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July 30(Mon), 2012

岸本英夫『死を見つめる心』がスゴイ

オカルトチックにならず、宗教的・妄信的にならず、日常的な感覚でどうやって『死』を理解できるのか?ということが、ずっと疑問でした。スタンフォード大学客員教授であり宗教学が専門であった岸本英夫は、ガンにより余命半年の可能性を告げられ「死」を見つめていきます。最も興味深いのは宗教学者であった著者が、「死後の世界」の存在を否定した上で死の淵に立つ選択をしたということです。本エントリーでは、彼の『死を見つめる心』を紹介します。

岸本英夫 - Wikipedia

死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)


死とは何か?

死は、突然にやってくる。思いがけない時にやってくる。いや、むしろ、死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は、突然に来たとしか感じないのである。生きることに安心しきっている心には、死に対する用意が、何もできていないからである。

1954年アメリカ滞在中に岸本英夫は、首の左、あごの下にできたしこりを検査し、ガンの宣告を受けます。当初は、実感を伴わない感覚があるものの、もう生きられない、少しでも長く生きたい、死にたくないという「生命飢餓状態」に陥っていきます。

癌の宣言は、私にとって、全く思いがけないことであった。寝耳に水であった。その場では、私は、自分にとって非常に重大なことを知らされていることはわかりながら、その事柄が、あまりに重大なので、そのほんとうの意味が良く理解できないというような、戸惑った気持ちであった。

病院からの帰りの自転車の中で、ふと気がついて見ると、自分の心はすでに、異様に緊張しているのを知った。ほんの一時間ほど前、病院に向かう時には、冗談でもいえそうなゆったりした気持ちであった。同じ自転車に乗っていながら、今は、全く、別人のような気持ちになっている自分を見出した。

・・・

ソファーに腰を下ろしてみたが、心を、下の方から押し上げてくるものがある。よほど、気持ちをしっかり押さえつけていないと、ジッとしていられないような緊迫感であった。われしらず、叫び声でもあげてしまいそうな気持ちである。いつもと変わらない窓の外の暗闇が、今夜は、えたいのしれないかたまりになって、私の上に襲いかかって来そうな気がした。

宗教学者である彼は、歴史の中で宗教が天国や浄土といった死後の世界を作り出し、人間の生命が死後も続くと信じることによって、死の恐怖を和らげてきた過程を知りながら(知っているからこそ)、自ら死後の世界・生命に頼らないことを決めていきます。

私自身は、はっきりいえば、そうしたこと(死後の世界)は信ずることはできない。そのような考え方はどうも、私の心の中にある合理性が納得しない。それが、たとい、身の毛がよだつほど恐ろしいことであるとしても、私の心の中の知性は、そう考える。私には、死とともに、すなわち、肉体の崩壊とともに、「この自分の意識」も消滅するものとしか思われない。

・・・

まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫ってくる前に、私はたっていた。私の心は、生への執着ではりさけるようであった。私は、もし、自分が死後の理想世界を信じることができれば、どれほど楽だろうと思った。生命飢餓状態の苦しみを救うのに、それほど適切な解決法はない。死後も、生命があるのだということになれば、はげしい生命飢餓の攻撃も、それによってその矛先をやわらげるに相違ない。

しかし、私の中にある知性は、私にするどくよびかけてきた。そんな妥協でおまえは納得するのか。それは、苦しさに負けた妥協にすぎないではないか。その証拠に、お前の心自身が、実はそういう考え方に納得してはいないではないか。そのするどい心底の声をききながら、私は、自分の知性の強靭さに心ひそかな誇りを感じ、そして、さしあたりの解決法のない生命飢餓状態にさいなまれながら、どこまでも、素手のままで死の前にたっていたのである。

そして、彼は「死とは何か?」という問いに対して、大きな発想の転換をしていきます。僕たちは、「死んだらどうなるんだろう?」とか、「死ってだろう?」「どんな体験だろう?」という形で考えてしまいますが、彼は異なる方向からアプローチを試みます。

人間には無ということは、考えられないのだということである。人間が実際に経験して知っているのは、自分が生きて生活しているということだけである。人間の意識経験がまったくなくなってしまった状態というものは、たとえ概念的には考えても、実感としては考えられないことである。その考えられないことを人間は、死にむすびつけて、無理に考えようとする。そこで、恐ろしいこととなるのではないか。・・・この点に、まず気がついてみると、生きている人間である自分が、死を考える場合には、このように死と、このわからないものとを結びつけるような角度から考えてはいけないということであった。

つまり死とは「何か」「どんな状態か」と考えることが間違っているのではないか?ということです。体験が無い、無の状態を、「どんな状態か?」とか「何か?」と考えようとすること事態に、水中で息をしようとする苦しさや光の全く無い洞窟の中で目を凝らす時のような苦悩があるというこです。死を考える時の恐ろしさには、一定量、この主の「分からないものを無理に分かろうとする」苦悩が占めているのではないかと考えたのです。

私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持ちで凝視しつづけた。そうしているうちに、私は、一つのことに気がつき始めた。それは、死というものは、実態ではないということである。死を実態と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実態ではなくて、実態である生命がないところであるというだけのことである。

・・・

死の暗闇が実態でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見であった。これを裏返していえば、人間に実際に与えられているものは、現実の生命だけだということである。・・・死というのは別の実態であって、これが生命におきかわるのではない。ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。

このような考え方がひらけてきた後の私は、人間にとって何よりも大切なことは、この与えられた人生を、どうよく生きるかということにあると考えるようになった。いかに病に冒されて、その生命の終りが近づいていても、人間にとっては、その生命の一日々々の重要性はかわるものではない。つらくても、苦しくても、与えられた生命を最後まで生きてゆくよりほか、人間にとって生きるべき生き方は無い。

