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aesthetica sive critica〜吉田寛 WEBLOG このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-12-28 どうしてSFは携帯電話を予想できなかったのか? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

以前、田崎英明さんと話していて興味を持った話題に「どうしてSF携帯電話イメージが欠落していたのか?」というものがある。80〜90年代SFアニメではテレビ電話に類するイメージは盛んに出てくるが、携帯電話はまったくと言って良いほど出てこない。それはどうしてか、という問題だ。

もちろんテクノロジー的には携帯電話トランシーバーの延長であり、それはSFにつきものである(腕時計に向かって喋るとか)。だが、街や駅で多くの人が歩きながら携帯で話をしている、という現代日本の日常生活の情景は、どんなSFにもアニメにも出てこない。つまり、今日のような携帯電話文化は、SF的には予測不可能だったということになる。なぜか?

この問題に興味を持って以来、いろんな人と会う度に話題にしてきたが、そのなかから何となくヒントになることが浮かんできた。

それは、携帯電話によるコミュニケーションはそもそも人類に必要がなかったから、という説である。だからそれはSFに描かれる未来予想図には登場しなかったのである。つまり、携帯電話の開発・普及はいわゆる「科学技術進歩」の線上にない、ということになる。それは生活水準を向上させたり、時間を短縮するための道具=技術ではない。むしろその反対の効果を持つというのが実感ではないのか。その意味携帯電話は真にポスト近代的な道具=商品である(周りがみんな持っていれば、本来自分は持たなくていいはずなのに、まさに周りがみんな持っているからという理由で、持つことが要求される、という点でもそうだろう)。

だがこれから登場する文化的インパクトを伴う道具=商品は、どれも携帯電話と似たような受容と普及の過程を辿らざるを得ないはずだ。そこでは技術の過剰が、本来なかったはずの必要性を、あたかも予め存在するかのように事後的に作り出すのだ(その意味インターネット掲示板を「落書き」の延長として理解するのはおかしいと思う)。

ベンヤミン技術の過剰が戦争軍事産業)を生み出すと警告したが、同じ場所を共有している人々が携帯電話を使ってそれぞれどこか違う場所と(のみ)つながっている、という現代日本の日常生活は、まさしく技術の過剰が生み出した一種の戦争状態なのではないか。携帯電話コミュニケーションの道具であるどころか、コミュニケーションを不可能にする「武器」なのではないか。そしてベンヤミンも言った通り、この戦争に勝者はいないのである。

今夜、久しぶりに乗った満員電車でそう確信しました。

リサイチリサイチ 2005/12/30 17:55 今思えば「子機」が携帯の伏線だったんだろうな、と思います。
電話が携帯電話にとってかわることも予測できなかったけれど、
電話にカメラが付くなんてもっと予測できませんでした。
電気ポットにテレビが付くぐらい脈絡ない。

aestheticaaesthetica 2005/12/31 01:00 >「子機」が携帯の伏線
家族一人が一つずつ持つ、という意味では確かにそうですね。あと初期の馬鹿でかい携帯電話がハイヤー等の車内電話の延長で実用化されたことも見逃せません。
>電話にカメラが付くなんてもっと予測できませんでした。
単純に「携帯電話の普及率」と「デジカメ技術の発展」という二つのファクターがたまたま同期した結果と考えていいのかなあ。
カメラ、mp3プレイヤー、テレビ、カーナビ…。さて次に携帯電話に付くのは何でしょうか? あるいは逆に考えて、何かに携帯電話機能が付く、というのもありうるけど。

cavoritecavorite 2006/01/05 09:27 高機能ケータイは、ポケットコンピュータという名前で70年代にクラークやニーヴンが書いている。
だいたいクラークは『未来のプロフィル』で「ケータイまじやばい」と書いている。
ラインスターが1940年代にインターネットを描写して読者にスルーされたように、これは受け手にスルーされたヴィジョンであろう。

