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marginalia

2018-06-06

『大いなる眠り』註解 第二十六章(1)

《雨は七時には一息ついたが、側溝には水が溢れていた。サンタモニカ通りでは歩道の高さまで水位が上がり、薄い水の幕が縁石を洗っていた。長靴から帽子まで黒光りするゴム引きに身を包んだ交通巡査が、ばしゃばしゃと水を掻き分け、雨宿りしていたびしょ濡れの日除けを出ていくところだった。フルワイダー・ビルディングの狭いロビーに入ろうとしたときゴムの踵が歩道の上で滑った。遠くに明かりがついた電灯がひとつ吊るされ、そのまだ向こうにかつては金色だったろうエレベーターのドアが開いていた。古ぼけたゴムマットの上には、色あせた吐き散らした跡の残る痰壺があった。芥子色の壁に入れ歯のケースが網戸付きポーチの中のヒューズ・ボックスみたいにぶら下っていた。私は帽子を振って雨を落とし、入れ歯ケース横のビルディングの居住者表示板を調べた。名前入りの番号もあれば名無しの番号もある。空き室が多いのか、匿名のままにしておきたい居住者が多いのだろう。無痛歯科、いかさま探偵事務所、そこで死ぬために這い寄ってきた恥知らずで吐き気を催すような商売、鉄道事務員やラジオ技術者、映画の脚本家になる方法を教えてくれる通信講座──もし郵便監察官が先に手を回していなければだが。胸が悪くなるビルディングだ。古い葉巻の吸いさしの臭いが中でいちばん清潔な香りに思える建物だ。

 エレベーターの中で年寄りがひとり居眠りしていた。今にも倒れそうな腰掛に敷かれたクッションから中身がはみ出している。口を開け、血管の浮き出たこめかみが弱い光を受けて輝いている。着ている青い制服の上衣は、馬にひと仕切りの馬房があてがわれる程度には体に合っていた。その下には裾の折り返しがすり切れた灰色のズボン、白い木綿のソックスに黒い子山羊革の靴。片方の靴は外反母趾のところに裂け目が入っていた。腰掛の上で惨めに眠りながら客を待っている。私はそっと前を通り過ぎ、建物の秘密めいた様子に促され、防火扉を探し当てて引き開けた。非常階段はここひと月は掃除されていなかった。浮浪者が寝たり食べたりしていたのだろう、パンのかけらや油じみた新聞紙の切れ端、マッチ、中身を抜かれた模造皮革の札入れが残っていた。落書きされた壁の陰になった隅には青白いゴム袋に入った避妊用リングが落ちたままになっている。とても素敵なビルディングだ。

  私は空気を嗅ごうと四階の廊下に出た。廊下には同じ汚れた痰壺と古ぼけたマット、同じ芥子色の壁、同じ衰微の記憶があった。私は廊下を真っ直ぐ突っ切って角を曲がった。暗い石目ガラスのドアの上に「L・D・ウォルグリーン──保険業」の名前の表示が、二つ目の暗いドアの上にも、明かりがついた三つ目の上にもあった。暗いドアの一つには「入り口」という表示があった。

 明かりのついたドアの上の採光窓が開いていて、そこからハリー・ジョーンズの鋭い鳥のような声が聞こえた。

カニーノ? …いやあ、たしかどこかで会ったことがあるな」

 私は凍りついた。もう一つの声がした。煉瓦の壁の向こうでまわる小型発電機のような重い唸り声だ。「そうだろうと思ってたよ」その声にはかすかに不吉な響きがあった。

 椅子がリノリウムの床をこすり、足音がして、私の上で採光窓が軋んで閉まった。人影が石目ガラスの向こうに映り込んだ。

 私は三つのうちのひとつ目、ウォルグリーンの名前のあるドアまで戻った。用心しながら開けてみた。鍵がかかっていたが、緩んだ枠との間でわずかに動く。古いドアで、当時はぴったりしていたのが半乾きの木材が年経て縮んだのだ。私は財布を出し、運転免許証入れの厚くて硬いセルロイドを抜きとった。警察が見逃している押し込みの商売道具だ。私は手袋をはめ、優しくそっとドアに体を預け、ノブを強く押して枠から離した。広がった隙間にセルロイド板を差し込み、スプリング錠の斜めになった部分を探った。小さな氷柱が折れるような乾いた音がした。私は水の中でくつろいでいる魚のようにじっと動かずにいた。中では何も起きていなかった。私はノブを廻し、暗がりの中にドアを押した。そして開けたときと同じくらい用心深く閉めた。

 明かりのついたカーテンのない長方形の窓が目の前にあり、一部を机が切り取っていた。机の上にカバーのかかったタイプライターが次第に形をとり、それから待合室の金属製のノブが見えた。こちらは鍵がかかってなかった。私は三つ続きの二つ目の部屋に入った。突然、雨が閉まった窓を激しく叩いた。その音に紛れて私は部屋を横切った。明かりのついたオフィスのドアに開いた一インチほどの隙間から光がきれいに扇状に広がっていた。何もかもがひどく都合よかった。私は炉棚の上の猫のように忍び歩きでドアの蝶番の側まで行き、隙間に目を当てたが、見えたのは木の角にあたる光だけだった。》

サンタモニカ通りでは」は<On Santa Monica>。双葉氏は「サンタ・モニカでは」と訳しているが、これでは市の名前になってしまう。マーロウロスアンジェルスにいるわけで、サンタモニカに行ったのではない。「雨宿りしていた」と訳したところは<the shelter>で、双葉氏は「たまり場」と訳しているが、「日除け」<awning>にはただ雨を避けるために入っていただけだ。双葉氏は「雨除け」、村上氏は「天蓋(オーニング)」だ。

