youtu.be

 

現実の資本主義社会はこの歌と歌詞の通り、人は人間として生きていけない。

ヘーゲルは疎外といい自己疎外だといった。

その弟子のマルクスも同様に資本主義はもっとも人間が生きられない社会原理(労働生産原理・生産様式社会)だといった。

それを歌った曲だ。

 

だがそれを黙って受け入れ、それに埋没してはいられない、私達は生きるために戦わなければならない。

 

その戦いの武器は労働者の団結しかない。

これだけしか武器はない。

だからこの武器は必ず勝てる強力な力を持つ。

 
だからこそ資本主義とその資本家《(金や財産を投資する人々)企業家(工場会社を持ち労働者を雇賃金で働かせる人々)たち(階級)》は、自分たちの政党と政権とマスコミ学校教育などの社会システムを使い労働者の分断を常に洗脳宣伝している。
 
今の私達のように、人間関係で疲れ分断させられている。
 
男女(同性)の本能と性愛は、硬く結ばれることを目指す。だがこれも資本家階級と政権社会制度は、大衆音楽などの洗脳も利用して離婚と家族の崩壊を促している。
 
強大な社会システムに逆らうことは大変な困難を要するが、私達人間は本能から愛を求めざるを得ないのだし、友人親友を求めざるを得ないのだし、団結せざるを得ないのだから、人間の本能と本性を信じて、それを求めることはやめてはならない。
 
だから自殺はするな、戦って疲れて殺されない限り。
 
 
マルクスは今でも叫んでいる、「世界の労働者よ団結せよ」と。
 
これを読んだ後、もう一度童子の歌を聴いてほしい。
 
泣くな、涙は拳で拭くものだ。
 
タイトル:たとえば ぼくが死んだら 歌手:森田童子 作詞:森田童子 作曲:森田童子 編曲:千代正行
 
たとえば ぼくが死んだら そっと忘れて欲しい
淋しい時は ぼくの好きな 菜の花畑で泣いてくれ
たとえば 眠れぬ夜は 暗い海辺の窓から ぼくの名前を 風にのせて そっと呼んでくれ
たとえば 雨にうたれて 杏子の花が散っている 故郷をすてた ぼくが上着 衿を立てて歩いてる
 
たとえば マッチをすっては 悲しみをもやす
 
この ぼくの 涙もろい 想いは 何だろう
 
たとえば ぼくが死んだら そっと忘れて欲しい
淋しい時は ぼくの好きな 菜の花畑で泣いてくれ

世界新経済制度への提案概説

下に掲載するスプトニクの記事を読んで、世界新経済制度への提案概説

下に示す記事の、IMFの提案が示された内にも、様々な問題が含まれ、それらを揚棄するためには、現在の世界経済システを二層化するしかないだろう。

 

世界経済体制のリセット
例えば、IMFが第一に提案する「グレート・リセット」とは、「過去の経験に目を向ける必要があるとの見解を示している。」「公的債務の高まりに関する問題を調整する」こと「債務が持続不可能となっている場合には、速やかに債務を再編する必要があると指摘している。」ことと述べているようだ。

それが各国の承認のもと世界的経済と各国の経済の債務と債権の無効化が同時に行われることを意味して、それで世界経済の平準化(+−ゼロ=リセット)が行われ、世界経済活動の再出発、再活動と再発展性を確保できるとしても、そのことで新時代の経済システムが自然に誕生するのではない。

債務と債権の無効化はギリシャ時代「ソロンの改革」に実例がある。

またドイツの第1次大戦の戦争被害の莫大な補償債務となったが、それについての言説には欧州各国が帳消しにしてあげて、それによってヒットラーの興隆と政権の経済政策遂行が可能となったとか、第二次世界大戦後にドイツは第一次、第二次の補償を完済したとかの話にもなっているが、果たしてモラトリアムがあったとしても莫大な補償額を完済できるだろうか?。実態は政治取引のことで定かではない。

 

さてもしそのような例のように、同時債権債務の帳消しの「グレートリセット」が行われも、現にある経済システムの問題(矛盾)とそれによるその他の問題が解決するわけではなく、むしろ世界経済は早晩頓挫することになるのではないだろうか。

 

 

国際経済問題を解決するには


IMFの提言の意図と債務と債権の無効化の話しとは別にして、下のスプトニク記事でも触れられているような、地球的な経済的問題やその他の問題郡を揚棄するためには、さらにIMF提言が自らの国際通貨監視管理の役割や、金融流通経済学のあれこれの手法問題を超える内容となっているように、「古典経済学」の理論に立ち返る必要があることを表しているだろう。

そこで以下、国際的経済の問題郡を揚棄する提案となるが、現在の世界経済システを二層化するしかないのではないだろうか。

 

世界経済制度の2層化とは

その第一層は、世界各国の共通認識としてビットコイン(金の経済的特性)の特段的、特権的措置をし、原則的に為替扱いと証券化等をしないことを条約・確約化すること。(ビットコインだけは投機対象にさせず、しかし第二層目の経済動向により特別措置としてビットコインの平準的価値と価格の変更が必要になる可能性を含むため)
この公平さと世界共通認識とそれによる確約的保全性と経済政策(民主的共同管理、基軸通貨、決済、流通性等の管理)によって、世界経済信用性と安定性を確保すること。
こうして世界経済の安定性(=権威と信用の不変性)を確保する
ことができる。

