経歴

ai32006-10-18

何となく気まぐれに立ち寄った市の図書館で
思わぬものを見つけた。




タダで利用できる図書館と言う場所には
実に様々な経歴をもった人がいるものだ。


平日に学校をサボっているのに遊ばずに図書館で勉強している高校生。
テスト期間で学校が昼で終わったのかもしれない。

外回り営業マンにはみえない、くたびれたスーツをきた若い会社員。
手にはベンチャーのカリスマ5人の体験談と起業のノウハウ本を持っていた。

子供に絵本を与えて、ファッション雑誌を読みふける若い主婦。
子供はしきりに母親を振り返りよく分からない言葉で同意を求めていた。

重そうなメガネを鼻に乗せて、爪をかじり、ヘミングウェイ
ぶつぶつと音読しながら、しきりに周りを気にしている50代の男。

ヘタな脱色で痛みきった茶髪、波乱万丈を肌の質感にしのばせた、
水商売風の50代の女性。私と目が合うと何故か鼻で笑った。

若い頃は仕事に生きて家族をかえりみず、子供も妻も冷めきっていて、
退職後家にいずらく、しかたなく歴史小説でもよもうかと慣れない老眼鏡と
格闘しているようにみえる老人。

ゴミ袋に衣類と新聞紙を詰め込んだものを2つ、3つ足元に置いたまま
職員の目から遠い奥のソファーでいびきをかいているホームレス。




ホームレスのほこりと体臭と色んなものが混ざり合ったむせ返る匂いの
そばを通り過ぎ、私は宗教の棚の前で立ち止まった。


つるりとした坊主頭、それに反して濃い眉毛、硬く結ばれた唇、
一重の目は潤んでいて、やたらにぶ厚い胸板と肩が大きく上下していた。
もう季節は秋で夜は肌寒いと言うのに、半そでにハーフパンツという服装で
薄暗い本棚と本棚にはさまれた狭い空間で、本を手に荒い息をしている
その男は、私が近づいても気づかない様子だった。




私は男の息を荒くしている本の内容が気になった。
性について書かれている本が、この宗教の本棚にあるのだろうか。
ヒンズー教のカーマ・スートラでも読んでいるのかと、
男の取り出した本が並んでいたと思われる、本の隙間をさがした。


「あ」といきなり頭の上で男の声がした。
私は必要以上にビックリし、声の主を見上げた。
本に注がれていた目が、私を見ている。



「あの時のOLさんだよね。友達が飛び降りをしてしまって・・・」
男は同情的なやさしい目で私を見ていた。
「君は怒ってたよね、友達を確認させなくて」



OL時代、友人が自殺して、朝、会社のビルの前に人だかりができていて
私は、友人の太陽に透けた横顔がとても綺麗だったことを思い出して、
死体にかけよろうとしたのだった。
手首をつかまれて「見ないほうがいい」と押しとどめてくれた
穏やかな声と、オレンジ色の服の記憶がよみがえった。



「あの時の、消防の方ですか?」
男は恥ずかしそうにうつむいて、答えた。
「もう、やめたんだ」
沈黙の後、男は微笑んだ。
「今は坊主になる勉強してる。」
男の読んでいた本は、分厚い経典のようなもので、縦に漢文が
ずらりと並んでいた。

また少しの沈黙の後、
「うそ、タダの無職」と男は悲しそうに静かに笑った。
「君は?まだあの会社で働いてる?」

私は、言葉につまった。
何から話したらいいのかとっさに考え、そんなに詳しく
話す必要もないことに気がついて、動揺し、
「ええ、まあ」と答えた。



男はその本を借りて、私は何も借りずに、図書館を出た。
何となく、一緒に歩いた。

そして、何となく男を連れて帰りたくなった。
男が、今にも泣き出しそうな目で夕日を見つめて、あてもなく
私と一緒に歩いているように見えた。
「家近いんだけどお茶でも飲んでく?」という言葉が
飲み込めない唾液のようにノドの辺りでつっかえていた。

何となく声を出したくなかった。
ただ、一緒に歩いていたかった。



男は、地下鉄の駅が見えると、指でそれをさした。
「どこまでですか?」と私が聞くと、
「僕は歩きです」と答えた。
「私も。近くなんです」
私が困ったように笑うと。
男が可笑しそうに笑った。




私は、自分の心の動揺を見つけた。
焦燥感でも、執着心でも、支配欲でもない、
あたたかい動揺が広がった。
私は、この男ともっと話してみたい。
もっと、一緒に笑ってみたい。


しばらく相手の出方を見るように、二人ともその場で立ち止まり、
携帯を取り出して時計を確認するふりをして、番号を聞こうか
どうしようか迷い、結局何も言い出せないまま別れた。



人はそれぞれに経歴を持っている。
誰かを近くに感じ求めると言うことは、
その経歴を受けとめるということだ。
私は、誰かに受けとめられたいと願ったことはない。
いつも、一方的に誰かを受けとめ、自分で自分を受けとめてきた。




男の背中を見送りながら、
私は、生まれて初めて臆病な自分を受けとめきれないでいた。