幸せというのも意味付けの一つ

幸せというのも意味付けの一つです。
この業界にいると、「幸せという感情が湧いてきた」というような書き込みをたくさん見ることがあります。
当たり前ですけど、これも意味付けのひとつであり、
「私はとても不幸せです」と言っているのと何も変わりありません。
本当に何も変わりないのです。
「不幸せだ」と言う意味付けだけをしないようにし、
「幸せだ」という意味付けだけをしても全くなんの効果もありません。
「幸せ」というのは当たり前なんですけど「何かと比べて」「幸せ」なのです。
つまりその裏には「不幸せ」との比較があるわけです。
そういったものは全て自己観察すれば見えてくることで、
それが見えてくれば
「幸せ」も「不幸せ」も別にいう必要がありませんし、意味付けすることもありません。

犬や猫が「吾輩は今幸せだニャン!」などと思っているでしょうか?
思っているかもしれませんが、たぶん思っていないでしょう。
腹が減れば食べ、寝たかったら寝るだけの話です。

「幸せ」などというのはつまり考えすぎなのです。

スピリチュアル業界でとても良く見られる光景

占い師ユミ「あなたの前世はお釈迦様のお弟子さんで、悟りにとても近い所にありました。今世であなたは悟りを完成させ、周りの全ての人に愛を与える存在になります」


お客様「そうなんですね!愛ある存在に慣れるように頑張ります!」


占い師ユミ「頑張ってくださいね!ありがとうございました」


お客様「ありがとうございました〜」





お客が帰った後





Dr.E博士「ちょっとちょっと」


占い師ユミ「はい?」


Dr.E博士「キミさあ、このあいだ、物事に意味は無い。全て自分で作っているだけだって、ワシ言ったよね。」


占い師ユミ「はい、その都度はありがとうございます。とても納得しました!」


Dr.E博士「いやいや、でも今キミさ、お客さんに存在しない意味を与えまくってたよね」


占い師ユミ「えっ?私は前世が見えるのでそれをお伝えしただけですよ。意味なんて言ってないですけど・・・・」


Dr.E博士「・・・・・キミさ、意味ってなんだかわかってる?」


占い師ユミ「えっと・・・物事はただ起こっているだけで、それをジャッジする事が意味なんですよね」


Dr.E博士「そうそう、言葉上はそうなんだけど、実際に自分の生活の中で、これが起こっている事、これがジャッジしている事、って精査してる?」


占い師ユミ「そう言われるとどうかな・・・えへへ。」


Dr.E博士「たぶんなんじゃが、嫌なことがあった時にそれを思い出して対処療法的に使ってるだけじゃないかね?」


占い師ユミ「うーん、さすが博士!お見通しですね!そう言われればそうですね!」


Dr.E博士「まあ、別に良いんじゃが、自分が外の世界に対していつどのようにして、何を目的として、どういうタイミングでやっているのかを精査しないと何もわからんよ。」


Dr.E博士「このままじゃただ単に嫌なことがあったらこの呪文を唱えればとりあえず安心が得られる!みたいな風になるだけじゃよ」


占い師ユミ「そ、そうですよね。理屈ではわかっているんですけど・・・」


Dr.E博士「悟りとかそいうのは、物事を俯瞰して、物事の、そして自分の仕組みを知るっていう事でもあるんじゃよ」


Dr.E博士「それをやっていれば必ず、意味とは何か?存在とはなにか?という事に行き着くんじゃよ。それを自分で自分を観察しながら精査し、再度検証していくことになるんじゃよ」


占い師ユミ「そ、そうなんですか・・・私そういう難しい理屈ってわからなくて・・・なんていうか理屈ではダメだって言うじゃないですか」


Dr.E博士「いやいや、誰も自己観察をしてそれを文章にして理屈で考えなさいなんて言ってないじゃろ」


Dr.E博士「自転車に乗るためのコツを書いてそれを読むのと、自転車に乗るためのコツを自分でやってみて自分で掴むのは違うじゃろ。理屈なんて一切いらないんじゃよ。でもそれを言うためには言葉にしないといけなくて、今ワシはそれを言うために理屈を言ったワケじゃが、それがなんとなく言葉的に難しいからそれは理屈だって言っただけじゃないのかね?」


