの儀式を執りおこなった後、町に出かけ、映画を見てから帰宅したので、「再び」が入っているのだろうが、村上氏のこうした一字一句ゆるがせにしない訳しぶりが、まだるっこしく思われることもある。清水訳に軍配を上げる人は、そのテンポのよさを買っているのだ。
ネットで検索をかければ、たちどころになんでも情報が得られる今とちがって、専門的な分野についてはいちいち資料にあたるしかなかった初訳当時の苦労が忍ばれるエピソードである。人名辞典にルイ・ロペスの名は載っていなかったのだろう。
第8章
第7章は殺人課課長によるマーロウ尋問の場面。例によって挑発に乗った課長は、マーロウの思うつぼにはまってしまう。グレゴリアスという課長は暴力に訴えるしかない愚鈍な刑事の典型として描かれている。翻訳上の異同はあまり面白いところが見つからないので、この章は割愛する。
第8章は、重罪犯監房の描写から入る。
“In the corner of the cell block”を清水は「廊下のすみには」と訳すが、村上は「監房ブロックの片隅には」と訳している。二つの鉄製の扉がついているのは監房ブロックの中だから、廊下というのは変だろう。
収監者はそこから面通し用の小部屋に引き出されるのだが、映画でよく見る線の引かれた壁を前に、マーロウもいろんなポーズをとらされる。その一つに “Hold your hands out”というのがある。「両手を前に出せ」と訳すのが清水。「両手を外に広げろ」が村上。映画の場面を思い出してみるのだが、右や左を見た後、どうしていたかよく思い出せない。袖をまくり上げ、傷跡を見せるには、どちらのポーズがいいのだろう。訳としては村上訳が合っているように思うのだが。
ルーティーンワークに飽きた警務主任のやり方に内心で茶々を入れるマーロウの内的独白が後に続く。
鼻の穴の中を見るのを忘れたとからかい、フットボールの試合でけがをして鼻中隔手術を受けた際の思い出を語る。
“Fifteen yards penalty,and that's about how much stiff bloody tape they pulled out my nose an inch at a time the day after the operation,I'm not bragging,Captain.”
「十五ヤードのペナルティーだ。手術が終わると、血で固まったテープを一インチずつ鼻から引っぱり出された。ほらを吹いてるんじゃない。」(清水訳)
「十五ヤードのペナルティー。手術の翌日に私の鼻から数センチずつ引き抜かれたごわごわした血まみれの包帯も、ほぼそれと同じくらいの長さだった。自慢しているんじゃないよ、主任。」(村上訳)
小さなことが大事だといいながら、包帯が15ヤードも鼻の中につまっていたと言ってのける。これを「ほら」と言わなくてどうする。ここは、「ほら」と訳した清水の勝ちだ。それと、ここに限らず村上はインチ表示を全部メートル表示に変えて訳している。たしかに日本人には分かりやすいのだが、1インチずつ引っぱり出されるという刻み方は分かるが、数センチずつというのは刻みとしては不適当だろう。15ヤードのペナルティだけは、さすがに村上も13.65メートルとは訳せなかった。13メートルもの包帯が鼻の中に入ってたって?マーロウ、吹いてくれるじゃないか。ただし、清水訳ではテープ(包帯)の長さが分からないから、せっかくのほらが生きてこない。ここは村上の勝ち。イーブンというところか。
調子に乗っているときのチャンドラーは、冗談が多くなる。次の科白もそうだ。
“Noah bought it secondhand.”
「ノアはそれを中古で買ったにちがいない」という、傷だらけの樫材のテーブルを冷やかして言うマーロウの独白が清水訳には抜けている。
小さなことだが、某氏に雇われてマーロウの弁護をしにやってくるエンディコットという弁護士のシガレットケースは銀の打ち出し細工だが、清水訳では銀のシガレットケースになっている。“hammered”が抜けると、のっぺりしたシガレット・ケースをイメージしてしまう。持ち物でその男のイメージがはっきりする。大事にしたいところではないだろうか。
エンディコットがマーロウの言葉に「君は私が嘘を言っているというのか」と気色ばんだとき、マーロウがエンディコットがヴァージニア生まれであったことを思い出して言う次の科白。
“We think of them as the flower of southern chivalry and honor.”
