「アンダンテ」の後で・・・どこに向かうのか
彩乃木先生も書かれているように(http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/)先日の日曜日、研究センターでASC若手自主公演「アンダンテ」合評会が行われた。
合評会とは、公演において良かったところ、悪かったところを遠慮なく言い合い、今後どうすべきかを考え、次回公演「タイタス・アンドロニカス」またその先の公演につなげていくものと解釈していた。
彩乃木先生は始める前に「互いの傷をえぐるものとなればいい」と言っておられたが、実際はどうだったか。
真の意味の話し合いは難しい。
相手の傷に触れるようなことは誰も言いたくない。
相手の傷はイコール自分の傷だ。
話し合いの多くの場合は、表面的なところで終始するか、単に非論理的に自分の感情だけをぶつけるかどちらかで終わる。
この合評会ではどうだったのか。
大きな影響力を持つ人がいない中で作り上げる公演。
怖い人もいない、言いなりになっていると感じることもない、もっと自由に楽しく作り上げることができるはずだった。
しかし、実際はどうだったか・・・
多くの時間、どうしていいか分からず、終始右往左往していた。
どこに向かっていいのか分からず、何が正しいのかも分からない。
合評会のときですら、何を言っていいか分からず、まだ右往左往していたように感じる。
今回、演出という役割を任せられて、自分が決めなければならない場面が多々あった。
そのたびに感じたのは、自分も含めてみんな誰かが決めてくれるのを待っている、ということだ。
自主公演なんだから、私だけではなく時には喧嘩しながらも意見を言い合うのだろうと思っていた。
確かに、書いた人が分かるんじゃないかと思われていたし、自分もそう思っていた部分もある。
しかし、書くのとそれを表現するのはまったく別の作業だ。
書いたことを「こういう思いで書いた」と説明することも非常に難しい。
そもそも、説明できないからこそ書いている。
それをそれぞれの個性でもって自由に解釈すれば、書いた意図とまったく違っても面白いものになるはずだ。
それが正しいのか分からない。
それでも、今、自分が決めなければならない。
それが苦しかった。
私自身の一番の反省は「分からない」ことをもっと表明すべきだった。
内にこもって一人で考えていた。
また、逆説的になるが間違っても、「思い切って進んでみる」ことも重要だったのではなかろうか。
なぜ、決められないか。
無論、アイデアが思い浮かばなかったり、本当にどうしていいのか分からなかったりということも多々ある。
しかし、もうひとつは自分が決めて、間違うのが怖い、ということも大きいのではなかろうか。
どこに向かうかあいまいな状況では、間違っていることすら分からない。
助けようにも、どう助言すればいいのかも分からない。
思いっきり間違えば、正しい方向も見えてくるはず。
しかし、実際の話、間違う方向すら分からなかったのだ。
今回、自分たちで作ろうとするとき、もっとあらゆるものを観たり聞いたりしなければならないということを痛切に感じた。
何かを作る場合、まったくゼロからはじめることよりも、優れたものをお手本にして「あれ」みたいにやりたいと考え、それを自分たちのオリジナリティでもってアレンジしたりして作っていくことが多い。
そもそも、最初に本を書いたのも「あれ」みたいなのを書きたいというのがあった。
「あれ」とは何かというのはまた長くなるのでおいといて。
想像力が貧困だったり、アイデアが思い浮かばないのは、今まで観たり聞いたりしたものの数が少なすぎるからだ。
当たり前だが、自分が作り手であることを意識せずに観たものは数には入らない。
自分の中にあるものしか表現できない。
自分の中にあるものがあまりにも少なすぎたら、表現しようがない。
収穫はあった。
今までだと、何か役をもらって出ることになるとどうしても「自分の場面」「自分の台詞」「自分の動き」で頭がいっぱいになった。
不器用だからなおさら。
演出家の要求にこたえられず、落ち込むばかり。
しかし、今回は「自分」に構っている余裕はまったくなかった。
どうすれば、この芝居全体が成立するのか。
そのことがほぼ大半頭の中をしめていた。
本当は、今までもずっとそうあらねばならなかったのだ。
どんなに小さい役でも、舞台を成立させる一人だ。
何度も言われていることだが、いなくていい人なんて一人もいない。
その意味が、台本を書いて表現するという作業を通してやっとはっきり分かった。
役のひとつひとつにそれぞれ大きな思い入れがあるのだ。
今後も、大きな視野でもって舞台作りに取り組みたい。
今回多くの方にお世話になった。
彩乃木先生、井口恭子さん、ホールの方、スタッフの方々・・・
感謝してもしきれない。
それにしても、先生方が来るたびに自分たちのやっていることの甘さやあいまいさが露呈した。
これも繰り返しになるが、「こうやりたい」というはっきりしたものが曖昧で、誰かが決めてくれるのを待っているからではなかろうか。
影響力が大きい人が来るととたんに何をしようとしていたのか分からなくなってただただ、言われる一方だ。
もう、そんなふうにはなりたくない。
自分たちが「これを発信する」と決める。
「絶対、お客様のために白いものを作る」と決める。
そのために、「楽しく稽古する」
自主公演で、気心の知れたもの同士、本当の意味でもっと楽しくできたはず!
内にこもって、自分のことばっかり考えるから苦しくなる。
本当に反省多き、公演だった。
それも、自主公演ゆえに誰のせいでもなく自分のせいだ。