書評:kiki『あたし彼女』

さいしょに

断っておくと、わたし一般的なケータイ小説に属するものをはじめて読む。
みたいな
よってこの書評は「ケータイ小説作法一般」に対する書評なのか、『あたし彼女』に対する書評なのかという点において、イマイチ書いてるわたし本人自身が判断しかねている部分がある。
みたいな
全部読んでから読み直すのも面倒なので、一章毎に読んだその都度感想を書くという形を取ろうと思う。
みたいな
流行に乗り遅れた感あり。
みたいな
完全ネタバレ有り。
みたいな
以下引用部分全て第3回ケータイ小説大賞受賞作『あたし彼女』より。
http://nkst.jp/vote2/novel.php?auther=20080001

第一章

 一章を丸々費やした主人公による偽悪的な自己紹介。設定説明としては長いように見えるが、しかし実際の文字数に直せば小説ではシンプルな部類に入るだろう。設定の紹介はそれと気づかれぬように自然にやれという一般小説の不文律に照らし合わせれば、この一章は明らかに外れたものとなっている。そういった意味において新鮮であるし、過剰なまでの口語体も簡潔であるから嫌味でない。

・歳は23だが遊んでいる、今が良ければどうでもいい、
・今の彼は私が誰のかわからない子を二回堕ろしたことを知らないが、関係ない。
・たくさんの人間から慰謝料を取ったが罪悪感はない。本当の恋などあるわけがない。
 などなど、享楽的な考え方を提示するその一方で、昔同じように遊んでいた友人が「彼氏一筋」などと言うのをバカにする。が、そこにいくばくかの諦念と羨望が忍び込んでいることは、

マジ恋?

ないない

10億

くれたら

マジに

なってあげる

当たり前じゃん?

だって

アタシだよ?

みたいな

 という文言、特に「アタシだよ?」のくだりに感じることができる。ここの「みたいな」は他のページで句読点的に使われている「みたいな」とは違い、自分の心のうちに存在する、なんらかの認めにくい感情を、冗談にしてしまいたいというトーンが感じられる。ここに巧さを感じる。他のページで「みたいな」を連発していることにより、ここで「みたいな」を使ってしまっても、強がりの表現があからさまでなくなり、浮いてしまわないのだ。似た葛藤は、「誰にも迷惑をかけてない」と章の最後にまるで付け加えられたようなたった五行のページがあることからもうかがい知れる。


 さて、一章を終えたこの段階で、まだ物語は何もはじまっていない。これらの自分語りは全て、いかなるシチュエーションも提示されないまま進んでいく。圧倒的なまでに章一つを丸々使った前置きである。
 例えばこれが素人である僕なら、表面上だけでも物語が進んでいるかのように見せるため、いささかベタではあるが、「同窓会で久しぶりにあった女友人が変わっていた」、というような場面のシーンからはじめて、伏線を仕込みつつ、その中で自分を語る形式にするかも知れない。
 しかし、そういったいわば「退屈な手続き」が行われていないと言うだけの話で、伝えんとしている内容は同じである。であるならば、ケータイで読むことの可読性を考えるに、『あたし少女』のやりかたの方が幾分クールだろう。
 この章では極めてシンプルに現代小説にありがちな設定が語られている。
 例えば大槻ケンヂ著の『新興宗教オモイデ教』の主人公が、日常を拗ね、付和雷同的に振る舞う人間をバカにしている構図にも似ている。明らかに未成熟な精神をもったこの男を男性読者がある種のノスタルジーや、場合によっては憧れをもって許容できるような目で、女性の読者は『あたし彼女』の少々過激ながらも未成熟な主人公の人生観を見つめているのかも知れない。
 さて、こういった自己紹介が行われた場合、後の章で、前提条件を覆すようなできごとに出会い、価値観を揺さぶられるというのが一般的な流れだ。後に出会うできごとの「凄さ」を表現するためには、ここで主人公の性格を少々酷く屈折させておいた方が良い。『あたし彼女』はこの彼女の性格が巧く活かされるだろうか。おいおい見ていくことにしよう。
 さて、一章を丸々使って、仕込みは終わり、といった具合だ。語りたいこと以外を書くのに無駄な遠回りはしない、というのがケータイ小説、或いはこの作品の特徴かも知れない。読者の中には、もっと主人公の心情がよくわかるようなエピソードを出して欲しい、と思う人もいるかもしれない。だが、似たような経験をした人間、或いはそういった状況を想像したことがある人間からすると、余計なエピソードを挿入しない方が、余地的な意味合いにおいてより感情を移入しやすいということなのかも知れない。そしてケータイ小説の読者層にはそういった人間が多いのかも知れない。
 ただ一つだけ肝に銘じておかなければならないことは、こういったテクニックは筆者の独特な文体をもってしてこそ有効だが、素人がマネをすればお粗末窮まりない物になることだ。生兵法はケガのもとである。