「南部の義侠心と名誉の精華であると、彼らは見なされています。」(村上)
「ヴァージニアの人間は侠気があって名誉を重んずるということを想い出しましたよ。」(清水)
直訳調の村上訳より、清水訳の方がこなれているとは思うのだが、「南部」の一語が抜けているのが惜しい。南北戦争に破れはしたものの、南部の人間には誇りがある。そこをうまくついて相手の気をよくしているのだ。「南部」の一言はほしいところである。
分からないのが、“How ingenuous can a man get.”だ。「たいしたもんじゃないか」(村上)と、「りこうなやり方とはいえないんじゃないか」(清水)という訳になっているが、 “ingenuous”には、「率直な、わだかまりのない」という意味がある。一方、一字ちがいの“ingenious”には、「工夫の才のある」という意味がある。村上訳はなんとも言えないが、清水訳は、こちらととりちがえている可能性がなくもないと考えられるが、どうだろうか。
億万長者のハーラン・ポッターが新聞報道に圧力をかけていると考えたマーロウの言う科白“publicity”を、村上は「報道」、清水は「工作」と訳している。その後に続く“a hundred million dollars can buy a great deal of publicity.”を考えると、「一億ドルもあれば大量の“publicity”を買うことだってできる。」というふうに訳するなら、中に何を入れるのが適当だろう。また、その後に対句として「大量の沈黙だって」が続くが、二人とも、こちらには“a great deal of ”を響かせていない。二つの語句がうまく対句になっていないからではないだろうか。
第6章
ティファナからの帰り道、マーロウはドライブの退屈さを嘆く。そのなかで、夜の港町のロマンティックさと自分の生活を対比させ、次のように語る。
“But Marlowe has to get home and count the spoons.”
清水訳は「だが、マーロウは家へ帰らなければならないのだ。」
村上訳は「しかしマーロウは家に戻ってスプーンの数を勘定しなければならない。」
村上の訳がいかに原文に忠実かが分かるだろう。
“count the spoons”は、客が何かを盗んでいないか確かめるという意味のイディオム。
老女の歌う賛美歌に喩えられる波のうねりのやさしさに比べて、殺伐とした自分の生活を嘆いてみせるマーロウの自嘲的な台詞だ。直訳で、それが分かるかどうかは別として、清水訳では意味が通じないのは明らかである。
帰宅したマーロウを待ち受けていた二人の刑事とのやりとりを描く第六章。
清水訳は、やや端折り気味に見受けられる。
「おさだまりの服をきたおさだまりの二人組で、おさだまりの面倒くさそうな物腰だった。」
村上訳では、最後の部分のあとにこう続く。
「例によって表情というものがなく動作は緩慢だ。自分たちが何か命令するのを、世界中が息を殺して待ち受けていなくてはならんと言わんばかりに。」
おそらく世界中の警官が見せる態度をうまく言い表す、こういう部分を清水氏がなぜカットしたのかが分からない。まさか、警察に気をつかったわけではないだろうが。
警察学校の“passing-out parade”を「犯人選び出し訓練」と訳しているが、村上訳の「卒業行進」が正しい。ただ、直訳すれば「彼らはそれら(冷ややかで尊大な警官の目つき)を警察学校の卒業行進で得る」というのは、警察学校における訓練の結果そういう目つきになるということだから、清水訳も逐語訳でなく意訳ととればまちがってはいない。
マーロウが帰宅したのは深夜の二時である。張り込み中の刑事がマーロウに言う嫌味の“we ain't not to work up an appetite”は、「腹ごなし」(清水)ではなく「食欲を増進させるため」(村上)でないといけない。アメリカの刑事もコーヒーぐらいは飲みたいだろうが、マーロウの家は人気のない場所にある。午前二時では、食べ物を調達できるわけがない。
