ルーン川のほとりで

2018-05-26 レイモンド・ウィリアムズ研究会(2018/6/2)

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2018-01-08 ウィリアムズ『辺境』の訳者解説

 レイモンド・ウィリアムズ『辺境』(小野寺健訳、講談社1972年)。書架から取り出して訳者解説を謹んで再読。味わい深い、平易な文章で、ウィリアムズの小説の急所が的確に語られている。

 そのなかに小野寺先生ご自身の少年時代の非常に印象的な回想が挟み込まれている。以下、引用する。

戦争の末期に中学生だった私は、農村動員で横浜近郊の農家に泊まりこんで、農作業を手伝ったことがある。

 その一軒の農家の老人が、畑仕事の休みに煙管(きせる)で煙草を喫(す)う姿を見るたびに味わった恍惚感を、私はいまでも忘れられない。その人は実においしそうに煙草を喫った。煙草に浸りきって何も見えないような風情だった。以来、私はこんな風に煙草を喫う人に、こんな休息のとり方をする人に出会ったことがない。傍に腰をおろしていた少年の私までその雰囲気に陶然と酔って、いつまでも喫っていてくれるようにと祈ったくらいだった。どうすれば何かをそんな風に楽しめるのか教えてください、と言いたいくらいだった。それが農民生活のリズムに根ざしているのだということなどは、当時の私には思いつけるはずもなかった。彼の鍬の使い方も、その息子さんだった三十がらみの人のそれとは違って、思えばこの煙草の喫い方と一致していたのである。

 訳者がこの老人の立ちふるまいを強く心に留めているのは、言われているように、その後の人生で見かけなくなった姿であるからだ。その姿は、『辺境』の小説世界でいえば、主人公マシュープライス父親であるジャック・プライスの居住まい・佇まいと重なる。たしかにこの小説でも「こういう感覚はジャック・プライスで終っている。そして人間は、この時、たしかに何か大きな体験をその文化の中から失ったのに違いない。」

 近代の英国小説においてはこうした文化の残滓をハーディやロレンスの作品世界に見ることができる。「田園を破壊する憎むべき敵」としての産業化の批判と抵抗――その「伝統」をウィリアムズもまたロレンス経由で継承しているといってまちがいないだろう。

 だがそこを見るだけでは、つまり、ある体験の喪失を強調するだけでは、ウィリアムズの小説の勘所を捉えそこねてしまう。そこをしっかりと読み取ったうえで、小野寺先生はつぎのように指摘しておられる。

しかし、ウィリアムズは産業化を告発して田園を愛惜するところで立ち止まってはいない。『辺境』のさいごのシーン、ロンドンパディントン駅に帰りついたウィルが、あわただしく地下鉄に向って歩いて行く群衆の中を急いで行くところは、ウィルがもはや現実となった「近代社会」と何とか対決しようとしている決意を思わせる。その決意は今のところ暗く悲壮である。しかし辺境のグリンモーからかつて都会へ出て来た彼は、こんどはその都会の生活そのものが新たな辺境であることを自覚し、その辺境文化の中から価値あるものを建設するほかに道はないと思っているように見える。(小野寺健「『辺境』解説」)

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2016-08-19 スポーツ精神

 ロシアサッカーの名門ディナモ・モスクワ英国に遠征したのは第二次世界大戦終結後まもない1945年秋のことだった。UEFA欧州サッカー連盟設立の9年前で、英国では海外のクラブとの対戦は親善試合でさえも珍しく、開催された4試合とも満員の大観衆を集めた。対戦相手と結果は(試合順でいうと)チェルシーと3-3のドロー、カーディフ・シティに10-1の大勝、アーセナルに4-3で勝利グラスゴー・レンジャーズと2-2のドローだった。対戦前の予想ではサッカーの「母国」の名門クラブと共産国の「アマチュア」クラブとでは比較にならないだろうといった、強気というか楽観的な記事が散見されたが、ソ連リーグでこの年優勝を遂げたディナモは、華麗なパスサッカーと流動的なポジションチェンジの戦術を駆使し、一敗もすることなくモスクワに凱旋帰国した。英国サッカー界は面目をつぶした。

 それからまもなく、作家のジョージ・オーウェルが「スポーツ精神」(The Sporting Spirit)というエッセイを『トリビューン』紙に寄稿した(1945年12月14日号)。冒頭にこうある。

 ディナモフットボールチームの短い訪問が終わったので、ディナモがやってくる前に多くの思慮深い人びとが内輪で話していたことを公表してもよかろう。すなわち、スポーツというのは必ず敵意のもとになるということ、今回のような訪問が英ソ関係に何らかの影響をおよぼすとしたら、以前よりもいささか悪化させることにしかならない、ということだ。