Dr.E博士「この社会で生きていれば、社会や文化が作った理屈を頭に入れられて、自分に実際に起こっている事は何なんだろうっていうのがわからなくなってしまうんじゃ


Dr.E博士「そういう理屈は捨てて、もう一度生活を、そして自分を全て再検証してみるっていう事じゃよ。」


占い師ユミ「そうなんですね!わかりました!再検証して愛ある存在になります!頑張ります!」


Dr.E博士「・・・・・・・・・」

とにかく物事に意味を付ける

浮き沈みが激しい人の特徴として、やはり一番にあげられるのが、これである。
 
「とにかく物事に意味を付ける」
 
色々パターンや重度などもあると思うが、なんとなく適当に列挙してみました。

1.この物事は一般的に良いことなのか悪いことなのかをいちいち判断する
2.この物事は自分にとって良かったか悪かったかをいちいち判断する
3.物事に意味を付けいてるという事をそもそもわかっていない
4.物事に意味を付けているという事はわかっているが、
  意味を付けている瞬間にそれを捉えれていない
5.結果はどうあれ、物事は自分にとって良い方向に違いないと意味をつけている
6.何とか頑張って物事に意味は無いという意味を付けようとして呪文のように唱えている(だけ)
7.物事に意味は無いから、起こったことをあるがままに受け入れようとする行動
 
7はよく言われており、あるがままに受け入れましょうみたいなのが流行っているが、
「あるがままに受け入れようとする行動」はおそらく効果をなさない。
それは結局のところ6と同じであり、救われるためにお経を読むのと何ら変わらない。
 
前提条件として、

・幸せになりたいからそうする
・自分が幸せでないからそうする
・何とか今の境遇を脱出したいからそうする

 
である場合はおそらく厳しいと思われる。
ではどうすればいいのだろうか?
 
それは、
自己の心理システムがいったいどうなっているのか?という興味であり、それに対して起こす実際の自己観察である。
この興味が無い人は色々とかなり難しいと思う。
 
幸せになりたい!、ではなく、
 
幸せとは幸せという感覚が起こっている時に、より具体的に自己に何が起こっている事なのか、是非観察して解き明かしてみたい!!!
という、この好奇心の姿勢である。

一般的に、自己を観察する事はとてもむずかしいことであり、
自分を傷つけてしまう事だと思われている(実際には全然違います)
なので、多くの人は「幸せになりたいのに、なぜ自分が傷つくことをしないといけないのか」
こうなってしまいます。
これを乗り越える事ができるのは、
 
・もうこれしか後がない人
・単純に好奇心や知識欲でやりたいだけなので自分が傷つくとかどうでもいい人
 
ということになります。
で、この自己観察がきちんとできるようになれば、
おそらくこのような事がわかるはずである
(これは言葉にすれば意味付けになってしまいます。)
 
なんだ、幸せっていうのは、たったこれだけの事だったんだ。一般的に言われている幸せというものは完全に嘘っぱちじゃないか。幸せを求める必要も、否定する必要も無いな。幸せも、不幸せも、ただ自己に起こっている単なる反応でしかないじゃないか。
 
しかし、ここで上手くいかない多くの人はこう思うかもしれません。
 
そんなことわかりたくない。もっと夢を見ていたいです

ワンネス体験

ワンネス体験という言葉があるようですが、
当たり前ですがワンネスを体験する事は普通に考えれば無理です。
人間は、人間以外が存在(自分で分離させているのですが)するから人間を体験できるわけで、
ワンネス以外が無ければワンネスを体験する事はできませんよね。
ワンネスと自分という構造は既に全くワンネスではありませんよね。
つまりワンネス(と思われる何か)と一体になった(気になった)自分がいるだけ、
ということです。

伝え聞く所によると至福感などもあるようですが、至福感があるということは至福感以外があるということですよね。しかもそれを体験する自分もいるわけですから、自分以外があるということでしょう。それは全くワンネスとは言えませんよね。

本当にワンネスであるならば、至福感も至福感以外も全くありはしないでしょう。
何一つ何もない世界。何もないも無い世界。無いも無い世界。それがワンネスです。

ワンネス(になった気になった)喜びも良いかもしれませんが、
そのワンネスになった時の自分を自己観察し、何が起こっているのかを
見てみたほうが良いでしょう。

何かを体験するということは、差があるから体験するわけです。
その体験する前の脳の状態と大きな差があればあるほど大きな体験をします。
至福体験をする人は、それ以前に至福ではない事を多く持っているから、至福体験が起こるわけです。

ですから、「常に幸せ」「ずっと愛にあふれている」ということはありえません。
「体験」そのものが「差」システムによるものだからです。
そのことをよく考え、「差」システムをしっかり自己を観察し、わかっていれば
そのような事は決して言わないはずですし、
システム内で行われている事に大きな意味付けなどしはしません。