cavoritecavorite 2006/01/05 09:46 そうそう、SFは「超能力」によってゆがめられた歴史があることを忘れてはいけなくて、人と人との高密度コミュニケーションは、いわゆる「テレパシー」によって「あなたとわたしがひとつに融け合う」「みんなひとつ」というヴィジョンが盛んに希求されていました。ああ、あと、特殊なクスリなんかも使われてましたね。
そういうヴィジョンに比べれば、マシンによる偽りの、スパーズなコミュニケーションなど、単なる中間段階、途中、さっさと次へ行くべきものだったので注目されていなかったという点があるかもしれませんね。結局、ケータイによるつながり実感など、先が見えない偽りのごっこですから……って、そういうことを言っているのか。

cavoritecavorite 2006/01/05 09:58 (続けてすいません)
そうそう、SF世界の見通しでは、機械がもっと早く知能化してるはずだったので、他者とおしゃべりするひまがあったら、テーブルや冷蔵庫とおしゃべりしてるだろうという方向へ抜けるヴィジョンもありましたね。ま、それを考えに入れると、技術の貧弱さが現在の状況を生み出しているとも言えるわけで。

foobarfoobar 2006/01/05 15:47 昔は町内or数軒に一台だけ電話があって、電話が無い家の人と話したい時はわざわざ呼び出してもらわないといけませんでした(←その時代はTVドラマでしか知らないので想像ですが)。
そのうち普及して一家に一台電話がある時代になりましたが、誰が電話をとるのが
誰か分からず、話したい人と違う人が出た時は呼び出してもらわないといけませんでした。
そのうち子機が普及して電話が(少なくとも家族の)共有空間で使うものから
プライベートな空間で使うものになりました。
それに伴い、以前は主に「用事を済ませるため」にかけるものだった電話が、
だんだんと単に「おしゃべり」をするためにかけるものになってきました。
そして、技術の進歩に伴って携帯電話が現れ、一人に一台電話がある時代になり、
ついには直接相手に電話をかけることができるようになりました。
プライベートな空間でプライベートな話をすることに既に慣れてしまっている人達は、
携帯電話の時代にもこれまでと同じようにプライベートな話をするために携帯電話を使っています。

考えてみれば、電話が発明された頃から、電話をかける人は「用事を伝えたい相手」や
「おしゃべりをしたい人」に電話をかけたかっただけなんです。
ただ、有線電話の技術的な制約のせいで「人に電話をかける」のではなく
「家に電話をかける」ようにせざるを得なかっただけなんです。
そう考えると、用事があるとき、おしゃべりしたい時にまさにそうしたい相手と直接
話をすることができる携帯電話というのは、人間の自然の欲求に従ったものであって、
まさに普及するべくして普及したものではないかと思ったりします。

bazbaz 2006/01/05 16:15 余談ですが、プライベートスペースを家の外に持ち出す習慣が広まったきっかけとしてよく言われているのがWalkman。公共の場に居ながら、自分だけの空間にとじこもって外とのインタラクションを拒絶する行為(Walkmanの出始めの頃はかなり奇異な行動だと一般に思われていたかと記憶しています)。そういったバックグラウンドも、ここまで普及した携帯がその場に居る人とのコミュニケーションを拒絶する方向で使われるようになってきた一因かも、と思ったりもします。

cavoritecavorite 2006/01/05 19:38 > 電話にカメラが付くなんて
個人が情報処理に関わる電子的装置を持ち歩くとしたら、あらゆる機能が単一の装置に収斂するはずという見方は当初からありました。
ここでは電話を軸にしていますが、電卓、電卓メモ機能、ポケットコンピュータ、電子手帳、という流れもあり、また、ラジオ、小型テレビ、音声メモ機などという方向もありました。