マーロウは二人の刑事のうち、大学出で司法試験に受かっているデイトンは嫌っているが、年かさのグリーンには好意を持っている。レノックスの妻がはなれで男に会っていたくだりを説明するとき、グリーンは少し顔を赤らめるのだが、それを見逃さない。清水訳はこれをカットしている。後にも出てくる、刑事の中に人間性を見つける大事な部分なのだが。
怒ったデイトンが、マーロウを殴る場面も正確ではない。デイトンは立ちかけたマーロウにまず左フックを、そして次にクロスを見舞っている。清水訳では「みごとなレフトが命中した」だけである。「ベルが鳴ったが、それは夕食を告げるベルではなかった」もカット。「もう一度やろうぜ」の次のデイトンの台詞もおかしい。「いまはかまえができていなかった。手ごたえがなかった」は、“You weren't set that time.It wasn't really kosher. "だが、“kosher "とは、「おきてに適った」の意味で、ボクシングとして正しいやり方でなかったということを言っている。「手ごたえがなかった」のではない。
“Smart work,Billy boy.You gave the man exactly what he wanted.Clam juice.”
グリーン刑事のこの台詞も清水訳では、全然ちがう台詞に変わっている。こうだ。
「なかなかみごとだった。だが、この男はそのくらいのことじゃまいらないぜ。」
村上訳では、次のようになっている。
「やってくれるね。坊や。お前さんはまさにこの男の思うつぼにはまったんだよ。まったくどじ(傍点)なやつだ。」
「どじ」に傍点がついているのは、そこだけが意訳だからだろう。女性ファンも多い村上春樹だ。アメリカ俗語の悪態をそのままは訳せない。
テリ−の行き先を教える気はないかと尋ねるグリーンに好感は持つものの、友だちを裏切る気のないマーロウは、それを拒否し、もう一度デイトンを挑発する。しかし、彼は動かない。それを見てマーロウが思うこと。
“He was a one-shot tough guy.He had to have time out to pat his back.”
この観察も清水訳ではカットされている。“pat one's back”は、背中を軽く叩くことからきたご褒美を意味するイディオム。村上訳では次のようになっている。
「彼はパンチを一発相手に入れたら、タイムをとって、よくやったと自らをねぎらうことを必要とするタイプなのだ。」
パンチ一発でタイムをとるボクサーなどいない。つまり、見かけ倒しのタフガイだった、という意味になるが、原文にあるストレートな物言いと比べるとまわりくどい。
「課長は私を拘引しろと言った。」のあとに続く「手荒くな」というのが清水訳には抜けている。第七章に出てくる殺人科の課長が、どんな人物かを仄めかす言葉なのだが。どうしたわけか、この章では清水訳の欠落が目立つ。特に人物像を際立たせる言葉が目立って削られている。一度しか出ない脇役だが、グリーン刑事は人間味を感じさせる人物として造型されている。それは、他の刑事の何かというとすぐ暴力に訴える無能さや、権力をかさに着た物腰と好一対をなして、マーロウの目に映る。マーロウは単なる警官嫌いではない。それをはっきりさせるためにこういう人物の描き方をしているのだが、清水氏にはあまり重要とは思えなかったのだろう。ハードボイルド小説にはよけいなもののように思え、あえて割愛したのかもしれない。
第5章
さて、第5章である。
