2010.09.04
「1」の嘘
オリジナルに対するコピーは、価値の点で絶対に劣るという表現は、根本的に異なった性質を持つ二つの存在を、片方のみの価値基準で解釈している誤謬を無視しているからこそ成立する、不正確な表現だといえます。
例えば、「モナリザ」は、この世に1点しか存在しない美術品として、大きな価値を持っています。そして、その複製とされる画集やネット上にある画像などは、一般に入手が用意であり、その1点1点の持つ価値は、相対的に低いとされています。
しかし、複製された者の存在価値は、その1点ごとにあるのではありません。1000人が買った画集は、「モナリザ」という美術品を1000人(以上)の人に知らしめたということで価値を生じています。
また、ネット上にアップロードされた「モナリザ」の画像は、ネットにアクセスできる人の全員に対して、視覚情報へのアクセスの可能性を提供することで、計り知れない価値を持っているのです。
オリジナルの「モナリザ」がただ1点で美術品としての大きな価値を持っているのは、公開の時間と空間が限定され、アクセスの機会が大幅に減じることで、1点の美術品としての高い価値を持つことになっているといえるでしょう。
つまり複製という存在は、その画集1冊、あるいは画像1枚でその価値を計られるべきではないのです。
細菌やウイルスは、個体としては脆弱で1個体ではそもそも人間の目に認識すらできません。しかし、増殖を重ねることではじめてその存在を露にするように、複製は、「複製された存在の集合体」を1つの単位として、はじめてその根本的な存在意義と価値を認識することができるのだといえます。
「個人」と「日本国民」の価値を同列で語ることができないように、「オリジナル」と「複製」も、同列で語ることはできないのです。
2010.08.28
網膜ディスプレイに未来を見る
人間の感覚器官は、いわゆる五感(視覚/聴覚/嗅覚/味覚/触覚)のどれであろうとも、(1)感覚器官で情報を受信する→(2)神経の電位変化によって脳に伝送する→(3)脳で情報を解析するという順番で「知覚」します。
現状では、人間が近くを行うのには外部からの刺激(情報伝達)を各感覚器官で受信し、上記のプロセスをへて近くを行っている訳ですが、将来的には、(1)あるいは(2)の部分の省略がなされるようになってもおかしくないし、そのような状態を想定して描かれているSFもいくつも存在しています(フィリップ・K・ディック「 アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
」など)
この網膜ディスプレイ、テクノロジーが(1)(2)のプロセスの省略へと一歩近づいたと言えるでしょう。つまり、今まではコンピューター内の情報は物理的にディスプレイに投影され、人間はディスプレイに写し出された映像を空気と光を介してから眼球で知覚し、やっと(1)のプロセスへと到達していたわけですから。人間の目とディスプレイが例えば50cm程度離れているものだとしたら、この技術は、それをほんの数センチにまで近づけたものだと言えるでしょう。
この技術は今後機器の小型化と投影解像度の高解像度化を進ませることになると思います。ある程度小型・軽量化が進んで投影できる解像度も上がったら、間違いなく軍事・治安維持目的に利用されることになるでしょう。そして、もしかしたら将来的に、極度の近視や乱視の矯正をする為の技術として応用される可能性もあります。
近視や乱視は網膜に適切に映像を投影しない為に起こるものです。だから、あらかじめ網膜に投影するべき映像のズレのパターンを解析してモジュール内にインプットしておけば、そのズレのパターンを修正して画像を網膜内に投影することも可能となるといえます。
問題は、どのように目に入ってくる生の光をシャットアウトするか、でしょう。この段階の技術だと、外の景色は透けて見えているみたいなので。サングラスのような形で目を覆ってシャットアウトすることになるのかもしれません。もしかしたら、アニメ「装甲騎兵ボトムズ」の主人公キリコが装着しているようなゴーグル型になるのかも知れません。そうなると、一般人が使うには少し難しいかもしれません。「私は極度の近視です」とアピールしているようなものですから。
しかしそれでも、攻殻機動隊の世界が、また少し近づいたといえるのではないでしょうか。
2010.08.14
本当に格好良いデザイン
ある生徒が、「デザインされたインテリアには生活感がない」と言ったことがあります。
たしかにまあ、これは一応理解できることだといえます。おそらくは、「デザインホテル(Nikkei Net)」のようなものをイメージして、「デザインされたインテリア」と言ったのでしょうから。
確かに世間一般的に見て、このような「豪華で」「非日常的な」デザインがされたものが「デザイン的」と言われているという事実は、確かに否定できないといえます。しかし、このようなホテルはあくまでも「非日常の提供」ということが運営コンセプトの中心となっているはずのもので、このようなものを「デザインされたインテリア」と言ってしまうのは、あまりにも一面的な見方だと言わざるをえません。
現代で生活を送っている限り、我々はかなり多くの「デザインされた」ものに囲まれています。お金を出して買ったもののほとんどは、デザインされたものである、と言ってもいいでしょう。例えば、今私の周囲にあるものを挙げていくだけでも、相当のものがデザインされています。コンピューター、携帯電話、DVD、バインダー、ファイル、コンポ......。