二層目は基本体制は現行の世界経済システム(IMFや国際銀行などでも)のままにして、一層目のそれに対応する点を若干の手直しをすればいいのではないだろか。
こうして現在もある国際経済の自由性が確保されるが、それ故にその自由勝手に動く各国の貨幣評価価格(価値)や景気の不安定性が生まれることにもなるのだが、第一層の世界的安定性がガードラインを形成することになる。
さらに一層が国際慣行化する中で、現在ある二層目の諸問題も徐々に解消化されていくのではないだろうか。

こうした二層構造世界経済システムの掏冶性と順応性、可塑性(有機的変容性)を確保し諸問題を調整できるのではないだろうか。

従って、もちろんのこと各国の経済政策が国内経済矛盾とその問題と、その解決の様子を決定するので、新国際経済システムが直接的に介入、もしくは影響を与えるものではないだろうが、新時代経済システムに順応できない国は不利益を被ることになるだろう。

 

諸問題を揚棄するとは

諸問題が発生する要因には、各世界的企業とその国の自由勝手な、無原則な、自制するすることがない、全体を見られない、活動目的が利潤追求にしかない、大規模な、結果責任を持たない、等など、その他の人間とその社会、国、自然、地球的な関連から生まれる様々な因子があることによって、起こっている。

従ってそれらの問題が複雑に関連しあい、またそれぞれの問題に含まれる有用性が関連しあい、時間と空間とも関連する問題郡を同一的に解決しうる、高次の解を求めることを、命題を止揚するとか、問題を揚棄するとかいう。

 要は、それらの問題は経済問題の次元を超えて、もはや哲学的次元の命題となり高次の抽象性の能力が求められるため、経済や政治、法律などの個々の知力では理解できない、あるいは理解し合えないという、歯痒い性質を持つことになっている。

 

それら問題や命題の性質を踏まえて分かりやすく言えば、

つまり新国際経済システムにより、各国の経済成長と政治的成長を促すことになり、その発展性による総合的な信用が「見えざる手」となるのではないだろか。
さらに、新経済制度の2層構造の一層目は、世界経済発展のための世界セイフテーネットが作られるとも言えるのではないだろうか。
あるいは新自由主義経済がもたらした地球的諸問題を解決するための、新国際福利主義(第二次、新ケインズ主義)だとも言えるのではないだろうか。

このように補足すれば、おおよそのイメージや主意を理解していただけるのではないか。

参考
当該スプトニク記事執筆者がIMFのどの記事を対象に論じているのか不明だが、内容に沿うような論調が以下の2つだろう。
https://jp.weforum.org/agenda/2020/06/gure-to-risetto-no/
https://www.imf.org/ja/News/Articles/2020/10/15/sp101520-a-new-bretton-woods-moment

各国際経済諸問題は以下を参照
https://jp.weforum.org/





以下スプトニク記事


1944年の計画に倣って世界経済のリセットを提案するIMF
2020年10月26日 17:50(アップデート 2020年10月27日 13:03
筆者 : リュドミラ サーキャン

スプトニク日本記事

https://jp.sputniknews.com/business/202010267881619/



世界通貨基金IMF)の代表は、新型コロナウイルスの感染拡大によってもたらされた世界経済の影響を払拭するためには過去の経験に目を向ける必要があるとの見解を示している。
IMFが提案するのは、第二次世界大戦末期、米国ニュー・ハンプシャー州のブレトンウッズで、ナチス・ドイツに勝利した後の国際金融機構の機能に関する協定が締結された1944年の計画に倣い、経済回復のための新たな世界的なシステムを構築するというものである。
ブレトンウッズ協定は44カ国によって調印され、ブレトンウッズ体制と呼ばれるようになった。
IMFは、現在、世界は「新たなブレトンウッズのときがきた」、つまり、経済の価値を見直し、リセットするときがきたとの見方を示している。

IMFのクリスタリナ・ゲオルギエバ専務理事は、「わたしが世界経済にとっての「長い道のり」と読(呼の誤字か?)んでいる道のりがわたしたちの目前に控えています。
困難で、ばらつきが大きく、不確実で、そして幾度かの後退もありそうな登り坂です。けれども、これは上へと進む道なのです。そして、わたしたちはいまも続く問題の一部、つまり、低迷する生産性、大きな格差、迫り来る気候危機に対処する機会も得るでしょう。
パンデミック前の世界を築きなおす以上に、優れたことがわたしたちには可能です。
未来を見据えて、より強靭で、持続可能性が高く、あらゆる人々のためになる包摂的な世界を構築することができます」と述べている。

IMFが提案しているのはどのような措置なのか?
一つめは公的債務の高まりに関する問題を調整するというものである。
IMFは、2021年に債務水準が大幅に高まり、対GDP比で見ると、先進国でほぼ125%、新興市場国で最大65%、低所得国では50%くらいになると予測している。そこで、リスクを注視し、債務が持続不可能となっている場合には、速やかに債務を再編する必要があると指摘している。

またデジタル技術の導入の必要性も訴えており、これは貧困を克服するための金融包摂の発展を促すものだとしている。

一方、人的資本への投資は経済の成長と強靭性を支えるものである。こうした投資の中には、信頼性が高く、誰もが享受できる保険システムも含まれている。また格差が深刻化し、技術革新が進むなか、絶え間ない教育と職業的訓練を行い、また男女平等を達成することも必要である。これに関連してIMFは、男女格差がもっとも大きい国では、それを解消することによって、GDPを平均で35%増加させることが可能だとしている。またインターネットの大幅な発展とアクセスの確保も重要である。というのも、インターネットによって若者に、将来の発展にきわめて重要なデジタル経済に参加する可能性を与えるからである。
そして、もう一つ重要なのがグリーン経済へのスムーズな移行である。過去10年間における気候変動に伴う自然災害による直接の損失はおよそ1兆3,000億ドルとなっている。