aestheticaaesthetica 2006/01/05 22:12 みなさま色々なコメントありがとうございます。
私は携帯電話に最後まで抵抗感を持っていた一人であり、妻の妊娠・出産という私的生活環境の変化を機にやむを得ず使い始め、まだ二年位です。とはいえもはや手放せない点では多くのユーザーと同じです(もっとも独り身だったら今でも使ってないかも知れません)。
むろん携帯電話は当日の待ち合わせなどには圧倒的に便利であり、「利便化」や「時間の短縮」という大きな意味での文明の進歩につながっていることは疑いないことです。しかしそうであればいっそう、どうしてフィクションの世界がそれを予測できなかったのか、ということが重要に思われました(クラークの『未来のプロフィル』は不覚にも知りませんでしたので今度読んでみます)。われわれは果たして「非常時」以外に、外で電話を使って会話をする必要がそれほどあったのだろうか。実はなかったのではないか。だとすれば、われわれが携帯電話を使って四六時中行っている行為は一体何なのか、それは実は「会話」や「コミュニケーション」ではなく、別の新たな何かなのではないのか、と考えたわけです。
まあここから先は社会学者や評論家がすでに色々論じていることだと思いますが、彼らは学者として現実を「後知恵」的に合理化して説明するのが仕事なので、「予言者」たる文学者や芸術家の未来予想図にどうして携帯電話が欠けていたのか、という私の問いの真意は理解してもらえないかも知れません。未来に対する想像力、先端技術の向かうベクトル、事後的に見出され合理化される「われわれ」の欲望。これら三者の重なり合いとズレにこそ、私は興味があるのです。

MahMah 2006/01/06 01:15  うーん。個人的にはSFの徒なのだけど、SFに書かれていなかったからXXというのは、あまり納得いきません。

 SFって、本来ありえないことをすら表現する世界観でしょうから。

 もちろん、SFで描かれて実現している現実は多いです(テレビとか代表でね)が、描かれていないけど現実要素として、とても重要になっていることはもっと
多いかと。今ぱっと言えって言われるとデリバティブとか(そんな予想している
SFありましたっけ?うちは知らない)。

 SFの真価は「未来を予測すること」ではなく、「わくわくさせること」に一票。

MahMah 2006/01/06 01:45 (続けてですいません)
 携帯電話が生理的に、必要無かったというのには個人的に同意しますが、SFを引き合いに出すということは、「進化論的に」とか「社会学的に」というニュアンスでしょうから、先の発言になりました^^;

 全てが未来予想図に書かれていた世界なんていやじゃないですか^^;

cavoritecavorite 2006/01/06 05:16 そもそもよくわからないのですが、70年代以降、SFの登場人物たちが「それを持っていなければ何もできない」小さな情報通信機器を持っていることは珍しくありません。
スレート、ポケットコンピュータ、ミニセック、ディスキーなど、名前はいろいろですが。
いったい、この「携帯電話を直接の祖先とする情報処理機器」であるケータイのどういう側面を問題にしているのでしょうか。
ずっと「携帯電話」と書いていますね? 電話としての機能でしょうか? それなら、「そんなダメな装置を使いつづけているとは」型の不在だと思います。SFでは、進歩した電話は、インプランとして持っていたりします。人工的なテレパシーですね。会話が外に洩れる、目の前にいる人を会話のなかに組み込めない、などの信じ難いダメな欠陥が解消されているのですね。現在のケータイのスキップして先へ行っているのでということです。

naijelnaijel 2006/01/06 08:22 初めてコメントさせていただきます。naijelというものです。
浅羽通明は携帯電話を「携帯できる分祀された神様」というような表現であらわしました。もっていれば安心、という聖書にちかいツールというか。
そういう没個性(?)な未来センスはSFを書くようなインテリに近い気質を持った人たちには我慢ならんハナシだったのではないでしょうか。駄文失礼します。