至福体験と言いますが、それは単なる体験であって、ウンコした体験と何ら変わる所はありません。
そんな事にいちいち意味を付ける必要性が無いのです。

自分で意味をつけている事を理解していないと、「至福体験」がさもとてつもない素晴らしいものであることのように感じてしまうかもしれません。

本当に重要な

本当に重要な事は、他人を愛することでも、常に感謝することでも、
大きな視点を持つことではない。
大きな視点を持つとはつまり自分の心理として何が起こっているのか、
他人を愛するとはつまり自分の心理として何が起こっているのか、
感謝するとはつまり自分の心理として何が起こっているのか、
大きな視点を持ったら、どのような心理的効果が自分に訪れるのか
それをシステムとして知る事である。
ある時、大きな視点を持っても結局また自分の小さな視点に戻ってしまうこともある。
それでは何一つとしてわかったことにはならないし、何度も何度も同じことを繰り返す事だろう。
まあそれでも別に良いんですけどね。
根本的解決は、自己の心理システムをしっかり理解することだ。
Googleで検索してみたら良い。
「感謝とは」
ここで得られる答えは全て、感謝すればどうなるとか、こういう外的要因に対して出てくるものが感謝ですよ、とかばっかりである。
「感謝」とは、それが起こっている時に自分の心理にどういう事が起こっているのか?
それを説明、あるいは話題にしている人は全くいない。
なぜ、誰一人としてそれが起こっている時に、「感謝とは自分に何が起こる事なのか?」を観察しないのであろうか?

いやもう、ぶっちゃけた話

何でもええんですよ。
愛されてないと感じるから、まずは自分を愛しましょうとか、
私とは何か?をしっかり見つけだすべきである、とか
愛こそが全てである、とか
そういうの、
もうどうでも良いんですよね。マジ、そうなんですよ。
だから何?って感じなわけです。
そんな事を考えたり、そんな事を呟いたところで何一つ変わりはしないですし、
いや、変わるかもしれないですけど。
どうでもいいわけです。
そもそも変わろうが、変わるまいが、そんなこともどうでも別に良い。
変わるという認識をするのは、差異があるからだ。
動物は差異を認め、そして差異を認識する。いや、差異が認識そのものだと言っていい。
これはもう脳がそうなってんだ。差異が無ければ物事は認識できない。
認識しなければそれは合一であり、空であり、愛だろう。

しかしんなこたーどうでもいいわけ。
空でも愛でもなんでも良いし、どうでも良いわけ。

好きにすれば良いし、好きにしなければ良いわけ。
アホかと。

アセンション

今日の話題はアセンションです。
いやーアセンション、色々言われてますよねー。
アセンションプリーズ。なんて言ってねー。
いや言ったことないですよねー。


そういう感じで色々調べてみました。
2012年にフォトンベルトに完全に入って、エゴの無い人は3次元から5次元に次元上昇し、
そうでない人は別の星に行くみたいな、そういう感じみたいですよねー。


誰が何を何のために、このアセンションなるものを言っているのかはわかりませんが、
それはマヤ歴の事だったり、変な宇宙科学だったり、仏教の何かが
くっついていたり、オカルト的なものだったり色々するんでしょう。


とりあえず色々つっこむ所はたくさんあるのですが、
とりあえず言葉を全くそのまま受け取ると、「次元」は上昇したりしませんよねえ。
科学的に言うと、何を言っているか全くわからない状態です。
じゃあ何を言っているのでしょうか?


非常に簡単に言うと、


物事はある一方向(ある主客)から見ると、そういう風にしか見えません。
ところが、違う方向から見ると、同じ物事でも全く違う見え方をします。
なので、物事を平面的(2次元)に見ずに、
多面的(立体的)に(3次元)見ましょうって事です。
え?多面的も結局面だから2次元じゃないのって?
ええ、その通りです。
でも、多面的に物事を見ると、立体が想像できますよね?
そう、これが次元上昇、アセンションなのです。

画像にするとこんな感じですかね
神との対話 アセンション


現在、我々人間の殆どは、物事を平面的にしか見ておりません。
ですので、これを3次元ととらえて、4次元、また5次元、という風に多面的に物事を
見ていき、その立体の全貌を見ていこうじゃないの。
そしたら、つまらないことで怒ったり悲しんだりすることも無いんちゃうの?
みたいなそういう感じなんじゃないでしょうか


どうっすかね〜

そう考えると、アセンション、良いじゃないですか中々。
我々もこれから使おうと思います。アセンション
なんかかっこいいですよね。


え?フォトンはどうなのかって?
いや〜おっちゃん科学のことはよく分かりへんけど、
フォトンはそもそもひとつところに停滞しないと思いますよ。
いや〜ふぉんとにね〜

うまくまとまったところでバイナラー

                                                                                                                                                                        • -

神との対話を語る会は、
ニール・ドナルド・ウォルシュ氏が書いた「神との対話」を
読んで感銘を受けたが今はどうしているのか謎の人達の勉強会(学習会)です


PC用サイトはこちら
神との対話


携帯サイトはこちら
神との対話