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 太郎は自分が無線兵に任命されたことに戸惑いを見せた。なにしろ、彼が生まれた土地は、無線のような精密機械はおろか自動車だって見ることのできない田舎だったからだ。辛うじて文字が読めるほどにしか学もない自分がなぜこんな機械仕事をさせられるのだろう、と太郎は首を傾げながら日々を過ごした。しかし、1ヶ月、2ヶ月過ぎて彼はこの人員配置が自分に適したものだったと思うようになった。彼の薄い体が、零下30度を下回る極寒の屋外でおこなわれる訓練に耐えられるはずがない――それに自分で気がついた頃には、目が覚めると、鼻の下にうっすらと霜がおりてくるような大気の厳しさが太郎の回りを覆っていたのだった。
 太郎の処遇をそのように取り計らってくれたのは、沢登という軍曹だった――実のところ、腰にいかめしいサーベルをぶらさげ威張り散らすだけの無能な将校の代わりに、第八方面部隊の全体を仕切っていたのはこの男だった。叩き上げの職業軍人である彼は、太郎の姿を一目見た途端に「この男は、この土地には耐えられないだろう」と判断し、すぐに名ばかりの指揮官に通信兵として太郎を使うことを進言したのである。太郎はそのことをなんとなく推し量っていた。特別ありがたいとも思っていなかったが、それから太郎は沢登に対して少なからず好意を持つようになった。
 しかし、沢登の方から太郎に対して好意を示すようなところは一切見られなかった。彼が太郎を通信兵として使うようにしたのも単なる職業意識からであり、心配からではなかったのだ。足手まといになるような男は、最初から足手まといにならないようなところにいてもらったほうが良い。沢登の適切な判断は、そのようなところから生まれていた。
 実際、第八方面部隊のなかで彼ほど冷徹な人間はいなかっただろう――部隊でも一番に軍属の期間が長く、実戦経験も豊富で、多くの敵兵の命を奪ってきた優秀な軍人であったことは、誰もが知っていることがらだった。無能な将校は、彼のような人物が部下として配属されていることで、いつも居心地が悪い思いをしていたぐらいだった。しかし、将校は誰に対してその不満をぶつけて良いのかわからなかったし、ましてや沢登に直接言うことなどできようもなかった。
 味方に沢登がいたことは心強かったかもしれないが、逆に恐怖を呼び起こすことも度々あった。なかでも部隊の人間を恐れさせたのは、第八方面部隊がチャムスの町に拠点を構える際に、町唯一の宿屋を接収しようとしたときのことだ。当時、中年の夫婦と彼らの娘によってその宿屋は経営されていた。いきなり日本の軍人が乗り込んできて、建物を譲り渡せと要求したのを、彼らがすんなりと受け入れたわけではない。通訳を挟んだ将校と宿屋の主人の間で、交渉は難航した(というのも、主人の言葉はあまりに北方訛りが強すぎたため、通訳がほとんど訳に立たなかったのだ)。
 主人の後ろでは、彼の妻がじっと通訳をにらみつけ、娘はその後ろの壁に寄りかかりながら事態がどう進展するかを心配そうに見つめていた。将校の側でも、主人の側でもどちらかが折れようという気配は無かった――前者はこの小さな町で使えそうな建物はここしかなかったと思っていたし、後者は20年近くに渡って続けてきた生業をおいそれと手放すわけにはいかなかった。しかし、言葉すらろくに通じないその状況は、お互いのやる気を削ぐのには充分な条件を備えていた。
 その泥沼にケリをつけたのが、沢登だったのである。
 そこまで沈黙を守っていた彼は、通訳の顔に浮かんだ濃い疲労の色を認めるやいなや、通訳を押しのけるようにして主人の目の前に立ち、主人の顎に拳銃を突きつけた。主人が肌に触れる銃口の冷たさを感じたのは一瞬のことだった――周囲に驚く時間も与えず、沢登は引き金を引いていた(そこには躊躇いは一切無かった)。彼が中国の馬賊から奪ったモーゼルから至近距離で発射された銃弾は、顎の先から頭蓋に入り込み、中身をたっぷりと掻き回したあと、見事に頭頂を貫いて主人を絶命させた。
 女将の顔は、主人の頭から吹き出た血液と脳漿が混じった赤黒い液体で染まり、将校の顔は一瞬で病人のような色になった。あまりに突然の出来事だったため、女将が叫び声をあげようとしたのは室内に銃声が響き渡ってからしばらくしてからだった。
 しかし、沢登は容赦をしなかった。女将がわけのわからない言葉を喚きたてる前に、大きく開かれた彼女の口に向かって2発目の銃弾を発射していたのである――今度の弾は、女将の後頭部から抜け出て壁に大きな穴を開けた。
 通訳と宿屋の娘はすでに気を失い、あとは血溜りのなかに2体の死体が転がっているその惨状下で立っていられたのは、もはや将校と沢登だけだった。
 「どうです?うまく話がまとまったでしょう」と沢登は将校の方を振り返って言った。彼の言葉に将校は辛うじて頷いたが、沢登と視線を合わせることができなかった。そうすれば、余計誇りに傷がつきそうな気がしたのである。合わせることのできない視線のなかに、将校は沢登の侮蔑を感じ取っていた――「腰に下げたサーベルは、単なる飾り物か?」