ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

あっという間のはなし。

あっという間に4月である。欠伸をしている間にもう4月。ついこの間まで蕾だった桜がもう咲いていて、しかも満開になっている。こんな調子でどんどん月日は流れていくのだから、きっと残りの人生だってあっという間なのかもしれない。じゃあ何か特別なことを始めるのかといえば、何もする気になれない。できるだけなんでもない毎日をそれなりに麗らかに過ごしたいだけなのである。本を読んで、酒を呑んで、オモシロオカシク暮らしたい。いやいや、今回はそんな話をしようと思ったのではなかった。


4月といえば入学シーズン。うちの長女も先日、晴れてピッカピカの一年生となった。嗚呼、芽出度い。ついこの間までヨチヨチと歩きながら、ビスケットの欠片を口の周りにいっぱい付けていたあの娘が…。これまでの数年間の子育てを思い起こしてみると随分と長かったような気がするのに、子どもの成長というふうに考えてみるとあっという間のことのように思える。子育てというのは楽しいばかりではない。実際泣きたくなるようなことだってたくさんあった。それはぼくよりも連れ合いの方がより大変だったわけで、たくさんの人に支えられながらも夫婦二人で泣き笑いしてなんとかかんとかやってきたのだ。だから、あっという間だったとはとても思えない。ところが、子どもの成長というものはそういった泣き笑い話とは全く関係がないところで勝手に進んで行く。もちろん親の育みあっての子の成長だとは思うのだけれど、親はなくとも子は育つ。親の心子知らずにホントあっという間である。早く一人前になって巣立ってほしいなどと思いながらも、巣立ちが日一日と近づくにつれて淋しさは増す。普段は忘れているようなそういう感情が、節目である入学式などで思い起こされてグッとくる。むかしはいちいち泣いている大人を見て愚かしいと思っていたけれど、今やぼくは愚かしい大人の代表格にまで登り詰めてしまった。嬉し淋しくて胸がしめつけられるんだもの、仕方がない。そんなことをあれこれと考えていたら、どうやら失って惜しい時間を過ごせたときに、ぼくは「あっという間」を感じるらしいことに気付いた。


充実感とか達成感なんかも微妙に影響していると思うのだけれど、思い返したときに「このまま終わっちゃうのは惜しいなぁ」なんて思えるようなときに限ってあっという間を感じる。旅行なんかもそうで、楽しみにしていると、行きの道程は長いのに帰りはあっという間に感じる。ところが同じ旅行でも嫌々の出張や付き合いの旅だとどちらもとにかく長くて疲労感だけが残る。やりたくもないことをやっている時間、一日、一週間、一ヶ月、一年…やる前から長いし、過ぎ去ってみてもやはり長い。ぼくにもそういう時期があった。辛くて長い数年間は確かにあった。まあ、そういう時期もあっての今だし、その時期に吸収して得たものは今の人生の大きな肥やしになっているから損だとは思っていない。むしろ有難いことだと思っている。でも、折り返しの人生はできればあっという間でいきたいな。


ここまで書いていてふと気付いたことなのだけれど、ここのところあっという間の数年間が続いているということは、ここ数年間を「惜しむべき時間」として過ごせているということなのだろうか。なんやかんやと波のある人生だけれど、人からどんな風に見えているのか分からないけれど、ぼくにとっての確かな惜しむべき時間を過すことはできていたように思う。こんな人生だってありだし、きっと悪くないんだろうなと、中途半端な中継地点にある自分の人生を振り返ってみて思う。惜しむべき人生を送りつつ、気付いたらあっという間に終わってた!みたいな生き方っていうのが理想的かもな…などと娘の寝顔を眺めてうっとりしながら思う今日この頃である。