第二章

 余計な遠回りをしないという筆者の姿勢は、「気持ちの変化」という予告的な第二章のサブタイトルにも現れている。物語を作る人間はあれやこれやと手を尽くし先の展開を隠そうと尽力してしまいがちだが、この作品の筆者は先を読まれることなど恐れては居ない。それも当然だ。ケータイで小説を読むという前提を考えれば、もちろん文面にもシンプルなわかりやすさを追究しなければならない。何度も遡って読まなければ何が起こったかわからない複雑な小説をケータイの小さなディスプレイで読ませるなど愚の骨頂である。非伏線的な予告も、時と場合によっては有効なテクニックであることを覚えておいて、損はない。


 主人公は享楽的な人生観を持ちながらこの世界中のあらゆることに淡泊であるかのように描かれているが、
・トモ(彼氏)は黒い物が好き
・トモの寝室には元カノのだと思われるピンクの枕がおいてある
 という描写が象徴しているように、トモの周辺のことは結構気にしている。にも関わらず彼氏をどうでもいい男の一人だといちいち心の中で断りを入れるところを読んでいると、お節介的なまでに優しい彼氏と倨傲な態度の彼女の構図も微笑ましい。


 主人公の背中にある傷痕の描写から、「二年前、遊びで性交渉をもった男の奥さんに刺された」というエピソードが語られる。主人公は今でもそのことに恐怖を感じており、たまに夢を見る。しかしその夢に変化が起こる。トモが助けに来るのだ。
 心情の変化の描写に「無意識」を使うのは古典的な手法だが、古典的故にシンプルなお話の構成の中で力を発揮している。
 ちなみにここに出てくる、

地味に

昼でも

夜でも

一人で

歩くの

ちょっと

ビビッてるよね

まぁ

カッコ悪いから

絶対

人には

言わないけどね

という描写によって、彼女の現時点でのメンタリティの本質は殆ど描写されてしまっていると見て良いだろう。


 プレゼント購入→つけっこ の一連の流れの主人公は、仮にこれよりもうちょっと男性的幻想に近い形で描写し、彼女の心中の声(バカ男 バカトモ バカ彼氏…)などを実際のセリフに変えてしまえば、完全によくあるツンデレキャラになってしまう。ツンデレがテンプレ化した今ではあまり感じないことだが、古来からツンデレとウザキャラは実に紙一重であった。

第三章

サブタイトルは「意味わからない 苛々するんだって」である(本当は間のスペースで改行されている)。ストレートに受け取れば、本当の愛に目覚め自分の心情の変化に戸惑う主人公→戸惑いをトモにぶつける主人公、という流れが予想される。


 仕事中にトモにメールを送り、会う約束を取り付ける主人公。

なぜか

アタシ

ベッドで

ガッツポーズ

 キャラがキャラなら萌え仕草。主人公はこの章の割と早い段階で、自分の想いが遅い「初恋」であるとはっきり認識する。その辺の認識を引っ張るのも限界だろう。いい潮時。そして章中盤では「幸せ」→「悪くない」という思考も見せている。
 さて、ここまで、ひたすら優しく、しかし主人公を束縛しない彼氏であったトモ。まるで仮面を被ったかのように見えてこなかった彼の素顔がにわかに顔を出し始める。トモは主人公に、過去に交通事故で死なせてしまった元カノ(カヨ)の存在を語る。カヨの写真を見て彼女が自分に似ていることから、自分がカヨの代替物だと思い知らされる主人公。主人公は自棄になってのセフレを呼び出すが、結果、もう自分はトモ以外の誰かではダメなのだと思い知る。
 ブレスレットなどを使った描写は無駄のないスマートなものだが、それに伴う細切れに改行されて長々と書かれる心理描写はケータイ小説ならではの独特な雰囲気を醸し出している。セフレの財布から金をパクってホテルを出る主人公。犯罪だからな。公序良俗ってなんだ。