 オーウェル自身は観戦しなかったようだが、右の見解を裏付けるのに、アーセナル戦では乱闘があって審判がブーイングを受けたこと、グラスゴーでは最初からつかみ合いの乱闘だったという伝聞を記す。じっさい、前者の試合は濃霧で視界がきかず中止にしたほうがよい状況だったのをソ連の審判(ディナモ側の要求でこのゲームはソ連の主審が笛を吹いた)の判断で決行、ラフプレーアーセナルの選手が退場処分を受けたのだが、霧に紛れて退場せずしばらくプレイしつづけたとか、およそ20分間ディナモ側がピッチ上に12人いたとか(途中交代の行き違いだったと説明されるが)、はたまたソ連の主審が英国人副審二人を片側のサイドに配置して別サイドを自分で兼任した(そうすることでオフサイドを黙認してディナモ勝利演出した)とか、冗談のような挿話が残っている。

 オーウェルはつづけて「いかにもこのナショナリズムの時代らしく、アーセナルロシア人の主張するようにイングランド代表チームだったのか、あるいは英国人の主張するようにクラブチームにすぎなかったのか……例によってだれもが自分の政治的先入観に従って答えを出している」という。これも補注を入れるなら、この時期は従軍した選手がまだ全員復員しておらず、チェルシーアーセナルも戦力不足を補うために急遽他のクラブから何人か助っ人を確保して対戦した。アーセナルブラックプールからスタン・モーテンセンストーク・シティからスタンリー・マシューズを呼んだ。それでこれはクラブチームでなくてイングランド代表ではないかという見方が出たわけだが、じつはディナモのほうもこの年ソ連リーグの得点王となったフセヴォロド・ボブロフをCDKAモスクワ(現CSKAモスクワ)から借り受けて出場させていたので、混成チームであるのは同様だった。

 ともかくディナモの遠征は、何らかの結果をもたらしたとするなら、双方に「新たな憎悪」を生み出したというのがオーウェルの見解だ。

それも当然のことだ。スポーツは諸国民のあいだに友好の念を生むとか、各国の庶民サッカークリケットをやれば戦場で相まみえる気がなくなるだろう、などと人が言うのを聞くと、わたしはいつも呆れかえってしまう。……国際的なレヴェルではスポーツはまぎれもなく疑似戦争なのである。

 「スポーツ精神」というタイトルからしてそうだが、これはいかにもオーウェルらしい挑発的なエッセイで、思惑どおりというべきか、直後に読者から怒りを含む反論の投書が寄せられ、しばし同紙で論争がつづいた。

 わたし自身、40年来サッカーに格別の愛着をいだいてきた者として、「スポーツ精神」のこのひたすら否定的な定義に若干の戸惑いを 覚えるのはたしかだ。それでも、近代スポーツとナショナリズムとの密接な関係を考えてみるなら、国威高揚、ショーヴィニズムの鼓舞、あるいは支配者による国民の馴致などのためにスポーツが利用されてきた事例は枚挙にいとまがないわけであり、そうした歴史を顧みずに「スポーツ精神」を無条件に理想化するのは無邪気にすぎる。その点でオーウェルの近代スポーツ観は一種の解毒剤として有用であると思う。

 スポーツを語る言葉に戦争の比喩が多用されることは「疑似戦争」としてのスポーツという位置づけを裏書きする。「アジアの大砲」だとか「アジアの核弾頭」といった表現がサッカージャーナリズムで頻出するようになったのはいつごろだったか。今回の〔2014年ブラジルワールドカップの準々決勝、ブラジルコロンビア戦の前日にネイマールはインタビューに答えて、「また戦争のような試合になる。それでも勝つのはブラジルだ」と言い切った(『日刊スポーツ2014年7月4日付)。たしかに戦争のようになって、今大会最大の華は散った(注1)。

 その数日前、決勝トーナメントのたけなわに、日本では戦争に一歩踏み出す方向に舵が切られた(注2)。「スポーツ精神」が発揮されて、と言うべきだろうか。

(en-taxi vol.42 Summer 2014より転載。一部語句修正)


注1 ネイマールは試合終了間際にコロンビア選手の悪質なファールによって腰椎を骨折、ブラジルは準々決勝を勝ち抜いたものの、ネイマールを欠く準決勝(2014年7月8日)でドイツに1-7と大敗した。この敗戦は競技場(「戦場」というべきか)の名にちなんで「ミネイロンの惨劇」と称される。

注2  2014年7月1日、安倍自公政権は従来の政府憲法解釈を覆し、集団的自衛権行使容認する閣議決定をおこなった。

*以下はディナモモスクワ英国遠征と対アーセナル戦を伝えるソ連のニュース映画

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2016-06-20 Prof. Keith Hanley特別講演