シンプルな考えに見えますが、これを自分で苦しみ、迷い、葛藤した中で見つけ出したことは、本当に読んでいて胸を打たれました。


「死は別れである」ということと、日々の歩み方

そうして彼は、その状態で激務をこなしながら「どう生きるか?」ということに向き合っていきます。

人間は、長い一生の間には、長く暮らした土地、親しくなった人々と別れなければならない時が、かならず、一度や二度はあるものである。もう、一生会うことはできないと思って、別れなければならないことがある。このような「別れ」、それは、常に深い別離の悲しみを伴っている。しかし、いよいよ別れのときがきて、心をきめて思いきって別れると、何かしらホッとした気持ちになることすらある。人生の折に触れての、別れというものは、人間にとっては、そのようなものである。人間は、それに耐えていけるのである。

死というのは、このような別れの、大仕掛けの、徹底したものではないか。死んでゆく人間は、みんなに、すべてのものに、別れをつげなければならない。それは、たしかに、ひどく、悲しいことに違いない。しかし、良く考えてみると、死にのぞんでの別れは、それが、全面的であるということ以外、本来の性質は、時折、人間が、そうした状況におかれ、それに耐えてきたものと、まったく異なったものではない。それは、無の経験というような、実質的なものではないのである。

死もそのつもりで心の準備をすれば、耐えられるのではないだろうか。普通の別れの時には、人間は、いろいろと準備をする。心の準備をしているから、別れの悲しみに耐えてゆかれる。もっと本格的な別れである死の場合に、かえって、人間は、あまり準備をしていないのではないか。

死の時がくれば、その時には、従容として、この世界に別れをつげて死んでゆくことができるように、平生から生きていかなければならないと思うのであります。もし、そうとすれば、私は、この人生をどういうような心構えで生きてゆかなければならないか。それが、次の問題になるわけであります。

この中で、生きがいをもって生きることを彼は強調し、自らに激務を課し、がむしゃらに働いてきた自分自身を見つめなおします。

生き甲斐ということは、むしろ、一つの目標をもって、その目標に心を打ち込んで、一筋に進んでゆくことの中にあるのだ、ということに気がついたのであります。

そう気がついてみますと、手負いの猪のように、あばれ廻っているだけでなくて、心が、しっかりと、一つの方向にむかってすわっているかどうか、ということが、大切な問題になってまいりました。

そうやって彼が提案するのは「仕事」に向き合うことです。現代の社会におきかえて考えるのなら、「自分の価値観」や「大切にしたいこと」「あぁ、こういう方向に進んでいくことが、自分が生きるということだ」と実感できる物事だといえるでしょう。大切にする人や時間、生活、そういうものを含んだことを「人生の仕事」と定義しています。

目標となるのは、仕事であるといいたいと思います。・・・仕事という言葉を、私は、狭い意味の職業とだけに限定しては、考えません。・・・めいめいの人間が、自分に与えられているものは、これだ、と考えられるような意味での仕事であります。

人間の仕事というものが、一方では貨幣価値に換算されても、他方では、それと平行して、必ず、もっとなまなましい人間的な意味をもっているのであります。実際にやっていることは、部分的な仕事であっても、それを、全体として、総合的に見れば、人間生活の幸福を高めるための、総合的な仕事に一部分をなしているはずであります。

現代の社会においては、この職業的な仕事で生きがいを感じにくくなっていることにも言及し、それにたいして想像力を働かせる必要性を説いていきます。

たとえば、ごく手近な例をとって、自分の手で靴を作ることを商売としている町の靴屋さんの場合を、考えてみましょう。もし、何でもいいから、靴をたくさんつくって、それをうまく売って、お金にかえて、というようなことであれば、靴をつくるということは、命を打ち込んでゆく仕事にはならないでありましょう。しかし、もし、その靴屋さんが、その靴を買ってはく人の幸福を、心の中に描きながら一生懸命に靴を作るとします。同じ値段で売るにせよ、それをはいて歩く人の、気持ちがよいようにと考えて、よい靴をつくろうとする。いつまでもこわれないで、長持ちするような、強い靴をつくろうとする。そのような気持ちをこめて、一生懸命に靴をつくれば、靴をつくるということも、他の人々の幸福を高めるということに、つながってきます。そして、それは、自分を打ち込んでゆくことのできる、りっぱな仕事に、なってまいります。その靴屋さんは、靴を作ることの中に、充分な生き甲斐を感ずることが、できるはずであります。

目の前にある仕事、開発、営業、事務作業、スポーツ、芸術、子育て、生活であっても命を打ち込むことは、きっとできます。


まとめ

まず私が驚いたことは、この本は1964年、48年前に出版されているにもかかわらず、非常にスムーズに読めたことです。それだけ、分かりやすい言葉で、丁寧な論理が紡がれていました。

私は、自分の家族や友人、仕事、仕事仲間、生活、趣味、歩いた場所、故郷にどうやって別れの準備をすることができるだろうか?「一期一会」、ことばでは知っていても、今がこの人と会う最後になるかもしれない、この「さよなら」のことばが最後になるかもしれない、と心を込めていけるだろうか?

少なくとも、彼の仕事は、死と時を越えて半世紀未来を生きている僕の心を確実に揺さぶり、影響を与えました。「良かったな〜」と素晴らしい映画を見終わったときのような、そんな感覚を感じます。本書を読んでみて、達観するわけではなく、自分らしく頑張って歩んでいかなければと励まされるような、暖かな一冊でした。



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