思い

私たちは、実に様々な方法、様々な種類で、「思い」というものに大きな価値を付けている。
思いは届くと言ったり、思えば叶うと言ったり、思えば現実になるとまで言う。
それはそれで間違っていないし、「思いの世界」ではそれは現実だろう。
しかし、よくよく考えてみてほしい。
そもそも「思い」「思う」とは何だろうか?
私たちは全て人間で、実際にはほとんど機能に差はないと言える。
私たちの誰かが、自分の中の何かを「思い」と呼びだし、
それを我々は使用しているのである。
とすると、全ての人は自分自身で「思い」とは何かを定義できるし、
それは何かを見いだせるはずである。
一般的に多くの人は「思い」とは何か、を自分で定義することなく、外部の、
「思い」とはこういうものである、という情報を子供の時に教えられて
鵜呑みにしている。
子供の頃に教えられた情報は当たり前にあるものとして、
今後一切考えることなど全く無いのが普通だ。

まあ、よっぽど死ぬ思いをしたような人とか、なぜかしら周りの人と自分の
下地が違った場合に考えることがある程度だろうか。
ちなみに、これらはどういう人かというと、一般的に言うと「相当な変人」である。


さて、「思い」とは何か?
単刀直入に言うと、「思い」とは「脳の自動おしゃべり」である。
このブログでも何度も言っているが、このおしゃべりは完全自動である。
ちなみに禅なんかは、このおしゃべりを雑念と呼び、瞑想によって取り除いていく、というようなことをやっている。
実は、みんな「思い」とは自動であることを知っている。
私たちは、悩んだり、怒ったときに、時としてこういう言い方をする。
「考えたくないのに考えている」
この言葉を皆使っているのに、不思議なことにこれに全く疑問を持たない。
ところが変人は、このように疑問を持つのである。


考えたくないのに考えている、ということは自分で考えているわけではない


その通りである。我々は、自分で考えてなどいない。全ての思考、思いは
まったくもって完全に自動で出てきている。
これは自身を観察してみればわかる。


といってもたいていの人はそんなことはしない。
しないというよりもやり方がわからないと言う。

しかし、ある種の変人は、そうやって言われて観察してみる。
観察してみて、実験する。まあ、1,2時間実験してみて、
こういう結論に達する。
「確かに勝手に出てくる事が多いが、自分で考えようと思って考えることもある」と。
まあ、順調です。とりあえずここまでは来る。

しかし、これに気づかない。
「自分で考えようと思って」は誰が考えたんだろうか?
誰が考え始めたのだろうか?

じゃあ、じゃあ、「今から考えはじめる」をやればその証拠になるんじゃないのか?
引き下がらない人はいるだろう。
じゃあ、やってみたらいい。5,4,3,2,・・1・・・「考えた!」
「俺は自分で考え始めたぞ!」

・・・・その数のタイミングを取っているのは誰ですか?


これらの話を聞いてあなたは
「私は自分で考えていないらしい」と思うだろうか
「それを自分で実験してみる」と思うだろうか。

たいていの人は前者であり、そして前者は何一つ気づくことは無いし、
悩みを消すこともできないだろう。


さてさて、話は戻って、この
「単なる脳の自動おしゃべり」がいったい何だというのだろうか?
どこを、どうみても単なる脳の自動おしゃべりであって、それ以上でも
それ以下でもない。それは観察してみればわかるはずだ。
この、「自動おしゃべり」を我々は「思い」と呼び、大きな価値をつけているわけだが、
これらに何か大きな差を感じないだろうか?
我々が一般的に今までに思い込まされてきた「思い」と全く違わないだろうか?
あなたは、あなたが見つけた「「思い」とは何か」と、一般的に言われている
「思い」をどっちを取るだろうか?
それは、貴方の思い次第である。


written by rr



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