IMFの提案はどれほど差し迫ったもので、どれほど実現可能なものなのか?
スプートニクはこれについて、ロシア高等経済学院、世界経済・世界政治学部のイーゴリ・コヴァリョフ副学部長にお話を聞いた。

「世界の繁栄は、国際的な経済関係―つまり製品やサービスの貿易の成長、また世界における労働力、資本、アイデアの流れに直接的に左右されます。現在のコロナウイルスパンデミックは多くの国の経済はもちろん、国際的な経済関係全体に打撃を与えました。ですから、単にパンデミック以前の発展レベルに戻すだけでなく、世界の金融・経済活動全体を近代化することが必要不可欠なのです。IMFの提案はもちろん一理あります。

とりわけ、デジタル経済、気候変動との闘い、コンピューターへのアクセスを世界中の人に等しく保障することなどは重要な問題です。しかし、これは決して新たな課題ではありません。これまでIMFがそれを実現できなかったのはなぜでしょう。
現在、すべては以前に比べて、より複雑になっています。もしブレトンウッズ協定に金融市場の主要なプレーヤーである44カ国が署名したとしたら、現在そのようなコンセンサスを得るのは簡単なことではありません。
なぜなら、この間に多くの変化が生じているからです。世界経済における中国やロシアの役割は拡大しており、最近ではさらに、競争の激化、保護主義、貿易戦争、古い自由主義の崩壊を背景にした制裁などが起こっています。
それぞれの国と国の間で、あまりに多くの矛盾や互いへの要求が蓄積されてきました。米国は自らの主導的地位を守るためにありとあらゆることをするでしょう。しかし、中国やロシア、またEU諸国もこれには反発しています。IMFの問題提起は正しいと思いますが、それを実現するためのメカニズムはまだ見えてきません」。

ブレトンウッズ体制という、決済と為替レートの国際システムは1944年から1976年まで30年以上にわたって機能していた。ブレトンウッズ体制は、第二次世界大戦後の世界経済を建て直し、新たなレベルに引き上げることを目的に確立されたもので、それにより、ドルは金に裏打ちされた数少ない通貨の一つとして、国家間の決済および準備金保管のための手段となった。
ブレトンウッズ体制は、戦後の貿易の拡大と世界経済の加速化をもたらし、この問題にうまく対処したと考えられている。
そしてほかでもないブレトンウッズで開かれた会合で、世界銀行IMFの創設が決定した。しかし、その後、発展し続ける国際貿易のために米ドルだけでなく、さらに多くの手段が必要となったのである。そして1978年までには、ほとんどの国は変動相場制へと移行した。

後日添削あり。

世界と国、社会改革の進め方


  日本をどう改革するか?
思いつきではなく、本格的な議論を!




日本共産党は、自らの理論的支柱であるマルクスとその資本論を真剣に研究所し続けている。

世界的に知られているマルクス資本論は日本の学術会や知識人層においても、多くの人が読んでいないことがわかる。

彼らから発言される内容からして、資本論を読んだことがないで、知らないが故に陳腐な理論を展開している事に、気づかないでいる人が割と多い。

資本論は経済学の本だだとかいう誤解いがあるが、決してそれだけがマルクスの執筆意図ではなく、哲学的テーマや歴史学テーマ、人間解放のテーマやそのための革命テーマ、その人類が向かう世界への必然を、物的証拠を挙げて証明しているものだ。

壮大な意図を持った著述作なのである。

近頃日本の現状を憂いて、改革をいう者が増えているが、マルクス資本論共産党宣言などが教えるところを知らず、また身につけず語っていても、陳腐なものでしかないことをしらない。

今後の時代進展が様々な社会状態や政治状況が出現させても、それは局限的局地的な状況であって、物的根拠を持ったところから実証された必然性を外れる事はできない。

だからこれを無視した改革運動は必ず失敗するだろし、本来の歴史的発展の道筋を阻むものにもなるだろう。

それは丁度、社会主義を名のったソ連や北欧社会主義などの国々の活動(国の発展的改革の努力)の様に、歴史的発展を阻む醜悪な実例になったように、有害なものになるだろう。

https://youtu.be/5jSvW91-K3M

自分と他人を見比べるということ。

見比べるということについて。

加藤周一という「知の巨人」だと言われていた人がいた。日本の状態に匙をなげてフランスのどこかの大学の教授をしていた人だ。彼が言うには二つのものを見比べていても正解は出ないという。最低3つのもの、しかもそれぞれ違うモノを見比べないと正回答を得ることはできないのだと言っていた。

これは認識論や科学論として出発点となる根本的(あくまで的であるが)視点である。
この原理を知らない人が割とおおい。

見比べて正しく判断を下せるためには。

人類が正しい認識を進めてきた歴史で、つまり科学的な正しい認識進めてきた結果獲得した原理は、「最低三つのモノと見比べる」という意味に深い内容が秘められていることについて知ったことにある。

例えば「日本という国を知ろうとしたら、外国のことを知ってそこから見比べないと日本という国のことは分からない」。

などといって外国に行き、その国と見比べて確かにその国と日本は別な点が多いのだな〜日本を見直し知った気持(考え)になる。

しかし日本とABCD・・・・国という全部と見比べても日本と全く同じという国は一つもない。ということは日本という国を知ろうとしたらその全部の国を知らなければならなくなるだろう。しかも各国の歴史、民族、生活風習などなど沢山の要件を見比べなくてはならないことになる。それは別な各国のどれか一つの国を取り上げてもその原理は同じことで、それら全部の他国を知らなければ「自国」を知ることはできない。