その中でも、私が受験生に対していつも、優れたデザインの例として挙げているのが、窓の錠(クレセント錠)のデザインです。
居住空間でもそれ以外の空間でも、窓のあるたいていの空間に、それは存在します。いつも見慣れてしまっているから、これが優れたものであるとは敢えて思わないかもしれませんが、しかし、どこにでもある、ということは、それ自体で優れていることの証明でもあるのです。
例えば音楽などとは違って、クレセント錠は、極めて実用的なものです。江戸時代のような「宵越しの金は持たない」時代とは異なり、現代は誰もがある程度の財産を住居内に有している時代であり、それに対する接触を拒むために他人を締め出す必要性が、常に生じています。そのことを考えれば、クレセント錠は、現代人にとって不可欠なものであると言えます。
さて、このクレセント錠。形は曲線をベースにしたモノや直線をベースにしたものなど、様々にデザインされています。しかし、その基本的な機構、「半回転させることにより、窓を閉め込む」という錠前としての一番本質的な部分は、変わることが殆どありません。つまり、クレセント錠の本質は、「半回転させることにより、窓を閉め込む」という機構それ自体にあるのです。
この「半回転させることにより、窓を閉め込む」という機構こそが、もっとも優れたデザインである、といえるものでしょう。デザインというと、視覚的な要素だけに注目してしまいがちですが、実のところ、そのような機能的な部分、つまり、「形になっていない部分」と切り離すことは不可能だといえます。
窓の錠はどこにでもあり、そのほとんどはクレセント錠です。そして、クレセント錠の基本的な機構は、どのような形につくられていても、変化していません。優れた本質を持っているからこそ、実用の世界でこれだけ普及し、普及して当たり前の存在になってしまっているからこそ、敢えて注目されることがなくなってしまっているといえます。
このような「優れたデザイン」要素を持った存在は、身の周りにいくらでもある。ネクタイ、ボタン、鉄条網、電卓、ゲーム機のコントローラ、再生ボタン(▲の45度回転したもの)や停止ボタン(■)のマーク、非常口のマークや郵便局のマークなど、数え上げていったらきりがありません。
しかし、私はそのようなものこそ、注目するべきだと思います。クレセント錠のデザインを一番最初にやった人間のことを、果たして、どれだけの人が知っているのでしょうか?あるいは、「デザイナー」として自分を名前をだして大々的にデザインを行った人間のデザインの、どれだけのものが数十年経っても残り続けているだろうかを、考えてみるのもいいでしょう。
クレセント錠のデザインを最初に行った人間は、恐らくもうこの世にいないでしょう。ところが、クレセント錠という、その人間が作り出した「優れた本質部分」は今でも残り、多くの人々の中で息づいています。
私はそのようなデザインができるデザイナーを、本当に格好良い存在だと思っているのです。
2010.07.31
パトロンがいなければ立っていられないのか
アートや音楽というのは、生物学的に、つまりは、生きていくのに必要不可欠だ、という性質をもつものではありません。
この数年世界中の経済に大きく影響を与えているサブプライムローンやリーマン・ショック問題を景気にした経済不況は、明らかにアートの世界にも波及しています。
それ以前の経済的活況の中でしっかりとした必要性がないままに膨らんできた仮想の「資産」は、その行き先を求めて、当然のように生きていくのに明確な必要性をもたないもの、つまりはアートの世界にも流れ込んできていました。
私の教え子の中にも、大学在学中など、若くしてその作品が注目され、バックに「資金源」がつき始めていた若きアーティストたちがいました。
しかし、その中の一人が、どうやら急速に縮小した「資金源」の恩恵を具体的に受ける前に、無残にも打ち捨てられてしまったらしいのです。その人は、自分たちが生きていく目的としていたものの本質を、きちんと見抜けなかったのでしょうか?「資金源」が、若きアーティストたちに「資金」を提供する(経済的援助をしたり作品を購入する)理由は、多くの場合、非常に単純なのです。
「儲かるから」。
ただ、それだけなのです。非常に残念なことではありますが。
多くの「資金源」は、アーティストの作家としての成熟を求めて、「資金」を提供してくれるわけではありません。若ければ若いほど、安く買いたたける。そして、その作品の価値が、後になって高く上がることを期待するわけです。
もちろん、作品の価値はただ待っていても高く上がるものでもないし、その作家のアーティスト性の成熟を温かい目で見守ってやる程、「資金源」はお人好しではありません。だから、少しでも早く注入した「資金」の回収するという最低限の目的を果たし、投資した「資金」の価値を少しでも大きくして最大限の利益を上げるために、人為的にその価値を高める努力をするわけです。
いわゆるプロモーションです。
実際のところ、プロモーションにおいて大切なのは、バックアップする「商品」が本質的に価値を持っているかどうかではないのです。大切なのは、「価値があると錯覚させる」ことになってきます。「価値があると錯覚させる」ことが出来れば、それに飛びつく先見の明の無い人たちがたくさん出てきます。そういう人たちがその作品の錯覚の価値と本質的な価値のギャップの大きさに気づく前に少しでも高く売りつけてしまえば、それで事足りてしまうのです。つまり、「儲かる」わけですから。
