小説、無職=宿命系で書き出しだけ書いてるのがあるんだけどそれは今身を入れて書く気分ではないのでほぼ放置してあるが、たぶんしばらくはいい感じで書ける書き出しにはなっていると思う。たぶん書き続けるにあたってはスタイルをまねてる作家をあまり読み返して意識しないほうがよかろうと思われる。いや、むしろ実物に触れたほうが頭の中でイメージになって陳腐化してしまったスタイルより本物はずっと自由なんだ、ということがわかっていい場合もあるからそこはまあケースバイケースで。スタイルというのは自分の自由を確保するために自分を守るものとして使わなきゃね、と思うのである。

今さらいうことでもないんだけど、私の書いてるような小説って思い通り書ききって成果出してしまっても全国で150人くらいの人に関心してもらえるのが想定できるMAXじゃなかろうか。
しかも150人に周知というのはA川賞でもとらないと、いやとったとしても会見で切腹でもしてニュースになったとしてもやはり無理な話だ。

いま投函後というか完成後、はじめて通しで読み返してみたら後で埋めようと思って空白にしてたところが一カ所だけそのまんまで焦ったけど、そのこと以外は時々もしやここから弛緩していくんでわという心配もすべて杞憂のまま通過してとうとう最後まで行った! 書こうと思ったものがちゃんと書けてたので何も思い残すことなく次に進める。

夢=外傷系の小説に関しては今回やれたという手応えを得られたことで今後への不安は激減した(と思う)。
そこでもう一方の無職=宿命系の小説、つまり私の守備範囲内(仮)におけるストーリー部門にこれからは手を出してみてもいいのではないかという気がしている。
「外傷」は「宿命」へと置き換え可能なものだ。スタート地点をゴール地点にひっくり返すだけである。それだけで小説の言葉は顔の向きが正反対になる。部分だけ見ればほとんど同じような動きを見せていても、小説というのはスタートからゴールに向かう一方通行のものなので両者は併存できないのである。


ストーリーといっても、ミステリのようなものは自分には書けない。結末から逆算されて言葉の動きが細かく制限されるようなものは書けないのだが、「外傷」が反転した「宿命」的なものは、細部がかなり自由に動かせるとともにフレームとして作品全体をひとつのアイコンのようなものに収めてもくれるはずだと思う。
のがれられない結論に向けて運命の歯車が回るようなストーリーということになる。
ストーリーというのは全部そういうものだといえなくもないが、その結論が読者から隠されてるタイプのストーリーは、結論を見誤らせるためのニセの道筋を読者に正確にたどらせなければならない、という不自由さがある、と大雑把にいうことができる。
逃れられない結論、宿命、というものを読者と共有しないとストーリーで細部の自由は確保できないのである。

忘れないうちに(急速にすでに忘れつつあるが)今回書いたものについて軽く総括。
やはり後半書くスピードが上がっていった結果、うわっつらをイメージがすべりがちな箇所が目につくようになってたと思う。子供の宿題を親がやっちゃってるような箇所。時間の許すかぎり手を入れたけれど。
文章ではイメージはつるつるすべるから、書くスピードが上がってるときはイメージですべってることを疑う。映像表現ではたぶん逆に言葉がすべるんだと思う。つるつると。


ちょっとこういう書き方(夢=外傷系)からはしばらく離れてみようかと思った。無職=宿命系のが書きたい。

イメージがすべって書いてしまったところをあとで読み返すと、逆に無意味さが足りないというか、意味だけでスムーズにつながってるように感じられる。
言葉は意味を通過しないとイメージを描けないので、音とか字面とかの無意味さにとどまっているかぎりイメージがすべっていくことはないわけだ。でもその小説のすでに書かれた部分を、書き手でさえ言葉の集積として丸ごとそのまんまとらえるのは難しくて、どうしてもイメージで把握してしまうという問題がある。イメージで把握してしまうと続きもイメージの領域で書こうとしてしまう。
書いてるものが長くなるほど全部を読み返すのは大変になるし、何度も読み返してると視線がつるつるすべってイメージしか読みとれなくなるということもある。
そこで「外傷」的なものが必要になるわけか。「外傷」はイメージ化できない。直接言葉とのあいだでやりとりが生じる。「外傷」に根拠をおいて書くということが、あまりうまくできたためしはないような気がするが。