より正しい評価基準と判断基準を持つために。

人類はこのような問題に直面して正回答を得るためには、全部の国の違いを見つけるのではなくて、各国に共通するものを見つけなければならず、そこから各国の違いを見つける方法を編み出した、というより発見したのである。

違いを見つけるのも一定の評価基準をもって、そこから各国の属性の違いを見つけて、どのぐらい違うのかなどを知ることができることを発見したのだ。

こうして発見した一々を記帳して長い人類史の中で正否両面の知識を積み上げてきて、「学問」と呼ばれるものを見つけてきたのである。

これを言葉を換えて分かりやすく説明すれば、その学問とは長さを図る定規の役割をもつもである。

一つの学問は分野別にある問題についての正判断を与えるための定規なのだ。だから一つの国をどんな国なのかを正しく判断するためには、本来の正しい経済学から、その国の経済を判断し、それと同様に法律学(各国の法律とは別の)を、政治学、教育学、民俗学歴史学、地理地政学などから評価判断を下せるのである。

自然科学系の学問は世界共通の学問であり、国別の違いはない。

したがって私たちは正しい社会科学の各学問を持たなければ、世界的、各国の社会的姿を正しく捉えることはできないのである。


日本らしさ、自分らしさとは
さらにまた国家のアイデンティティーといわれるものを自分個人のそれに置き換えると、自分を正しく捉えるためには同様の原理があるわけである。

そこで世界全部の人々と、過去に生きていただろう人々とも見比べなければ、正しい判断はできない。しかも正しい学問を全部身につけなければ、ただしい判断基準、評価基準を持つことはできない。そのことを知らざるをえなくなる。

そこで大昔の人々は、人間に関わる全てのものを見て正しく判断を下せるもの、さらに自然を見て正しく判断を下せるもの、しかも人間と自然を見る目(評価方法)に違い(矛盾)がないないものを見出す必要があり、様々思考し論争して宗教編み出してきた。

仏教などは今でも宗派が分裂しより、正しい解釈を与えるものを見つけようとしている。
キリスト教は聖書(時代ごとの「現代語訳」)があり、それを評価基準判断基準にするために一定の宗教的価値を保つことができている。(より正しい解釈を得るために学者たちが研究論争を続けている)



学問としてそれらに回答をあたえるものとしてあるのが哲学であり、キリスト教はいち早くギリシャ哲学から重要な要件と、質問疑問や合理的回答を学び、自分たちの宗教(聖書)に取り入れてために、その生命力を持つことができている。

従って現代では学問としての哲学を知らなければ、正しい認識と評価と判断基準の原理を知ることができないのである。

哲学(美学芸術文化評価)はそれら全ての学問の認識を巡る中心問題に回答をあたえる学問であると言える。実際に正しい哲学は科学的認識を獲得し、それを進める方法を示し、物理学の発見に大きく貢献している。

宗教学でも真の宗教学はそれを研究し記述する者が、仏教やキリスト教などどの宗教・宗派にも属さずに、宗教を客観的に論述したものでなければ宗教学の名に値しない。だが現代の多くの「宗教学」なるものは、記述者が哲学をしらないために、その点を勘違いして宗教宗派研究とその流布(つまり宗教活動)となっているため、注意を要することになっている。歴史学も同様な問題を抱えることになっている。

「氷の芸術」だとかの一般的な意味の「芸術」でなくて、本物の芸術に対する社会的評価基準について。芸術作品の評価基準ではない。

トレチャコフ美術館のレーピンの名画 不審者により損傷

スプートニク日本 2018年05月26日 20:45

jp.sputniknews.com


ロシア絵画の粋を集めたモスクワのトレチャコフ美術館の名画、イリヤ・レーピンの『イワン雷帝と皇子イワン』が25日、不審な男性によって部分的な破損を蒙った。男は現行犯逮捕されている。ロシア内務省のイリーナ・ヴォルク公式報道官が明らかにした。

男は囲いに使われている金属の棒で名画を覆うガラスを割り、キャンバスに損傷を与えた。事件は刑事事件として立件された。

イリヤ・レーピンは1844年にロシアで生まれ、1930年にフィンランドで没した有名なロシア人画家。風景画、歴史画、肖像画と広いジャンルを天才的にこなしたことで有名。
襲われた名画の『イワン雷帝と皇子イワン』は1885年に制作の歴史画。イワン雷帝が実の息子をうちすえた挙句、死に至らせる寸前の狂気の場面が描かれている。当時、殺人、流血の場面があからさまに描かれることがなく、しかも皇帝一家が対象であったため、評価は賛否両論に分かれ、大きな論争を巻き起こした。鑑賞者によって損なわれたのは実は今回が初めてではない。帝政末期の1913年、精神病を病む若いイコン画家によってナイフで切り裂かれている。特に主人公らの顔が大きなダメージを受けたため、レーピンはほぼ最初から描きなおさざるを得なかった。



私の見解

形有る者は壊れるものだが、また消滅しないものはないが、とはいえレーピンは天才であり偉人だ。

ロシアの文芸の高さとそのロシア人の精神性の気高さを代表して示すものであり、文化的権威である。
従って本来なら彼の作品一つづつに、現閣僚級の保護を与えるのが正当な作品評価だ。
閣僚はロシア人の権威の僅かを数十年しか表せない。
それより彼の絵一枚だけでも幾十倍も長生きしロシア人最高の精神的権威を代表し続けるのものなのだ。