日本女子大学文学部文学研究科学術交流企画/一般財団法人ラスキン文庫(共催)

John Ruskin and Cultural Tourism

A Special Lecture by Prof. Keith Hanley (Lancaster University)

 chaired by Prof. Yasuo Kawabata (Japan Women’s University)

 日時:2016 年7月2日(土)14:00〜16:30

 会場:日本女子大学目白キャンパス 新泉山館2階会議室

    〒112-8681 東京都文京区 目白台2-8-1

    TEL:03-5981-3554(川端康雄研究室)

 使用言語:英語のみ(同時通訳はありません)

 *入場無料

 *日本女子大学へのアクセス http://www.jwu.ac.jp/grp/access.html

  キャンパスマップ http://www.jwu.ac.jp/unv/about/campusmap.html

 *問合先:川端康雄 ykawabata@fc.jwu.ac.jp

本講演では、イギリス19世紀の批評家ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)が生涯に行った旅行(国内旅行および大陸旅行)に注目し、その作品(著作に加えて素描、スケッチなども含めた作品)を「文化観光」の視点から再検討します。ランカスター大学のキース・ハンリー教授はこの分野での代表的な研究者であり、John Ruskin's Romantic Tours 1837-38 (2008), Journeys of a Lifetime: Ruskin's Continental Tours (共著、2008)をはじめ、このテーマに関わる重要な著作をいくつか出しておられます。どうぞふるってご参加下さい。

2015-10-04 「奴らを通すな!」 1936年10月4日の「ノーパサラン!」

 79年前の1936年10月4日も日曜日だった。その日、ファシズムに対抗する重要な出来事がイギリスであった。場所はロンドンのイースト・エンド、労働者階級の居住地区で、移民労働者、特にユダヤ人が多く住む。そこにオズワルド・モーズリー率いる英国ファシスト連合(BUF)が反ユダヤ人デモを企画、2千〜3千人規模でホワイトチャペルから行進を始めたところ、それを阻止しようとしておよそ10万人の人びと(ユダヤ人やアイルランド人を含む地域住民、社会主義者コミュニストアナキストら、30万人という説もある)が街頭に出て、バリケードを築き、「ノーパサラン!」をスローガンにBUFと警官隊に対抗した。

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 上の写真(Tower Hamlets Archive picture)は当日のガーディナーズ・コーナー。BUFの隊列がホワイトチャペル大通りに侵入しようとするのを群衆が阻んでいる。この時警官隊が治安維持のために6千人規模で出動していたが、地域住民を守るためというよりは、「合法的」なBUFのデモのためにバリケードを解除してファシストを通してやるためだった。通りに住む家々から女たちはゴミ芥や腐った野菜や糞尿を警官隊に投げつけて抗議した。モーズリーとBUFの隊列はデモを強行しようとしたが、ケーブル・ストリートで最も激しい抵抗にあって結局撤退した。


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 ケーブル・ストリートの一角には、反ファシズム行動のこの歴史的勝利を記念した壁画が制作され、いまも見ることができる。ロンドン、タワー・ハムレット区、シャドウェル駅を降りて西に少し歩くと、タウンホールの西側の壁面にこれが描かれているのが目に入る。この歴史画をここに描くことが区議会で認められ、完成したのは1982年のことだった。極右団体のいやがらせで壁画が傷つけられることが再三あったが、住民の寄付と区の予算によって修復と保護の費用がまかなわれている。この「コミュニティアート」の重要な作例について横山千晶はこう述べている。

 《ケーブル・ストリートの戦い》は、描かれている壁面が平面とは思えないほど立体感と動きと喧騒に満ちた作品である。現在この壁画芸術作品として評価されるだけでなく、間違いなく町のひとつの顔であり、町の歴史の語り部でもある。だからこそこれを守ることは町の義務となる。2007年7月、地元住民からの壁画保全の要望を受け、審議を重ねた結果、同議会は2008年1月に「ケーブル・ストリートの壁画パブリックアート)の維持と保全のため、8万ポンドを計上する」ことを決定した。(横山千晶「芸術とコミュニティ」『愛と戦いのイギリス文化史1951-2010年』慶應義塾大学出版会、2011年、87頁)

 「ノーパサラン!」(¡No Pasarán!)というスペイン語スローガンは、同年の1936年7月にスペインの反ファシストの指導者で伝説的な女性闘士「ラ・パッショナリア」(「情熱の花」=「トケイソウ」)ことドローレス・イバルリ・ゴメスバルセロナファシストの反乱軍との戦いにむけて連帯を呼びかける演説に出てくる。その語句がふくまれるくだりは以下のとおり。

