アダム・スミスの二つの「見えざる手」について (補足)

前回のエントリーに対してwhat a dude様からアダム・スミスの国富論についてコメントをいただいた。

アダム・スミスは国富論「労働の賃金について」で労働者と資本家の間の交渉上の地歩の格差について明確に言及しており、労働市場にワルラス的な均衡が必ずしも成り立たないことは確実に認識していたと思われます。

筆者もまったく同意見であり、この点は前回のエントリーで書き足りなかった部分なので少し補足したい。


アダム・スミスの著書とその考察にはその時代の社会様相が良く考察されており、上記の労働者と資本家の関係のような現実社会を見れば分かる関係についてもきちんと考察されている。 (国富論の原題は 「諸国民の富の性質と原因の研究」であり、そういった現実に対する考察が主題とも言える。)


その上でよく引用される「「われわれが食事をできるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである」というのは、「万民が利己的に利益を追求すべきである」という理論ではなくて、「利己的であったとしても市場は十分に機能する」という観察あるいは仮説に過ぎないのではないだろうか。 


つまり市場全体を計画しているものが存在しない状況でも一定の効率性をもって経済が動いている現実を叙述する仮説であり、人間がその様に(利己的に)行動すべきだという事を述べているわけではないというのが筆者の理解である。 その点でもやはり進化論に似ている(or 進化論が似ている)。


その上でアダムスミスは

「巨大な幻想的物欲を持つ」地主が独占的な地位を背景に貧しい使用人の労働を強いていたとしても、それが土地の耕作や技術の改良などの経済の推進に繋がるのであれば「胃の能力」の限界から、結局は「見えざる手」に導かれるように「大地がそのすべての住民のあいだで平等に分割されていたばあいに、なされただろうのとほぼ同一の、生活必需品の分配をおこなわれる」

と考察し、よって政府による市場への関与は不必要であり最低限に留まるべきとの意見に到達したと考えられるが、この部分は時代が産業革命以前であったことや、重農主義の影響を受けていたことも考慮する必要があるだろう。


いずれにしろアダム・スミスの仮説を新自由主義にみられるような市場原理主義に発展させたのはそのフォロワー達であろう。

フォロワー達はアダム・スミスが国富論で提示した「見えざる手」を「自然の法典」と捉え、それに従うことが神の摂理であるかのように主張するが、道徳感情論で提示したもう一方の「見えざる手」についてはほぼ無視しているように見える。 これは文字通り「片○落ち」の議論ではないだろうか?