世界の絵画芸術を理解する者たちは、レーピンとその作品はミケランジェロやベラスケスなどと並ぶ人類精神の高純度な結晶だと考えている。
それはすでにロシアだけのものではないのだ。人類のものなのだ。

だからこそ閣僚級の防護体勢を作品ごとにつけるべきだ。
また美術館などで閲覧する作品は、一級模写(本物と変わらないほどの)作品に取り替えるべきだ。本物の細部描写などのデータはビデオで見比べられるようにしたら、鑑賞者の用には足りるだろう。

それでも是非本物を見たいという人たちには申し込み書類などを提出してもらうなどするといいのではないか

死についてのアンソロジー


自殺・自殺幇助。死刑・について

死を巡る議論―自殺天国のスイス    




 SWI swissinfo 社説    2016-07-11 11:00



https://www.swissinfo.ch/jpn/%E7%A4%BE%E8%AA%AC_%E6%AD%BB%E3%82%92%E5%B7%A1%E3%82%8B%E8%AD%B0%E8%AB%96-%E8%87%AA%E6%AE%BA%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9/42286650?moreComments=true#comment_5af9a97b0cf298dcca2ed3d3



不治の病であれ、生きるのに疲れたのであれ、死について議論する際、自己決定が最も重要であり最後の論拠となる。大多数の人が生の終え方を自分で決めたいと望む。スイスで広く受け入れられている自殺ほう助は、致死量の薬を摂取することで死を迎えるが、この最期の行為は患者本人が行わなければならない。事前に医療の手助けも必要だ。

 スイスは自殺ほう助の先進国だ。年老いた人が自殺する権利は事実上規制されておらず、外国人が安楽死を求めてスイスを訪れる「自殺ツーリズム」がブームになっている。このリベラルな現状を見ると、スイスでは自殺ほう助が肯定的に受け止められているような錯覚に陥るが、実際は違う。自殺ほう助は政治や宗教、社会通念や倫理などといった価値観との戦いの連続だ。たとえ差し迫った状況にあるからといって、人の命をどうするか、そもそも問うていいものなのか。自殺ツーリズムを法で規制するか否かの議論はいまだ消えることはない。

 スイスの自殺ほう助提供団体「ディグニタス他のサイトへ」や「エグジット他のサイトへ」は、自殺ほう助を「最後の人権」だと主張する。あらゆる手立てを失った人にとって最後の頼みの綱になるからだという。


 患者の希望は何よりも優先される。
死にたいという希望は倫理的な判断抜きに尊重されなければならない。グラールス州の地方議員ティス・イェニー氏は同州の病院で自殺ほう助による死を選択し、その一部始終をメディアが追った。しかし、メディアが流した情報は非常にシンプルなものに仕立てられていた。つまり最期まで自殺の決断を貫徹した強い人間の姿といったようなものだった。著名人の自殺ほう助を伝えるニュースは、どれもそんなイメージだった。自ら命を絶つ自由は、以前は宗教信者らに軽蔑される行為だったが、現在では当局が許可し、尊厳を持って行われる、まるで何か素晴らしいことのように扱われている。スイスはその自殺ほう助のメッカだ。

 ただ緩和ケアの現場が示しているのは、現実はそうではないということだ。緩和ケアは治る見込みのない病気などを抱える患者の心と痛みを和らげることを目的としており、死や死にたいという意志に向き合い、またそれをタブー視することはない。自殺以外にも生を終える方法はある。自殺は家族や親類に後々まで負担をかけ、患者自身も最後まで死ぬか否かの極限の二択に悩まされることになる。私だったら死ぬだろうか。それとも思いとどまるだろうか。

 患者の意志は最も尊重されるべきだ。

それ自体は正しい。この意志ははっきりとクリアーなものでなければならないが、現実はそうとは限らない。ここが緩和ケアの出番だ。過去の経験から、自殺願望は病気が末期の時に弱まる。また患者に知識を授け、寄り添った場合にも、自殺願望は低下する。弱りきった患者が自殺するか否かを一人で判断する必要はない。神学者で牧師のスザンナ・マイヤー・クンツ氏はグラウビュンデン州の地元紙ビュンドナーのインタビューで、このようなプロセスを踏む際には誰かがそばにいるべきだと語った。クンツ氏は、患者が同プロセスにおいて死の決心から解き放たれるさまを何度も目にしたという。これだけではない。頭の中が澄み渡り、心の平安を得ることで、患者の不安は消えるという。


 人生に疲れた人がいる。

「人生を十分満喫した」高齢者も存在する。しかし、不治の病に冒され、死ぬか生きるかの選択を迫られるのはたいていがいきなりの出来事で、しかも体力や気力に充実した働き盛りの年代でだ。そうした時、患者の意志は他人の意見や価値観、信条、宗教や自身の不安など、様々な要因の影響を受ける。だからこそ、患者は本当にそれを望むのか、入念に確認しなければならない。それが個々の宿命の複雑さを尊重することにつながる。


 緩和ケアは万能薬ではない。

しかし死を巡るオープンな議論の場を社会に提供してくれる。我々の社会はこの議論に真摯に取り組むとともに、自己決定権についても考えなければならない。スイスでは、自殺ほう助に対してあまりにも肯定的なイメージが持たれている。病気などで他人の手助けなしに何もできない時に死を決意するならば、単に自分で決断して致死量の薬物を飲むよりも、人間らしい生の終え方は存在する。もし、私たちの完全なる自主性に基づいて導き出した最高の生の終え方が自殺であり、それが理想であるなら、スイスは今一度立ち止まって考えなければならない。自殺ほう助が決して当たり前のことになってはならない。