第4章

 章タイトルは「だってさ  好きなんだもん」


 トモとのやり直しを切り出すことを決意する主人公。再びブレスレッドのガジェットとか。二人の関係性を象徴する物にしたいんだろうけど、使いすぎかなー。後でまた使うなら、決め打ちにした方がいいかも。トモの過去を受け入れて仲直り。「初めて会ったときから響子さんの中にあなたがいて、そんな響子さんを俺は好きになった。だからあなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」みたいな。めぞん一刻ならここで終わってる。

第5章

 章タイトルは「人を好きになると ここまで変われる みたいな」
 ライフハック系の新書の章タイトル並に明快である。読む側は主人公がどんな風に変わったかだけに全神経を集中すればいい。


 あの主人公がトモのために料理を作る。失敗する。トモ、無理して食べる。ここで「こんなの食べたらダメ、トモ死んじゃうよ」とかまで書いちゃうのがラノベラノベの主人公はこういうことでしか男を上げられないヤツがたくさんいるぜ。言い過ぎました。次は二人でキーマカレーを作る。幸せ描写に膨満感。トモもカヨの代わりじゃない主人公を見てくれてるようだ良かった良かった。
 ところがトモに触れようとして拒絶される主人公。さらに眠ったふりしてるところ「おやすみ、カヨ」と声をかけられてしまう。このままここにいても辛いだけだと別れを決意する主人公。ブレスレッドを返してサヨナラ。
 みたいな。

第6章

「頭の中は トモばっかり」
 だろうね。


 おかんに慰められる主人公。料理は上手になったけど食べさせる相手は居ない。しかしそんなある日トモから「着うた」を使った洒落た連絡が着て(←共催エクシング(JOYSOUND)、特別協力的NTTドコモ的に大事)、会いに行く。あれ、主人公から別れたんじゃなかったか? 人の気持ちは変わります。おまえの書評だんだん手抜きになってきてないか? 気のせいです。
 トモ談によると、主人公が尻軽だったのも、変わったことも、傷ついていることも知ってたとのこと。これは実は「自分を見て欲しかった」という主人公の願いに少々安直でご都合主義的な救いにはなっているのだがそこはご愛敬。ともあれトモからの愛の告白。良かった良かった。
 次の章のタイトルを見るに、お話が一段落ついたと見ていいのでしょう。

トモ

 いきなり章名の形式が変わったので何事かと思ったが、トモ視点の章、ということらしい。


 トモは主人公との出会いについて。

カヨの顔なら

なんでも

良かった

と考えていたらしい。カヨの代わりとしての主人公。主人公の変化。主人公が気になる始めるトモ……そして。


 正直、この章はいらなかったのではないかと思う。前章までを読んで想像できる以上のことは書かれてなかった。トモの気持ちに裏がないこと、トモがどれだけ主人公を見てたのかってことを明言したかったのかも知れないけど、語りすぎることで野暮になってる感は否めない。もしくは、どうせこれを語るなら、前章で「全部知ってた」とか言わない方がよかったなー。

第7章

「同棲生活ってやつ?」


 あらすじだけ。セックスで涙を流す主人公。同棲、幸せな生活。トモの実家への旅行中、熱を出す主人公。トモの両親登場。カヨに似ている主人公を見て、トモにまだカヨのことを想っているのかと聞く。トモは主人公のことが好きなんだ、と言うが信じてもらえない。その会話を聞いてしまう主人公。主人公は帰りの車の中でカヨを強く罵倒してしまい、それでトモとケンカになる。仕事で会えない日々が続き反省。そして赤ちゃんができたという事実が判明して次の章へ行くというコードギアスばりの引き方。

第8章

「ごめんなさい」


 ケンカ継続で言い出せないうちに流産。発覚から流産まであっという間。産婦人科からから出てくるところを、トモに中絶したのだと誤解される。たたみ込むようにここぞと主人公を追い込む作者。家を出て行く主人公。