最後に飲んでから一月後、朝の五時にテリ−がやってくる。コートに帽子、そして手には拳銃という古いギャング映画のような格好をして。この“Old-fashioned kick-em-in-the teeth gangster movie"もよく分からない。スラングなんだろうが、emはthemだから、「歯の間に奴らを蹴り込め」となる。村上訳では「一昔前の非情なギャング映画」になっている。スラングというのは、時代とともに変化するだろうから、翻訳では手こずるところだ。直接アメリカ人に訊くのがいちばんだろう。
面倒なことになったと切り出すテリーを、マーロウはわざと相手にせず、コーヒーを淹れる。コーヒーメーカーを操るその手順を、まるで料理のレシピ本のようにひとつひとつ詳しく説明する。緊張した雰囲気のときには、ふだん何気なくしていることもいちいち気を入れてしなければならない。なるほど、と思わせる。人間心理をよく知っている。
マーロウはかつて検事局に勤務していた。法律には詳しい。だから、犯罪に巻き込まれるのはご免だ。そうはいいながらも、テリーの話は聞いてやる。大事な部分には決して触れさせることなく。無論読者も同じだ。果たして、妻は死んだのか、テリーに殺されたのか、大事なことは何も分からない仕掛けになっている。マーロウの推測だけを聞かされるのだ。
豚革のスーツケースはここでも出てくる。メキシコに飛ぶために飛行機の出るティファナまで、マーロウはテリーを乗せてゆく。テリーはいやがるが、荷物も持たずに飛行機の乗るのは不自然だと言い聞かせて。荷造りをする間、ウィスキーを飲ませ、そっと眠らせてやるマーロウは、まるで母親のようだ。
清水訳ではティファナがチュアナになっている。ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスがヒットを飛ばしたのは、ずっと後のことになるからか。ティファナは、その頃まだ無名の国境の町だったのだろう。
第4章
第4章は、有名な「夕方、開店したばかりのバーが好きだ。」から始まるレノックスの長台詞で幕を開ける。この台詞を読んで、開けたばかりのバーを訪れたファンも多いにちがいない。もっとも、本にあるように午後四時では勤め人には難しかろう。マーロウのような個人営業主かレノックスのような金持ちにしかできない贅沢かもしれない。
長科白の好きなチャンドラーだが、アフォリズム風の気のきいた警句も見逃せない。たとえば次のような。
「アルコールは恋に似ている」「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ。」
レノックスの饒舌は、彼が人生に深く幻滅を感じていることを匂わせる。最初のうちは輝いて見えるのだ。開けたばかりのバーが、最初のキスが、そうであるように。しかし、早晩色褪せる。バーは、酔っぱらいで溢れ、女たちにも汗の匂いが鼻につくようになる。どんなに素晴らしい出会いも、時がたてばそこには幻滅しか待っていない。
第4章の主題は、きらきら輝いていたものが輝きをうしない、汚れてしまうことに寄せる深い悲しみである。そして、それは『ロング・グッドバイ』という作品の主題でもある。マーロウはしかし、知ったふうに「そうむきになるなよ」とテリーを諫める。聞き役を務めているマーロウには、テリーが自己憐憫に耽りすぎるように感じられたのだろう。「自分のことをしゃべりすぎる」と言って、彼を置いて店を出る。それが彼と飲む最後の晩になってしまうとも知らずに。人も羨むような暮らしぶりでありながら、ケチな探偵風情と待ち合わせて杯を重ねるのをわずかな愉楽にしているレノックスの憂いをマーロウはどこまで理解していたのだろうか。
もう少し話を聞いていれば、とマーロウは何度も悔やむ。しかし、人には口に出せない思いというものがある。それを言ってしまえばもとの関係にはいられない。だから、言葉はその周りを堂々巡りするしかないのだ。
第3章