私たちはとりわけあなた方に、労働者農民知識人に呼びかける。共和国の敵、人民自由の敵をついに打ち破るための戦いにむけ、自分の持ち場に着こうではないか。人民戦線よ、永遠なれ! 反ファシストの連帯よ、永遠なれ! 人民共和国よ、永遠なれ! ファシストどもは通さぬ! ノーパサラン!(奴らを通すな!) (1936年7月19日)

 この「ノーパサラン!」がスペイン内戦中の共和国側のスローガンとなった。そして早くもこれが発せられた3カ月後にイギリスでのアンティファ運動で引用されたわけだ。「ケーブル・ストリートの戦い」はスペイン反ファシズム運動に連なるアクションとして自覚的に戦われたことがこのスローガンに示されている。

 数日前、毎日新聞神奈川版に「記者のきもち:ノーパサラン」という記事が掲載されていた。今年9月16日に新横浜でおこなわれた安保法案に関する参院特別委員会の地方公聴会の会場で、法案に反対するデモの参加者の一部がこのスローガンを叫んでいるのを聞いて、記者は違和感を覚えたらしい。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性が、困惑の表情を浮かべていた。「何という意味ですか」。尋ねられた私も分からない。インターネットで検索し、「やつらを通すな」という意味のスペイン語らしいと知った。/デモを否定するつもりはないが、意味が通じる仲間による仲間に向けた大合唱に、近寄りがたさを感じた。「法案反対」に共感するデモの参加者にさえ理解できない言葉が、遠巻きに眺める人々の心に届くのかと疑問を抱いた。/2時間後。異様な熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」の連呼が、法案について考えてみようとする人の機会を奪う「通せんぼ」にならなかったか。地道な活動を続ける人たちを前に思った。【水戸健一】(毎日新聞 2015年10月01日 地方版、Web版より)

 「ノーパサラン!」の標語をそれまで知らなかったと書くのは素直ではあるが、新聞記者としてはリテラシーが低すぎると言わざるをえない。またこの語を知らずに「困惑」する参加者の一人を選択して記者自身の違和感を投影させ、それを一般化して、「地道な活動を続ける人たち」とこの標語を使う人たちを分断し、後者を内輪の大合唱として否定する論法は乱暴で、大いに問題があると思う。

 日本でも「ノーパサラン!」は近年アンティファ(ファシズムへのカウンター)運動などで標語として使われてきたが、何よりも今年になってSEALDsの多様なコールのレパートリーのひとつとして、国会前で、また各地でこれを多くの人びとが聞き、また唱えることで広く普及したといえる。私が居合わせて見たかぎりでいうと、初夏から真夏へと国会前の抗議集会やデモの参加者が回を追うごとに増えていった際に、「ノーパサラン!」のコールは、“Tell me what democracy looks like!”などと同様に、コーラーがメガホンで唱えたときに特に年配の方々で意味がわからず唱和できない人が確かに見受けられた。「ねえ、なんて言ってる?」「わかんないねー、なんだろー」

 しかしこれが「地道」な参加者を疎外する「通せんぼ」になったという印象は私にはまったくない。夏の終わり頃までに、9月の参院の閉会までの数日間ともなると、概ね普及して、初老の男性だろうと、女性だろうと、いや初老でなくてもっと高齢の方でも、かなり返せるようになっていた。画期的な三連符の「安倍は辞めろ!」コールも老若男女問わず多くが身につけてしまっていて、すごいと思った。“This is what democracy looks like!”を若者がノリのよいリズムで唱えるのに中高年が付いて行くのは最後まで厳しそうではあったけれども。それでも明らかに大半の人がそのコールを楽しみかつ共感していた。

 内輪のスローガンなどではなく、1930年代ヨーロッパ反ファシズム人民戦線、また近年のオキュパイ運動で用いられたスローガンなどを引用することで、戦争法案反対の示威行動でありながら、過去の世界各地での民主化運動にいまの運動が連なっているという認識を集団的に共有することができる。そうしてみると「ノー・パサラン!」はいわば叙事詩の一節のような働きを持っている。なにしろこの語句に歴史上の反ファシズム運動、民主化運動の重層的な記憶が埋め込まれているのだから。これを知的で情熱的な、また徳の高い近頃の若者たちが、言葉を身体化し、朗唱しているのを見ると、こんなどうしようもないありさまではあるが、この国にはまだ希望があると思えてくる。まったく近頃の若者ときたら、大したもんじゃないか。

 そういうわけで、79年前の1936年10月4日も日曜日だった。その日ロンドンはよく晴れていたそうだ。