ブルーストッキングの女たち
先日、「ブルーストッキングの女たち」を観る。(宮本研作、木村光一演出、純名理沙、かとうかず子、上杉祥三、中村彰男他出演)
この作品、私にとって非常に思いいれのある作品だ。
明治44年、女性だけで創刊された文芸雑誌「青鞜」、すなわち「ブルーストッキング」。
少女時代、この明治大正を力強く生きた女性たち、平塚らいてうらに大きなあこがれを抱いていた。
今よりもっと女性の権利が制限されていた時代に、堂々と雑誌を作り自らの声をあげた女性たちのなんと輝かしいことか。
「ブルーストッキング・・・」は、この青鞜社に大きな夢を抱いて入社した伊藤野枝(純名理沙)が主役。
彼女が上京し青鞜社に入り、辻潤(評論家)との離婚、無政府主義者大杉栄との結婚などを通じ成長していく姿、彼女を取り巻く女性たちの生き様を描いた作品。
女性の権利を声高に主張する姿ではなく、正直で、時代と戦ったがゆえに大きな犠牲をも伴った彼女らの生身の姿が描かれている。
しかも、「女は引っ込んでろ」などと言うようなこの時代から想像されるような居丈高な男は出てこない。(劇中劇の「人形の家」ヘルメルくらいだろうか)
辻潤も大杉栄も頭のいい野枝におしみなく自らの知識を教え、彼女を伸ばしていく。
大杉は野枝を「同士」と呼び共に戦っていこうと言う。
島村抱月は松井須磨子につき従い、彼女と共に日本の近代劇を切り開こうとする。
「女性」の人格を、現代の男性以上に認めた男性が魅力的に登場する。
実に上演時間は3時間だが、全く飽きさせない。
作品は間違いなく名作だ。
登場人物たちの「言葉」だらけの難解な、しかし、生き様がそのまま伝わってくる長い長い台詞。
難解でしかも場面展開が多いのにも関わらず、登場人物一人一人に焦点が当てられているよくできた作品、さらに女性の登場人物が多いことから(結構少ないですよ、女性の多い戯曲)俳優養成所の卒業公演に行われていることが多い。
その作品がプロの俳優に上演される。
これは、万難を排しても行かねば、と勢い込んで紀伊国屋ホールに入る。
しかし、上演されていた芝居は正直言って満足いくものだとはいいがたかった。
少々私の思いいれが強すぎるせいだろうか。
1番気になったのは大杉栄の演じられ方だ。
自分の思想の主張を熱く主張するたびに、どんどん普通では受け入れられないような奇人に見えてしまうところに大変な違和感を感じた。
確かに大杉自身熱い人間であったと思うし、自分の主張に対しては並々ならぬ熱い感情があったと思う。
だが、あの演じられ方だとかなりエキセントリックな人に受け取られるのではないか。
「本心では穏やかな家庭生活を望んでいた」というような台詞などから察するに、過激な思想とは裏腹に、本当はごく普通の穏やかな人間ではなかろうか。
戯曲自体も当時としては非常に画期的で過激な思想を持った男女の、ごく普通の「人間」としての一面を描きたかったのではないか。
しかも「自由恋愛」(相手があっても双方とも自由に恋愛ができる)を主張していた大杉は、当初妻があっても新聞記者の神近市子や野枝を虜にし恋愛した男だ。
あまりにもエキセントリックだと、そこまで魅力的には見えないように思える。
そして、劇中劇のイプセンの「人形の家」の描かれ方にも不満を覚えた。
松井須磨子が演じるノラがいよいよ家を出る場面。
このノラの夫であるヘルメルの演じられ方がどうしても、当時の新劇の大仰さ(なんだろうか?)だけを真似たようにしか思えない。
劇中劇といえども、真っ当にひとつの芝居としてきちんと作りこむべきではないか。
「遊んでいい場面」のような描かれ方が残念でならない。
舞台のセットにも不満が残る。
登場人物が独白している間は後ろで転換があるが、その音がうるさくて仕方がない。
そして、場面ごとにいちいち「菊富士ホテル」などと垂れ幕のような文字が出るのが確かに分かりやすいが、なんだかなあ・・・
役者の台詞だけで十分分かると思うのだが・・・
最後の場面は花畑だが、その花もいっそないほうがいいような作りだった。
不満ばかり述べたが、辻潤の母親のミツ(上野淑子)や大杉栄の最初の妻保子(北条文栄)は印象的だった。
二人とも当時としては普通の感覚の持ち主なのに、「新しい女たち」が主役のこの芝居では異端な「旧弊な女」だ。
「新しい」感覚にはとてもついていけない、分からない、なんだか得たいのしれない「女性の解放」より明日の米の方が大事だ。
その感覚はとても正しい。
なのに、なのに、なぜか不幸で隅に追いやられ、彼女らの犠牲になっているような印象さえ受ける二人。
じっと耐え、その挙句、ねちねちと反撃する姿は怖い。
この中で、実は1番強いかもしれないと思った。
本当に、台本はとてもいいのに・・・でも、でも、と思わせる残念な公演だった。