「ゴムの踵」は<rubber heels>。両氏とも「靴のゴム底」と訳しているが、普通の紳士靴なら底は革でできている。踵の部分だけゴムになっている靴があるが、マーロウの靴もそれだろう。ゴム底だと<rubber sole>で、スニーカーのような運動靴を思い浮かべてしまう。ちなみに、ビートルズのアルバム『ラバーソウル』は、これに引っ掛けて<Rubber soul>とスペルを変えている。

「もし郵便監察官が先に手を回していなければだが」は<if the postal inspectors didn't catch up with them first.>。ここを双葉氏はカットしている。村上氏は「郵便局の調査官に早々に摘発されなければということだが」と訳している。<catch up with>は「〜に追いつく」という意味だが、「不正を見破る(警察の手が回る)」という意味もある。

「着ている青い制服の上衣は、馬にひと仕切りの馬房があてがわれる程度には体に合っていた」は<He wore a blue uniform coat that fitted him the way a stall fits a horse.>。双葉氏は「青い制服が、厩が馬に合うみたいに、ぴったり似合っていた」と肯定的に訳している。村上氏は逆に「青い制服のコートをまとっていたが、それは、狭い馬房が馬の身体に合っているという程度にしか、身体に合っていなかった」と否定的に訳している。この章でフルワイダー・ビルディングは全否定されているわけだから、ここは皮肉と読むところ。

「片方の靴は外反母趾のところに裂け目が入っていた」は<one of which was slit across a bunion.>。双葉氏は「靴の片方は内側がはじけていた」。村上氏は「靴の片方は瘤になった親指の上で裂けていた」と<bunion>を訳していない。<bunion>は「外反母趾、腱膜瘤」のことで、この頃、耳にすることも多い。村上氏のように読みほどくことも時には必要だが、「外反母趾」くらいはそのままでいいのではないだろうか。

「建物の秘密めいた様子に促され」は<the clandestine air of the building prompting me>。ここも双葉氏はカットしている。村上氏は「私は建物自体のこそこそとした空気に後押しされるように(その前をそっと通り過ぎ)」と、語順を入れ替えている。しかし、<I went past him softly,>(私はそっと前を通り過ぎ)は、前の文の老人のイメージと結びつけられているので、間に次の場面を彩るイメージを挿むのはあまりいい方法とは思えない。

「落書きされた壁の陰になった隅には袋に入った青白いゴムの避妊用リングが落ちたままになっている。とても素敵なビルディングだ」は<In a shadowy angle against the scribbled wall a pouched ring of pale rubber had fallen and had not been disturbed. A very nice building.>。双葉氏はこの二文をまるっきり訳していない。もしかしたら見落としたか。村上訳は「落書きのある壁の陰になった角には、青白いゴムの避妊リングが落ちていた。それを片付けるものもいない。実に心温まるビルディングだ」。<a pouched ring of pale rubber >を「袋に入った青白いゴムの避妊用リング」としたのは、村上訳を参考にした。ビルの悪口を言うのに指輪や輪ゴムを使わないだろうと思ったからだ。

「暗い石目ガラスのドアの上に「L・D・ウォルグリーン──保険業」の名前の表示が、二つ目の暗いドアの上にも、明かりがついた三つ目の上にもあった」は<The name: “ L. D. Walgreen──Insurance,” showed on a dark pebbled glass door, on a second dark door, on a third behind which there was a light.>。双葉氏は「という文字が、暗い曇りガラスのドアについていた。次のドアも暗く、三番目のドアに光が見えた」と訳している。村上氏は「という名前が、暗い磨りガラスのドアの上に見えた。二つ目の暗いドアがあり、三つ目のドアには明かりがついていた」と訳している。

両氏とも、原文が一文であることに留意せず、二文に分けている。そのために、三度繰り返されている<on a>が生きてこない。これは続き部屋のオフィスの場合、同じ持ち主であることを表すために複数のドアに同じ表示を出すことを意味している。三つとも同じだから、原文では二つ目からは「石目ガラス」が抜け、三つ目からは「ドア」さえ消えているのだ。

「石目ガラス」は<pebbled glass>。双葉氏は「曇りガラス」。村上氏は「磨りガラス」としている。<pebbled>は「表面が凸凹した、小石状の」の意味だから、ガラスドアによく用いられる「石目ガラス」で、まちがいないだろう。

「暗いドアの一つには「入り口」という表示があった」は<One of the dark doors said: “Entrance. ”>。双葉氏は「二番目のドアには「入口」という文字があった」と、決めつけている。これは一番目には名前があり、三番目には明かりがついているから、てっきり二番目が入口だと勝手に考えたのだろう。三つとも同じ表示があり、先の二枚のどちらかには、その下に入口と書かれていたのだ。村上氏は「暗いドアのひとつには「入り口」と書かれていた」としている。

「警察が見逃している押し込みの商売道具だ」は<A burglar’s tool the law had forgotten to proscribe.>。村上氏は「当局がうかつにも見逃している窃盗犯の必需品だ」と訳しているが、双葉氏はここもカットしている。どうやらこの章を訳していたとき双葉氏はお疲れだったようだ。これだけ訳されてないところがあることを知れば、村上氏ならずとも、完全な訳がほしくなるのは当然だ。

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