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凹レンズ(旧館) RSSフィード Twitter

November 03(Wed), 2010

ネットを歩き、死をポケットに入れて

僕達は、昔と比べて死と距離が離れてしまった。

それは、現代人が死について知らないとか昔の人は知っていたとか、そういう話ではない。死について本当に知るためには死ぬしかないのだから、ある意味、この世に存在している人は誰も死について知らない。ただ、僕達と死との“関わり方”が、以前とは変わってしまったのは確かだ。それが新たな死との向き合い方への模索なのか、遠く離れてしまっただけなのかは分からない。

今日は、ネットで読むことのできる、「実際の死」についてのリンクをいくつか紹介します。けれども、何か書き残しておきたい気持ちに駆られたので、少し前置きにお付き合いください。

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死が隠れてしまった今

仏壇がある世帯はどのくらい減ったのだろう?日々の中で、亡くなった家族の遺影を見て、お香がたかれ、お鉢、花が供えられ、死者とコミュニケーションを図る家庭がどれくらいあるのだろうか?墓参りをする回数は変わったのだろうか?

洋式水洗便所の普及で、ウンコを見なくても生活できるようなったのと同じに、死についても目を向けなくても生活は進んでいく。急ぎ足で駆け抜ける駅のホームやアスファルトの上に、死の影は映らない。まるでかくれんぼでもしているかのように、日常的に目の届く範囲から死が姿を隠してしまった。

(このエントリーで、僕は「生きたくても生きれなかった人もいるんだからシッカリ生きろ」的なことを言いたいわけではない。たしかにシッカリ生きることは大事だけれど、それは、真面目なフリや悩んでいるフリをすることじゃない。)


死をポケットに入れて歩むために

「死について考えさえすればしっかり生きられる」という絶対的な法則があるわけではない。単に死について考えればOKだとは思わない。けれども、自分の人生がいつか本当に終ることを認識しながらも、自分らしく生きることはきっと出来る。

それは不幸そうな顔をしたり、真面目なフリをすることではない。朝起きて、歯を磨いて出社して、仕事して、たまにサボってバカな話をしたり、笑ったり、怒ったり、くらだないことをし、寝て夢をみて、誰かと一緒に過ごしたり。今までと変わらない生活の傍らに、そっと死の存在を認めてあげることは出来る。


長い前置きだったけれど、インターネットは「今の僕達」が死に触れる手助けをしてくれるのではないだろうか?(妨害や余計な影響が強いのが前提ではあるけれど)一人では見失ってしまいそうな死をポケットにおさめる手助けをしてくれる。インターネットを通じてこそ触れられる、私たちと同じように生活する人の「死」。もちろん発信者のフィルター越しのものだけれど、それはそこに存在してくれる。知りたいと目を凝らせば見ることができるのだ。


今日は、敬意をこめていくつかのブログを紹介させてもらいたいと思う。紹介的な引用のみさせていただき、個々のエントリーについてコメントは残さない。どうかこのエントリーがリンクさせていただいたブログや増田をかかれた方々を傷つけないものであって欲しいと願います。


twitterで知り合った友人が亡くなった - Everything You’ve Ever Dreamed

訃報をきいてすぐに僕は彼女のツイッターのホームをひらいた。「つぶやき」は五月を最後に終わっていた。終わりのほうは体調不良をほのめかす発言の頻度が増えていた。僕はまったく気付いていなかった。彼女は、彼女の言葉、彼女に気付かないまま流れていく世界を眺めてどう思ったのだろう?


兄が死んだ | Tokyo O life

僕には、兄は身の程知らずで妥協をしらないために、それなりに才能があるのに挫折の多い人生を送っているように見えた。

でも、兄はやりたいことは、だいたいやってしまったし、大好きな子供たちからも慕われていた。

もしかすると、兄はそんなに不幸ではなかったのかもしれない。


彼女が死んだ。 - kom’s log

一ヶ月の間一緒に住んだ。二ヶ月の間、病院で過ごした。短い結婚生活が終わった。


追悼id:kousuke-i - (旧姓)タケルンバ卿日記

「誰だかわからない」どころではなかった。実は彼と私は会っていた。直接お会いしていたのだ。


ひいばあちゃんが死んだ

俺はこれまで、死ぬ時は大々的に葬式が行われて皆が悲しむほうが、親戚がちょろっと集まるよりよっぽどいいと何となく漠然と思っていたがそれは寧ろ逆かもしれないと思った。死んでも、そんなに悲しまないレベルまで、「まぁそろそろ死ぬ年頃だしな」そんなレベルまで生きた方が寧ろ幸せなのかもしれないと思った。


妻が亡くなるまでの全てと、その後の僕の全て

僕らは考え方、価値観、生き方、その全てに影響を与えあい、既に十分に混じり合っていた。僕らはもう、ひとつで、その裏表だった。妻の言葉の意味をやっと理解できた気がした。

僕は妻を失った訳ではなく、僕(そして妻)の半分を失ったのだ。僕と妻は半分になりながらもひとつとしてここにいる。


死をポケットに入れて。

死は、私の中にもセットされている。

その事を怖いとは思わないが、少しだけ、祈るような気持ちになる。



関連エントリー

*本エントリーは以前公開したエントリーに加筆修正したものです。

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