第3章は、テリ−とシルヴィア・レノックス夫妻の再婚を紹介する新聞の社交欄記事の文体模倣で始まる。彼らの再婚を伝える社交欄の記事を読むマーロウは、かなり腹を立てているがおおよそ事実だろうと考える。その後に、“On the society page they better be"と続くのだが、これがよく分からない。村上は「新聞の社交欄で嘘っぱちを書いたら、ただではすまない。」と訳している。清水訳ではカットされている。基本的な単語ばかりで、短い文の方が、かえって分かりづらい。直訳すれば、「社交欄では、お行儀よくした方がいい」だろうか。
マーロウは、腹をすかせ、酔っぱらっていたころのレノックスの方に好意を抱いている。大金持ちの妻の金で何不自由することのない生活を送るレノックスには、「値札が付いている」ように感じられるからだ。それなのに、誘われると、バーにのこのこついていき、二人でギムレットなどという甘いカクテルを楽しむのである。ヤクザに惹かれる女心のようなもので、堅気の男にはここがよく分からない。『ロング・グッドバイ』は、男の友情を描いていると言われるが、レノックスを前にしたときのマーロウはまるで母性本能をくすぐられて喜ぶ女のように見える。
それは、ともかく、開けたばかりのバーでの二人の会話に登場する有名なギムレットに関する講釈や、マーロウがよだれを垂らしそうになるスポーツ・カーというハードボイルド探偵小説につき物の小道具がにぎやかに登場する、この章は読みでがある。豚革のスーツケースはここでもまた言及されながら、マーロウの家に置かれたままになっている。スーツケースについている金の鍵は、文字通り、この小説の謎を解く「鍵」なのだが。
時間の経過に従って話を進めながら、章の終わりにくると回想表現が混じるスタイルは、これから起きるであろう悲劇を予感させ、読者をはらはらさせながら、それをとどめるすべを持たなかった男の悔恨をにじませるという効果を発揮する。これ以降の作家が踏襲することになるハードボイルド探偵小説お定まりのスタイルである。
第3章で、再会したテリー・レノックスが乗ってきた車がジュピター・ジョウェット。最新流行の英国製スピードスターである。作中では、赤錆色に塗装されている。とくに自動車に関心があるわけではないが、と言いながらもマーロウはかなり熱心に解説を加えている。
「薄手のカンヴァスの屋根。その下には二人の人間がようやく腰を下ろせるだけのスペースしかない。薄緑色の革の内装で、金具一式は見たところ銀製のようだ。とくに自動車に関心があるわけではないが、その車を見ていると口の中にいくらか唾がたまった。」
こんな車で迎えに来られたら、誰だって助手席に乗ることを拒めまい。もちろん、かくいう私だってそうだ。
第2章
マーロウがテリー・レノックスを二度目に見たのがクリスマス前のハリウッド・ブールヴァードだった。彼は何日も食べておらず、ぼろ屑同然の姿で登場する。マーロウは、警官に見とがめられたレノックスをタクシーに乗せて家に連れ帰ろうとする。
タクシー運転手は、メーター料金以上のチップを受け取らず、かつて暮らしたフリスコで自分も辛い目にあったと話す。マーロウは、機械的に「サンフランシスコ」と口にするが、運転手は「俺はフリスコと呼ぶ」と固執する。清水訳では、何の説明もないが、村上訳では、そのあとに「少数民族を尊重しろなんてご託宣は願い下げだね。」と続く。
「フリスコ」は、サンフランシスコの俗称だが、正しい言葉で呼ぼうという運動があったのだろう。聖フランチェスコに由来する街の名を大事にしようというのは旧教を信じるヒスパニックの人々だろう。運転手はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの略、アメリカの主流派)と思われる。
多くの人種が暮らすアメリカでは人種間の軋轢は避けて通れない。上流階級の住む高級住宅地と盛り場を行き来するチャンドラーの作品には多人種への差別意識や偏見が頻出する。マーロウの日本人観にもそれは見て取れる。当時としては仕方がないのかもしれないが、読んでいて気になるところではある。