自殺ほう助は基本的人権であり倫理的に許容されるか、あるいは自己決定権に制限を課すべきと考えますか?ご意見をお寄せください。

スイスの安楽死


一般的に、安楽死には複数の種類がある。

「受け身の安楽死」は、医師が治療を中止することで死を迎える手法。「間接的な安楽死」は医師が患者に致死量の薬を処方し、飲み物を一切与えない手法。「自殺ほう助」は、医師が患者の自殺を手助けすることを指す。「積極的な安楽死」は医師が患者の意志に基づき、注射や薬物投与によって死亡させることで、スイスではこの場合のみが違法。
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関係機関の対応


自殺ほう助への対応は地域によって異なる。

自殺を認める介護施設の数は増加の一途をたどっている。2014年、エグジットによる自殺ほう助583件のうち60件が高齢者施設で行われた。バーゼルでは、自殺を認めるか否かは各施設の裁量にゆだねている。カトリック色の強いヴァリス(ヴァレー)州は禁止。ローザンヌなどの州立病院やチューリヒ市の高齢者施設では自殺ほう助が行われている。










オーストラリアの104歳研究者がスイス到着、10日安楽死  

「死ぬ権利」

https://www.swissinfo.ch/jpn/-%E6%AD%BB%E3%81%AC%E6%A8%A9%E5%88%A9-_%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%94%E6%AD%B3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%80%85%E3%81%8C%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E5%88%B0%E7%9D%80-%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%97%A5%E5%AE%89%E6%A5%BD%E6%AD%BB%E3%81%B8/44106046#comment_

2018-05-09 16:24

高齢を理由に安楽死を希望していたオーストラリア在住の研究者デビッド・グドール氏(104)がスイス入りした。10日、バーゼルの自殺ほう助団体の支援を受け、自ら命を終える。

 グドール氏は9日、バーゼル市内で記者会見し、自殺ほう助によって人生を終えることに満足していると発言。ただ、本当はオーストラリアで死を迎えたかったと心のうちを明かした。オーストラリアでは自殺ほう助は認められていない。
記者会見のようす

 グドール氏はこの日集まった報道陣に「私が言いたいのは、50歳か60歳になった段階で、このまま生きるか死ぬか、本人が自由に選択できるようにするべきだ」と語った。

 グドール氏は長年、オーストラリアの自殺ほう助推進団体「エグジット・インターナショナル」の会員だった。104歳の誕生日を控えた4月初め、バーゼルの自殺ほう助団体「ライフサークル」のサービスを受け、安楽死をする意向であることを公表していた。不治の病に冒されているわけではないが、生活の質が低下していることなどが理由だという。

 スイスで自殺ほう助は合法化されている。このため、国外から不治の病や高齢を理由に安楽死を求めて来る人が多い。



  薬物を飲んで死亡

 グドール氏は10日にも、薬物を飲んで死を迎える。

 仏ボルドーの親類を訪ねたことについて、グドール氏は「ボルドーにいる家族にさよならを言うのは少しつらかったが、仕方ない」と語った。







         真理の理論について。(私個人の意見)

    

       真理と真実には階梯がある。


  

階梯とはハシゴの段のように上に登っていくように人間が直面する一切の問題の回答を得て行く様子、方法をしめしたことばである。

その一段を登ることを、止揚と言ったりする。

ここで話す内容から分かりやすい例えを言えば、ある個人がいる。
氏名を持つ固有の人間のことだ。そうのような人間の顔には個人固有の一人だけを示すヒトという顔のことである。

もう一つの顔は「ヒトは人間だ」というように現代社会的で歴史上に居た人たちを意味する「人間」という顔がある。

さらにもう一つは「人類」という言葉の、ヒトと人間の顔と人類の顔がある。この顔を類的存在だとか普遍的存在いだとか言う。

この三つはどれも個人が持つ人間の顔である。(*1)

ヒト個人が直面する問題は、幾つも複合した問題でも分解して問題原因を捉えると、必ず二律背反的な問題に行き着く。

例えば正義はあるVs無い。芸術の優劣を測る価値観はあるVs無い。幸せはあるVs無いから求めている。等などである。

これらの二律背反の問題の答えは相反するものに共通する要因を、さらに階梯を上げたところに正解等がある。

こうして幾段もある階梯を登ると真実があり真理に行き着く。

それが人類の普遍的な姿である。


(*1 3つの顔は個人から人類までを説明したものだが、これ以外に自分の人生の中での顔も有る。男、夫、婿、父、爺、」女、娘、妻、嫁、母。子ども、少年少女、青年、中年、壮年、初老、老人、職業別、職種別など等の顔をもつ。)



 真理の理論からすると選択死、幇助はあやまりである。

なぜなrら人間(個人と人類史と)の生命は自然の摂理に則ってある。地球上の生命(植物・動物)を自身が生きるために、また自分勝手放題に(食品を大量に捨てている一方では飢餓で死んでいる)命を殺し自分のエネルギーへと転化し、自身の命としてきた。

また鉄鉱石などの資源を使い戦争や種の断絶など破壊活動を行ってきた。

これらの万物に対しての責任(罪悪)を持ち、それを果たす(命を全うする、真理を掴む)のは真理が与えた人間と個人の義務である。

個人と人間と現在社会(世界)の非人間性の実情況の救いがたい事実(苦痛)から、救われることは許容されるべきだろう。
しかしこれは自然摂理ではないし真理ではない。人間が愚かであることの事実結果である。

そのような原理と共通する問題があるのが死刑問題である。死刑存続論は非人間性の実情況の救いがたい事実の一つであり、許されるべきではない。これは自然の摂理の法則とはまったく異なる、しかも世界中の国の法とも全く別な、死刑を自国だけの法で正当化している野蛮なものである。

