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October 08(Mon), 2012

スナフキンと死と別れについて

300ピース やすらぎの時間 AS-300-187

ぼくはね。世の中の色んな事を忘れて生きていけたら

どんなにいいことだろうと思っていたんだ。

あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ

108ピース 静かな夜 AS-108-42

ものは 自分のものにしたくなったとたんに

あらゆる面倒が ふりかかってくるものさ

運んだり 番をしたり

いつも優しく愛想よくなんてやってられないよ

理由は簡単 時間がないんだ

300ピース ムーミン谷のお食事会 AS-300-180


何か 試してみようって時には どうしたって

危険が 伴うんだ

明日も きのうも 遠く離れている

500ピース 帰ってきたスナフキン AS-500-58



昔から風の様に生きていけたらと思っていました。スナフキンのように、執着なく、何者にも囚われず、自由で、孤独と親しくなりたいと憧れていました。「どういう考え方をすれば、それを実現できるのだろうか?」と当時は考えていて、思春期や青年期に頭の中でぐるぐると思索をしたり、散歩しながら考えたり、大学生になってからは遠出をしてみたりもしましたが、答えはでぬままでした。


私は、自分の中の執着や悲しみや、怒り、劣等感、輪から外れることに対する不安、人と分かり合えない感覚やそれをどうにか誤魔化したい気持ちなど、そういうものを消してしまいたいと思っていました。心が揺さぶられることがないように、どんなときもニュートラルな感覚を持ち続けたいと思っていたのです。

最近、それは「考え方を変えること」ではなくて、いくつかの「経験を積み重ねること」でなし得るのではないか?と思っています。それは、以前、紹介した、岸本英夫の『死を見つめる心』を読んだことがキッカケでした。

岸本英夫『死を見つめる心』がスゴイ - 凹レンズ(旧館)

私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持ちで凝視しつづけた。そうしているうちに、私は、一つのことに気がつき始めた。それは、死というものは、実態ではないということである。死を実態と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実態ではなくて、実態である生命がないところであるというだけのことである。


・・・


死の暗闇が実態でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見であった。これを裏返していえば、人間に実際に与えられているものは、現実の生命だけだということである。・・・死というのは別の実態であって、これが生命におきかわるのではない。ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。


このような考え方がひらけてきた後の私は、人間にとって何よりも大切なことは、この与えられた人生を、どうよく生きるかということにあると考えるようになった。いかに病に冒されて、その生命の終りが近づいていても、人間にとっては、その生命の一日々々の重要性はかわるものではない。つらくても、苦しくても、与えられた生命を最後まで生きてゆくよりほか、人間にとって生きるべき生き方は無い。


人間は、長い一生の間には、長く暮らした土地、親しくなった人々と別れなければならない時が、かならず、一度や二度はあるものである。もう、一生会うことはできないと思って、別れなければならないことがある。このような「別れ」、それは、常に深い別離の悲しみを伴っている。しかし、いよいよ別れのときがきて、心をきめて思いきって別れると、何かしらホッとした気持ちになることすらある。人生の折に触れての、別れというものは、人間にとっては、そのようなものである。人間は、それに耐えていけるのである。


死というのは、このような別れの、大仕掛けの、徹底したものではないか。死んでゆく人間は、みんなに、すべてのものに、別れをつげなければならない。それは、たしかに、ひどく、悲しいことに違いない。しかし、良く考えてみると、死にのぞんでの別れは、それが、全面的であるということ以外、本来の性質は、時折、人間が、そうした状況におかれ、それに耐えてきたものと、まったく異なったものではない。それは、無の経験というような、実質的なものではないのである。


死もそのつもりで心の準備をすれば、耐えられるのではないだろうか。普通の別れの時には、人間は、いろいろと準備をする。心の準備をしているから、別れの悲しみに耐えてゆかれる。もっと本格的な別れである死の場合に、かえって、人間は、あまり準備をしていないのではないか。


岸本英夫は、死を「別れ」と捉えてそこにむけて心の準備をすること、日々の別れに目をむけ、そこから目を背けずにひとつずつ整理していくことで、他者から見れば執着のない態度を形作ることができました。けれど、それは著者が感情を鈍化させたわけでも、考え方を変えただけでもなくて、日々の生活の中で自身の行動を変えて、気持ちをこめた生活を継続した結果でした。

今、私は、「折々の別れから逃げないこと」、実際に「ものごとから手を離す体験を繰り返すこと」、「毎日の挨拶やふれあいが最後の出会いになる可能性を考えながら他者と接すること」によって、暴れまわる心を抱えたまま、風のように世界を駆けていけるのではないかと思っています。

揺さぶられぬ心を求める気持ちを諦めることによって、今までと違ったやり方で歩きはじめることができたように思います。それは、ぐらつく不安定な歩みであって完全な幸福を得たわけじゃあないけれど、失敗しながら、それでも常に近くにいる死と手をつないで、自由に駆け回っていきたいのです。



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