マーロウは腹をへらしたレノックスをドライブ・インに連れて行くが、清水訳では「うまいハンバーガーを食わせる」店らしいが、村上訳では「犬も食べないというところまではひどくないハンバーガーを出す」店になっている。これは新訳が原文に忠実。二重否定の構文が多いのも忠実に訳すとくどく感じられるところだろう。
さて、ヴェガスに行くレノックスがマーロウの家に置いていくことになる800ドルもする英国製の豚革のスーツケースである。特に訳に問題があるわけではないが、このスーツケースは妙に気になるアイテムである。何かが入ったまま預かっているマーロウにとっても気がかりだが、読者にとっても同じだ。
その来歴を聞かれて、レノックスの答える「ロンドンで人にもらったものだ。シルヴィアに出会うずっと前、大昔の話だよ。」という言葉が、再読時には胸にこたえる。そこに入っていたものが何か、最後まで読み通してはじめて分かるからだ。「読書は再読だ」というのは、ナボコフの言葉だが、映画でも本でも、何度も見返したり読み返したりするたびに新しい発見がある作品がある。そういう作品にめぐりあえるとうれしくなる。
第1章
村上訳の『ロング・グッドバイ』を、久しぶりに再読した。前に出たとき、原書も買っておいたのだが、転勤と重なって、ゆっくり読むことができなかった。旧訳とは照らし合わせて読んだのだが、原書まで手が回らなかった。そこで、今度は、村上訳を読んだ後、原文を読んでみた。
清水訳と比べて、原文に忠実に訳されている村上訳を読んでから、原文を読むと、ほとんどそのまますらすらと読んでいけることに気づいた。ときどき分からないところがあると、それは今の日本の読者には分かりにくかろうと村上春樹が意訳しているところだった。
村上春樹も言っているが、どうして、こんな書き方をしなければならないのだろうと言いたくなるような文章が、ところどころに登場する。もってまわった言い回しに加え、チャンドラー自身もおそらくどこかから引っぱってきたと思われる俗語の多用が、よけいに話をややこしくする。
清水訳では、そういうところをあっさりとカットするか、意訳と言っていいのかどうか疑問になるくらい自由な訳になっている。
たとえば、泥酔したテリー・レノックスに妻のシルヴィアがかける言葉の冷たさを形容して、清水は「娘の態度がアイスクリームのように冷たくなった。」と訳している。これが、村上訳だと、「彼女の舌の上では今や、一匙のアイスクリームだって溶けずに残りそうである。」になる。もちろんこれが原文に沿った訳である。こういう極端な修飾の仕方がレイモンド・チャンドラーの持ち味なのだ。特にシニカルな比喩が大の得意だ。
村上訳が出たおかげで、チャンドラーのスタイルが手にとるように分かるようになった。村上春樹は、原文と清水訳を手許に置きながら何度も読んだという。これからの読者は、村上訳と原書を照らし合わせながら何度も読むのだろう。その時、清水訳もぜひ用意するといい。清水訳の方が、原文に近い訳であることもあるからだ。
たとえば、マーロウの家で目覚めたレノックスが、家に帰るためにタクシーを呼んでくれと頼む。それに対するマーロウの返事。村上訳では、「よければ送ってあげよう」だが、清水訳は、「一台待っている」だ。原文は“You've got one waiting”だから、清水訳の方が原文の雰囲気を残している。こういう洒落た言い回しがチャンドラーを読む愉しさであることを思うと、村上訳は読者に対して親切すぎる嫌いがあるかもしれない。
それは、ハードボイルド探偵小説というジャンルを意識した清水訳と、フィッツジェラルドやヘミングウェイの流れを汲む準古典小説という位置づけを意識した村上訳との差とも言えるだろう。とにかく、そういった点もふくめて、これから、いくつか気になる点を紹介していこうかと考えている。
2012-01-05
『精霊たちの家』 イサベル・アジェンデ