死刑を許容する国、国民、個人のそれも人間の愚かさと動物的、非人間的残虐さが残っていることの実証事実である。

その他の人間と現在社会(世界)の非人間性の実情況の救いがたい事実(戦争様々な野蛮行為=搾取、貧困、核兵器の開発保持威嚇、企業利益獲得のための自然破壊、社会的弱者子ども・神身障害者・女・高齢者・被社会差別者など、歴史上にあった大量殺戮、奴隷制など)は許されるべきではない。これも人間の愚かさと動物的、非人間的残虐さがることの事実である。

このような錯誤の人間とその社会現象の結果、殺人事件を起こし、病理的犯罪なども起こることになっている。
つまり犯罪を犯す方も死刑を望む方も人間の真実を知らず、錯誤の人間社会に生きてきて故の結果なのです。

以上を自覚するものは自死をしてはならないが、真実の人間の姿のように生きられない現実社会条件では、止むを得ず認めざるをえない。

これが真実と事実の階梯である。その上の階梯に真理がある。

このような正しい世界観が、仏陀、キリスト、マホメッドヘーゲルマルクスエンゲルスレーニンなどが示した真理である。

  
  2018.5.12

哲学の話し

 


    

[[哲学って結局何の役に立つの?。]]



説明としては導入部のないいきなりの話となりますが、短い文章で哲学を学ぶ理由を説明するための方便ですので我慢して読み始めてください。

読みすすめるうちに哲学と言うものがどういうものかも、おおよそ理解できることと思います。

哲学の根本問題とは=人間が思考したり意識することがができるのは何故か?どんな原理があるのか?といった問題です。



    哲学はここからはじまります。

物があるから人間が意識できたり考えることもできるのだ。というのが唯物論哲学と言います。

いいや、人間は意識するということができるから、物の存在を知ることができるのだ。とするのが観念論哲学といいます。

つまりこれは哲学を学ぶ皆さんが哲学についてアレコレ言っているうちの根本的な問題なのです。

それは、例えば君や若者たちや小学生が、どのように認識して、物事を学び、勉強できるようになるのか?(こういう問題では教育学の根本問題でもあるし、育児の根本問題でもある)という問題なのです。

だから哲学は「人間が何か知ろう(認識)とする」場合の、つまり世界の物事を知ろうとする時の学問の中の学問であり、「すべての学問(万学)の王だ」という言葉も産まれることにもなりました。

哲学はギリシャ発祥でヨーロッパ育ちの学問ですから、哲学が「すべての学問(意識や認識活動や理性、智識活動)の王」と言われては黙っている訳にはいかないのがヨーロッパ世界のキリスト教界です。

彼らは「万物の王は神であり学問は王の従者だ」ということにしなければなりませんでした。

これに対して哲学者や他の学問の学者たちは「宗教は王(政治)の妾だ」と批判(実際すべての国の政治が宗教の権威を利用して農民や市民、国民を従わせています。)しました。

やがて中世キリスト教界は聖書の教えなどに反する者を、宗教裁判などで弾圧することになり、彼ら哲学者や他の学者たちも口をつぐむことになりました。

そのようにして人間の認識活動(学問や理性)が徐々に眠り込まされるようになって、さらに王や他の国やいつの時代の為政者も、国民に対すして「愚民政策」をとり「由らしむべし知らしむべからず」という原理によって民衆や国民をなるべく無知な状態におき、かつ教会が教え導く通りに労働に勤しむようにさせていました。

このように人間の理性と万学は、おおよそ14世紀ルネッサンス初期(初期資本主義の始まり)ぐらいまで、発展できなくされてしまいました。



      理性や知性や学問の危機

理性や知性や学問というものは、それによって発見や発明がなされ、さらにそこから機械が作られたり化学製品が作られて、さらにそこから利益が生み出される源となるものです。

ですから資本主義にとって自然科学の発達は、利潤に結びつきますのでこれを認め応援することになりました。

その一方、社会学はさほど利潤には結びつかないモノだったから、必要以上には応援しませんでした。

こうして歴史が進んできて、現代社会では物理学を始め化学などの自然科学系は大きく進歩することになりましたが、教育学〜政経・法・哲学などは頭打ちに(発展できなく)されてきているのです。(のちに金融経済学や数量経済学などは支援されるようになります。)

資本主義にとっては労働者や国民が政経・法・哲学など知るようになってもなんの得にもなりませんし、むしろ抗弁したり反抗するための知識(意識)にもなりかねません。



     唯物論と観念論のたたかい

さて話は一転して、物があるから人間が意識できたり考えることもできるのだという唯物論哲学は物質を第一義的・積極的に捉えるので、そこから発見や発明を促したりしますし、さらにそこからの経験値や知識などにまとめる学問の力にも結びつきます。

このように唯物論は知性や理性とっても適合性や適法性(理に適った性質や、法則などという時の「法」のこと)があります

それに対して観念論哲学は意識や観念を第一義として物の存在を二義的なものするので、意識や観念によって物が分かるのだから、人の意識次第で物が見えたり知(発見)ることができるのであり、意識しなければ物は無いのも当然という主張をしていて、物自体を注視しないため発見発明を遅らせたり知性や理性などにとって適合法性が劣ることになります。

ですから観念論は宗教の原理と同じで、宗教が神とするものを頭の中(意識や観念)で想定して、その意識を第一義的として神は「居る」とか「有る」と二義的に分かるのだ、という観念論と同質の原理のものなのです。
つまり考えたりする意識があるから、物事が有ることがわかるのだとするものなのです。