kgkkgk 2006/01/06 11:34 携帯業界に関わる少しだけSFファンの者より
 携帯ってテレパシーや超能力をものすごくかっこ悪く実用化したものなんじゃないですか?
 あと、ドーキンスいうところの「延長された表現形」の一種にも感じます。
 僕は1日に100通以上プライベートで携帯メールをする人間で写メールもよく送りあうんですが、僕がSFを読んでいて携帯に一番近い感じがするのは、自分の部屋に立体映像で相手を写して(もちろん相手の部屋に自分の映像も出ていて)まるで一緒の空間で会話するようにしているシチュエーション。これです。
 例えば携帯になんでカメラ?という人がいますが、通話相手の携帯カメラが自分の目の延長だと考えるとどうでしょう?。自分の携帯のカメラが相手の目の延長で。それによってここにいながら遠く離れたものを見ていることになります。ですからTV電話は普及しないけど携帯カメラは普及しました。
 自分の携帯のマイクが相手の耳、スピーカーは相手の口、ってことです。
 これでにおいが伝われば完璧ですが、においはいらないかも…

mimimimimimi 2006/01/07 02:01 そもそも、人があんな小さくて限られた入出力の機械の操作を躊躇なくできるというのが想像の範囲外だったのかと。
あんな細かい操作が必要で限られたI/Fの機械が高機能となって普及するとは考えられませんて。

たいやきやいたたいやきやいた 2006/01/08 10:04 「スタートレック」には現在の携帯電話に近い形状・ギミッグのアイテムが登場していたと聞いた気がしますが…?

ふ 2006/01/09 07:11 街で多くの人が歩きながらケータイしてる、という情景をSFが予測できなかったのは、それが薔薇色の未来でもディストピアでもなく、さらには情景としてもかっこ悪いからかと。

SampoSampo 2006/01/12 12:11 はじめまして。
小松左京の「空中都市008」では携帯電話が登場・解説されていて、「個人持ちの電話がまさかな」と思ったものでしたが、現在から考えてその慧眼に驚いています。

komatchkomatch 2006/01/13 02:00 はじめまして!大変興味がある話題提供有難うございました。SFの中では、空中移動や高速移動できる乗り物が創造されていたことにより、話したいときにはその「高速移動できる乗り物」にのって話せばよいのでは!という様な志向があったのではないかと思いますが... いまの携帯電話は人類の億劫さの極み?というのは言い過ぎでしょうか..
あと、「インプラント」という用語が出てきましたね。これは攻殻機動隊の世界観でwireless会話機能モジュールが義体化の機能の一部として組み込まれたのですよね。(確かにテレバシーとして捕らえられるかも...) 映画が公開されて10年経ちますが、その頃はまだ車載用の大きな物が世の中に出始めた頃に脚本が書かれていますから、それを体内に取り込む世界観を描いた押井守さんも予期していたのかなぁ...そして私はまだ読んでいないのですがウィリアム・ギブスン著「ニューロマンサー」の中では携帯電話として記載されているかどうか分かりませんが、興味のあることが書かれているのではないか、と勝手に思ってます。

RomanceRomance 2006/01/13 22:37 はじめまして。面白い話題と思い、興味深く拝見しました。
ですが、結びの部分がよくわかりません。
どうして携帯電話を使っているのが「戦争状態」なんでしょうか??
携帯電話の登場以前には、満員電車という空間を共有する者同士に、現在とは違って何かコミュニケーションが成立していたんですか?

ROmROm 2006/05/11 02:34  別にSFが現実を予見できなかった例はいくらでもあるので、携帯電話が特別というわけでも無いと思うが。
 よく言われるのが、月に人間が行くという話は腐るほど書かれていたのに、そのどれ一つとして、月世界旅行が国家事業としておこなわれるというシナリオを書いた作家はいなかった。しかも世界中の人が月世界に人間が降り立つ様子を生中継で見ることが出来るなんてことは、全く誰も想像だにしていなかったと言う話。

OttoOtto 2007/05/03 00:14 安部公房『第四間氷期』(1958-59)にも「携帯用の無線電話」が登場しますよ。「SFは携帯電話を予想できなかった」ということはありません。

OttoOtto 2007/05/03 00:26 ハインラインのspace cadetという作品(1948)にもケータイが出てくるようです。
http://www.technovelgy.com/ct/content.asp?Bnum=745