ガルシア=マルケスの『百年の孤独』との類似を論じた評が多いが、『百年の孤独』以後にこの手の物語を書けば、そう言われても仕方あるまい。ただ、首都にある「角の家」の中を歩き回る精霊たちや浮遊する椅子、床を叩いてお告げをする三本脚の机などのアイテムは、ラテン・アメリカというよりもゴシック・ロマンスでお馴染みの愛嬌者たちであって、土俗的な匂いの強いガルシア=マルケスの世界とは微妙に異なる。
語り口もちがう。『百年の孤独』の文体がその後頻繁に叫ばれるようになった「マジック・リアリズム」という名で呼ばれたのは、不思議極まりない出来事を当たり前のように物語るその筆法にあった。『精霊たちの家』の文体はむしろ古典的な物語の文体である。語り手は、椅子ごと浮遊するクラーラの能力を異常なものとして認識しているし、当の本人も「この家の人はみなどことなくおかしい」ことを知っている。つまり、周囲はすべて尋常であるのに、この一家の者だけが異常なのだ。
とはいえ、とても面白い作品であることはまちがいない。何より読みやすい。度々比較するのは作者に失礼だが、『百年の孤独』と比べて奇想のスケールがほどよく、読者がついて行きやすいのだ。物語は国会議員エステーバン・トゥルエバの回想ではじまり、孫娘のアルバの手記で幕を下ろす。主たる登場人物は二人の他にエステーバン・トゥルエバの妻クラーラ、その娘ブランカ、そして双子の兄弟ハイメとニコラス。この物語は老国会議員の回想記の体裁で書かれたクラーラ、ブランカ、アルバという女たちの三代記である。
「マジック・リアリズム」的色彩が強いのは、幼いクラーラの叔父マルコスの遺体が運ばれてくる冒頭部分。『百年の孤独』のメルキアデスを髣髴とさせるこの叔父の聞かせる話やトランクの中に入った神秘的な書物を日々の糧として育ったクラーラは精霊と話ができ未来を予言する能力を持った子どもだった。姉の死後、その許婚であったエステーバン・トゥルエバと結婚したクラーラは日々の出来事をノートに綴る。この物語の素材の多くはクラーラの書きとめた逸話である。今ひとつは話者であるエステーバン・トゥルエバ自身の回想、さらには後にこの物語を仕上げるアルバ自身の記憶。
クラーラというヒロインが魅力に溢れている。美しいだけでなく慈愛に溢れ、誰からも愛されている。しかも主婦としての実務的能力は皆無ときている。精力絶倫でかっとなると銀の握りのステッキを振り回し、あたる物を片端から打ち壊す恐ろしい権力者であるエステーバン・トゥルエバもこの妻にはかなわない。ごりごりの保守主義者ながら努力家でもあるエステーバン・トゥルエバは資産家となり、政治にも手を出す。舞台はチリ。思い出す人もおられようか。社会主義を奉じたアジェンデ政権がアメリカの支援を受けたピノチェト将軍の軍事クウデターによって倒されたあの事件を。
『精霊たちの家』を書いたイサベル・アジェンデは、その、サルバドール・アジェンデ大統領の姪にあたる。クラーラという女主人の存命中は、精霊たちの守護により、幸福感に溢れた一家であったが、クラーラの死とともに政治の季節を迎える。アルバの兄姉とその恋人は、社会主義や共産主義の運動に身を投じ、一家はイデオロギーの対立に翻弄される。クウデター下の虐殺、拷問を描く筆はマジックぬきのリアリズム。前半部分の幸福感を知っているだけに読者は対比的な後半部に胸塞がれる思いを抱くであろう。
エステーバン・トゥルエバがインディオの娘を強姦して産ませた庶子の子、エステーバン・ガルシア大佐は、総じて善意の集団である一家の負の遺産として登場する。フォークナーやドストエフスキーの作中人物を髣髴させるこの男の造型はクラーラ(光)に対する闇であり、天上的な世界に対する地上的な世界でもある。この対比は物語を劇的なものに変化させるだけでなく、文学的虚構をリアルポリティクスに限りなく接近させる。読者はラテン・アメリカ世界の持つ豊潤な文学的香気とともに苛酷な政治状況を否応なく突きつけられ、自分の生きる姿勢さえ問いつめられていることに気づかせられる。そういう意味では読後に一抹の苦味が残る。ジャーナリストでもある作家の一面がそこにある。訳者は木村榮一。極端に改行の少ない文章をよどみなく読ませる見事な訳である。