最終章

「アタシ彼女」


 ここでたまたま産婦人科に立ち寄ったトモが産婦人科の先生と話をして誤解解ける、というエロゲ並のご都合主義が発動。「産婦人科の白髪オヤジがサンタ」は盲点だった。サンタにお願いサンタにお願い言ってたもんな。んで、ハッピーエンド。

感想

 まず先に、こまかく気になった点をいくつかあげてみよう。


 僕の書評後半が駆け足気味というか、あらすじだけになったのには、理由がある。
 3章から7章の間、主人公の心の問題の渦中にいるのは、常にカヨである。トモとの恋愛における幸せと、自分はカヨの代替物でしかないという不安が、スイッチを押すように交互にやってくる。そしてケンカをする、というようなことが三度繰り返される。最後のケンカもトモのご両親が引っかき回したとは言え、主人公の心にさざ波を立てたのはカヨの存在である。僕はこの地点で最後までカヨがお話の中心になるのは避けられないであろうと感じ、その方向で書評を書くべくアンテナを立てていた。
 ところがそうしてカヨ関係の禍根を残したまま終章に入ると、妊娠・流産の問題が出てきて、結局その後「カヨ」という単語は一度しか出てこなくなる。
 個人的主観になるが、本来なら主人公は自分の力で「真に」カヨ問題を解決しなければいけなかったのだと思う。何度も乗り切ったようで乗り切れてなかったわけだし、個人の心の問題だから難しいが、だからこそ正面から書ききらなければいけない課題だったと思う。ところが残念ながらそうはならない。8章で畳み掛けるように主人公に不幸を被せていった結果、トモに「流産を中絶と誤解した」という引け目を持たせることになり、物語上における重要な問題は、完全にすり替えられてしまったからである。これは失敗であったと感じる。流産が起こることをご都合主義だと言うのも変な話だし、その意味を曲解されて怒られてしまうかも知れないが、この問題が起こることによって、この物語上で起こっている問題は、主人公側からでなく、トモ側から解決することができるものになってしまったのである。(問題の解決において、別の問題をかぶせてきっかけにするというのは、創作においては良くあることだ。雨降って地固まる、というわけである)
 そしておそらくコレは故意である。何度か行われる主人公とトモのケンカにおいて、主人公から仲直りのアプローチをした4章より、他のトモが主人公に仲直りのアプローチをしたシーンの方が、ドラマチックに描かれている。つまり、そちらの方が作者的には得意なのだろう。また、最終章で主人公から「カヨのことは心のうちできちんと受け止める」というアプローチをトモにしてしまうと、それは全く4章と同じ構図になってしまう、という問題が生じる。だから流産という事件を挟んだことにも頷ける。
 しかし、カヨのことについて、本人視点の章で既に心の中で折り合いをつけている(僕個人が文章中からそういうようにに受け取っただけだが)トモから、主人公にアプローチできるようにするような話の構成になんの意味があるのだろう。最終章では主人公からのアプローチを描いて欲しかったというのが、僕の本音であり、後半の書評が簡潔になった言い訳である。
 あと章別の感想にも書いたけど、個人的にはトモの視点の章が蛇足であったと感じられた。

総括

 さて、読書後の総括を「実話の割にはリアリティがないし、まったくの創作にしては陳腐だ」――というような一言で締めてしまうことは容易い。あるいは「言葉使いの軽妙さに魅力がある」「わざとらしい現代言葉が鼻についた」「全体としてはいい話だった」「こんな都合のいい男おってたまるか」「主人公の傲慢さが許せない、これが実話ってどんだけだよ」という感想を持つ人もいるだろうか。しかしこれでは、「言葉のリアリティーがすごい。こんな小説は読んだことがない」という秋元康の、単に話題にしやすいように作品の分かりやすい表層を捕らえたコマーシャル的発言レベルの物でしかないのは明白だ。よって僕は別視点からこの作品の統括をして、終わりにしたいと思う。


 結論:AutoPagerize最高。

追記

読んで内容を確認してみたいけど文体が受けつけない、という人はこちらの現代語訳(面白い)で読んで見ると良いと思います。
http://d.hatena.ne.jp/konaken/20080927/1222520200
ただ400頁を超えるとはいえそれほど長いお話ではないので、どちらかといえば原文を読むのがお勧めです。