こうして唯物論は物質を第一義的とするから物事に気付き、また知ることを促し、人間認識や理性を発達させるよう働きます。

それに反して観念論は宗教が支配していた中世ヨーロッパと同じように、理性の発達を神(観念や意識のありよう)に委ねてしまい、理性の発展を邪魔するものとなり、その歴史期間が永ければ永いほど不合理性を顕在化させて行くことになります。   



     現代資本主義国の唯物論と観念論のたたかい

ですから現代資本主義国に生きる我々のほぼ全員が、国家がとる「愚民政策」や「由らしむべし知らしむべからず」の原理と観念論の言説を加えた考え方を刷り込まれて、理性を眠りこまされ、不合理なものを助長したり不条理を受け入れて、知らず知らずよく働く考え方になるようにされています。

哲学の話として換言すれば、多くの国民が利潤を追求する資本主義とその国によって、観念論哲学の影響下に閉じ込めらることになっているのです。

あえて哲学を学ぼうとする者には、哲学などいうものは訳の分かりづらいモノで、それらしい理屈を付けたり、その術を学んだりするモノで、人間の意識では不合理性や不条理性も断定できないのであり、そういうことを知るための学問なのだ、などとされてしまうのです。

とはいっても、哲学も学問なので嘘と分かることは言えないので、現代観念論哲学の中心的問題も「認識論」だということになっています。

しかし物事の原理は様々な哲学(観念論の)理論があり分かりづらいものだ、という結果にされてしまうのです。

観念論の哲学理論は、哲学者個人の観念や意識しだいの理論ですから、自分独自の哲学理論の体系を打建てられた者の分だけ、しかも過去の観念論哲学者の分だけあります。

さらにまだ自身の体系理論を打建てていない「哲学者」教授たちがそれらの理論をミックスして教え広めていて、なんちゃって観念論哲学が無数にある状態になっています。



     観念論の大天才ヘーゲル現る

それら観念論哲学の第一人者は真面目な天才であるヘーゲルです。

この偉人は観念論者ですが、あまりにも研究熱心で優れた哲学体系の理論を作ったので、当時ヨーロッパ世界に受け入れら流行していました。

だが難解なため当初はハヤリで持てはやされたのですが徐々に内容が理解されるようになると、王侯貴族たちはへーゲル哲学は事物は変化するという弁証法を再興(古代にあった理論)して、国家も時代も変化していくものだと論証し切っているこを知り、ヘーゲル哲学を打ち消しし始めました。

当時は絶対王政でしたから王制も国家も変わり無くなってしまうと論証されていたのですから、
ヘーゲル哲学がヨーロッパ世界に出回たことに泡食ったわけです。

ヘーゲル自体は王制が終わり次にフランスのような市民国家(資本主義)になると確信して、それが人類の到達点だろう考えていました。

しかし資本主義国家が人類の最終到達社会ではなく、資本主義も「国家も変わるのだ」と証明しているヘーゲルは資本主義国にも嫌われことになりました。

ですが、しかしそれが哲学と言う難解学問であり理解する人自体が少数であること、観念論であること、難解中の難解理論であることなどの理由で無視しつつ、哲学の世界では「哲学者」とされる人の頭の数で「ヘーゲル理論は終わった、古い」と宣伝させ、印象操作で打消し攻撃が行われることになり、現在でも続いているのです。



  唯物論は正しいのか

さて再度話は一転して、君や若い皆さんは、自分が新生児の時からどうやって外界を意識(認識)し始め、学び、身につけ、話し、考え、答えや結論を得られるようになって行ったのでしょう?。

人々が誕生して来たときには産まれて来ようという意識が先にあって、それを自覚してか、なんとなくかは分かりませんが、それで誕生してきたのでしょうか?。

また君や人々は産まれてきてから、なぜ英語やフランス語ではなくて日本語を身に着け、日本語で考え、日本語を使うようになったのでしょうか。

産まれる前に英語やフランス語や日本語など沢山の言語があることを認識(意識)していて、次にその意識をもとにして日本語を選択してから産まれ出てきて、日本語を話せるようになったのでしょうか。

つまり、はたして日本語という「意識」を持つようになってから、初めて日本語を選べるようになって、日本語を選んでから産まれてきたのでしょうか。

さらに今現在も「自分とは何か」「自分らしく働ける職業や職種は」「自分に向いた就職先は」「自分らしく生きるとは」「どう生きるのか」(「何故生きるか」は観念論哲学の「生の哲学」からの出題)という問題(悩み・出題・提起)などを、どうやって知り(意識や認識ができ)、考えるように、なったのでしょうか。

君が産まれる前から意識していたのでしょうか。

まとめると、つまり哲学とは「人間」にとっての、あるいは「悩み」という問題にとっても、根本的な、現実の、生きた(「どう生きるのか」は唯物論側の「生の哲学」からの出題)テーマであり、そのような問題に答えを導くのが「哲学」なのです。

    

     歴史が流れ着いた現在の君たちは

残念ながら、君を始め若い人たちのほぼ全員が、生きている現実の人間と、その社会や地球と宇宙とは全く関係していない(*)かのような哲学を学ばされ、あるいはマスコミや先生が出題する「虚構現実」の問題に注目させられる、「とんでも哲学」や「なんちゃって哲学」を身に着けるようにされてしまっているのです。

(*こういう考え方を形而上学といい、その対義語としての弁証法という関係)

君と若い皆さんが本当の(真の)哲学を探し、身につけることを願い期待しています。