2011-12-29
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』小澤征爾×村上春樹
考えてみれば、この二人の対談は誰かが思いついてもいいはずであった。村上も自分で書いているが、二人には確かに共通する部分があるからだ。何点かの共通点は、実際に村上の文章で読んでもらうことにして、一つ思い出したのは、どちらも日本で権威があるとされている連中にこっぴどく傷めつけられていながら、ちょうどそれとは反対に海外ではたいそうな評価と好意を得ている点だ。
今の人は知りもしないだろうが、小澤は忘れていない。ちゃんとN響からボイコットを受けたことを口にしている。村上にしても日本文学の権威筋からはかなりバッシングを受けている。はっきりと書いているわけではないが、村上はそうした二人の共通する部分をかなり意識しつつ、このインタビューを持ちかけたにちがいない。
小澤がここまで心を開いて音楽について語ることができたのは、村上に対する信頼があってのことである。たしかにかつてジャズ喫茶のマスターであった村上は自分で言うほど音楽の素人ではない。クラシックにしても、そのレコードコレクションがどれほどのものかは、小澤が驚くほどだ。
ではあるにせよ、演奏家でなく単なる聴き手にすぎない作家相手にずいぶん突っ込んだ話をしているし、最後にはセミナーの会場に同席を許してさえいる。音楽と文学という異なる分野で仕事をしてはいても、互いを理解し合える相手を得たという悦びがインタビューから伝わってくる。音楽について話される内容は勿論のことだが、何よりそういう生き生きした前向きな感動があるのだ。
音楽についてだが、個人的には、大好きなマーラーの交響曲一番第三楽章を聴きながらの対談が素晴らしかった。こちらは本を読んでいるだけなのに、小澤の「とりーら・ヤ・った・たん、とやらなくちゃいけない」というような語り口調がそのままマーラーの曲となって頭の中に響いてくる。音楽について書かれた本を何度も読んだが、こんな経験ははじめてだ。
対談の中で村上が文章を書く方法を音楽から学んだと語っている部分にも感銘を受けた。「文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まない」「でも多くの文芸批評家は、僕の見るところ、そういう部分にあまり目をやりません。文章の精緻さとか、言葉の新しさとか、物語の方向とか、テーマの質とか、手法の面白さなんかを主に取り上げます」。このあたり、かなり手厳しい日本の文芸批評に対する反論になっている。村上はきっと音楽を聴くように自分の作品を読んでくれる批評家を待っているんだ。そう思った。
でも、日本にも村上の良さを分かる批評家はいる。例えば、清水徹が粕谷一希を相手にこう語っている。「普通に書いているようでいて、突然予想外な発展をしていくし、それから文体に魅力というものがある」(『<座談>書物への愛』)。これなど、村上の「しっかりとリズムを作っておいて、そこにコードを載っけて、そこからインプロヴィゼーションを始めるんです。自由に即興をしていくわけです。音楽を作るのと同じ要領で文章を書いていきます」という発言の言い換えのように読める。
村上には小澤の音楽についての話を書き残しておきたいという思いがあったのだろうが、常々作家としての自分の仕事について誰かに心おきなく話しておきたいという気持ちも無意識の裡にあったのではないだろうか。それが、小澤という願ってもない相手と向き合ううちに期せずして顕れ出たのが、このインタビューであったような気がする。まさに、運命の出会いというべきだが、これが小澤の癌を契機として果たされた点が感慨深い。まさに「どんな暗雲の裏も日に輝いている」という英語の表現通りである。