美術の歴史を俯瞰的に眺めてみればすぐ気づくことですが、美術は、常に時代性とともに存在しています。
文化の出発地点である原始時代においての時代性は「呪術による利益の追求」であり、アートは、そこに端を発したと云えます。
やがて呪術が熟成し、そこに論理と社会性と物語性が付加されると、こんどはそれが「宗教」となり、これはやはりアートの強力な後ろ盾となりました。宗教は、みずからが広めようとする教理と物語に登場する場面や人物たちを具現化させ、民衆たちを常に惹き付けておく手段の一つとして、色と形をより効果的に扱うことの出来る技術(=アート)を持つ人たちに、制作を依頼していったのです。
そして、武力による社会統制がなされればアートは武力による後ろ盾を得て成長し、商人たちの経済力が大きな力を持ち始めると、アートはやはり、商人たちによる経済的な後ろ盾を得て、日々の糧を得るようになっていきました。そして、ちょっと前までの現代においてのアートの後ろ盾は、「信用の世界(投資)」だったのです。
作品や商品が本来持っている価値ではなく、錯覚により「信用を創造」し、より大きな価値を付加するやり方は、既に時代遅れとなりつつあります。これから先のアートの世界の住人は、「信用」により際限なく膨らむことを憶えた「資金」の実態が見えてしまった今、次の後ろ盾を困惑した面持ちで、今後探していくことになるでしょう(その実態が見えていないのだとしたら、そのような「アーティスト」は、ただ淘汰されるだけだといえます)。
しかし私としては、そろそろ永らく続いてきたアート界のパトロン体質に対して根本的に疑問を持ち、そこから抜け出ることを試行錯誤する人間が、今後出てくることを期待したいのです。パトロン体質を続けている限り、「アートは生物学的に必要な存在ではない」という言葉の強さには、いつまで経っても勝つことはできないでしょう。残念ながら。
しかし、現代のパトロン体質の最たるものであった「資金源」の犠牲となってしまった人間がいる一方で、危ういところでその頸城から自らの意志で脱出した人間や、そのような世界を嫌い、徹底的に自らの意思で創作活動を行っている作家も私は知っています。
アートは生物学的に必要な存在ではありません。しかし、人間はただ、生物学的に生きていくだけの存在ではないのです。だからこそ、「文化」が生じ、人間は他の生き物とは大きく異なった「万物の霊長」としての存在感を持っているのです。
そのことを強く自覚し、自分の足でしっかりと足元を踏みしめてアートの世界を生きていくことを、未来のアーティスト達には期待したいと思っています。
2010.07.27
アメリカの高校教師の作成した秀逸な iPod CM
アメリカに住む36歳の高校教師がプライベートに作成した Apple 社の iPod の CM が好評を博している(Hot Wired Japan 2004.12.16)、という記事が出ていたことがあります。
この CM の作成者は「完成したCMを公開したのは反応を知りたかった。これを見て自分を採用したい企業があれば、どんな申し出も検討するつもり(Hot Wired Japan よりの引用)」と、発言をしたようです。
しかし、この高校教師は Apple 社の iPod
を好きだからこそ、このような素晴らしい CM を作れたわけです。プロの職業デザイナーとして CM を作るというのは、商品を愛することとイコールではありません。たとえ自分の気に入らない商品でも、その良さを最大限に引き出して大衆に訴えかける CM を作ることができるかどうかで、プロと呼べるか、単なるアマチュアかが分かれるのではないでしょうか。ですから、この高校教師がかりに CM 制作会社に就職したとして、それでうまくいくとは正直思えないのです。
私の教え子の中でも、既に美大を卒業している人たちも多いのですが、その中でいったん就職したのに「自分の好きなことができない」という理由ですぐに職を変えようとしている人たちがいます。しかし、この考え方は、大きく間違っているといえます。
美術業界の中で「プロ」と見なされたいのなら、自分の気に入らない素材を料理して、最大限の価値を付加できるだけの実力を持つことが必要です。ただ単に自分のやりたいことだけをやって金をもらおうなんて、非常にムシのいい考えです。「自分の好きなことができない」という理由で仕事を辞めようとするのは、精神的にアマチュア(=素人よりマシな程度)であるとみなされても、文句はいえないでしょう。「プロ」と見なされたいのなら、気に入らない仕事の中に自分にしか見いだすことのできない価値を見つけ、それを仕事に反映させることが必須です。そういう意味では、美術業界の中で生きている人間の中で、まだアマチュアとしてしか見なされない程度の精神レベルの人たちがまだまだたくさん存在しているといえるでしょう。
英語で「職業」を表す言葉として、 "profession(プロフェッション)" が存在します。将来の自分をイメージして美術の世界を目指しているのでしょうから、将来は「プロフェッション」として美術に関わる仕事をこなしていくはずです。「プロ」というのが、決して「自分の好きなことをやる」という意味ではないことをしっかり自覚して、受験生たちには美大受験を乗り切ってほしいと思っています。

